二年程前。麗らかな陽射しが柔く差していた、バンジークス家の庭園にて。亜双義にとってひどく鮮烈な思い出が生まれた瞬間があった。あれは苗字と夫人が二人で談笑していたテーブルに近寄り、喉を潤すべく紅茶を煽った直後のこと。

「亜双義さん! ごめんなさい!」

突如として押し寄せた喉が爆ぜるような感覚の後、彼女が悲痛な顔で飛んでくるのを見た。どうやらオレは、砂糖と塩を間違えて入れてしまったらしい、と状況を理解しながら何度も噎せる。心底愉しげに唇を緩めた、この家の主人たるバンジークスをひと睨みしつつ、テーブルの上にあった水入りのグラスを勢いよく飲み干した。
が、瞬時にズサッと盛大に転ける音がしたので唖然とする。

「本当に、ご、ごめんなさい……」

バンジークス夫人さえ優雅に微笑むばかりだったが、彼女は華美なグリーンのドレスが地面で汚れることよりも、ただひたすらこちらへの謝罪を優先していた。亜双義は、胸の奥から迫り上がる痛快さを吐き出すように笑った。

「はは! 気にするな、苗字。オレも確認せずに間違えたのが悪い」

その場にいた皆が亜双義を見て笑っていたにもかかわらず、己の行動をひたすら猛省する誠実な人柄はひどく眩しかった。亜双義は久しぶりにただ一人の男として笑うことが出来たような気がした。
転んだ姿を眺めるのも、自分が手を貸して起き上がらせてやるのも、衣服についた汚れを落としてやるべく様子を観察することも。……遠い母国に置いてきた、幼い息子をどうしても想起させる。

それ以来、亜双義は彼女とよく話すようになった。元々同じ日本人ということで話題や接点も多く、何より苗字は勤勉で努力家だった。顔を合わせれば互いの近況を共有し、自然と大英帝国の社会をより良くするための方案を語り合っていた。
異邦人に対する差別意識も、法や常識によりそれらに抗えない無力さも、きっと本質的に理解し慰め合えるのは自分達だけだと、心のどこかで思っていたのかもしれない。

亜双義玄真にとって、苗字名前は対等に言葉を交わせる数少ない友人だった。



「亜双義。近頃、とある女性と過ごす時間が増えたそうだな」

慈獄政士郎がそう問いかけてきたのは、もう数ヶ月前の出来事になるだろうか。その声音にどこか探るような気配が入り交じっていることに疑念を抱きつつ、亜双義は自身の思考を悟られないように首肯した。

「ああ、苗字のことだろう。……それがどうかしたか?」
「いや、以前も話しただろう。同年代の日本人女性がこの時期に渡英しているのは些か不自然だと。御琴羽は甘いところがあるから、何か怪しい動きを見せたらこちらが処断すべきだろう、ともな」

周囲の喧騒が密談を掻き消してくれるパブならば、機密度の高い情報でも日本語で会話すれば問題ないという判断なのだろう。亜双義は肩をすくめ、自らの思考を詳らかにしていく。

「御琴羽曰く親族に英国人がいるとの話だったが、偽りとは思えない。苗字は見所のある勤勉なヤツだ」
「ほう、堅物な亜双義がそこまで言うとはな。……亡くなった細君と境遇が似ている故か?」

息が止まる。胸の奥で暗く濁った感情が燃え上がる感覚を覚え、そっと目を細めた。

「……、馬鹿を言え。誰が重ねるものか」
「……そうか、悪いことを聞いたな」

それから何を話したかは正直覚えていない。あの時はとにかく、安い酒を煽って喉を焼きたい気分だった。慈獄の言葉を完全に否定しきれない己の愚かさも、何者かの思惑に踊らされているであろう友の浅慮さも、亜双義の心臓に容赦なく刃を突き立てていった。

あの探偵から個人的に声をかけられたのも、ちょうどその頃だったと記憶している。苗字の事件をキッカケに警察へ頻繁に出入りするようになったが故、待ち伏せも容易かったのだろう。入口近くの壁にて亜双義の歩みを阻害するかのように腕を組み、ゆったりと凭れ掛かっていた。

「やあ、ミスター・アソウギ。ミコトバと名前から噂は聞いているよ」
「その口ぶりは、ベーカー街の探偵殿か。……何の用だ?」
「個人的な警告、とでも言えばいいかな」

帽子を目深に被った後、探るような瞳を亜双義に向けた。権力者特有の私利私欲とは一切無縁のどこまでもひどく澄んだ光に、つい一瞬怯みそうになる。

「近頃、キミはやたらとウチの名前の素性を探っているようじゃないか」
「……友人として交流しているに過ぎない。それに、この時代に大英帝国にて第一線で活躍する女子に対して、一切の不信感を持たず受け入れる方が不自然だろう」
「ああ、そうだね。キミは随分ともっともらしいことを口にするのが得意なようだ」
「……何が言いたい?」
「別にボクは彼女の代弁者ではないし、名前の意見や信念を勝手に決めつけて押し付ける気も毛頭ない。だからこそ今こうしてキミの前に立っているのは、ボク自身の勝手なエゴでしかないんだが」

舞台役者を想起させる口調のまま、作り物のような顔で微笑んでいた。鈍い緑の瞳の奥でギラリと暗い光が反射する。

「名前に対して不信感を持つのは結構。友人として仲良くするのも結構。はたまた別の好意的な感情を抱いたってボクに制限する権利はないだろう。……だがね、キミにとっての理想を勝手に投影し、彼女の身辺や心を無遠慮に暴き立てて名前を傷つけるのならば。ボクは一切容赦しない」
「……ッ、オレは!」

己の正義を貫くために、この大英帝国へと留学しに来た筈だった。しかしその根底に眠る淀んだ感情の正体が復讐心であることを、オレは誰かに胸を張って言えるのだろうか。
今後何があろうとも、遠い母国へと置いてきた息子に対して口を割ることは決して無い。何やらこちらを利用しようとしていた慈獄にも、善意で亜双義を助けようとしてくれる御琴羽にも、自分を正義感のある漢として信頼してくれる苗字にも、打ち明けられる訳など無かった。だがどんなに己が愚かであろうとも、たった今目の前に聳える本質を見誤るようなことだけはしたくなかった。

「……オレも苗字のことを傷付けたくはない。これは、彼女を大切な友人だと想う自分自身の感情だ」
「ほう。……先程に比べたら余程いい目をしている。ならば本題に移りたいんだが、場所を変えてパブにでも行こうか」

ようやく空気が緩んでいくのを感じる。それだけ目の前の探偵は苗字のことが大事で、彼女のためならば命すら懸けられるのだろうと本能的に察した。であれば確かに自分たちは似ているのだろう。
だからこそ目の前の探偵は顔を合わせたことさえない亜双義の思考を推察し、敢えて神経を逆撫でするような言動を取ったのだとすれば、御琴羽並みに食えない奴だと舌を巻く。

「……ああ、構わない」
「それは良かった。近くにいい店を知っているからね」

そうして、友とも呼べず仲間とも言えないオレたちの奇妙な協力関係が始まった。
互いの事情や本心を曝け出せるような信頼を培っていった訳ではないが、慈獄のように下手に腹の内を探られるよりは分かりやすく、亜双義も動きやすかった。

元々、警察関係者として大英帝国の現状を憂いて危機感を抱いてはいたのだ。未だにイーストエンドの住人たちは今日を生き抜くため罪に手を染めざるを得ない状況であり、息子と同年代の少女でさえも無邪気に笑う術を知らないのだ。貴族こそが中心の身分社会において、誰もが生きやすい社会の形成を手助けすることが己が使命の一つだと考えていた。
しかしながら警察上層部でさえも、国民の安全より自らの利益を優先する姿ばかりで正直見るに堪えない。今までにもいくつかの事例はあるが、苗字が二度も襲われた件など顕著だろう。目に見えない理不尽な力で真相が揉み消されていく様は、かつて亜双義が復讐の炎を燃やした状況によく似ていた。

だが異国の留学生に巨大な権力と立ち向かう力など無いからこそ、亜双義はバンジークスの協力のもと、独自の捜査網を張って情報を集め、警察内部でも声を上げている最中だったのだ。
見回り体制の強化、多様な捜査方法の導入、物証および目撃情報の尊重、と今までも様々な方策を提案しては採用されてきた実績もある。留学生という身分でありながら手柄を立てられたのは、司法界にて絶大な権力を持つバンジークス家と、貴族社会に多大な影響力を持つバスカビル家の出身たる二人の協力があったからこそだ。

検事としてのクリムト・バンジークスは実に信頼に足る男であり、英国人貴族に対する希望を捨てずにいられた最大の要因だったと何度も痛感してきた。
そんなバンジークス家が凶悪な陰謀に巻き込まれつつあるならば、亜双義が動かない理由は無かった。その中で齎されたのが、探偵ホームズ氏による情報───ジェームズ・サザーランド氏の関与と、ベリル・バンジークスが危機に晒されている可能性だ。

今度こそ守らなければと思っていた。遠い母国にて懸命に剣の稽古に励んでいるであろう我が子も、遠路はるばる共に留学にやって来た盟友も、異国の地で女子ながら勉学に修行に仕事に励む同志も、今も亜双義に寄り添い支援し続けてくれている戦友たちも。
大事な者たちはなるべく危険から遠ざけて、傷一つないよう守り抜かなければと、そう誓っていたというのに。

「キミは少し思いつめすぎているようだ、ミスター・アソウギ」
「……ホームズ氏」

ベーカー街221Bにてバンジークス夫人との話が決裂した後、少し頭を冷やそうと互いに距離を置くことにした。当然ながら夫人は苗字の部屋に向かい、オレは探偵殿の個室に招かれたという訳だった。どうやら御琴羽はこれから病院での勤務があるらしく既に家を出ており、昼夜を問わず駆り出される友の有能さを再度思い知る。
いつの間にか傍らに立っていた青年の静かな瞳が、オレを観察するようにゆったりと細まった。

「今ここでキミの気持ちに最も理解を示せるのは、ボクだろうからね」
「……当然、オレとて理解はしているんだ。いくら強い恩義を感じる相手とはいえ、安全な場所でずっと閉じこもるように要求するのは、傲慢だと」
「そうかもしれない。だが、ミスター・アソウギが相手を守りたいと思う気持ちは否定されるべきものではだろう。結果的に偶然、それがミセス・バンジークスの信念と衝突してしまったが」
「はは、……まるでこちらが宥められているかのようだ。キサマは随分と冷静で公平な男だな」
「キミがそう感じるのならば、それはボクの家族たちのお陰だろうね」

躊躇いなく御琴羽や苗字を家族だと呼ぶ姿を見て、息が詰まるような思いがした。───嗚呼そうか、と深く深く項垂れる。心臓を食い破りそうな程に淀んだ自身の情けない感情を、ようやく明確に自覚した。

オレはただ羨ましかったのだ。何よりも守りたいと願える家族と共に在る、ホームズ氏やバンジークスが。遠い異国の地であっても、自身の使命に純粋に真っ直ぐ向き合っている、御琴羽や苗字が。こんなにも愚かな感覚を自覚したくないあまり、……大事な一人息子を恋しく思うあまり、八つ当たりじみた言動を取ってしまった。猛省する他ない。

「大事なひとを閉じ込めておきたくなる気持ちなら、ボクにも分かるさ。……なにせこちらは、二度もあんな危険な目に晒してしまったんだからね」

珍しく暗い声色で話した年下の青年を見上げる。その横顔には確固たる信念が宿っているように見えて、ひどく眩しかった。

「だがキサマは、そんな自分を抑え込んで苗字の意思を尊重している。なかなか出来ることじゃない」
「おや、今度はボクの方が宥められてしまったな。……そう綺麗事ばかりな訳でもないんだがね。名前は他人のために何かを成して、自分も他人も自由で在ることを望む女の子だ。そんな意思を阻んだら嫌われるかもしれない、だなんて思う時だってある」
「それはないだろう」
「ほう? 随分と自信ありげな口ぶりだね」
「苗字はいつも、キサマの話ばかりするからな」
「え」

いつだって飄々と煙に巻くような言動を取る探偵が、こんなにも呆気にとられたような顔をするのは初めて見たかもしれない。

亜双義は笑った。苗字と交流を深めるキッカケとなった、あの日のように愉快な気持ちで。
亜双義は誓った。誰に何と言われようとも、自らの信念を貫き、この不平等な世にさえ抗うという思いで。

そして、亜双義は願った。いつまでも永遠に、己が大事に想う人々が幸福であるようにと。