心火の発芽
生まれて初めて見たメイドという存在は、未だ幼い餓鬼だった俺にとって、あまりにも鮮烈で強烈なヒーローだった。
艶やかな黒髪を高い位置で一つに括り、前髪は真っ直ぐ横に切り添えられ、涼やかながら鋭い焦げ茶の瞳がこちらを軽やかに捉えて。夏場なのに全身の肌を見せないようピッシリと整えられた白黒の服も、独り立ちした一人前の女といった出で立ちでカッコよかった。
──と、そう感じたのも一瞬のことだったのだが。
「おやおや、これは鍛え甲斐のありそうな執事候補生のガキ様ですこと」
開口一番、眉一つ動かさずに放たれた言葉には、刺々しさも苛烈さも柔らかさも何も感じられない。無表情、無感動。これに尽きた。
俺は無様に地面に座り込みながら、腫れた頬を土まみれの右手で押さえ、凛々しいメイドをただ見上げることしか出来なかった。
彼女は、自分より屈強で凶暴な見た目をした男相手にも怯まず、今まさに俺に再び殴ろうとしていた野郎を華麗な足技で吹っ飛ばしてしまった。薄暗い道端でみっともなく転がる男を尻目に、メイドは俺に素早く近寄ってから手を差し出した。
「ジュリオ・ガンディーニ様、ですね?」
「そ、そうだよ……!」
「シェルビーノ家の旦那様の命で参りました。使用人のナマエ・ミョウジと申します。お屋敷にご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
そういえば先日、やけに良い身なりをした男が、数人のボディーガードらしき男たちを従えてやって来たな、と思い出す。確か、シェルビーノだの娘だのとあれこれ話していたが、「君の個性が必要なんだ」と懇願するような言葉だけがやけに頭にこびり付いて、思い出すだけで反吐が出た。
どうせ金持ちの道楽でしかないのだろうし、身寄りのない子どもを騙してマフィアにでも売ろうとしているのだろう。じゃなければ、右手で触れている間だけしか相手の個性を消せないだなんて役立たずを、わざわざ欲する訳がない。自分にとって都合のいい夢を見れるような年はもうとっくに過ぎていた。
「俺は行かねえ……!」
「では、このままスラム街で暮らすおつもりだと?」
「下手に期待して騙されて、身ぐるみ剝がされるよりマシだろ!」
「成程、警戒心があるのは良いことです。腕っ節は……これから! 鍛えて差し上げましょうかッ」
いつの間に先程の男が復活していたのか、彼女は背後から襲ってきた暴漢を腕で捻り上げて、勢いよく鳩尾に肘を入れていた。呻き声と共に崩れていく男をチラリとも見ない茶色の瞳に目を奪われながらも、俺の手は冷たい手に引っ張り上げられていた。
「文句は後でいくらでもお聞きします。此処に戻りたければ、どうぞお好きになさってください。ですが今、目の前で傷つこうとするあなた様を放っておける訳がないでしょう」
顔も手も冷たいのに、紡ぐ言葉も思いも熱い。ズリィなと思った。そんなことを言われて断れる訳がない。
「ッ……! 分かったよ!」
「緊急時は素直になれるのも美点ですね。では……振り落とされないようにお気を付けくださいまし」
「は?」
手を引かれながら全力ダッシュをさせられて、角を曲がった先にあった大きな赤いバイクに乗せられる。直後、彼女がメイド服をはためかせながら天使のごとく軽やかに俺の前に飛び乗った。
そして、──体感したことのない猛スピードで急発進する。
「はァッ!?」
「喋ると舌を噛みますよ」
振り落とされないよう、咄嗟に目の前の彼女の腰を掴む。それに羞恥心を覚える暇も無い程の荒々しい運転に目が回りそうだった。……気付けば俺はそのまま意識を失ってしまったらしい。
そういや、数日間まともに飲み食いさえしてなかったっけな。と、目を覚ましてから思い出す。ぼんやりと天井を見上げるだけでも、いかにも豪華絢爛なお屋敷だと分かって嫌悪感が増した。
「お目覚めになりました?」
「あ!?」
人生の中で最も鮮烈な爪痕を残してきた声と顔を間近に浴びて、勢いよく起き上がる。どうやら俺はベッドに横たわっていたようだった。
何となく違和感を覚えて自身を見下ろせば、ボロボロの布切れのようだった服は着替えさせられて、清潔感のあるシャツとズボンに変わっている。まともにシャワーさえ浴びていなかったのに、身体も頭もスッキリとして爽やかな匂いがした。
「な、何でこんなことまで……」
「旦那様は仰ったでしょう? あなた様を執事としてシェルビーノ家に迎え入れたいと。ですので着替えもシャワーも、全て私が代わりにさせて頂いた次第です」
「は……はァ!?」
「やはり聞いていらっしゃらなかったんですか? あなた様は、個性で苦しまれるお嬢様を救うべく、旦那様がお招きしたいと……」
「そうじゃねえよ! 着替えもシャワーもあんたが俺の代わりにやったって!?」
「ええ。それが何か?」
「な、何かじゃねえよ……!」
ぐわっと顔に熱が迫り上がるのが分かって、今の俺は自分の髪みてえに情けない色をしているんだと思った。けれど目の前の彼女は意にも介さない様子でベッドに腰かけ、俺と目線を合わせる。
透き通ったブラウンの瞳に全てを見透かされたような気がして、惨めでみっともない自分自身があっという間に引きずり出されそうで恐ろしかった。そもそも、スラム街での情けねえ姿も、貧相な身体も全部見られてんだから、今更取り繕うものなんて何も無いにもかかわらず。
「私たちは、あなた様の心も身体も、無理に暴き立てるつもりはございません。ですが……あなた様の意思を問わず、此処へ強引に連れてきたのは事実です。大変申し訳ございませんでした」
彼女がベッドから床に舞い降りて、膝を折った上で俺に向けて深々と頭を下げていった。ついギョッとする。最上級の謝罪の意を示されているのだと理解したからだ。
「そこまでしなくていい! 俺は……その、むしろ助けてもらった訳だし」
「そう言って頂けると助かります。ちなみにジュリオ様、私もスラム街出身ですよ」
「……え?」
「その上、無個性です。……身寄りのない無個性の女があの場所でどう扱われるか、あなた様なら容易に想像がつくでしょう?」
背筋がゾッとした。夏場なのに全身の肌を覆うような服を着ている理由を、自然と察してしまったから。あそこは弱者が搾取され利用され、ボロ切れみてえに扱われるのが当然な世界だと俺は知っていたから。
「幸い、旦那様の御厚意でお屋敷に迎え入れて頂き、現在は何不自由ない暮らしを送ることが出来ております。……この言葉を信じるか信じないか、ご自身の目で確かめてみては如何ですか?」
「……確かめた結果、騙されたらどうすんだよ?」
「私が責任を取って差し上げます。腹いせに殴っても良いですし、悪徳情報屋に私を売っても構いません。ああ、マフィアに臓器を売れと命じるのも手でしょうか。どうぞお好きなように」
「な、……何で見ず知らずの俺のために、あんたがそこまですんだッ!」
「私の仕事は、あなた様をこの屋敷の使用人として育てること、ですから。……それに、あなた様を見ていると、昔の自分を思い出して放っておけなくなるんです」
「…………ッ」
「即決しろとは申しません。心の整理も必要でしょうから。ジュリオ様、しばらくこちらでお休みくださいませ」
「……なあ、一つ聞いていいか?」
「ええ。何なりと」
「あんたの名前、もう一度教えてくれねえか」
彼女は意外そうに、パチパチと何度か瞬きする。無表情に彩られたその顔から初めて感情を引きずり出せたような気がして、不思議なことに嬉しかった。
「それでは改めまして、ナマエ・ミョウジと申します。ジュリオ様」
「……様はいらねえだろ。これから同じ屋敷で過ごすなら」
「……、そうですね。それではジュリオ」
「おう」
「まずは、シェルビーノ家の使用人としての最低限のマナーを徹底的に叩き込んで差し上げます。お覚悟を」
「……ッ、分かったよ!」
「良いお返事です。それでは旦那様に伝えてまいりますので、此処で休んでいてください」
細くて綺麗な指先に頭を拙く撫でられて、咄嗟に俯く。彼女の気配が僅かに柔らかくなったような気がして、何故だか口元が緩んだ。その後、凛と背筋が伸びた後ろ姿を見送る。
俺なんかより余程立派に前を向く彼女が、わざわざ自らの弱味をさらけ出してくれた意味を、あの時の俺はマトモに分かってすらいなかったクセに。
餓鬼なりに一丁前に彼女に目を奪われて、呼吸さえも忘れてしまっていた。全身が脈打つような感情が暴れ出しそうで、そんな事実を認めたくなくて必死だったのだ。
艶やかな黒髪を高い位置で一つに括り、前髪は真っ直ぐ横に切り添えられ、涼やかながら鋭い焦げ茶の瞳がこちらを軽やかに捉えて。夏場なのに全身の肌を見せないようピッシリと整えられた白黒の服も、独り立ちした一人前の女といった出で立ちでカッコよかった。
──と、そう感じたのも一瞬のことだったのだが。
「おやおや、これは鍛え甲斐のありそうな執事候補生のガキ様ですこと」
開口一番、眉一つ動かさずに放たれた言葉には、刺々しさも苛烈さも柔らかさも何も感じられない。無表情、無感動。これに尽きた。
俺は無様に地面に座り込みながら、腫れた頬を土まみれの右手で押さえ、凛々しいメイドをただ見上げることしか出来なかった。
彼女は、自分より屈強で凶暴な見た目をした男相手にも怯まず、今まさに俺に再び殴ろうとしていた野郎を華麗な足技で吹っ飛ばしてしまった。薄暗い道端でみっともなく転がる男を尻目に、メイドは俺に素早く近寄ってから手を差し出した。
「ジュリオ・ガンディーニ様、ですね?」
「そ、そうだよ……!」
「シェルビーノ家の旦那様の命で参りました。使用人のナマエ・ミョウジと申します。お屋敷にご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
そういえば先日、やけに良い身なりをした男が、数人のボディーガードらしき男たちを従えてやって来たな、と思い出す。確か、シェルビーノだの娘だのとあれこれ話していたが、「君の個性が必要なんだ」と懇願するような言葉だけがやけに頭にこびり付いて、思い出すだけで反吐が出た。
どうせ金持ちの道楽でしかないのだろうし、身寄りのない子どもを騙してマフィアにでも売ろうとしているのだろう。じゃなければ、右手で触れている間だけしか相手の個性を消せないだなんて役立たずを、わざわざ欲する訳がない。自分にとって都合のいい夢を見れるような年はもうとっくに過ぎていた。
「俺は行かねえ……!」
「では、このままスラム街で暮らすおつもりだと?」
「下手に期待して騙されて、身ぐるみ剝がされるよりマシだろ!」
「成程、警戒心があるのは良いことです。腕っ節は……これから! 鍛えて差し上げましょうかッ」
いつの間に先程の男が復活していたのか、彼女は背後から襲ってきた暴漢を腕で捻り上げて、勢いよく鳩尾に肘を入れていた。呻き声と共に崩れていく男をチラリとも見ない茶色の瞳に目を奪われながらも、俺の手は冷たい手に引っ張り上げられていた。
「文句は後でいくらでもお聞きします。此処に戻りたければ、どうぞお好きになさってください。ですが今、目の前で傷つこうとするあなた様を放っておける訳がないでしょう」
顔も手も冷たいのに、紡ぐ言葉も思いも熱い。ズリィなと思った。そんなことを言われて断れる訳がない。
「ッ……! 分かったよ!」
「緊急時は素直になれるのも美点ですね。では……振り落とされないようにお気を付けくださいまし」
「は?」
手を引かれながら全力ダッシュをさせられて、角を曲がった先にあった大きな赤いバイクに乗せられる。直後、彼女がメイド服をはためかせながら天使のごとく軽やかに俺の前に飛び乗った。
そして、──体感したことのない猛スピードで急発進する。
「はァッ!?」
「喋ると舌を噛みますよ」
振り落とされないよう、咄嗟に目の前の彼女の腰を掴む。それに羞恥心を覚える暇も無い程の荒々しい運転に目が回りそうだった。……気付けば俺はそのまま意識を失ってしまったらしい。
そういや、数日間まともに飲み食いさえしてなかったっけな。と、目を覚ましてから思い出す。ぼんやりと天井を見上げるだけでも、いかにも豪華絢爛なお屋敷だと分かって嫌悪感が増した。
「お目覚めになりました?」
「あ!?」
人生の中で最も鮮烈な爪痕を残してきた声と顔を間近に浴びて、勢いよく起き上がる。どうやら俺はベッドに横たわっていたようだった。
何となく違和感を覚えて自身を見下ろせば、ボロボロの布切れのようだった服は着替えさせられて、清潔感のあるシャツとズボンに変わっている。まともにシャワーさえ浴びていなかったのに、身体も頭もスッキリとして爽やかな匂いがした。
「な、何でこんなことまで……」
「旦那様は仰ったでしょう? あなた様を執事としてシェルビーノ家に迎え入れたいと。ですので着替えもシャワーも、全て私が代わりにさせて頂いた次第です」
「は……はァ!?」
「やはり聞いていらっしゃらなかったんですか? あなた様は、個性で苦しまれるお嬢様を救うべく、旦那様がお招きしたいと……」
「そうじゃねえよ! 着替えもシャワーもあんたが俺の代わりにやったって!?」
「ええ。それが何か?」
「な、何かじゃねえよ……!」
ぐわっと顔に熱が迫り上がるのが分かって、今の俺は自分の髪みてえに情けない色をしているんだと思った。けれど目の前の彼女は意にも介さない様子でベッドに腰かけ、俺と目線を合わせる。
透き通ったブラウンの瞳に全てを見透かされたような気がして、惨めでみっともない自分自身があっという間に引きずり出されそうで恐ろしかった。そもそも、スラム街での情けねえ姿も、貧相な身体も全部見られてんだから、今更取り繕うものなんて何も無いにもかかわらず。
「私たちは、あなた様の心も身体も、無理に暴き立てるつもりはございません。ですが……あなた様の意思を問わず、此処へ強引に連れてきたのは事実です。大変申し訳ございませんでした」
彼女がベッドから床に舞い降りて、膝を折った上で俺に向けて深々と頭を下げていった。ついギョッとする。最上級の謝罪の意を示されているのだと理解したからだ。
「そこまでしなくていい! 俺は……その、むしろ助けてもらった訳だし」
「そう言って頂けると助かります。ちなみにジュリオ様、私もスラム街出身ですよ」
「……え?」
「その上、無個性です。……身寄りのない無個性の女があの場所でどう扱われるか、あなた様なら容易に想像がつくでしょう?」
背筋がゾッとした。夏場なのに全身の肌を覆うような服を着ている理由を、自然と察してしまったから。あそこは弱者が搾取され利用され、ボロ切れみてえに扱われるのが当然な世界だと俺は知っていたから。
「幸い、旦那様の御厚意でお屋敷に迎え入れて頂き、現在は何不自由ない暮らしを送ることが出来ております。……この言葉を信じるか信じないか、ご自身の目で確かめてみては如何ですか?」
「……確かめた結果、騙されたらどうすんだよ?」
「私が責任を取って差し上げます。腹いせに殴っても良いですし、悪徳情報屋に私を売っても構いません。ああ、マフィアに臓器を売れと命じるのも手でしょうか。どうぞお好きなように」
「な、……何で見ず知らずの俺のために、あんたがそこまですんだッ!」
「私の仕事は、あなた様をこの屋敷の使用人として育てること、ですから。……それに、あなた様を見ていると、昔の自分を思い出して放っておけなくなるんです」
「…………ッ」
「即決しろとは申しません。心の整理も必要でしょうから。ジュリオ様、しばらくこちらでお休みくださいませ」
「……なあ、一つ聞いていいか?」
「ええ。何なりと」
「あんたの名前、もう一度教えてくれねえか」
彼女は意外そうに、パチパチと何度か瞬きする。無表情に彩られたその顔から初めて感情を引きずり出せたような気がして、不思議なことに嬉しかった。
「それでは改めまして、ナマエ・ミョウジと申します。ジュリオ様」
「……様はいらねえだろ。これから同じ屋敷で過ごすなら」
「……、そうですね。それではジュリオ」
「おう」
「まずは、シェルビーノ家の使用人としての最低限のマナーを徹底的に叩き込んで差し上げます。お覚悟を」
「……ッ、分かったよ!」
「良いお返事です。それでは旦那様に伝えてまいりますので、此処で休んでいてください」
細くて綺麗な指先に頭を拙く撫でられて、咄嗟に俯く。彼女の気配が僅かに柔らかくなったような気がして、何故だか口元が緩んだ。その後、凛と背筋が伸びた後ろ姿を見送る。
俺なんかより余程立派に前を向く彼女が、わざわざ自らの弱味をさらけ出してくれた意味を、あの時の俺はマトモに分かってすらいなかったクセに。
餓鬼なりに一丁前に彼女に目を奪われて、呼吸さえも忘れてしまっていた。全身が脈打つような感情が暴れ出しそうで、そんな事実を認めたくなくて必死だったのだ。