あれ以来ずっと彼女に指導を受けながら、俺は日々トレーニングに励んでいた。
身体の鍛え方、武器の扱い方、個性の特訓方法、裏社会にも通じる商人との取引の仕方。ありとあらゆる内容に関して、容赦なく的確にアドバイスをする様は常に凛としていて、いつだって悔しいくらい綺麗だった。

初対面から十年以上経ち、大人になった今はさすがに理解している。俺が彼女に向ける感情は一体何なのか。だがその正体を自覚したところで、直接打ち明ける気など毛頭なかった。
何故ならば俺たちはシェルビーノ家の使用人だから。ひとたび仕事着に袖を通したならば、お仕えするお二人のために生きることを最優先にするべきだから。それを教えてくれた彼女の前で、俺個人の私情を挟むなど以ての外だから。

彼女に美しいと言ってもらったから、毎日髪の手入れを欠かさなかった。かつて彼女に髪ゴムを貰ったから、毎日できる限り丁寧に結い上げた。彼女と共に初めてお茶を飲んだ日から、雨が嫌いじゃなくなった。
彼女にたくさんの物事を教えてもらったことで、俺の世界は鮮やかに晴れやかに広がっていった。俺には勿体ない程に、たくさんの思い出をもらった。

俺は一度も彼女を笑顔にさせたことは無いし、彼女がよく夜中に旦那様の部屋で過ごしていることも知っていたし、自分の想いが成就する訳がないことを理解していた。だがそれで良かった。
ヒーローのように颯爽と現れた彼女によって救われたあの日から、俺は、彼女の生きる世界で息が出来ているだけで充分だと思えたから。シェルビーノ家のお二人にお仕え出来るだけで、幸せだと感じられたから。

だが、今回ばかりはどうすればいいのか分からず、俺は廊下で一人立ち尽くすばかりだった。

───もしもの時は……私が、私でいられるうちに……。

殺して、と。夜闇に浸ったベッドの上で、お嬢様は泣きながら懇願するように、俺に言った。

年々強大さを増していくお嬢様の個性を、俺は上手く抑えることすら出来ていなかった。その事実を察しながらも、彼女からの指導のもと必死にトレーニングに励んでいたというのに。
最近は個性が発動する度に意識が朦朧とするのだと。自分が自分でいられなくなりそうで怖いのだと言う、大切なお嬢様に対して。俺は本当に、他に何も出来ないというのだろうか。

「ジュリオ」

意識がハッと掬い上げられる。気付けば目の前に彼女がいて、俺の様子を吟味するように目を細めていた。薄暗い廊下の隅でも、相変わらずその凛々しさは際立っていた。ブラウンの瞳に何もかも見透かされてしまいそうで、つい目線を逸らす。

「……メイド長、お疲れ様です」

ここ数年、俺は付きっ切りでお嬢様の個性因子を相殺することに注力していたから、あの頃のように二人で出かける機会など無かった。己の立場も弁えた現在は、まさか勤務中に「あんた」等と呼べるわけもない。
いざ実際に彼女の名前を呼んでしまえば、未だに全容が分からない感情が溢れてしまいそうで、役職で呼称する術しか知らまいままだった。

「顔色が悪いですよ。横になった方が宜しいかと」
「……いえ。今は少し、身体を動かしたい気分なんです。何か仕事を頂けませんか」
「そうですか。……これから花瓶の水換えを行う予定だったのですが、ご一緒にいかがです?」
「ぜひ」
「では参りましょう」

キビキビと歩き始めた彼女に従って、俺も足を動かした。いつもは突き放されたように感じる彼女の無感動な言動が、今だけは有難かった。
お嬢様が悲痛な思いを託してくれた唯一の人間として、いくらお嬢様と付き合いの長い彼女相手とはいえ、おいそれと相談して良い内容だとも思えなかったからだ。

屋敷中に活けられた真っ赤な薔薇の花瓶を、彼女は一つ一つ大事そうに抱えて作業を進める。俺も近くの花瓶を手に取り仕事をしながらも、つい視線が彼女に吸い寄せられるのが分かった。

「そういえば、お嬢様が赤い色をお好きな理由について、かつて少々お話しした記憶がございますが」
「ああ。……懐かしいですね。確かメイド長は、結局答え合わせをしてくださらなかったような」

初めて二人で出かけて、夕立に包まれたカフェの中で紅茶を飲みながら、たどたどしく言葉を交わした。今でも昨日のことのように覚えている。
旦那様やお嬢様と過ごしていると穏やかで柔らかな感覚を得られるのに、彼女の前ではどうにも、いつだって、胸の奥が鋭く激しく暴き立てられるような醜い感情を抱えてしまうのだ。

「野暮だから、と申し上げたでしょう。……それに、あまり外でお屋敷内のお話をするのは避けたいのです。今ならばあなた様もお分かりでしょう?」
「はい、それは勿論」

シェルビーノ家が、表の世界でも裏の世界でも有名なことは既によく知っていた。資産家として慈善事業を行い、観光業に貢献して街の人々から慕われる一方、マフィアや犯罪組織から資産や名声が狙われており、だからこそ彼女は戦闘能力を鍛えているのだ、とも。
近頃お嬢様の個性が裏社会で噂になっているのだと、彼女が共有してくれたのも記憶に新しい。どうやら「お嬢様の適合者になりさえすれば、個性の強力な増強に繋がる」という情報を巡り、シェルビーノ家を嗅ぎまわっている連中がいるとのことだった。

個性に苦しんでいたお嬢様を救うべく、かつて旦那様が彼女や俺を探す過程で口外した内容が、今になって都合のいい情報として利用されているらしい。苦々しく口にした彼女に共感し、俺もまた腹の底がズシンと重たくなるような心地だった。善良なお二人を利用し害そうとする輩がいるというのは、想像しただけで気分が悪い。

「これは、旦那様から許可を頂いているのでお話し致しますが」
「はい」
「……亡くなられた奥様は、赤い薔薇がお好きだったそうです。花を咲かせる個性をお持ちだったこともあり、水の個性を持つ旦那様と共に薔薇を育てられていたとか。私がお屋敷にやってきた頃は今以上にたくさん咲き誇り、とても綺麗な光景でした」

無表情ながらも懐かしむような色を浮かべた瞳に、また目を奪われる。息が止まっていたことに気付いて、内心僅かに慌てた。

「……だからお嬢様は、赤がお好きだったんですね」
「ええ。より正確に申し上げれば、あなた様のお陰で再び好きになることが出来たのでしょう」
「再び……?」

つまり俺と出会う前、お嬢様は一度赤が好きではなくなったということだろう。何故なのか、と思考を巡らせた時、一つの答えに行きついてハッとする。
あの旦那様が奥様を蔑ろにするとは思えず、肖像画や写真くらいあっても良いはずなのに、目につく範囲では一切見当たらなかった。つまり、お屋敷の中で奥様の存在を感じるものは極力排除されているのだろう。
赤が好きでなくなったお嬢様と、赤い薔薇がお好きだった奥様。その二つの事実を繋ぐものがあるのだとすれば。

答え合わせをするべく彼女を見れば、俺の思考を覗き込むように眉を上げていた。

「……奥様は元々、病弱でいらっしゃったのです。ただでさえ出産によるご負担が大きかった上に、お嬢様の個性の効果が重なってしまったのだろうと、旦那様は仰っていました」
「……もしかして、出会った時にあんな暗い色の服を着ていたのも」
「恐らく、責任を感じていらっしゃったのだと思います。喪服として着ていらしたのかと。しかしあなた様がお屋敷に来て、一瞬でも無個性になれる事実を知り、お嬢様はようやくご自身の過去に向き合うことが出来たのでしょう」
「そんな……負い目に感じる必要なんて、ねえのに」

やりきれない気持ちが溢れてつい口調が崩れてしまったが、彼女は指摘することなく頷いた。

「仰る通りです。旦那様も同じことを言っておられます。……しかし、私には分かってしまいました」

一度言葉を区切った彼女の顔が、やけにいつもより影を帯びているような気がした。そのブラウンの瞳に光が無くとも、彼女を構成する全てのものがひどく玲瓏で妖美で、毒々しい程に華があった。

「人間には、産まれただけで背負う罪が存在します。そして、生きているだけで一生自分に付きまとう罪もまた、存在するのです」
「……それは、どういう」
「しかしどのような罪を犯しても、必ず贖う機会は与えられます。あなた様ならば十分理解なさっているでしょう。……だからこそ、ジュリオ。お嬢様のことは頼みましたよ」
「……ッ」

まるで先程の出来事を見透かされているような口ぶりに、ドッと汗が吹き出していく。

もしも俺がお嬢様を殺す選択肢を選んだとして、一体あんたはどう思うんだ。その罪を贖えると本気で思っているのか。そもそも、あんたが意味ありげに語る罪って何のことを言ってるんだよ。何で俺にはいつも肝心なことを話してくれねえんだ。

爪が掌に食い込む程に拳を強く握り締めてから、深く項垂れる。

「仕事は全て終わりましたね。これで私は失礼いたします」
「……はい。おやすみなさい」

彼女が軽く会釈をした後、足音も立てずに離れていく気配がした。俺は情けなくもそのまま廊下に座り込んで、膝を抱えるように俯く。

一睡も出来ないまま迎えた翌日も、それ以降の日々も。たとえどんな苦悩を抱えることがあろうとも、俺はお嬢様の個性を抑えるべく努力しながら、シェルビーノ家の日常は穏やかに過ぎていくものだと───そう信じていたというのに。



次の日の夜。突如として、シェルビーノ家の屋敷が燃えた。
怒号が飛び交い、発砲音が鳴り、噎せ返るような血の臭いが広がり、……自分と彼女以外の全ての気配が消え、お嬢様が何者かによって連れ去られてしまった。

ああ、俺は大切なお二人を守ることさえも出来ないのかと、暗澹たる激情が渦巻いていた。
瓦礫に身体の大半が押し潰されて、ありとあらゆる激痛が脳天を突き抜け、意識が朦朧とした状態であっても。俺は血を吐きながら、目の前で凛と立つ彼女の背中を見つめていた。誰よりも最後まで戦い抜こうとする俺のヒーローを、ただ見上げることしか出来なかった。

「やあナマエ、久しぶりだね。もうこんなに大きくなったのかい」
「軽々しく名前を呼ばないでくださいまし」

敵のリーダーらしき男から話しかけられて、憤怒を露にする後ろ姿さえも眩しく、カッコよく、美しかった。こんなことを考えている暇があるならば助けに入りたいのに、今だって手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、それさえも出来ない己の無力さが情けなくて仕方が無い。

「そんな、つれないことを言わないでくれ。俺たちは立派な親子じゃないか!」
「立派な親が、幼い子どもをゴミのようにスラム街に捨てるだなんて、随分と愉快なお話だとは思いませんこと?」
「捨てた? いいや違うね! あれは君のためを思ってのことだったんだよ。現にこうしてまた運命的に巡り合えたじゃないか! 最初にナマエがシェルビーノにいると知った時は驚いたさ。まさに奇跡だ!」
「……ッ! ふざけないでください! あなたは昔、私に何と言ったか覚えていらっしゃらないと!?」
「昔……? ああ。確か君のために、愛らしいドレスを誂えたこともあったね」
「無個性だと判明し、ゴリーニにとっての利用価値が無いと知ったあなたは! 私を! 出来損ないのホムンクルスだと罵った!」

彼女は吠えた。本能的な感情を獣のように顕にしながら、銃口をキッチリと相手に向けていた。
彼女の悲痛な思いが滲んだ言葉を浴びた俺もまた、心臓が千切れてしまいそうな心地だった。……そうか、あんたが言っていた罪っていうのは、このことだったのか。

「あの時の私は、君の価値を知らない愚か者だったんだ。気に触ったならば謝ろう。ナマエ、すまなかった! だが今は状況が違うだろう? これからは、共にアンナを守るために結束しようじゃないか!」
「あなたは……ッ、旦那様を手にかけておいて、どの面を下げて!」
「必要な犠牲だったんだよ。この世界を、俺が守り抜くためにはね。……それに、アンナの心を開いてくれる個性の持ち主が、適合者の中にいるとも限らないだろう? ナマエがいてくれたら、いざという時にも安心だ。違うかい?」
「……もしも、ここで私が断ったら?」
「そこにいる、唯一の生き残りの彼も根絶やしにしてみせようか」

男の人差し指が、ビシッと俺に向けられた。彼女もまた、俺に素早く目をとめる。いつもは努めて無感動を貫いているであろう顔が、ぐしゃりと歪んでいた。

やはり彼女は、感情を表に出しても美しいままだった。

十年以上ずっと、毎日暇さえあれば見つめていたから理解する。彼女は今、本気で怒り、悲しみ、苦しみ、悩んでくれている。俺とお嬢様と旦那様の全てを天秤にかけた上で、あらゆる選択肢を吟味して、決断しようとしてくれている。……それだけで充分だった。

「───ナマエ!」
「……ジュ、リオ」
「今お嬢様を傍で守れるのは、あんただけだ! 悩むな! 迷うな! 俺には、構うな……!」

ガラガラと情けない声をしているのが自分でも分かった。右目も潰れているからさぞや情けなく、みっともない姿を晒していることだろう。
しかし彼女は俺の言葉を真っ直ぐと受け止めて、ゆっくりと頷いてくれた。そのまま俺の方を向き、相手に背中を晒しながら口を開く。

「……分かりました。お嬢様をお守りするために、あなたについていきます。その代わり、今ここで彼の手当てをしても?」
「ああ、構わないとも。無駄だとは思うが、怪しい動きをしたら分かっているね?」
「承知しております」

彼女が素早く駆け寄ってくる。俺に伸し掛る瓦礫を持ち上げて、メイド服のスカート部分を大きく手で引き裂いて、特に具合が酷いのであろう腕と脚の止血を施してくれた。
傷跡や火傷跡が広がる脚を視界の隅に置きながら、今の俺が彼女に何か言ってやれるのだろうか、なんて自惚れた愚かな思考に支配される。

「……ジュリオ、」
「あんたの言いたいことは、分かってる。……これ以上何かしたら、自分の身に危険が及ぶぞ」

もしもの時に何をすべきか。既に彼女から徹底的に叩き込まれていた。まずは裏社会と繋がりのある情報屋のもとへ行き、万が一の場合に託していたと聞く諸々の書類を預かると決めている。

「私の身など、どうでもいいのです。それよりも、これからは義手や義足が必要になるでしょうから、こちらで手配をしておきます。携行食や水分もしばらくは保つでしょうが、」

震えながらも無感動な声を作ろうとする彼女は、やはりいつも通り人のことばかりだった。こちらの声も震えていることを自覚しながらも、こんな時でさえ不器用でいじらしい彼女に向かって叫ばずにはいられない。

「あんたは少しくらい、自分のことを考えろよ!」
「私は徹頭徹尾、シェルビーノ家の使用人として己の全てを捧げる覚悟を決めておりました。しかし本日、この身に流れる血が、よりにもよってお嬢様を傷付け、旦那様の命を奪ったのです。……こんな女のことなど、どうでもいいではありませんか」
「どうでもよくねえ! あんただってシェルビーノ家の一員だろ!」
「私に、その肩書きを名乗る資格は、もうございません」
「それを決めるのはあんたじゃない! それにお嬢様にとって、これからはあんたが傍にいることが唯一の希望になる! 救いになるじゃねえか!」
「……ええ、そうであればと願っております。しかし私は、自分自身の存在を赦すことが出来ないのです。決して」

そのブラウンの瞳に、光は無かった。口を動かしながらも一通り処置を終えた様子の彼女が、太ももに身に付けていたレッグホルスターから杖を、ポケットからいくつかの薬を取り出した上で、俺の傍に置いた。

「これからあなた様がどのような行動を取ろうとも、私は止める気などございません。……しかし、ゆめゆめ無理はなさらぬよう。お嬢様が心配なさいますから」

彼女が立ち上がり、俺に背を向ける。ああ、行ってしまう。幼く粗暴な餓鬼を救ってくれたヒーローに対して、何もしてあげられない無力感に苛まれながら、俺は、薄れゆく意識の中で歯を食いしばった。

「……ッ、ナマエ!」
「……はい」
「俺は、あんたのことも、救いたい……!」
「……お嬢様のことはお任せください。ですが私のことなど、金輪際お忘れになった方が宜しいかと」

彼女の声に、いつになく様々な感情が宿っていることを、俺は感じ取る。心臓が捻じ切られそうな程に甘く苦く寂しく痛むのを痛感しながら、薄れゆく意識の中で、たった一つだけを願う。
いつか彼女の笑った顔が見たい。かつてお嬢様とも語り合った夢を、悲哀に満ちた血の海に沈みながら、ただ一人きりで祈り続けていた。