紅雨の花芽
俺の使命は、出来る限りお嬢様の傍にいて、個性の暴走から救うこと。シェルビーノ家の執事として、役立たずの孤児を雇ってくださった旦那様に恩返しをすること。
俺なんかにも笑いかけてくれる、善良なお二人の役に立つことこそが己の使命であり、目標であり、何よりも守りたい日常となっていった。
しかし、いくら敬語が達者になっていっても、立ち振る舞いが洗練されたと褒められても。俺はまだ一度たりとも、上司となった彼女の名前を呼ぶことさえ出来ていなかった。
別に距離を縮めたい訳ではない。個人的にどうなりたい等とも思っていない。そんなことを願う隙も無い程に、彼女は他者に向けて、強固で分厚い境界線を引いているようだったから。ただ憧れに似た思いを抱いただけの年下の餓鬼が、何かを願うだなんて烏滸がましいのだろうと思っていたから。
「ジュリオ。ナマエと一緒に、買い物へ行って来てくれないかい?」
旦那様の個室にて告げられた言葉に、一瞬固まる。
お仕えするお二人からお言葉をかけられたら、いついかなる時も迅速にお答えする。そんな彼女からの教えと共に冷ややかなブラウンの瞳が浮かび、ぎくりと肩が強張った。
「……ですが、私がお嬢様の傍から離れる訳には」
「おや。ジュリオは、そんなに長い間ナマエと一緒にいたいのかな」
「い……、いえ! とんでもない!」
「はは。そんなに本気で慌てなくとも、分かっているから大丈夫だよ」
太陽のように温かく柔らかな笑顔を浴びて、やはり敵わないなと思い知る。恩人に対し、何故そんな思考に至るのだろうかと疑問が芽生えたところで、背後の扉が開く音がした。
「旦那様、お待たせいたしました」
いつも無感動な彼女の声に、僅かに色が乗る瞬間。それを耳にする度、何とも言えない苦い気持ちが湧いて、腹の底がザラザラと騒めくような気がした。
「ナマエ、ジュリオは構わないそうだ」
「……そうは見えませんが、本当に了承なさったのですか?」
気付けば目の前に彼女が来ていた。思ったよりも顔が近くにあり驚愕したところで、旦那様の大きな手が同意を促すように肩に乗る。
「ジュリオ、ナマエと一緒に買い物へ行ってくれるだろう?」
「勿論構いませんが……、その、お時間を取らせるのも申し訳ないですし、私が一人で参りますが」
「おや。君と共に行きたいと言い出したのは、他ならぬナマエだと言っても?」
あまりの衝撃に声も出なかった。時が止まったような感覚を覚えつつ、我ながらぎこちなく彼女と目を合わせる。
「少々、個人的に検討したいものがございまして。最も的確なアドバイスをくださるのが、あなた様だろうと判断いたしました」
「そう、ですか……。私でよろしければ」
「ええ、ぜひ。旦那様、お嬢様のご様子は?」
仕事を兼ねて今朝会いに行ったら、俺の個性も必要ないくらいに元気な笑顔を見せてくれたことを思い出す。自分が役に立てていることを実感し、またもや心臓が緩むように温かくなった。
「連日ジュリオが頑張ってくれているお陰で、今日はいつになく調子が良さそうなんだ。二人とも、それは見ているだろう」
「ええ。お陰様で、個性が暴走するまでのスパンや前兆が以前より明確になりました。少なくとも、本日の夜まで大きな暴走は起きないだろうと見越しております」
スラスラと明瞭に話す様子を見て、そんなことまで分析していたのかと驚く。彼女は彼女なりにお嬢様の苦しみを取り除こうと努力しているのだろうと感じ、今までもずっとそうだったのだろうか、と勝手に思いを馳せてしまった。
正直なところ、個性の暴走を抑えるのはかなりの体力を消耗した。連日使用することに対する厳しさを感じていたのは事実だから、もし彼女がそれさえも見越して今日の提案をしたのだとすれば。
「だからこそ、お嬢様が喜んでくださる物を買いに行きたい、と私から申し上げました。本日は旦那様もご予定が入っておらず、親子水入らずのお時間を邪魔したくはないですし」
いかにも彼女らしいと思った。平坦で温度の無い声音と口調だが、その奥に秘められた強い思いを知っている。いつだってお仕えするお二人を中心に思考し、行動を決める在り方は、使用人としては尊敬に値するのだろう。
「詳細なご説明をありがとうございます。事情は把握いたしました。そういうことでしたら、喜んで」
「そういえば、ジュリオはナマエとデートするのは初めてだろう。エスコートして素気無く扱われても、諦めてはいけないよ」
「え」
「旦那様、お戯れがすぎます」
ピシャリと一刀両断する姿を見て、ああそうだよな、と納得する。彼女が一番に想っているのも、デートをしたいのも、心を許した姿を見せるのも、この世にたった一人しかいない。
その事実に対して特に何も思う必要はない。考えてはいけない。心臓を握り込むように深く息をする。
「それではジュリオ、参りましょう」
「はい、かしこまりました」
特に私服も持っていないため、二人して仕事着のまま出かける。執事として勤め始めて以来、お屋敷の外に出るのは初めてだった。立場や状況が変われば、同じ場所であってもこうも見える世界が変わっていくのかと驚いてしまう。
シェルビーノ家が位置するのは、観光客も多く立ち寄る大きな港町だ。色とりどりのカラフルな家が立ち並ぶ様や魚介料理が名物で、華やかな観光産業も盛んな一方、裏路地はマフィアの巣窟にさえなっている。
光と闇が煮詰められたような場所の一画。周囲の道が険しく人気の少ない土地を買い、現在の屋敷を建てたのだと聞いていた。交通の便は悪いが、他者との交流を避けたいお嬢様のお気持ちを汲み取った結果だという。本人には告げていないが、それだけお嬢様の個性は特別で、強力で、何者かに利用される可能性があるという話も耳にしていた。
だからこそ彼女は守るために力をつけたのだと、説明されずとも自ずと理解する。
街を彩るように、俺たちが歩く小さな通りに潮風が吹いた。黒く艶やかな髪がするりと舞い、メイド服のスカートがふわりと揺れる。彼女が指先でそれらを押さえながら振り返った。
色とりどりの壁の中にあっても、その白と黒を基調にした姿はひどく鮮烈で神聖で目を惹かれて、つい息が止まる。
今まで暴力が共通言語のスラム街にいた俺は、この街の景色を美しいだなんて感じたこともなかったが。
「こうして見ると、見事でしょう」
「……はい」
「ああ、お屋敷の外では敬語を使わずとも構いませんよ。無理にとは申しませんが」
「それは……、いや。あんたに対してあれこれ取り繕うのも今更か」
「お気付きになりましたか。まさか、あの時のガキ様がここまで立派に勤めてくださるとは、予想外でした」
「そのガキ様っていう言い方、誰にでもすんのかよ」
「いいえ? 粗暴な言葉さえも丁寧に申し上げるのが使用人としての流儀ですから。それに、緊急時の初対面だからこそ分析できる人間性もございますし。失礼なのは承知で少々、見極めさせて頂きました」
「……そーですか」
「それなのにあなた様ときたら、私を驚いたように見上げるばかりで、微動だになさらなかったので。あの状況で防衛行動も取らないだなんて、果たして本当にお屋敷でやっていけるのだろうかと当初は不安でしたが」
「悪かったな。……あの時は、あんたが強くて驚いたんだよ」
「強いか否かはともかく。たとえ攻撃的な個性を持たずとも、戦闘方法はいくらでもあります」
凛とした清らかな声だった。彼女と目が合えば、そのブラウンの瞳に吸い込まれそうだとありもしないことを考えてしまう。
「ジュリオ」
「……は、い」
「今度こそ舌を噛まないようにお気を付けて」
「は?」
急に手を引かれ、俺は彼女と共に駆け出していく。次の角を曲がった先にあった赤いバイクに、何の躊躇いもなく乗った横顔を見て唖然とする。備え付けられていたらしいヘルメットを手渡されたので、反射的に受け取ってしまった。
「では参りましょうか」
「いやどこにだよ!?」
「当然、買い物です。お付き合い頂けるんですよね?」
「……ッ! ああ。とことん付き合ってやる」
「良いお返事です。では後ろにどうぞ」
初対面で混乱していた時とは異なり、意識的に彼女の腰を掴むのに少々抵抗はあったが。そんな微かな戸惑いさえもぶん殴られるような急発進に、俺は自然と思考を放棄していた。
実際、シェルビーノ家の周辺には小さな住宅街が並ぶばかりで、最低限の日用品や食材くらいしか購入できない。だからそれなりの物を買うためには、それなりの交通手段を使って遠くへ行かなければならないのだろう。ゆっくりと考えれば理屈は理解できるのだが、何の説明もないまま突拍子のない行動をするものだから、俺はいつだって彼女に振り回されっぱなしだった。
「ジュリオ、これはどう思います?」
それにしたって、今回こそ本当に訳が分からなかった。大きめのショッピングストリートにて、いかにも女子向けな雰囲気の雑貨店に連れ込まれたかと思えば、彼女は真っ赤なリボンを両手に持って見せてくる。
「……あんたが着けるにしては、少し派手すぎるんじゃ」
「そんな訳がないでしょう。これはお嬢様に差し上げるものです」
「ああ、成程」
納得し、理解した。彼女の行動原理はいつだって、シェルビーノ家のお二人のためにあるのだ。
「だがお嬢様は、こういう色の装飾品は持っていなかったような」
「ええ。あなた様と出会う前までは、明るいお召し物を着る気分にさえならなかったそうです。しかし現在は一時的であっても無個性でいられる瞬間があり、気持ちも明るくなったからと。そう仰っておりました」
「……そう、ですか」
嬉しさのあまり、ついそっぽを向いてしまった俺を見てか、彼女の雰囲気が僅かに柔らかくなったような気がした。
「ええ。なので旦那様は本日、お嬢様のために新しくドレスを誂えようと張り切っておいでで」
「……なら、あんたの分も一緒に作ってもらえば良かったんじゃねえか?」
気付けばそんなことを口にしていた。こんな場所に生まれて初めて来て、俺のお陰でお嬢様が前向きになったと言ってもらえて、少々浮かれてしまったのかもしれない。
そう思った時には、痛い程に鋭い視線が飛んできていた。だがこちらだって、一度口にしたことを引っ込める気は更々なかった。嘘を吐いている訳でもないし、後ろめたく思う必要もないだろう。
「発想が飛躍しすぎでは? もし旦那様からそのような申し出があったとしても、丁重にお断りしますし」
「何でだよ」
「あなた様こそ、何故そんな無駄なことをお考えになるのですか」
「似合うと思うからだろ」
「……念のためお聞きしますが、誰に、何が似合うと?」
元々俺に対しては無感情を貫く彼女の声に、僅かばかり冷ややかな色が滲んでいくような気がした。一瞬怯むが、先日もお嬢様と旦那様の前で叫んだ身だ。何も怖くない。それに、何か至らない点があれば叱咤しろと言ったのは本人なのだから。
「あんたに、ドレスが似合うと思った」
「思って頂くのはご自由にどうぞ。それで、こちらのリボンはどう思いますか?」
「話を逸らすなよ」
「そちらこそ、不必要な話題を振らないでくださいまし。今はお嬢様へのプレゼント選びが最優先です」
互いに一歩も譲らないといった空気で、睨み合う。気付けば周囲の客や店員からも注目を集めているようで複数の視線が集中していた。彼女はそれでも、大事そうに持ったリボンを俺に見せつけてくる。……あー、そうだな。俺の負けだよ。認めてやる。彼女の頑固さには敵わない。
さり気なく視線をぐるりと動かせば、初対面の時も今日も俺を颯爽と運び去っていった、あのバイクと同じ色の髪飾りを見つける。
「……今持ってるそれは、少し子どもっぽすぎる気がする。あっちの方が良いんじゃねえか」
きょとんとしたように真っ直ぐこちらを見てから、彼女は頷く。指差した先にあったカチューシャに似たそれは、現在お嬢様が身に着けているものとデザインも似ていて、きっとお二人の好みにも合っているだろうと思った。
「確かに、お嬢様がお好きなタイプのデザインかと。ではこちらを買ってまいります。お店の前で待っていてください」
「いや俺も一緒に……、あ」
「あなた様がお給金を頂くまでは、お気持ちだけ頂いておきます」
未だ勤め始めたばかりの新人は、上司でもある彼女の言葉に頷くことしか出来なかった。項垂れつつも、丁重な包みを抱えた彼女が帰ってくるのを見て、自然と頬が緩んでいく。
確かにモノトーンのメイド服も十分に似合っているが、ドレスで着飾った姿だって綺麗だろう。……いや、何でこんなこと考えちまうのか分からねえけど。そもそもここでわざわざ盾突くような真似、する必要がなかったんだろうけど。
でも、つい口を出したくなってしまった。彼女の言動には一切の感情が無いようにも見えるが、時折ほんの僅かばかり、寂しそうな色を滲ませるような気がしていたから。それを勝手に感じ取って、勝手に頭に血を上らせて、勝手に自分の意見を言っちまうのはまあ、多少は反省していたが。
そのまま店からバイクを停めた駐車場に戻るまで、最低限の会話をする。彼女曰く、シェルビーノ家の使用人が用いる独自の情報網や武器屋などがあるらしく、もう少し仕事に慣れてきたら教えてくれるだとか。お嬢様の個性は年々自然と成長していくから、俺の個性もどうすれば無理なく成長させられるか試してみるつもりだ、とか。……自分のことは一切省みないくせに、やはり他人のことばかり気にするんだなと、俺は相槌を打ちながら目を細めていた。
「雨がきますね」
「え? 今は晴れてるよな」
「経験と勘によるものですが、恐らく確実かと」
ちょうど駐車場に着いたタイミングで、彼女がバイクの荷台からビニールシートを素早く取り出す。車体に被せて手慣れたように固定し、包みを左手で大切そうに抱えてから、俺に向かって右手を差し出した。元々逆らう気は無かったため僅かに躊躇いつつも手を重ねる。案の定、急に駆け出した彼女に追いつくように俺も必死に足を動かした。
ちょうど近くにあったカフェに入ると同時に、ザァッと扉の外で音が鳴る。夏の午後に時折遭遇する、夕立だった。まるで予言者のようだと唖然としながら彼女の背中を見ていれば、いつの間にやら店員と会話をしていて席に案内されている。振り返った彼女に小さく手招きされた。
「ちょうど窓際が空いているようです。行きましょう」
「……ああ」
雨は嫌いだった。周りの大人たちの機嫌が悪くなって殴られるから。同年代の子どもからは、赤毛が不吉だから天気が悪くなったんだと陰口を言われ、虐められたから。生まれつき尖った歯も、鋭い目つきも、気持ち悪いとついでのように罵られるから。
「ジュリオ」
ハッと意識が浮上する。席に座って窓から雨を眺めていたら、いつの間にか思考が悪い方向に捻じ曲がっていたらしい。
「……悪い。何か言ったか?」
「いえ、たった今呼びかけただけです。少し顔色が悪いように見受けられますが、病院にでも参りますか?」
「いや、そういうんじゃねえ。気にする必要もねえ」
「そうですか。……ここは紅茶が美味しいんです。良かったら一緒にいかがです?」
「……ああ、頼む」
「ではお言葉に甘えて」
注文を終えてから、彼女はじっと俺を見つめる。雨を見る気分にもなれなかったから、俺も自然と彼女の方に向き直っていた。こちらの様子を窺うような透き通った瞳を真正面から見ることも出来ず、すぐ視線は自分の膝に落としたが。
「……お嬢様は、昔から赤色がお好きでいらっしゃるんです」
「え?」
「あなた様がいらしてからは、余計にその傾向が強くなったようで」
「……なん、で」
「分かりませんか?」
ようやく彼女と目を合わせる。そこに責めるような意思はなく、ゆっくりと俺の返答を待ってくれているのだと理解した。
自惚れでなければ、さっきも考えていた通り、俺の髪の色だから、だろうか。……俺が個性を使う度に楽になれるお嬢様の立場からすれば、確かに嫌う理由は無いだろうが。
「ここで答え合わせをするのは、野暮というものでしょう。……ただ、あなた様が何の迷いもなく赤色の髪飾りを選ばれたので、少々驚いたのです」
「あんたのバイクと同じ色だろ」
「ええ、そうですが。まさかとは思いますが、それが理由とでも?」
「悪いかよ」
「……いいえ、光栄です。実際、私が個人的に赤を美しいと思うからこその選択ですし」
「美しい、ね」
「おや、ご不満な様子ですね」
「……別に、そういう訳じゃ」
すると、店員がティーポットとカップを運んでくる。砂時計が落ちたら自分で注げ、ということらしい。こんな洒落たカフェで茶を飲むことさえ初体験の俺は、正直何が何やら分かっていなかったが。
「美味しい紅茶をお淹れするのも使用人の務めです。もう少し本業務に慣れてきたら、改めて教えて差し上げましょう」
「……はい」
「そういえば、紅茶も綺麗な赤色をしていますね」
「……そうだな」
「おや。茶葉と向き合う度にそのような顔をなさっていては、お嬢様も旦那様も心配なさいますよ」
彼女は優雅な動作で、二人分のカップに透き通った赤い液体を注いでいく。言われずとも自分が情けない顔をしているのは分かったから、彼女の手元をじっと眺めながらゆっくりと口を開いた。
「自分の髪の色。……正直嫌いなんだよ」
「そうでしたか。私も自分のことは何もかも嫌いなので、気持ちは分かりますが」
彼女が一個人として、自らの思考を口にするのは、少なくとも俺の前では初めてのことだった。その言葉の意味を探るべく顔を上げたところで、手を止めた静かなブラウンの瞳と目が合う。
「ならば、あくまで個人的な感想のみ申し上げましょうか。私は、あなた様の髪が美しいと思います」
「……は」
確かに彼女は、わざわざお世辞を口にするような人間ではない。それは頭で理解しているのに、素直に受け止められるだけの心の余裕が、今の俺には存在しなかった。
「何で、そんなこと言うんだよ」
「あくまで私の主観的な、一個人としての気持ちだからです。……ああ、そういえば。日本語には紅雨という言葉があるのをご存知ですか?」
「コウウ?」
「ええ、赤い雨という意味の字で構成された言葉なのですが。……日本語や日本文化に関して、過去に少々教わる機会がございまして」
昔を懐かしむような声だった。何で教わったんだ、なんて聞くのも野暮というヤツだろう。それよりも彼女が何を言うのか興味があった。
「……それで?」
「世界が華やぎ色づき始める、春の季節。花に降り注ぐ雨のことを、日本では紅雨というそうです。それだけ春の雨は美しく、赤とは恵みをもたらす色の代名詞なのでしょう」
「……」
「イタリアでは太陽を黄色で表しますし、実際この街も夕暮れになれば、黄金に照らされた街などと呼ばれますが。……日本では朝焼けや夕焼けという言葉がある程、太陽によって世界が赤く照らされる景色に対して、古くから美しさを見出してきたそうですよ」
先程まで、やさぐれて捻くれた思考で頭の中がぐちゃぐちゃだったのに。彼女の静かな言葉の一つ一つが、俺の心をそっと解きほぐしてくれるようだと思った。何故だか息苦しくなって、胸の奥が痺れる程に痛む。
「……それで結局、あんたは何が言いたいんだよ」
他でもない彼女が、俺のために言葉を尽くしてくれているようだと勝手に勘違いしてしまいそうで、つい気持ちが逸った。同時に、彼女の口から前向きな言葉を求めてしまう自分がいることに気付き、餓鬼かよと内心項垂れる。
「私の主観的な感情の根幹にある、客観的な根拠を提示した方が宜しいかと思いまして。……ジュリオ」
大人が子どもを諭すように、彼女が俺の名前を呼ぶ。真っ直ぐで綺麗な指先が、壊れ物を扱うかのごとくそっと、俺の頭に触れた。
「あなた様の髪は、美しいです」
世界から、全ての音が消えたようだと思った。それ程に俺の全神経が目の前の彼女に集中していたのだと、指先が離れていくのを見てようやく気付く。理由の分からない羞恥心に突き動かされるまま、俺はそっぽを向いた。
「……どうも」
「いいえ。さて、雨も上がりそうですね」
入店時に比べたら、明らかに俺の心は晴れていた。我ながら単純だとは思ったが。
自然と目に入った窓の外では、ポツポツと上がり始めた雨と共に、遠くで淡い虹が架かっていくのが見えた。
虹を見たら幸せになれる、なんて眉唾物の話を思い出す。以前までは馬鹿みてえだと切り捨てていた話を、今の俺は必死に握り締めてみたくなっていた。
無感情で無感動なその横顔が、今まで見てきたどんなものよりも、綺麗に見えちまっていたから。こんな些細で彼女にとっては何でもないであろう光景を、俺は永遠に忘れないのだろうと予感してしまったから。
俺なんかにも笑いかけてくれる、善良なお二人の役に立つことこそが己の使命であり、目標であり、何よりも守りたい日常となっていった。
しかし、いくら敬語が達者になっていっても、立ち振る舞いが洗練されたと褒められても。俺はまだ一度たりとも、上司となった彼女の名前を呼ぶことさえ出来ていなかった。
別に距離を縮めたい訳ではない。個人的にどうなりたい等とも思っていない。そんなことを願う隙も無い程に、彼女は他者に向けて、強固で分厚い境界線を引いているようだったから。ただ憧れに似た思いを抱いただけの年下の餓鬼が、何かを願うだなんて烏滸がましいのだろうと思っていたから。
「ジュリオ。ナマエと一緒に、買い物へ行って来てくれないかい?」
旦那様の個室にて告げられた言葉に、一瞬固まる。
お仕えするお二人からお言葉をかけられたら、いついかなる時も迅速にお答えする。そんな彼女からの教えと共に冷ややかなブラウンの瞳が浮かび、ぎくりと肩が強張った。
「……ですが、私がお嬢様の傍から離れる訳には」
「おや。ジュリオは、そんなに長い間ナマエと一緒にいたいのかな」
「い……、いえ! とんでもない!」
「はは。そんなに本気で慌てなくとも、分かっているから大丈夫だよ」
太陽のように温かく柔らかな笑顔を浴びて、やはり敵わないなと思い知る。恩人に対し、何故そんな思考に至るのだろうかと疑問が芽生えたところで、背後の扉が開く音がした。
「旦那様、お待たせいたしました」
いつも無感動な彼女の声に、僅かに色が乗る瞬間。それを耳にする度、何とも言えない苦い気持ちが湧いて、腹の底がザラザラと騒めくような気がした。
「ナマエ、ジュリオは構わないそうだ」
「……そうは見えませんが、本当に了承なさったのですか?」
気付けば目の前に彼女が来ていた。思ったよりも顔が近くにあり驚愕したところで、旦那様の大きな手が同意を促すように肩に乗る。
「ジュリオ、ナマエと一緒に買い物へ行ってくれるだろう?」
「勿論構いませんが……、その、お時間を取らせるのも申し訳ないですし、私が一人で参りますが」
「おや。君と共に行きたいと言い出したのは、他ならぬナマエだと言っても?」
あまりの衝撃に声も出なかった。時が止まったような感覚を覚えつつ、我ながらぎこちなく彼女と目を合わせる。
「少々、個人的に検討したいものがございまして。最も的確なアドバイスをくださるのが、あなた様だろうと判断いたしました」
「そう、ですか……。私でよろしければ」
「ええ、ぜひ。旦那様、お嬢様のご様子は?」
仕事を兼ねて今朝会いに行ったら、俺の個性も必要ないくらいに元気な笑顔を見せてくれたことを思い出す。自分が役に立てていることを実感し、またもや心臓が緩むように温かくなった。
「連日ジュリオが頑張ってくれているお陰で、今日はいつになく調子が良さそうなんだ。二人とも、それは見ているだろう」
「ええ。お陰様で、個性が暴走するまでのスパンや前兆が以前より明確になりました。少なくとも、本日の夜まで大きな暴走は起きないだろうと見越しております」
スラスラと明瞭に話す様子を見て、そんなことまで分析していたのかと驚く。彼女は彼女なりにお嬢様の苦しみを取り除こうと努力しているのだろうと感じ、今までもずっとそうだったのだろうか、と勝手に思いを馳せてしまった。
正直なところ、個性の暴走を抑えるのはかなりの体力を消耗した。連日使用することに対する厳しさを感じていたのは事実だから、もし彼女がそれさえも見越して今日の提案をしたのだとすれば。
「だからこそ、お嬢様が喜んでくださる物を買いに行きたい、と私から申し上げました。本日は旦那様もご予定が入っておらず、親子水入らずのお時間を邪魔したくはないですし」
いかにも彼女らしいと思った。平坦で温度の無い声音と口調だが、その奥に秘められた強い思いを知っている。いつだってお仕えするお二人を中心に思考し、行動を決める在り方は、使用人としては尊敬に値するのだろう。
「詳細なご説明をありがとうございます。事情は把握いたしました。そういうことでしたら、喜んで」
「そういえば、ジュリオはナマエとデートするのは初めてだろう。エスコートして素気無く扱われても、諦めてはいけないよ」
「え」
「旦那様、お戯れがすぎます」
ピシャリと一刀両断する姿を見て、ああそうだよな、と納得する。彼女が一番に想っているのも、デートをしたいのも、心を許した姿を見せるのも、この世にたった一人しかいない。
その事実に対して特に何も思う必要はない。考えてはいけない。心臓を握り込むように深く息をする。
「それではジュリオ、参りましょう」
「はい、かしこまりました」
特に私服も持っていないため、二人して仕事着のまま出かける。執事として勤め始めて以来、お屋敷の外に出るのは初めてだった。立場や状況が変われば、同じ場所であってもこうも見える世界が変わっていくのかと驚いてしまう。
シェルビーノ家が位置するのは、観光客も多く立ち寄る大きな港町だ。色とりどりのカラフルな家が立ち並ぶ様や魚介料理が名物で、華やかな観光産業も盛んな一方、裏路地はマフィアの巣窟にさえなっている。
光と闇が煮詰められたような場所の一画。周囲の道が険しく人気の少ない土地を買い、現在の屋敷を建てたのだと聞いていた。交通の便は悪いが、他者との交流を避けたいお嬢様のお気持ちを汲み取った結果だという。本人には告げていないが、それだけお嬢様の個性は特別で、強力で、何者かに利用される可能性があるという話も耳にしていた。
だからこそ彼女は守るために力をつけたのだと、説明されずとも自ずと理解する。
街を彩るように、俺たちが歩く小さな通りに潮風が吹いた。黒く艶やかな髪がするりと舞い、メイド服のスカートがふわりと揺れる。彼女が指先でそれらを押さえながら振り返った。
色とりどりの壁の中にあっても、その白と黒を基調にした姿はひどく鮮烈で神聖で目を惹かれて、つい息が止まる。
今まで暴力が共通言語のスラム街にいた俺は、この街の景色を美しいだなんて感じたこともなかったが。
「こうして見ると、見事でしょう」
「……はい」
「ああ、お屋敷の外では敬語を使わずとも構いませんよ。無理にとは申しませんが」
「それは……、いや。あんたに対してあれこれ取り繕うのも今更か」
「お気付きになりましたか。まさか、あの時のガキ様がここまで立派に勤めてくださるとは、予想外でした」
「そのガキ様っていう言い方、誰にでもすんのかよ」
「いいえ? 粗暴な言葉さえも丁寧に申し上げるのが使用人としての流儀ですから。それに、緊急時の初対面だからこそ分析できる人間性もございますし。失礼なのは承知で少々、見極めさせて頂きました」
「……そーですか」
「それなのにあなた様ときたら、私を驚いたように見上げるばかりで、微動だになさらなかったので。あの状況で防衛行動も取らないだなんて、果たして本当にお屋敷でやっていけるのだろうかと当初は不安でしたが」
「悪かったな。……あの時は、あんたが強くて驚いたんだよ」
「強いか否かはともかく。たとえ攻撃的な個性を持たずとも、戦闘方法はいくらでもあります」
凛とした清らかな声だった。彼女と目が合えば、そのブラウンの瞳に吸い込まれそうだとありもしないことを考えてしまう。
「ジュリオ」
「……は、い」
「今度こそ舌を噛まないようにお気を付けて」
「は?」
急に手を引かれ、俺は彼女と共に駆け出していく。次の角を曲がった先にあった赤いバイクに、何の躊躇いもなく乗った横顔を見て唖然とする。備え付けられていたらしいヘルメットを手渡されたので、反射的に受け取ってしまった。
「では参りましょうか」
「いやどこにだよ!?」
「当然、買い物です。お付き合い頂けるんですよね?」
「……ッ! ああ。とことん付き合ってやる」
「良いお返事です。では後ろにどうぞ」
初対面で混乱していた時とは異なり、意識的に彼女の腰を掴むのに少々抵抗はあったが。そんな微かな戸惑いさえもぶん殴られるような急発進に、俺は自然と思考を放棄していた。
実際、シェルビーノ家の周辺には小さな住宅街が並ぶばかりで、最低限の日用品や食材くらいしか購入できない。だからそれなりの物を買うためには、それなりの交通手段を使って遠くへ行かなければならないのだろう。ゆっくりと考えれば理屈は理解できるのだが、何の説明もないまま突拍子のない行動をするものだから、俺はいつだって彼女に振り回されっぱなしだった。
「ジュリオ、これはどう思います?」
それにしたって、今回こそ本当に訳が分からなかった。大きめのショッピングストリートにて、いかにも女子向けな雰囲気の雑貨店に連れ込まれたかと思えば、彼女は真っ赤なリボンを両手に持って見せてくる。
「……あんたが着けるにしては、少し派手すぎるんじゃ」
「そんな訳がないでしょう。これはお嬢様に差し上げるものです」
「ああ、成程」
納得し、理解した。彼女の行動原理はいつだって、シェルビーノ家のお二人のためにあるのだ。
「だがお嬢様は、こういう色の装飾品は持っていなかったような」
「ええ。あなた様と出会う前までは、明るいお召し物を着る気分にさえならなかったそうです。しかし現在は一時的であっても無個性でいられる瞬間があり、気持ちも明るくなったからと。そう仰っておりました」
「……そう、ですか」
嬉しさのあまり、ついそっぽを向いてしまった俺を見てか、彼女の雰囲気が僅かに柔らかくなったような気がした。
「ええ。なので旦那様は本日、お嬢様のために新しくドレスを誂えようと張り切っておいでで」
「……なら、あんたの分も一緒に作ってもらえば良かったんじゃねえか?」
気付けばそんなことを口にしていた。こんな場所に生まれて初めて来て、俺のお陰でお嬢様が前向きになったと言ってもらえて、少々浮かれてしまったのかもしれない。
そう思った時には、痛い程に鋭い視線が飛んできていた。だがこちらだって、一度口にしたことを引っ込める気は更々なかった。嘘を吐いている訳でもないし、後ろめたく思う必要もないだろう。
「発想が飛躍しすぎでは? もし旦那様からそのような申し出があったとしても、丁重にお断りしますし」
「何でだよ」
「あなた様こそ、何故そんな無駄なことをお考えになるのですか」
「似合うと思うからだろ」
「……念のためお聞きしますが、誰に、何が似合うと?」
元々俺に対しては無感情を貫く彼女の声に、僅かばかり冷ややかな色が滲んでいくような気がした。一瞬怯むが、先日もお嬢様と旦那様の前で叫んだ身だ。何も怖くない。それに、何か至らない点があれば叱咤しろと言ったのは本人なのだから。
「あんたに、ドレスが似合うと思った」
「思って頂くのはご自由にどうぞ。それで、こちらのリボンはどう思いますか?」
「話を逸らすなよ」
「そちらこそ、不必要な話題を振らないでくださいまし。今はお嬢様へのプレゼント選びが最優先です」
互いに一歩も譲らないといった空気で、睨み合う。気付けば周囲の客や店員からも注目を集めているようで複数の視線が集中していた。彼女はそれでも、大事そうに持ったリボンを俺に見せつけてくる。……あー、そうだな。俺の負けだよ。認めてやる。彼女の頑固さには敵わない。
さり気なく視線をぐるりと動かせば、初対面の時も今日も俺を颯爽と運び去っていった、あのバイクと同じ色の髪飾りを見つける。
「……今持ってるそれは、少し子どもっぽすぎる気がする。あっちの方が良いんじゃねえか」
きょとんとしたように真っ直ぐこちらを見てから、彼女は頷く。指差した先にあったカチューシャに似たそれは、現在お嬢様が身に着けているものとデザインも似ていて、きっとお二人の好みにも合っているだろうと思った。
「確かに、お嬢様がお好きなタイプのデザインかと。ではこちらを買ってまいります。お店の前で待っていてください」
「いや俺も一緒に……、あ」
「あなた様がお給金を頂くまでは、お気持ちだけ頂いておきます」
未だ勤め始めたばかりの新人は、上司でもある彼女の言葉に頷くことしか出来なかった。項垂れつつも、丁重な包みを抱えた彼女が帰ってくるのを見て、自然と頬が緩んでいく。
確かにモノトーンのメイド服も十分に似合っているが、ドレスで着飾った姿だって綺麗だろう。……いや、何でこんなこと考えちまうのか分からねえけど。そもそもここでわざわざ盾突くような真似、する必要がなかったんだろうけど。
でも、つい口を出したくなってしまった。彼女の言動には一切の感情が無いようにも見えるが、時折ほんの僅かばかり、寂しそうな色を滲ませるような気がしていたから。それを勝手に感じ取って、勝手に頭に血を上らせて、勝手に自分の意見を言っちまうのはまあ、多少は反省していたが。
そのまま店からバイクを停めた駐車場に戻るまで、最低限の会話をする。彼女曰く、シェルビーノ家の使用人が用いる独自の情報網や武器屋などがあるらしく、もう少し仕事に慣れてきたら教えてくれるだとか。お嬢様の個性は年々自然と成長していくから、俺の個性もどうすれば無理なく成長させられるか試してみるつもりだ、とか。……自分のことは一切省みないくせに、やはり他人のことばかり気にするんだなと、俺は相槌を打ちながら目を細めていた。
「雨がきますね」
「え? 今は晴れてるよな」
「経験と勘によるものですが、恐らく確実かと」
ちょうど駐車場に着いたタイミングで、彼女がバイクの荷台からビニールシートを素早く取り出す。車体に被せて手慣れたように固定し、包みを左手で大切そうに抱えてから、俺に向かって右手を差し出した。元々逆らう気は無かったため僅かに躊躇いつつも手を重ねる。案の定、急に駆け出した彼女に追いつくように俺も必死に足を動かした。
ちょうど近くにあったカフェに入ると同時に、ザァッと扉の外で音が鳴る。夏の午後に時折遭遇する、夕立だった。まるで予言者のようだと唖然としながら彼女の背中を見ていれば、いつの間にやら店員と会話をしていて席に案内されている。振り返った彼女に小さく手招きされた。
「ちょうど窓際が空いているようです。行きましょう」
「……ああ」
雨は嫌いだった。周りの大人たちの機嫌が悪くなって殴られるから。同年代の子どもからは、赤毛が不吉だから天気が悪くなったんだと陰口を言われ、虐められたから。生まれつき尖った歯も、鋭い目つきも、気持ち悪いとついでのように罵られるから。
「ジュリオ」
ハッと意識が浮上する。席に座って窓から雨を眺めていたら、いつの間にか思考が悪い方向に捻じ曲がっていたらしい。
「……悪い。何か言ったか?」
「いえ、たった今呼びかけただけです。少し顔色が悪いように見受けられますが、病院にでも参りますか?」
「いや、そういうんじゃねえ。気にする必要もねえ」
「そうですか。……ここは紅茶が美味しいんです。良かったら一緒にいかがです?」
「……ああ、頼む」
「ではお言葉に甘えて」
注文を終えてから、彼女はじっと俺を見つめる。雨を見る気分にもなれなかったから、俺も自然と彼女の方に向き直っていた。こちらの様子を窺うような透き通った瞳を真正面から見ることも出来ず、すぐ視線は自分の膝に落としたが。
「……お嬢様は、昔から赤色がお好きでいらっしゃるんです」
「え?」
「あなた様がいらしてからは、余計にその傾向が強くなったようで」
「……なん、で」
「分かりませんか?」
ようやく彼女と目を合わせる。そこに責めるような意思はなく、ゆっくりと俺の返答を待ってくれているのだと理解した。
自惚れでなければ、さっきも考えていた通り、俺の髪の色だから、だろうか。……俺が個性を使う度に楽になれるお嬢様の立場からすれば、確かに嫌う理由は無いだろうが。
「ここで答え合わせをするのは、野暮というものでしょう。……ただ、あなた様が何の迷いもなく赤色の髪飾りを選ばれたので、少々驚いたのです」
「あんたのバイクと同じ色だろ」
「ええ、そうですが。まさかとは思いますが、それが理由とでも?」
「悪いかよ」
「……いいえ、光栄です。実際、私が個人的に赤を美しいと思うからこその選択ですし」
「美しい、ね」
「おや、ご不満な様子ですね」
「……別に、そういう訳じゃ」
すると、店員がティーポットとカップを運んでくる。砂時計が落ちたら自分で注げ、ということらしい。こんな洒落たカフェで茶を飲むことさえ初体験の俺は、正直何が何やら分かっていなかったが。
「美味しい紅茶をお淹れするのも使用人の務めです。もう少し本業務に慣れてきたら、改めて教えて差し上げましょう」
「……はい」
「そういえば、紅茶も綺麗な赤色をしていますね」
「……そうだな」
「おや。茶葉と向き合う度にそのような顔をなさっていては、お嬢様も旦那様も心配なさいますよ」
彼女は優雅な動作で、二人分のカップに透き通った赤い液体を注いでいく。言われずとも自分が情けない顔をしているのは分かったから、彼女の手元をじっと眺めながらゆっくりと口を開いた。
「自分の髪の色。……正直嫌いなんだよ」
「そうでしたか。私も自分のことは何もかも嫌いなので、気持ちは分かりますが」
彼女が一個人として、自らの思考を口にするのは、少なくとも俺の前では初めてのことだった。その言葉の意味を探るべく顔を上げたところで、手を止めた静かなブラウンの瞳と目が合う。
「ならば、あくまで個人的な感想のみ申し上げましょうか。私は、あなた様の髪が美しいと思います」
「……は」
確かに彼女は、わざわざお世辞を口にするような人間ではない。それは頭で理解しているのに、素直に受け止められるだけの心の余裕が、今の俺には存在しなかった。
「何で、そんなこと言うんだよ」
「あくまで私の主観的な、一個人としての気持ちだからです。……ああ、そういえば。日本語には紅雨という言葉があるのをご存知ですか?」
「コウウ?」
「ええ、赤い雨という意味の字で構成された言葉なのですが。……日本語や日本文化に関して、過去に少々教わる機会がございまして」
昔を懐かしむような声だった。何で教わったんだ、なんて聞くのも野暮というヤツだろう。それよりも彼女が何を言うのか興味があった。
「……それで?」
「世界が華やぎ色づき始める、春の季節。花に降り注ぐ雨のことを、日本では紅雨というそうです。それだけ春の雨は美しく、赤とは恵みをもたらす色の代名詞なのでしょう」
「……」
「イタリアでは太陽を黄色で表しますし、実際この街も夕暮れになれば、黄金に照らされた街などと呼ばれますが。……日本では朝焼けや夕焼けという言葉がある程、太陽によって世界が赤く照らされる景色に対して、古くから美しさを見出してきたそうですよ」
先程まで、やさぐれて捻くれた思考で頭の中がぐちゃぐちゃだったのに。彼女の静かな言葉の一つ一つが、俺の心をそっと解きほぐしてくれるようだと思った。何故だか息苦しくなって、胸の奥が痺れる程に痛む。
「……それで結局、あんたは何が言いたいんだよ」
他でもない彼女が、俺のために言葉を尽くしてくれているようだと勝手に勘違いしてしまいそうで、つい気持ちが逸った。同時に、彼女の口から前向きな言葉を求めてしまう自分がいることに気付き、餓鬼かよと内心項垂れる。
「私の主観的な感情の根幹にある、客観的な根拠を提示した方が宜しいかと思いまして。……ジュリオ」
大人が子どもを諭すように、彼女が俺の名前を呼ぶ。真っ直ぐで綺麗な指先が、壊れ物を扱うかのごとくそっと、俺の頭に触れた。
「あなた様の髪は、美しいです」
世界から、全ての音が消えたようだと思った。それ程に俺の全神経が目の前の彼女に集中していたのだと、指先が離れていくのを見てようやく気付く。理由の分からない羞恥心に突き動かされるまま、俺はそっぽを向いた。
「……どうも」
「いいえ。さて、雨も上がりそうですね」
入店時に比べたら、明らかに俺の心は晴れていた。我ながら単純だとは思ったが。
自然と目に入った窓の外では、ポツポツと上がり始めた雨と共に、遠くで淡い虹が架かっていくのが見えた。
虹を見たら幸せになれる、なんて眉唾物の話を思い出す。以前までは馬鹿みてえだと切り捨てていた話を、今の俺は必死に握り締めてみたくなっていた。
無感情で無感動なその横顔が、今まで見てきたどんなものよりも、綺麗に見えちまっていたから。こんな些細で彼女にとっては何でもないであろう光景を、俺は永遠に忘れないのだろうと予感してしまったから。