夜の倫敦は、昼間の賑やかな明るさを纏った姿と打って変わり、薄暗い闇に包まれた霧の街へと変貌する。数ヤード先に立つ人の輪郭さえもぼやけて見える不明瞭さに包まれていると、まるで世界で一人きりになったようだと感じた。

ただでさえ異国人である故に遠巻きに見られることもある名前は、精一杯背筋を伸ばしながら路地を歩き続ける。己の身を一番に守れるのは己しかいないのだと、この街にやって来てから何度実感したことだろう。

「やあ名前、久しぶり」

身体に滲んだ疲労感を吹き飛ばすように静かに深呼吸をしていると、突如後方から柔らかな声が降ってきた。驚愕のあまり肩が跳ねるものの、すっかり聞き慣れた声だと認識した瞬間、くるりと踵を返してから大袈裟に眉を下げた。

「……ホームズさん」
「そんなに警戒することないじゃないか。寂しくなるだろう」

英国紳士という概念をまるごと詰め込んだような端整な顔に僅かばかり影が落ちて、哀愁を帯びていくように感じられた。

大探偵シャーロック・ホームズは、トレードマークの一つでもある帽子の鍔を擦りながら、街角に颯爽と佇んでいた。相変わらず、口を開かなければ嫌味になるほど絵になる人だ。

しかし、いくら顔の良い男だからといって、仕事帰りで疲れた名前の時間を強引に奪っていい理由にはならない。

「もう。突然声をかけられたら驚くでしょう」
「すまない、堪らなくキミに会いたくなってしまってね」
「……また調子のいいことばかり言って」
「ボクは、キミにはウソを吐かないさ」

いつの間にか距離を詰めてきた彼の指先が、名前の首筋を柔く撫で上げる。やけに熱っぽい瞳に射抜かれて、息が詰まって仕方ない。

いつだって彼のペースに丸め込まれてばかりで悔しい思いをしているというのに、名前の心臓はジリジリと焦がされるばかりで、既に使い物にならなかった。

「名前。今晩、キミの時間をボクのものにしてもいいだろうか」
「……ダメって言っても、わたしに拒否権はないんですよね」
「ああ、そうだね。もしも理由が欲しいなら、悪い男に引っかかってしまったと思えばいいさ」

彼が力なく微笑む顔を見て、名前の頭にカッと血が上る。先程まで熱に浮かされていたようにふわふわとしていた頭が、直接氷を差し込まれたように冷静さを取り戻していく。

彼一人に責任を負わせるような女だと思われていたなんて、それこそ心外だ。

「そんなこと思いません。わたしを見くびらないでください」

驚いたように丸くなった瞳を睨みつけると、彼はあどけなく瞬きを繰り返した後に微かに笑った。

「すまなかった。それならばこうしよう。ボクに口説かれてくれるかい、名前」
「……はい」
「ん、いい子だ」


───きっと、わたし達が出会ったことに理由なんてなかった。
さみしい夜の隙間を縫うように肌を重ね合わせることに、理由を探す方が無粋というものだろう。

あなたが力なく微笑む度、その掌から幸福がさらさらと零れ落ちていくようで、わたしの胸はキツく締め付けられるばかりだった。

あなたは、常に誰かにとっての大探偵であるが故の不自由さを押し隠すように、そっと瞼を伏せるから。
あまりにもいじらしくて切なくて、あなたの逃げ道になりたいなんて傲慢な願いを抱いてしまうのだ。