臆病者が願った未来
私は昔から、頑固で負けず嫌いで融通の利かない人間だった。自分の好きなものにしか興味を持てず、けれど楽しみながらトップも目指したい。そんな欲張りでワガママで利己的な性質を直すことが出来ない愚かさを、ずっと一人で抱え続けていた。
だからこそ、勉強は手っ取り早く成果が目に見えやすい現実逃避の方法だった。努力すればする程に成績は伸びて、将来の選択肢は増えていき、学校の先生方は褒めて私の存在を認めてくれた。
ならば校内で一番は当然、全国模試の一桁も当たり前。……もしも同じ教室の中で、そんなスカした態度で机に噛り付くクラスメイトがいたならば。話しかけづらいし仲良くしたいなんて思わないに決まっていると、今ならば分かるんだけど。
前に黒尾には「勉強を頑張れたのは皆のため」なんてことを偉そうに言ったけど、それだけではなかった。確かにバレー部の役に立つためという原動力はあったけど。
勉強は、他の子たちが中学時代を謳歌する中で、私が唯一続けていたことだったから。せめて今後も自分なりに真摯に向き合わなければ失礼だ、という見苦しい意地とプライドがあったのだ。
中学時代には既に高校の勉強範囲も網羅していたから、せめて成績を維持しなければあの時代の私も報われないだろう。それに、部活を言い訳に努力を怠ることだけはしたくなかった。
恥ずかしい話だが、中学校まではまともに友人を作れた記憶がなかった。別に虐められたり仲間外れにされることは無かったけど、周りとは当たり障りのない距離感を保つことしか出来なかったのだ。
それ程に勉強にのめり込んでいたのだと思うし、周囲の顔色を窺ってまで環境に馴染むという行為も出来ない程に、他者と距離を縮めることが怖かったのだろう。
幼い頃のコンクールの件がキッカケかは不明だが、父親はいつの間にか家を出ていき、母は私を避けるように朝から晩まで仕事をしていた。音楽を続ける糸口をくれた叔父のことは密かに慕っていたが、用事もないのに頼って甘えられる程の図太さはさすがに無く、滅多に顔を合わす機会も無かった。
だから私には、人と仲良くする資格なんて無いと思っていた。自分を受け入れてくれるのではないかと誰かに期待してしまう、己の傲慢さが恐ろしかった。もし幸運なことに受け入れられたとしても、私は誰かを不快にすることしか出来ないのだろうと、そう考えていた。
中学時代、もっと偏差値の高い高校へ行ってはどうか、という教師の勧めがあったのも事実だ。しかし母と進路に関する相談をするだけの時間も勇気も無かったし、自分が井の中の蛙だと理解することにも無意識下で恐怖を覚えていた。所詮はどうしようもない臆病者でしかなく、流されるままに手近な都立高校へと進学した。それが音駒だったという訳だ。
そして、私の人生は変わった。
夜久に手を引かれ、海に見つけてもらい、黒尾から背中を押してもらったことで、男子バレー部に入部した。こちらが勝手に引いていた境界線なんて気にも留めない程の力強さで私の心に踏み込んでくれた、大切な仲間たちのお陰で私には居場所が出来て、あらゆる物事への勇気も湧いた。
学生としての勉学も、料理のレシピの試行錯誤も、今でも上手くいかない裁縫の実践も、後輩や他校の面々とのコミュニケーションも。かつての合唱コンクールの前日、泣いていた詩結に声をかけたことだってそうだ。
彼らの役に立つためのあらゆる努力が楽しくなって、失敗も嘲笑も恐れることが無くなった。人からの評価ではなく、己の信念をもって自分を認めることに価値を感じられるようになった。上手く呼吸する方法を、ようやく思い出せたような気がした。
それでも自分の過去や愚かさに苦悩して、まともに眠れない日も上手くパフォーマンスを発揮できない日もあった。そんな時はいつも夜久が隣にいてくれて、多くの感情と時間を二人で重ねていった。
そして、私は恋をした。空を見上げるように晴れやかに、大地を駆け抜けるように高らかに、深海を泳ぐように密やかに。いつだって自分の殻に閉じこもる癖が直らない私の奥深くまで、優しく寄り添ってくれる男の子のことを、いつの間にか自然と好きになってしまった。
もしかしたら一目惚れだったのかもしれないと、今は思う。
高校入学直後。入学式で総代を務めたこともあり、有難いことにクラスメイトから誘われて、ぎこちなくも廊下で会話を交わしていた時のこと。案の定唐突に、女子社会特有の同調圧力を感じるような問いかけを受けたのだ。
───やっぱり高校生にもなったら、背が高くてスポーツ万能なイケメン彼氏が欲しいよねー。
───分かるー。
───ねー。苗字さんもそう思うでしょ?
彼女たちを否定したかった訳では無い。けど、自分の価値観を捻じ曲げてまで肯定する勇気もなかった。だって、叔父さんは男性の平均身長よりは低い人だけど素敵だし。……実の父親は、周囲に比べて背の高いひとだったし。
こんな性格だから人付き合いが上手くいかないことも、私はよく分かっていたのに。自分に嘘をつくことでしか繋ぎ止められない関係性ならば、再び一人で机に齧り付く方がマシだと感じてしまった。
自分が何と返答したか、ぼんやりとした覚えていないけど、彼女たちの凍り付いた空気や表情が印象的だった。やはり私は誰かと深く関わるのは下手なんだろうと苦笑しつつ、視線を逸らした瞬間。
二年前の私は強く射抜かれた。陽炎が揺らぐ夏を孕んだような、情熱的で勝ち気な瞳に。そこに滲む年相応の無邪気さとおおらかさも、その時の私では決して持ち得ない煌めきだと衝撃を受けたことを覚えている。
───なあ、苗字さん。……バレーボール、興味ない?
春の瑞々しい空気の中、鮮烈な温度を宿したミルクティー色の瞳に対して、一体私は何と答えたんだっけ。
森然での一週間にわたる合宿初日の朝、さっぱりとした空気で満ちる薄暗い校門の前にて。あの日のように偶然遭遇した凛と煌めく瞳が、そっと柔く細まるのを見た。
「おはよ、苗字」
「夜久、おはよ。今日も早いね」
「前回は犬岡に先越されたからなー」
「そんなに無理しなくても、大事な時期なんだから睡眠を優先していいのに」
マネージャーとしては最適解の返答である筈なのに、夜久は若干不服そうな顔をする。年相応に拗ねたような顔は可愛いが、どうやら期待に添えなかったようだ。
「苗字には誰より一番に会いてえだろ」
「……うん、それは私も同じ気持ちではあるんだけど」
「おう」
照れくさくて笑ってしまう。何で夜久は、そんなにいつも真っ直ぐなんだろうか。何で私は、こんなにもまだ臆病なままなんだろうか。
「夜久は本当に、……二年前からずっと変わらないね」
かつては、誰かにとっての一番になりたいだなんて望むことさえも烏滸がましいと思っていたのに。誰かに期待して裏切られるのが怖いだなんて思う、自分勝手な私自身のことが何よりも苦手だったのに。
いつだって夜久は優しかった。真正面から投げかけてくれる言葉の何もかもが温かくて、眩しくて、切なくて。意気地なしで捻くれた私の心を力強く包んでくれた。
「そうか?」
「うん。何でいつも私の欲しいものが分かるのかなって、不思議に思うくらい」
「……それはお互い様な気がするけどな。俺は単純に、苗字にしてやりたいことをやってるだけだし。苗字も同じなんじゃねえの?」
「それは……そうかも」
「だろ」
はにかむ横顔に目を細める。いくら夜久相手とはいえ、私の全てを理解してもらっているかもだなんて、驕り高ぶった思考だったなと反省した。
「なあ、覚えてるか? 一年生の頃、俺が初めて声かけた日」
「うん、勿論」
「あの日、俺がバレーに興味ないかって聞いた時さ。苗字、困った顔しただろ」
「え」
まったく自覚は無かった。けど夜久に嫌な思いをさせたかもしれないと考えれば、それだけで背筋が凍る。
「あ、責めてる訳じゃねえよ。ただ、突然で驚かせて悪かったなって反省してるだけで」
「ううん、それでもごめん。せっかく声かけてくれたのに、無下にするような態度を取っちゃって。……だからわざわざ図書室まで来てくれたの?」
「あー……うん、まあな。苗字が図書委員の仕事やってるのは知ってたから」
夜久が過去を語る言葉を耳にして思い出す。人間関係の構築に挫折しかけていた時、あの真っ直ぐな瞳に「バレーボールに興味がないか」と問いかけられて。あらゆることに対して自信を無くしていた私は、こう答えたんだ。
───私が、何かに興味を持っても、いいのかな。
「……あの時は、後ろ向きな返答しちゃってごめん」
「そんなことないだろ。急な誘いだったのに真面目に向き合ってくれたし。むしろ感謝してる」
あの頃はまだ、人と真正面から関わるのが怖かった。人の期待に応えられない自分が嫌いで、誰かと積極的に交流するのはやはり諦めようかと考えていた矢先のことだった。
「あの頃から、苗字は何事にも真剣に取り組む子だって知ってたから。最初は無理させてねえかなって心配してたけど。……でも、苗字がどんどんバレー部のことを大切に想ってくれるようになっていくのが傍にいるとよく分かってさ。嬉しかったんだ、俺」
その柔らかな声が、温かな瞳が、私が密かに抱えていた後ろめたさを包み込んでいく。
───当然。苗字さんが少しでも興味を持ちたいって思ってくれるなら、俺は歓迎する。勿論、無理強いはしないけど。
二年前の私も今の自分も、間違いなく夜久の言葉に支えられていた。その事実をどうしようもなく幸せだと素直に感じられるようになったのだから、多少は成長していると自惚れても良いのかもしれない。
「ありがと、夜久」
「それは俺の言葉だけどな。……あの日からずっと、苗字のことを傍で見守ってたいって思ったのは、俺のワガママだし」
「……見守るのは、むしろマネージャーの仕事なんだけどね?」
「別にいいだろ。これは選手とかマネとか関係なく俺個人の話だぞ」
拳で軽く肩を小突かれたから、心から溢れていく嬉しさのままに笑う。こんな時間がずっと続けばいいのになって、叶わないことをつい思い描いてしまった。
「……ねえ、夜久」
「ん? どうした?」
「私、これからもずっと、夜久のこと。傍で見守ってても良いのかな」
きょとんとした表情の後、夏の朝の爽やかな光が、薄らと赤らんだ目映い笑顔を照らす。すっかり第二の家みたいになった体育館を背に、夜久が照れくさそうに目を細めた。
「勿論。苗字が望んでくれるなら、俺は大歓迎」
夜久の隣も音駒のマネージャーも、誰にも譲りたくないなって、思ってしまった。そんな頑固で負けず嫌いで融通の利かない私が、かつてのように再び顔を出してしまう。
けどそんな自分の欲張りでワガママな性格も、少しずつ大切にしてあげたいなと考えることが出来た。それもひとえに、夜久に出逢ってバレー部との縁が繋がったお陰だ。
かつて独りぼっちだった私も、何かを望むことを知らなかったあの日の私も。胸の奥底で一緒に、ようやく不器用に笑い合えたような気がした。
だからこそ、勉強は手っ取り早く成果が目に見えやすい現実逃避の方法だった。努力すればする程に成績は伸びて、将来の選択肢は増えていき、学校の先生方は褒めて私の存在を認めてくれた。
ならば校内で一番は当然、全国模試の一桁も当たり前。……もしも同じ教室の中で、そんなスカした態度で机に噛り付くクラスメイトがいたならば。話しかけづらいし仲良くしたいなんて思わないに決まっていると、今ならば分かるんだけど。
前に黒尾には「勉強を頑張れたのは皆のため」なんてことを偉そうに言ったけど、それだけではなかった。確かにバレー部の役に立つためという原動力はあったけど。
勉強は、他の子たちが中学時代を謳歌する中で、私が唯一続けていたことだったから。せめて今後も自分なりに真摯に向き合わなければ失礼だ、という見苦しい意地とプライドがあったのだ。
中学時代には既に高校の勉強範囲も網羅していたから、せめて成績を維持しなければあの時代の私も報われないだろう。それに、部活を言い訳に努力を怠ることだけはしたくなかった。
恥ずかしい話だが、中学校まではまともに友人を作れた記憶がなかった。別に虐められたり仲間外れにされることは無かったけど、周りとは当たり障りのない距離感を保つことしか出来なかったのだ。
それ程に勉強にのめり込んでいたのだと思うし、周囲の顔色を窺ってまで環境に馴染むという行為も出来ない程に、他者と距離を縮めることが怖かったのだろう。
幼い頃のコンクールの件がキッカケかは不明だが、父親はいつの間にか家を出ていき、母は私を避けるように朝から晩まで仕事をしていた。音楽を続ける糸口をくれた叔父のことは密かに慕っていたが、用事もないのに頼って甘えられる程の図太さはさすがに無く、滅多に顔を合わす機会も無かった。
だから私には、人と仲良くする資格なんて無いと思っていた。自分を受け入れてくれるのではないかと誰かに期待してしまう、己の傲慢さが恐ろしかった。もし幸運なことに受け入れられたとしても、私は誰かを不快にすることしか出来ないのだろうと、そう考えていた。
中学時代、もっと偏差値の高い高校へ行ってはどうか、という教師の勧めがあったのも事実だ。しかし母と進路に関する相談をするだけの時間も勇気も無かったし、自分が井の中の蛙だと理解することにも無意識下で恐怖を覚えていた。所詮はどうしようもない臆病者でしかなく、流されるままに手近な都立高校へと進学した。それが音駒だったという訳だ。
そして、私の人生は変わった。
夜久に手を引かれ、海に見つけてもらい、黒尾から背中を押してもらったことで、男子バレー部に入部した。こちらが勝手に引いていた境界線なんて気にも留めない程の力強さで私の心に踏み込んでくれた、大切な仲間たちのお陰で私には居場所が出来て、あらゆる物事への勇気も湧いた。
学生としての勉学も、料理のレシピの試行錯誤も、今でも上手くいかない裁縫の実践も、後輩や他校の面々とのコミュニケーションも。かつての合唱コンクールの前日、泣いていた詩結に声をかけたことだってそうだ。
彼らの役に立つためのあらゆる努力が楽しくなって、失敗も嘲笑も恐れることが無くなった。人からの評価ではなく、己の信念をもって自分を認めることに価値を感じられるようになった。上手く呼吸する方法を、ようやく思い出せたような気がした。
それでも自分の過去や愚かさに苦悩して、まともに眠れない日も上手くパフォーマンスを発揮できない日もあった。そんな時はいつも夜久が隣にいてくれて、多くの感情と時間を二人で重ねていった。
そして、私は恋をした。空を見上げるように晴れやかに、大地を駆け抜けるように高らかに、深海を泳ぐように密やかに。いつだって自分の殻に閉じこもる癖が直らない私の奥深くまで、優しく寄り添ってくれる男の子のことを、いつの間にか自然と好きになってしまった。
もしかしたら一目惚れだったのかもしれないと、今は思う。
高校入学直後。入学式で総代を務めたこともあり、有難いことにクラスメイトから誘われて、ぎこちなくも廊下で会話を交わしていた時のこと。案の定唐突に、女子社会特有の同調圧力を感じるような問いかけを受けたのだ。
───やっぱり高校生にもなったら、背が高くてスポーツ万能なイケメン彼氏が欲しいよねー。
───分かるー。
───ねー。苗字さんもそう思うでしょ?
彼女たちを否定したかった訳では無い。けど、自分の価値観を捻じ曲げてまで肯定する勇気もなかった。だって、叔父さんは男性の平均身長よりは低い人だけど素敵だし。……実の父親は、周囲に比べて背の高いひとだったし。
こんな性格だから人付き合いが上手くいかないことも、私はよく分かっていたのに。自分に嘘をつくことでしか繋ぎ止められない関係性ならば、再び一人で机に齧り付く方がマシだと感じてしまった。
自分が何と返答したか、ぼんやりとした覚えていないけど、彼女たちの凍り付いた空気や表情が印象的だった。やはり私は誰かと深く関わるのは下手なんだろうと苦笑しつつ、視線を逸らした瞬間。
二年前の私は強く射抜かれた。陽炎が揺らぐ夏を孕んだような、情熱的で勝ち気な瞳に。そこに滲む年相応の無邪気さとおおらかさも、その時の私では決して持ち得ない煌めきだと衝撃を受けたことを覚えている。
───なあ、苗字さん。……バレーボール、興味ない?
春の瑞々しい空気の中、鮮烈な温度を宿したミルクティー色の瞳に対して、一体私は何と答えたんだっけ。
森然での一週間にわたる合宿初日の朝、さっぱりとした空気で満ちる薄暗い校門の前にて。あの日のように偶然遭遇した凛と煌めく瞳が、そっと柔く細まるのを見た。
「おはよ、苗字」
「夜久、おはよ。今日も早いね」
「前回は犬岡に先越されたからなー」
「そんなに無理しなくても、大事な時期なんだから睡眠を優先していいのに」
マネージャーとしては最適解の返答である筈なのに、夜久は若干不服そうな顔をする。年相応に拗ねたような顔は可愛いが、どうやら期待に添えなかったようだ。
「苗字には誰より一番に会いてえだろ」
「……うん、それは私も同じ気持ちではあるんだけど」
「おう」
照れくさくて笑ってしまう。何で夜久は、そんなにいつも真っ直ぐなんだろうか。何で私は、こんなにもまだ臆病なままなんだろうか。
「夜久は本当に、……二年前からずっと変わらないね」
かつては、誰かにとっての一番になりたいだなんて望むことさえも烏滸がましいと思っていたのに。誰かに期待して裏切られるのが怖いだなんて思う、自分勝手な私自身のことが何よりも苦手だったのに。
いつだって夜久は優しかった。真正面から投げかけてくれる言葉の何もかもが温かくて、眩しくて、切なくて。意気地なしで捻くれた私の心を力強く包んでくれた。
「そうか?」
「うん。何でいつも私の欲しいものが分かるのかなって、不思議に思うくらい」
「……それはお互い様な気がするけどな。俺は単純に、苗字にしてやりたいことをやってるだけだし。苗字も同じなんじゃねえの?」
「それは……そうかも」
「だろ」
はにかむ横顔に目を細める。いくら夜久相手とはいえ、私の全てを理解してもらっているかもだなんて、驕り高ぶった思考だったなと反省した。
「なあ、覚えてるか? 一年生の頃、俺が初めて声かけた日」
「うん、勿論」
「あの日、俺がバレーに興味ないかって聞いた時さ。苗字、困った顔しただろ」
「え」
まったく自覚は無かった。けど夜久に嫌な思いをさせたかもしれないと考えれば、それだけで背筋が凍る。
「あ、責めてる訳じゃねえよ。ただ、突然で驚かせて悪かったなって反省してるだけで」
「ううん、それでもごめん。せっかく声かけてくれたのに、無下にするような態度を取っちゃって。……だからわざわざ図書室まで来てくれたの?」
「あー……うん、まあな。苗字が図書委員の仕事やってるのは知ってたから」
夜久が過去を語る言葉を耳にして思い出す。人間関係の構築に挫折しかけていた時、あの真っ直ぐな瞳に「バレーボールに興味がないか」と問いかけられて。あらゆることに対して自信を無くしていた私は、こう答えたんだ。
───私が、何かに興味を持っても、いいのかな。
「……あの時は、後ろ向きな返答しちゃってごめん」
「そんなことないだろ。急な誘いだったのに真面目に向き合ってくれたし。むしろ感謝してる」
あの頃はまだ、人と真正面から関わるのが怖かった。人の期待に応えられない自分が嫌いで、誰かと積極的に交流するのはやはり諦めようかと考えていた矢先のことだった。
「あの頃から、苗字は何事にも真剣に取り組む子だって知ってたから。最初は無理させてねえかなって心配してたけど。……でも、苗字がどんどんバレー部のことを大切に想ってくれるようになっていくのが傍にいるとよく分かってさ。嬉しかったんだ、俺」
その柔らかな声が、温かな瞳が、私が密かに抱えていた後ろめたさを包み込んでいく。
───当然。苗字さんが少しでも興味を持ちたいって思ってくれるなら、俺は歓迎する。勿論、無理強いはしないけど。
二年前の私も今の自分も、間違いなく夜久の言葉に支えられていた。その事実をどうしようもなく幸せだと素直に感じられるようになったのだから、多少は成長していると自惚れても良いのかもしれない。
「ありがと、夜久」
「それは俺の言葉だけどな。……あの日からずっと、苗字のことを傍で見守ってたいって思ったのは、俺のワガママだし」
「……見守るのは、むしろマネージャーの仕事なんだけどね?」
「別にいいだろ。これは選手とかマネとか関係なく俺個人の話だぞ」
拳で軽く肩を小突かれたから、心から溢れていく嬉しさのままに笑う。こんな時間がずっと続けばいいのになって、叶わないことをつい思い描いてしまった。
「……ねえ、夜久」
「ん? どうした?」
「私、これからもずっと、夜久のこと。傍で見守ってても良いのかな」
きょとんとした表情の後、夏の朝の爽やかな光が、薄らと赤らんだ目映い笑顔を照らす。すっかり第二の家みたいになった体育館を背に、夜久が照れくさそうに目を細めた。
「勿論。苗字が望んでくれるなら、俺は大歓迎」
夜久の隣も音駒のマネージャーも、誰にも譲りたくないなって、思ってしまった。そんな頑固で負けず嫌いで融通の利かない私が、かつてのように再び顔を出してしまう。
けどそんな自分の欲張りでワガママな性格も、少しずつ大切にしてあげたいなと考えることが出来た。それもひとえに、夜久に出逢ってバレー部との縁が繋がったお陰だ。
かつて独りぼっちだった私も、何かを望むことを知らなかったあの日の私も。胸の奥底で一緒に、ようやく不器用に笑い合えたような気がした。