彼女からまず徹底的に叩き込まれたのは、口調と立ち振る舞いだった。
お仕えする旦那様とお嬢様の前では、自分のことを「私」と言い、敬意を表すために敬語を使う。動きは丁寧かつ俊敏に、しかし優美に。ひとたび燕尾服を着たならば、使用人としての使命と仕事を最優先にし、己の願望や欲望は何が何でも押し殺す。

軽やかに滔々と語る言葉に嫌悪感を抱かなかったのは、彼女自身がその全てを体現しているのであろうことを理解していたからだ。

「及第点です。それでは早速、お嬢様のもとへ参りましょうか」
「……かしこまりました」
「はい、よく出来ました」

彼女は俺を褒める時、拙いながらもそっと頭を撫でてきた。曰く、「お嬢様に求めて頂いた結果、会得した技術」とのことだった。年下の庇護対象として認識されているのが酷く癪なのに、いつだってどうしても拒絶できない。

「ナマエ、ジュリオ。急かしてすまないね」

使用人部屋を出て廊下を進み、目的地へと向かう途中。ソワソワとした様子の屋敷の主人が、安心したような顔で俺たちに近寄ってくる。
先日まで散々疑っていた旦那様は、呆気にとられるほど善良な人だった。資産家として胡座をかくだけでなく、地域を盛り立てるためにあらゆる出資を惜しまず、スラム街の奴らに関する噂も収集しては、可能な範囲で働き口を紹介しているらしい。
ノブレス・オブリージュ───高い身分と多くの資産を得たものは、立場の弱い人々を助けるという考え方らしい───を体現する人間がこの世にいるだなんて、想像もしていなかったというのに。

「とんでもございません、旦那様。ジュリオは器用で学習意欲もあり、大変教え甲斐がございました」
「……恐縮です」

旦那様への謝罪と感謝は既に直接伝えており、「気にしないでくれ」とお言葉を貰っている。嘘みたいに非の打ち所が無い方だった。

「そうだナマエ。このあと手が空いたら、私の部屋まで来てくれるかい」
「はい、かしこまりました。その際に紅茶をお淹れしましょうか」
「ああ、そうだね。出来るなら君とゆっくり話もしたい。いつものを頼むよ」
「承知いたしました」

ガツン、と頭を殴られるような光景だった。もう何度か見ている筈なのに、それでも息が詰まる。
先程まで感情など削ぎ落したような佇まいでそこにいたメイドが、夜を照らす月のようにそっと美しく微笑む姿。俺の前では決して笑わない彼女が、嬉しそうに目を細める横顔。

嗚呼、ムシャクシャする。……別に、彼女が笑おうが笑わまいが、俺には関係ないにもかかわらず。お茶を飲むことも二人で話すことも、決して俺は望んでいないであろうにもかかわらず。

「それではジュリオ、準備はよろしいですか?」

だが、ひとたび燕尾服を着たならば、感情を押し殺し使用人としての仕事に専念する。そう彼女に対して約束したのは他でもない俺自身だった。そこを折り曲げる気は毛頭なかった。
真っ直ぐに涼やかに俺を見つめてくるブラウンの瞳に対し、己の意思を精一杯込めながら見つめ返す。

「はい。……いつでも準備は出来ています」
「良いお返事です。では手筈通り、私が先にお嬢様のもとへ参ります。ジュリオは合図をしたら入ってきてください」
「……了解です」
「そう心配そうな顔をなさらずとも、あなた様の個性はこの屋敷において今、何よりも価値を持っているんです。自信を持ってください」

ポンと再び俺の頭を撫でてから、彼女は軽やかにお嬢様の部屋へと入っていく。さすがに今回は俯く訳にもいかないと、何故だか熱を持つ顔を無理やり上げて、旦那様と共に扉の前に待機しながら中の様子を窺った。

彼女はまたもや、笑っていた。目の前の幼い少女を安心させたいと全身で主張するかのごとく、不器用な色が滲んだ柔らかい顔をしていた。

「……ナマエをこの屋敷に呼んだのも、アンナのためだったんだ」

旦那様がぽつりと語り出したのを見て、ハッと顔を上げた。二人を慈しむように見つめる瞳には、触れるのも躊躇うほど綺麗な愛情が滲んでいるように見えて、つい目を逸らす。俺はまた、お嬢様の背中越しに彼女の笑顔を見つめる。

「個性因子を持たないであろう無個性の人間ならば、過剰変容の個性を持つアンナも、安心して触れられるんじゃないか、と。そう考えて声をかけたんだ。……最初は、なかなか信用してもらえなかったがね」
「……それは、苦労したでしょう」
「ああ。だが楽しかったよ。段々と心を開き、懸命に仕えようと努力してくれるナマエは、とても愛らしくてね」
「……、そうですか」
「アンナは母親の記憶を持たず、屋敷のどんな使用人とも触れ合うことが出来なかった。……ナマエは、アンナにとって初めて、間近で触れ合うことの出来た年上の女性だったんだ。ナマエになら甘えられると言って、ようやく笑顔を見せてくれるようになったよ」
「そして、本人も旦那様とお嬢様の前では笑うようになった、と。……素晴らしいお話ですね」
「……ジュリオ、そんな顔をしないでおくれ」
「え?」

意味が分からずに顔を上げる。旦那様が寂しそうな表情を浮かべていたから、内心首を傾げた。

「確かにナマエは笑ってくれるようになった。私たちのために身体を鍛え、武器の扱い方も学び、用心棒としても頼りになる女性に成長した。……だがね、ジュリオ。彼女は使用人としての生き方しか知らないから、誰かへの甘え方を知らないんだ」
「な……んで、それを俺に」
「さあ、何故だろうね」

その瞬間、殺気に似た気配がバチッと俺の身体を貫く。合図がきた。旦那様に会釈をしてから歩を進める。
深く息を吸い、彼女から叩き込まれた言動を身体に落とし込みながら、慎重に部屋の中に入っていった。
見知らぬ男が急に個室に入ってきたことで、お嬢様が怯えた様子で彼女に縋り付いている。彼女の細くて綺麗な指先が、豊かな金髪を拙く撫でていた。

「アンナ様。彼は、お嬢様を助けるために来てくださった方なのです」
「で、でもナマエ! 助けるってどうやって、……ッ!? うぁッ」

不幸中の幸いか、俺の助けになれる場面がちょうどやってきたようだった。これが、常時発動型の過剰変容の暴走かと納得する。小さな顔が真っ青だった。全身を震わせながらも俺を避ける姿は痛々しく、もし俺で力になれるならば、何でもしてあげたいと思える程の健気さがあった。

「お嬢様、突然のご無礼をお許しください」

右手で肩に触れ、個性を発動させる。少しでもその苦しみが癒されますように、とらしくないことを願いながら。
つい先日、凶暴な男に対して果敢に立ち向かって連れ出してくれた彼女のように、俺が少しでも目の前の少女を救えるようにと祈りながら。
身体中のエネルギーが吸い取られ、経験したことのない倦怠感に襲われる。反対に目の前のお嬢様の震えが徐々に収まり、驚愕したような丸い瞳が俺をじっと見つめた。

気を抜いたら倒れそうだ、と思った瞬間。彼女の指先が俺の背中を撫でた。……嗚呼、そうだ。俺は、お嬢様の前でだけは決して無様な姿を見せる訳にはいかない、シェルビーノ家の使用人になったのだ。

「お初にお目にかかります、ジュリオ・ガンディーニと申します。この度、執事として旦那様に雇って頂きました。……個性は、因子相殺。お嬢様が苦しまれた際には、俺がいつでも駆け付けます」
「ジュリオ……?」
「はい、これからよろしくお願い致します。お嬢様」

泣きそうに顔をくしゃりと歪めてから、お嬢様は花が咲くようにパッと笑った。

「ええ! よろしくね、ジュリオ! それから、ナマエもありがとう!」
「恐縮です。今後は出来る限り、ジュリオがお嬢様の傍におりますので。何かあれば彼にお申し付けください」
「え……? これから、ナマエは一緒にいてくれないの?」
「いえ、そういう訳ではございません。ですが私はジュリオと異なり、ただお嬢様のお傍にいることしか出来ませんから。……あなた様の苦しみを取り除く術を持たない使用人が、今まで通り過ごしたらご迷惑でしょう。その代わりにお役に立てるよう、別の仕事を致しますので」

途端にお嬢様が、シュンと悲しそうに俯いた。扉の前でこちらを見守る旦那様も、切なそうに眉を下げている。確かに彼女の言葉は、使用人としては正論なのかもしれない。彼女なりの誠意の示し方なのかもしれない。
だが、ガッと腹の底から込み上げる激情が、俺の口を本能のままに動かした。

「あんたがお二人を悲しませてどうすんだよ!」
「……ジュリオ。お嬢様の前で敬語を崩してはいけないと、」
「そのお嬢様が本音を語れないのは、他でもない、頑固で真面目すぎるあんたのせいだろ!」

三人が、呆気にとられたような顔で俺を見つめてくる。あまりにその表情がそっくりで、彼らが共に積み重ねてきた時間が垣間見えるようだった。
一番に口を開いたのは、恐る恐る拳を握りながらも強い眼差しを俺に向けた、お嬢様だった。

「……ジュリオ」
「お嬢様。伝えたいことがあるならば、どうか遠慮なさらず。責任は私が持ちますので」
「うん、ありがとう。……あのねナマエ、聞いてくれる?」
「はい、何なりと」

いつも通りの冷静さを取り戻した彼女が、ピンと背筋を伸ばして主人の言葉を待った。

「これからも、今まで通り、私の傍にいてほしいの」
「……ですが、私はお嬢様のお役に立つことは出来ませんし」
「ううん、それでも良い。ただ私が、これからもナマエと一緒にいたいだけだから!」
「そう、ですか……。かしこまりました」
「うん!」

ようやくお嬢様に笑顔が戻ったところで、旦那様が微笑みながら会話に入ってくる。

「アンナもジュリオも、個性を使って疲れただろう。顔合わせも済んだことだし、二人ともゆっくり休みなさい」
「お父様……、分かったわ!」
「旦那様、お気遣い痛み入ります」
「ああ。私としても、ナマエに今後もアンナと共にいてもらいたいからね。そうだナマエ、休憩がてらお茶でもしようじゃないか」
「はい、ぜひ」
「えっ! 二人ともずるいわ!」
「アンナはまたの機会にね」

旦那様が、あやすように優しく柔らかくお嬢様の頭を撫でる。実際、心身ともに消耗していたのだろう。不満そうな顔をしながらも、すごすごとシーツの中に潜り込んでいった。

「ジュリオ」

彼女の真っ直ぐな声が俺を捉える。ここ数日、徹底的に教え込まれたルールを勤務初日にして破ったのだ。かなりキツイ叱責を受けるだろうと予想をしていたのだが、俺に向けられる眼差しは、想定外に柔らかな色を宿していた。

「な、何ですか……?」
「おや、もう敬語に戻ってしまわれたのですね」
「それは……その、大変失礼しました……」
「いえ。むしろ、こちらこそ申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」
「え?」
「己の仕事のことしか考えていなかったあまり、お嬢様の本音に気付かなかった失態を、忌憚なく指摘してくださったこと。感謝しかございません」
「ですが、俺は感情的になってしまいましたし……」

くすり、と星が輝くような笑い声を耳にして、俺は間抜けにもポカンと口を開いてしまった。全身の神経が、軽やかに悪戯っぽく立ち上がった彼女に集中していくのが、嫌でも分かってしまった。

「それが新鮮でした。私、人に真っ直ぐ叱ってもらえたのは初めてで……嬉しかったです」
「……ッ」
「あなた様がシェルビーノ家に来てくださって、本当に良かった。これからも、私に至らない点があれば叱咤してくださいますか」

彼女が笑っていた。俺のピンチに駆け付けて、颯爽と助けてくれたヒーローが、俺だけに笑いかけてくれていた。その事実に、全身が沸騰してしまいそうだった。

「……はい。俺でよろしければ」
「はい。ジュリオが良いです」
「そう、……ですか」
「では、旦那様にお茶を淹れてまいりますので、一旦失礼致します。ゆっくりお休みになってください」

お嬢様と旦那様に挨拶をするべく、軽快に去っていく彼女の背中を見送りながら、俺は深くしゃがみ込んで項垂れる。

嗚呼、ズリィなと思う。決して俺を一番にしてくれないくせに、あんなに綺麗に笑いやがって。俺にこんなにも深く強く爪痕を残しやがって。今まで受けたどんな拳よりも痛くて、心臓を握り潰されそうで堪らなかった。