たとえ場所が変わっても、合宿所でマネージャーがやることは変わらない。
練習試合のサポート、水分やタオルの差し入れ、洗濯と食事作り。細かい傷の手当てをすることもあれば、テーピングやアイシングの機会だってある。

幸い、試合を続行できない程の怪我にはしばらく遭遇していないものの、夏場は汗で滑りやすい上に暑さで判断力が鈍りがちだ。有事の際にすぐ対応できるよう、マネージャー陣はいつも以上に選手の様子をよく観察していた。
なので当然、我らが主将が内心どことなくソワソワしていることにもすぐ気付く。視線の先に烏野さんがいることも見れば分かるし、何を考えているのかもすぐに推測できた。

「黒尾、楽しそうだね」

練習試合の隙間に設けられた、全体休憩の時間。全員にドリンクとタオルを配り終わった時点で隣に立ち、何気ない様子を装って声をかける。夜久は芝山、海は犬岡とそれぞれ後輩の面倒を見ている最中だった。
あの二人は指導方法が対照的に見えて、バレーに関してはストイックで自他ともに厳しい。飴と鞭を意識的に使うのは海で、無意識に使いこなしているのが夜久といった感じだろうか。

他の後輩たちは、他校の面々も交えてのびのびと楽しそうに休憩している。孤爪は早々に離脱して隅っこにいるけど、日向くんがいるからかいつもより元気そうだ。

「まあな。今回はあちらさんも試行錯誤中で、色々と見応えあるし。……そーだ、苗字」
「ん、どしたの?」
「例の彼。今日の夜練に誘うつもりだからさ、応援しててくださいな」

推測通りの言葉が返ってきた。無理に深入りして言葉を引き出すつもりなんて無かったとはいえ、信頼を感じられて素直に嬉しい。
応援してほしいという些細な願いを口にするだけでも、僅かばかり緊張しているようだと分かるのは、お互いの薄暗い傷をそっと共有する仲だからなのか。

「もちろん。黒尾、頑張って」
「……やっくんがいなければ、頭撫でてーって言えたんですけどネ」
「え? それくらいなら普通にやるけど」
「あのね苗字さん、年頃の男子高校生にそんなこと言ったら勘違いするからね。やめなさい?」
「黒尾から言ったんじゃん……。というか、同じようなこと今まで何回も言われきたんだけど」
「うちのマネージャーが無防備すぎるからね! そこが苗字の良いとこでもあるんだけど! ほんと俺たちのいないとこでは気を付けてね!?」
「いやーそもそも、皆の前だから気が抜けて無防備になれる訳でしょ。そこは心配しなくていいんじゃない?」
「もうヤダこの子こわい! やっくん助けて!」
「怖いって何!?」

黒尾は本当に、そのまま夜久と芝山の会話に割り込み始めた。ギョッとする二人の間で楽しそうに揺れる黒い背中を見て、僅かな固い緊張も解れたようだと勝手に安心する。
まったく世話が焼けると思いながら、私もまた三人の輪の中に入っていった。夜久は呆れながらも嬉しそうに、芝山は慌てたような顔をしている。

「苗字、黒尾に何かされたか?」
「んー、なんか怖いって言われた」
「はあ? 苗字はかわいいだろ」
「はいはい、やっくんも通常運転ですね!?」
「お前は何をキレてんだ?」

通常運転の言い合いを横目に、キリッと背筋を伸ばした芝山が声をかけてくれる。
夜久の言葉に照れそうだったけど、黒尾が叫んでくれたお陰で平常心を保てた。ナイス。

「そういえば苗字先輩、何かお仕事はありますか?」
「芝山はさすが気が利くねー。ありがと、今は大丈夫。また頼みたいことがあれば声かけるから」

これからボトル洗いとドリンクの補充をしようとは思っていたけど、一人だけで充分に事足りた。それよりもコートに入る選手たちには、休憩と見学を最優先にしてもらいたい。

「じゃ、私は仕事してくるから。皆、水分はこまめにちゃんと取ってね!」

三人だけでなく、周辺にいた音駒の全員に声をかければ、「オス!」と元気よく返事が返ってくる。よし、素直でよろしい。
カゴの中にボトルをめいっぱい詰め込んだ後、歩き出そうとしたところで背後から声をかけられる。

「名前ちゃん! もし良かったら、仁花ちゃんも連れて行ってくれないかな?」
「あ、潔子ちゃんに仁花ちゃん! 勿論いいよー」
「お、お願いシャス……!」

ぷるぷると震えながらカゴを持つ後輩を迎え入れた後、次の試合のサポートに移っていく潔子ちゃんに向けて手を振った。今回の烏野さんは色々と大変そうだし、私で力になれることがあれば手を貸してあげたいとは思っていたのだ。

「それじゃ行こっか、仁花ちゃん」
「はいッス!」
「洗い場までちょっと歩くから、場所が分からなくなったらまたいつでも声かけてね」
「ありがとうございます!」

お互いにカゴを持ちながら体育館の外に出る。湿気を含んだ熱気が肌を撫ぜて、ぶわりと汗が吹き出す感覚がした。これが夏合宿の醍醐味だよね、と青空を見上げながら目を細める。

「あ、あの苗字先輩」
「ん?」
「その……こういうことを聞くのは、失礼かもしれないんですが」
「大丈夫。もし何を聞かれても、そんなこと思わないよ。どうしたの?」

何となくだけど、先日に比べてしっかり目が合うようになったと感じた。後輩の成長は早いなとつい感慨深くなってしまう。

「音駒の皆さんって、喧嘩したりするんですか……?」
「あー、うん。それはもう。ほぼ毎日、誰かしら何かしらで揉めてるね」
「ほ、ほぼ毎日!?」
「そうそう。喧嘩してる姿って可愛いし、建設的な意見交換になる時もあるから見てて楽しいし、基本的には静観しちゃうんだよね。勿論白熱しそうな時は止めるけど」
「可愛いし楽しそう……!? やっぱり美女マネージャー様は『私のために争わないで』って言うんですか!?」
「いや、誰に頼まれてもそんなこと言わないよ!?」

一瞬にして盛大な勘違いが生まれていた。わたわたと慌てる仁花ちゃんを連れて、目的地の洗い場へと辿り着く。やり方を一通り説明した後、お互いに作業を始めたところで再度口を開いた。

「もしかして、烏野さんで何か盛大な喧嘩でもあった?」
「ひえ!? エスパー!?」
「あ、詮索されるのが嫌ならごめんね。さっき質問してもらったし、それに今回の烏野さんは色々冒険してるみたいだから。何かあったのかなって」

常に精密なトス回しをする影山くんがミスを連発し、あの男前スーパーレシーバーの西谷くんでさえも、自らトスを上げようとしてボールと共にコートに降り立つ始末だ。
まるで雛鳥が大空に向けて羽ばたこうと藻掻いているような、懸命さと貪欲さをほぼ・・全員から感じていた。私でさえ胸が熱くなる光景なのだから、選手たちの心情は想像に難くない。同級生たちが後輩指導に熱を入れているのもその影響だろうと踏んでいた。

「はい……。実はその、日向と影山くんが傷を作る程のケンカをしてしまって……。私、上手く止められなくて、田中先輩に助けてもらったんですけど」
「そっか。……マネージャーとしては気にしちゃうよね、選手に怪我させちゃうのって」
「……清水先輩だったら、誰にも怪我をさせず上手く場を収められたのかな、とかですね! 私なぞが大変烏滸がましいことを考えてしまったりもしてしまいまして!」

途中からわたわたと大声の早口になっていく仁花ちゃんを見て、私は手を止めた。蛇口を捻ってボトルを置いて、正面から向き直る。
仁花ちゃんもまた同様に、石のようにピシリと固まっていた。怖がらせていたら申し訳ないなと、心からの笑顔を意識的に作る。

事ある毎につい自分を卑下してしまいがちな言動は、実に覚えがあった。なにせ、高校一年生だった頃の私がそうだったから。かつてはバレー部に入部することさえも躊躇っていたなと懐かしくなる。
私の場合、久しぶりに入部したマネージャーだったこともあって自由にやれたから、誰かと自分を比べて落ち込む経験はほとんど無かったけど。

「仁花ちゃん、全部完璧にやらなくてもいいんだよ。誰かと自分を比べる必要もないし、何か失敗しちゃっても決して無駄にはならない。どんな経験も自分の成長に繋がるから」
「は、はい……ッ!」
「なーんて、突然お節介でごめんね。でも仁花ちゃんのミスを嘆いてるのはこの世でたった一人、仁花ちゃんだけだと思うから」
「で、でも今までもその……ッ! 数多の人々に迷惑をかけてしまって、大層呆れられて爆発四散した経験がございまして……! そ、それにその、お母さんも……」

お母さん。その一言に指先が冷たくなる心地と共に、やはりそうかという納得感もあった。……似たような傷を抱える者同士は、何故か自然と互いにそれを察する運命にあるらしい。
ハッとした表情で動きを止めた仁花ちゃんを少しでも安心させられるように、濡れた手をタオルで拭いてから、ポンポンと優しく小さな背中を撫でる。

「話したくなかったら話さなくても良いし、もし喋ってくれるなら二人だけの秘密にするよ。……身内から受ける抑圧的な言動って、自分で思ってるよりも大きな傷になること、あるからさ。気付かない内に」
「……苗字先輩」

丸くて大きな瞳に、驚愕と気遣いが入り混じるのが分かった。私が何を言いたいか瞬時に察してくれたであろう様子を見て、改めて賢くて優しい子だと感じる。
実は元々、仁花ちゃんが入部する前から日向くんとメールのやり取りをしていたから、彼女の人となりはおおよそ知ってはいたんだけど。

「……自分ではもう、吹っ切れたと思っていたんですけど」
「うん」
「お母さん、昔からずっと、私に厳しいんです。……あッ、別にその、暴言とかはなくてですね! 親として娘を思い遣った、愛の鞭だっていうことも重々承知の上ではあるんですけれども!」
「うん、仁花ちゃんのお母さんは愛情のつもりで言ってきたのかもしれない。……でも、仁花ちゃんは今まで、たくさん傷ついてきたんだよね」
「……、はい。結局、私が何をしてもどんなに頑張っても、優しいことを言ってもらえた記憶が、……ほとんど無くて」
「それは、……しんどいよね」
「……ッ、寂しくて、辛かったです」
「そっかそっか。……仁花ちゃんは今まで、たくさん頑張ってきたんだね」

瞳にじわじわと涙が溜まっていく顔を見て、つい抱き寄せて頭を撫でてしまった。サイドで括られた愛らしい髪型を崩さないように気を配りながら。
いくら同性のマネージャーとはいえ、夏場にベタベタと触られるのは嫌だったかなと反省するものの、仁花ちゃんの濡れた指先が、私のTシャツをギュッと力強く掴んでくれた。少なくとも心から嫌がってはいないようだと安心する。

「人から客観的にジャッジされ続けて、その上で否定されてきた経験が根強いと、……なかなか自分で自分を認めてあげるのは難しいと思うんだけどね」
「……でも、苗字先輩はいつも明るくて誰にでも優しくて、マネージャーの仕事も料理も勉強も出来て! 凄すぎますぅ」

涙声でめちゃくちゃ褒められると、照れるより先に笑ってしまう。頭と背中を両手でよしよしと撫で続けた。

「私が色々勝手に頑張れちゃうのはさ、ほら。原動力を無限に供給してもらえるからだよ。仁花ちゃんにもあるでしょ?」
「え?」
「ポスターのこと、日向くんから聞いたよ。興奮して写メまで送ってくれたんだけど、凄いよね」
「お、お恥ずかしい……!」

飛び上がった拍子に、泣きながら顔を赤くさせた仁花ちゃんと目が合った。
遠征費用を募る目的で、新米マネージャーが日向くんをモチーフにポスターを作ったのだと、嬉々として報告を受けたことは昨日のように思い出せる。実績を上げられていないバレー部が資金繰りに苦労するのは身に染みて知っているし、彼らのために何か出来ないかと創作に走る気持ちも痛い程に分かるから、いつか直接会えたらもっとお話ししたいとは思っていたのだ。

「でも、デザイン会社をやっているお母さんと一緒に作ったので! 私だけの功績という訳では!」
「それでも、ポスターを作ろうと決めたのは仁花ちゃんだろうし、お母様はあくまで仁花ちゃんの熱意に応えて手伝ってくれたんじゃないかな。……違う?」
「ま、まったくの嘘という訳では、ないかと思います!」
「だよね。このエピソードを聞いてるだけでも、仁花ちゃんには責任感があって分析力もあって、冷静な上に大局観もあるって分かるよ。自信もって!」
「ウッ、うう……苗字せんぱぁい……」

今度は仁花ちゃんから抱きついてくれたので、遠慮なく優しく撫で回す。ついでに時計を見れば、もうそろそろお喋りを切り上げるべき時間だった。

「それじゃ、そろそろ仕事に戻ろっか。私もう終わるから、仁花ちゃんの分は手伝っても大丈夫?」
「ひえ!? そんな恐れ多い……! って、あ、アーッ!?」
「え。どうしたの?」

ムンクの叫びのごとく、本気で顔を青ざめさせる仁花ちゃんが、私のTシャツを凝視しながら何度も深いお辞儀をする。

「わ、私なぞが苗字先輩のTシャツを濡らしてしまうだなんて!?」
「ま、待って仁花ちゃん! そんな急に動くと熱中症になるかもしれないから!」
「で、でも……!」

見てみれば確かに、仁花ちゃんの涙と濡れた手によって、若干肌着や下着が透けそうになっている。ただ、お洒落なミルクティー柄という理由だけで白地のシャツを選んだのは私の落ち度だし、こういうトラブルが発生した時用の飛び道具は既に用意済みなのだ。

「大丈夫! 私、着替えはちゃんと持ち歩いてるから!」
「ほ、本当ですか……?」
「うん。ほらほら見て! この間、影山くんに教えてもらって通販で買ったリベロ魂シャツ! これを皆にお披露目したかったのは本当だし!」
「ウッ……苗字さんが圧倒的女神……!」
「あ」
「え!? 私また何かやらかしましたか!?」
「んーん、そうじゃなくてね。先輩じゃなくて、さん付けで呼んでもらえるの嬉しいなって」

うちには後輩マネがいないから、年下の女の子から親しげに呼んでもらえるのは憧れていたのだ。素直に嬉しくて、我ながら子どもっぽく笑ってしまう。
一旦はシャツもこのままで良いかと作業を再開すれば、仁花ちゃんも慌てて手を動かし始める。

「そ、そうですか……?」
「うん、もちろん。仁花ちゃんさえ良ければ好きに呼んでね」
「え!? 好きに!?」
「ふふ、何でそんなに驚くの?」
「いや! その! 苗字さんって下のお名前が素敵だなと……勝手に思っていたもので……しかし苗字さんのファンの皆様に暗殺されかねないですし……」
「いやいや、さすがに他校の後輩相手に下手なことしないから大丈夫だよ!? 本当に、良ければ好きに呼んでもらえたら嬉しいし」

何故か再びうるうると涙を溜めた仁花ちゃんと、笑いながら作業を続けた。帰り道で唐突に「名前さん!」と呼ばれた時は驚いたけど、胸がパッと華やぐような心地になった。
たとえ学校やチームや違ったとしても、年下の後輩が育っていく様はいつだって嬉しくて、幸せで、誇らしかった。