黒薔薇の開花
目が覚めたら、俺は見知らぬ手術台の上にいた。
あの夜の言葉を彼女は即座に有言実行してくれたようで、義手も義足も義眼も、装着直前の状態でしっかりと準備されていた。傍にいた闇医者は、事前に報酬は受け取っているからと軽快に笑った上で、俺から全てを奪っていったゴリーニファミリーについて、気前よく答えてくれた。
曰く、ゴリーニはヨーロッパ圏最大の犯罪組織であること。
曰く、彼女はゴリーニの現ボスの血を引いているということ。
曰く、彼女の母親は日本人であり、かつてボスから親子共々捨てられたこと。
曰く、彼女はゴリーニの血縁者の証である銃を持っていたため、裏社会の連中は全員快く協力していたこと。
思えば確かに裏社会に通じる商人や情報屋は、俺がシェルビーノ家の使用人と知るや否や、いつも惜しみなく対応してくれていた。以前疑問に感じた時、彼女は「旦那様もご存知のコネがあるだけです」と言うばかりだったが、彼女自身の出自が関わっていたのかと納得する。
それを旦那様が知らない筈もないし、夜な夜な二人で合っていたのもその秘密が関わっていたのかもしれない。……俺は本当に、大事なひとたちについて何も知らないままだったんだなと痛感して、無力感に苛まれるばかりだった。
その後、迅速に手術は行われた。結果的に右目は見えず、右腕も左脚も最初はマトモに動かすことさえ出来なかったが、それでも命は繋がった。俺は再び彼女に命の危機を救われ、返しきれない恩を抱えることになってしまったのだと思い知る。
それなのに「金輪際忘れろ」だなんて酷いことを言うなと、自嘲するように笑ってしまう。忘れられる訳がない。
初対面から今の今まで、俺の心に鮮烈で甘やかな爪痕を残し続けてきたくせに、「あんたを救いたい」という言葉さえ受け取ってくれなかったくせに。
いつだって自分のことを省みず、不器用で懐が深くて優しくて強くて、それでいてひどく繊細であろう心を必死に隠そうとする憧れのひとを、忘れたいだなんて思う訳がない。
───もしも万が一、シェルビーノ家に何かあった際、まずは此処へ来てください。
言いつけ通り、俺は裏路地の一画に居を構える情報屋のもとへと足を運んだ。あの夜に彼女から預かった杖をつきながら歩く姿は我ながらみっともなかったが、不愛想ながら仕事の早い店主は全く動じない様子で俺を迎え入れる。
一度きりしか訪れていない筈だが、男は何の迷いもなく俺の立場を言い当てた上で一つの鞄を持ってきた。やはり彼女が裏社会に精通しているというのは真実らしいと確信を深めたところで、鞄の様子を観察する。
相当高価そうな革製の黒いショルダーバッグで、開け閉めする際に使う留め具には鍵がかかっていた。その形にピンときたためポケットから薬瓶を取り出す。
あの夜、彼女が俺に託したものの一つだ。蓋が底になるように引っくり返し、ペットボトルの蓋を開ける要領で瓶を回した。カチッと音を立てて上下に分離させれば、本来は何もないガラスのように見えていた側面の隙間から、小さな鍵が滑り落ちる。
全て、事前に彼女に叩き込まれていたことだった。薬瓶に偽装しておけば治療の一環とみなされ見過ごされるだろうと涼しく言っていたが、まさしく想定通りだったという訳だ。……分かっていたことだが、やはり何もかも敵わない。
中身を見るのは腰を落ち着けてからにしようと、情報屋を後にする。俺に義手義足をつけてくれた医者がしばらくベッドを貸してくれると言うから、今は大人しく従っておくことにした。
無理に動いて傷口を広げて無様に野垂れ死ぬくらいならば、万全の準備をして今後に備える方が有意義だと、きっと彼女もそう言ってくれるだろう。本音を言えば今すぐ此処を飛び出して二人を探しに行きたかったが、「お嬢様はお任せください」と他ならぬ彼女がそう言ったのだから、俺はその言葉を信頼し、自分の成すべきことに注力すべきだと思った。
歩いてすぐの場所にある薄暗い寝床に戻り、鞄の中身を確認する。真っ先に目についたのは赤い通帳とキャッシュカード、そして茶封筒に入れられた手紙だった。
中身の予想がついた通帳から確認すると、そこには俺名義のとんでもない金額が記載されていた。間に挟まっていた小さな便箋には、旦那様の字で「ジュリオへ。少しでも君の役に立つことを祈っている」と書かれている。本当に、非の打ち所がない方だと感嘆すると共に目頭が熱くなった。
しかし、こんなところで泣いてはいられないと咄嗟に上を向いてから、腹の底から迫り上がってくる感情を必死に押し殺す。お嬢様と彼女は今も辛い状況に置かれているのだから、俺がここで感情的になってどうする。しばらく天井を仰いだ後、今度は封筒に手をつけた。
表に書かれた宛名は、紛れもなく彼女の字だった。大きく丁寧で美しい字に彩られた「ジュリオ・ガンディーニ様」が、自分の名前なのにやけに眩しいものに見えて仕方が無い。
封はされていなかったため、そのままゆっくりと慎重に開く。純白の便箋には一切の装飾がなく、黒い文字がびっしりと綴られており、実に彼女らしいと思った。
───ジュリオ・ガンディーニ様へ
今この手紙を読んでいるということは、恐らくシェルビーノ家に醜い魔の手が迫ったのでしょう。本来ならば私が全てをお守りすべきところ、あなた様に重荷を背負わせる事態となってしまい、大変申し訳ございません。
旦那様があなた様へ託した資金は、どうぞご自由に。
戦闘力を底上げするためのサポートアイテムに使うもよし、あなた様が別の人生を歩むための資金にするもよし、シェルビーノ家のために使うもよし。あなた様の意思を尊重したいと旦那様は仰っていましたし、私も心からそう思っております。
餞別として、私のバイクを差し上げましょう。
かつてあなた様と初めて出会った時にも、初めて二人で買い物へ行った時にも乗っていた愛車です。鍵と場所は、あの雨の日に入ったカフェの店主に託しておりますので。
もし不要であればご放念ください。お役に立つのであれば、お好きに改造なさってください。
ジュリオ。あなた様はいつだって目の前の相手に誠実に向き合い、時には叱るという判断も下せる強い方です。過去にあらゆる人から傷付けられてきた経験をも、他者に優しさとして分け与えることの出来る、懐の深い方です。
お嬢様にとっても、旦那様にとっても、まさにあなた様はヒーローのような存在です。あなた様がこのお屋敷に来てくださってから、お二人はとても朗らかに穏やかに笑ってくださるようになりました。
私では決して成しえないことを成し遂げてくださった。感謝してもしきれません。
たとえ今後どのような決断を下し、どのような結末を迎えようとも、あなた様の人生は、あなた様自身が掴み取ったもの。誰に何と言われようと、誇るべきものです。
ですからどうか、後悔のないように生きてほしいと祈っております。お幸せに。
ナマエ・ミョウジより───
「……こんな手紙を書いておいて、忘れろ、なんてよく言うよな」
ガラガラに嗄れた声はみっともなかった。しかしあの夜以来、細い糸を繋ぐような辛うじての感覚ではあるものの、初めて気力が漲ってくるような気がして、堰き止めていた感情が溢れ出してくるようで、堪えきれずに笑って、泣いた。ああ、あんたの言う通り自由に生きてやるよ。
義手になったことで個性が使えなくなり、すっかり木偶の坊と化した右腕を見下ろす。たとえお嬢様と再会出来たとしても、今は個性因子を相殺することさえ出来ない。俺なんかを取り立ててくださった、旦那様に与えられた役割を全うすることさえも叶わない。
ならば彼女から教えを受けた通り、まずは戦闘力を底上げするのが全ての近道だろう。
俺は顔を上げた。今まで彼女から授かった全ての情報と感情を糧にして、自分自身の目的を果たすために。たとえこれから破滅や地獄への道を歩んでいくのだとしても、彼女が俺の人生を誇るべきものだと言ってくれたのだから。
やってやるよ。お嬢様もあんたも、この手で取り戻してやる。たとえ自己中で無謀だと言われようが、かつて「自分のことは何もかも嫌い」だと言った彼女 に向けて、もう一度だけ手を伸ばしてみたかった。
なあ、それくらいのことは許されるだろ。───ナマエ。
それからは、旦那様から与えられた資金で身体を改造し、彼女から授かったバイクで世界中を旅した。
生憎、情報収集の手段には困らなかった。あの鞄を開けた時の鍵に、ゴリーニの紋章が入っていたことに後から気付いたから。あれさえ見せれば、国を問わず裏社会に通じる情報屋と取引するのは実に簡単だった。
「……敵わねえな、やっぱり」
あの夜について考える度、憎悪の炎で身が焼かれてしまいそうだったから。手紙やバイクなど彼女の痕跡に触れ、お嬢様の写真を見つめながら紅茶を淹れることで、かつての穏やかで平和だった日々を思い出し、俺は何とか平静を保っていた。
それ以外の空き時間は彼女から教わったトレーニングに全て注ぎ込み、常に万全の準備を整えながら国を渡り歩くこと数年。……俺は、ようやく奴らの消息を先回りして掴むことが出来た。彼女に縁のある地である日本にゴリーニが訪れることを知った時は、なんて皮肉だと怒りによって心臓が燃えてしまいそうだったが。
ヴィランにより混乱の渦に巻き込まれていることは認知していたが、中でも日本の治安は相当悪かった。実際目の当たりにすると、その惨状は想定以上だ。
到着したばかりの俺でさえ一度強盗に遭遇し、あまりにも見ていられずショック弾を使い捕獲したくらいだった。もし戦い方を学んだこともない立場だったならば、俺もまた、暴力を恐れて蹲るだけの避難民でしかいられなかっただろう。
スラム街を想起させる程の環境を見て、一体彼女は何を思うのだろうか、とつい考えてしまう。
だがヴィランによる騒ぎは、俺にとって二人の行方を掴むための重要な手がかりだった。ゴリーニファミリーは、各地で世間を揺るがす程の大犯罪を犯しては、痕跡を隠そうともせずに逃亡する奴らである。犯罪が横行する場で騒ぎがあれば、その裏には大抵ゴリーニの存在があった。
あのボスはどうやら、個性の多様性を存分に利用できるくらいの知恵は持っているらしい。胸糞悪いことに、逃亡するには最適な個性ばかりが揃っていることも知っていた。そんなヤツらがお嬢様の適合者になってしまった事実がまた、実に不快で我慢ならなかったが。
彼女が無個性なのに個性の成長方法を熟知していたのは、個性に対して異様に執着するアイツの影響だったのかもしれない。それならば、俺に色々教えてくれた間に口数が少なくなるのは納得だった。彼女の古傷を抉っていたのかもしれないと後悔する前に、今は成すべきことを成すしかなかったが。
バイクと義手に搭載したサポートアイテムを駆使し、犯罪の発生場所にバイクを走らせる。だが期待とは裏腹にそこにいたのは、いかにも低俗で愚劣な犯罪者共と、未だに年若いヒーローらしき少年少女たちだった。捕縛した罪人たちを前に和気藹々と会話している様は、実に緊張感が無く反吐が出る。
ヒーローという職業自体に縁も興味も無かったが、ゴリーニがシェルビーノ家を狙ったのは、元を正せばオールマイトというヒーローに起因している旨の情報は掴んでいた。
ボスがオールマイトに憧れ、強大な能力を求めた結果、お嬢様を攫った上に旦那様の命を奪ったのだと。だからこそ、いくらヒーローが崇高な仕事だと言われようが、既に喪われた命を取り戻すことさえ出来ないのならば、彼らに良い感情を持てる筈もなかった。
にべもなく上から一連の光景を見下ろした後、次の心当たりを探すべく右手でアクセルをひねる。延々とバイクで心当たりの場所を探しながら、徐々に赤く染まっていく街を見下ろす。かつて彼女が夕焼けと呼んでいた太陽の色は、確かに美しいと言っても差し支えなかった。今は心が凍り付いてしまって、自然を綺麗だと思う感覚さえ失ってしまっていたが。
───私が、私でいられるうちに……。殺して。
───私のことなど、金輪際お忘れになった方が宜しいかと。
二つの大事な声が悲痛な色を伴って、いつまでも俺の頭の中をこだまする。情けないことに俺は、お嬢様の懇願に対する答えを未だに持ち合わせていなかった。
数年も顔を合わせていない二人の現状を知らないまま、俺自身の勝手な願望だけで決めて良いことだとは、到底思えなかったから。決断を下すのは、実際に今の二人の様子を見てからにすると、そうハッキリと決めていた。
だが、もし二人の意思が反していたとしたらどうする?
……その疑問に対しても、みっともないことに答えが出せていない。
誰にとっても役立たずでしかなかった俺に、穏やかで温かな日常を与えてくれた、清らかで健気で優しいお嬢様を、……殺す。そんな暴挙を、シェルビーノ家のお二人に全てを捧げていた彼女が許してくれるとは到底考えられない。それがたとえ、お嬢様ご自身の願いだとしても。
「…………ッ」
しかし、決断の時はそのすぐ後にやってきた。お嬢様が、適合者の一人であるゴリーニの輩と共に走って逃げる様を、確かにこの目で目撃してしまったから。どんなに距離が離れていたってすぐに分かる。
悩む間も無く、本能のままにバイクで走り出した。たとえもう二度と言葉を交わすことが叶わなくとも、少しでも大事なひとの傍にいたいと思うのは至って自然なことだろう。
周囲を必死に探っても、彼女の気配だけは確認できないままだった。あのボスが簡単にお嬢様を逃がすとは思えないため、恐らくは彼女からの協力も踏まえた上で逃亡を図ったのだろう。
あの夜以来、お嬢様は何度も何度も個性の発作に悩まされてきたに違いない。シェルビーノ家にいた時でさえ意識が朦朧としていたのだから、因子を相殺する術を失った現在の苦痛は想像に難くなかった。
お嬢様の個性は強力だ。このままゴリーニの連中に使い潰される日々が続けば、暴走して何が起こるか分からない程に。もし自分の個性がキッカケとなり大勢の人々を害する結果に至ったら、お嬢様は苦しむだろう。自分の運命を呪い、自分の存在を何よりも厭うだろう。まるで彼女のように。
銃口を、向ける。俺に対して優しく笑いかけてくれたお嬢様の命を奪うべく。……その時、脳内で凛とした声が響いた。
───手が震えていますよ、ジュリオ。人を撃つ覚悟のない者に、銃を持つ資格はございません。……たとえ、銃口を向ける相手が、自分にとってどのような存在であったとしても。
何でよりによって、こんな時に思い出すんだ。脳内でリアルに揺らめくかつての彼女に向けて、歯ぎしりする。
「それでも俺は……ッ!」
他でもないお嬢様の望みを叶えられるのが、俺以外にいないならば。お嬢様にとって最悪の結末を回避する手段を持つのが、この世に俺しか存在しないならば。
「……ッ、やるしかねえだろ!」
引き金を引いて、撃った。どんなに距離が離れていようとも、バイクを走らせている最中であっても。何度も何度も。
しかし全ての弾は俺を嘲笑うように、ことごとく外れていく。俺の存在に気付いたお嬢様が跪き、あらゆる運命を受け入れるかのように祈るポーズを取ってくれているのに。
こちらの本音を暴き出すかのごとく、弾丸はゴリーニ側の遅延の個性 で全て受け止められた上に、先程見かけたヒーローらしき少年に射撃の邪魔をされた。今を逃せばもう二度と、お嬢様の願いを叶える機会などやってこないかもしれないのに。
少年の個性に腕を捕われたまま、巨大な船を舞い降りる気配を感じて、見上げて───絶句する。己の記憶を幾度も擦り切れる程に手繰り寄せながら、ひどく強く焦がれていた彼女が、かつてと変わらぬ姿でそこにいた。
ゴリーニのボスとお嬢様の後ろに控えながら。俺がどんなに見つめたところで何も返そうとしない、静かで清らかなブラウンの瞳の美しさに、ただただ呆然とする。
「……ナマエ、」
名前を呼ぶだけで、胸が燃え上がるようだった。決して本人には届かない声の筈だったのに、一瞬だけ目が合ったような気がした。
ボスの忌々しく仰々しい声も、ヒーローらしき少年の正義感に満ちた声も、洗脳されたように無表情になったお嬢様の姿も、全てに心臓が掻きむしられるような感覚を覚えるのに。
相も変わらず凛々しく立つ彼女の顔を見つめるだけで、俺は、かつて何も知らない餓鬼だった頃の自分に戻ってしまいそうで恐ろしかった。答えの分からぬ問いに向き合う使命から逃げ、彼女 に縋り付きたくなってしまいそうで、堪らなく怖かった。
俺の目的は、二人を救うことである筈なのに。
少年による捕縛から抜け出した後、迷いを振り払うべくバイクを走らせて、船に向かって飛び上がる。自分の戦闘力では、とてもじゃないがゴリーニの連中に敵う訳がないことくらいは分かっていた。
それでも俺は、お嬢様の望みを叶えるために走らなければならなかった。しかし。
突如として視界の中央に、真っ黒な一輪の薔薇が、現れた。
「ブルーノ」
彼女が、知らない男の名前を呼んでいた。
「かしこまりましたよ、お姫様」
オールバック姿の男がパチンと指を鳴らせば、黒い薔薇の動きが空中で止まる。その花が、シェルビーノ家を誰よりも慈しむ白くしなやかな指先から投げられたものだと気付いたのは、彼女が船からふわりと飛び降りた瞬間だった。
元々の高い身体能力と個性の力が合わされば、まるで天使のような動きまで出来るのかと、こんな状況なのに馬鹿なことを考えてしまいそうだった。
モノトーンのメイド服に覆い隠されていた革製の黒いパンプスが、長く伸びた瑞々しい茎をピンポイントに丁寧に踏む。器用にバランスを保ちながら前傾姿勢を取った彼女が、俺を見据えながら両膝を折り曲げ、脚にグッと力を込めたのを、見る。
間違いなく目が合った。その事実に対する隠しきれない喜びに気を取られた一瞬の隙に、眼前に迫った彼女に胸倉を掴まれていた。相変わらず無感動で、無表情で、綺麗で、愛おしくて。
「ジュリオ。あの時の言葉を、覚えていますか?」
「……なッ」
瞬間、彼女の左脚が俺のバイクを横に吹っ飛ばす。全身に衝撃が走ったところで、ようやく自分が廃墟と化した建物に容赦なく追いやられてしまったのだと分かった。灰色の瓦礫の中で咄嗟に受け身を取ったものの、情けなくもあの日のように意識が薄れてゆく。
だがその最中にも感じていた。俺は今、左手で何かを掴んでいる。ゆっくりと見下ろせば、そこには黒い薔薇があった。彼女の髪と衣服を思わせる、黒くて艶やかで香しく美しい花だった。
「……ナマエ」
彼女のいない場所で、彼女の名前を呼ぶ。たったそれだけの行為でしかないのに、俺の心臓は初めて鼓動を覚えたように熱く脈打っていく。
今の自分が彼女に対して抱いているのが、怒りなのか、憧れなのか、憎しみなのか、哀しみなのか、それさえも分からなくなってきてしまった。
だが確かに俺の全身はナマエ・ミョウジを求めて、アンナ・シェルビーノの救済を望んでいた。
───あの時の言葉を、覚えていますか?
「……あんたと交わした言葉は、全部覚えてるに決まってんだろ」
たとえ今のあんたが敵でも、味方でも。俺はずっと、ずっと。
…………、……………。
あの夜の言葉を彼女は即座に有言実行してくれたようで、義手も義足も義眼も、装着直前の状態でしっかりと準備されていた。傍にいた闇医者は、事前に報酬は受け取っているからと軽快に笑った上で、俺から全てを奪っていったゴリーニファミリーについて、気前よく答えてくれた。
曰く、ゴリーニはヨーロッパ圏最大の犯罪組織であること。
曰く、彼女はゴリーニの現ボスの血を引いているということ。
曰く、彼女の母親は日本人であり、かつてボスから親子共々捨てられたこと。
曰く、彼女はゴリーニの血縁者の証である銃を持っていたため、裏社会の連中は全員快く協力していたこと。
思えば確かに裏社会に通じる商人や情報屋は、俺がシェルビーノ家の使用人と知るや否や、いつも惜しみなく対応してくれていた。以前疑問に感じた時、彼女は「旦那様もご存知のコネがあるだけです」と言うばかりだったが、彼女自身の出自が関わっていたのかと納得する。
それを旦那様が知らない筈もないし、夜な夜な二人で合っていたのもその秘密が関わっていたのかもしれない。……俺は本当に、大事なひとたちについて何も知らないままだったんだなと痛感して、無力感に苛まれるばかりだった。
その後、迅速に手術は行われた。結果的に右目は見えず、右腕も左脚も最初はマトモに動かすことさえ出来なかったが、それでも命は繋がった。俺は再び彼女に命の危機を救われ、返しきれない恩を抱えることになってしまったのだと思い知る。
それなのに「金輪際忘れろ」だなんて酷いことを言うなと、自嘲するように笑ってしまう。忘れられる訳がない。
初対面から今の今まで、俺の心に鮮烈で甘やかな爪痕を残し続けてきたくせに、「あんたを救いたい」という言葉さえ受け取ってくれなかったくせに。
いつだって自分のことを省みず、不器用で懐が深くて優しくて強くて、それでいてひどく繊細であろう心を必死に隠そうとする憧れのひとを、忘れたいだなんて思う訳がない。
───もしも万が一、シェルビーノ家に何かあった際、まずは此処へ来てください。
言いつけ通り、俺は裏路地の一画に居を構える情報屋のもとへと足を運んだ。あの夜に彼女から預かった杖をつきながら歩く姿は我ながらみっともなかったが、不愛想ながら仕事の早い店主は全く動じない様子で俺を迎え入れる。
一度きりしか訪れていない筈だが、男は何の迷いもなく俺の立場を言い当てた上で一つの鞄を持ってきた。やはり彼女が裏社会に精通しているというのは真実らしいと確信を深めたところで、鞄の様子を観察する。
相当高価そうな革製の黒いショルダーバッグで、開け閉めする際に使う留め具には鍵がかかっていた。その形にピンときたためポケットから薬瓶を取り出す。
あの夜、彼女が俺に託したものの一つだ。蓋が底になるように引っくり返し、ペットボトルの蓋を開ける要領で瓶を回した。カチッと音を立てて上下に分離させれば、本来は何もないガラスのように見えていた側面の隙間から、小さな鍵が滑り落ちる。
全て、事前に彼女に叩き込まれていたことだった。薬瓶に偽装しておけば治療の一環とみなされ見過ごされるだろうと涼しく言っていたが、まさしく想定通りだったという訳だ。……分かっていたことだが、やはり何もかも敵わない。
中身を見るのは腰を落ち着けてからにしようと、情報屋を後にする。俺に義手義足をつけてくれた医者がしばらくベッドを貸してくれると言うから、今は大人しく従っておくことにした。
無理に動いて傷口を広げて無様に野垂れ死ぬくらいならば、万全の準備をして今後に備える方が有意義だと、きっと彼女もそう言ってくれるだろう。本音を言えば今すぐ此処を飛び出して二人を探しに行きたかったが、「お嬢様はお任せください」と他ならぬ彼女がそう言ったのだから、俺はその言葉を信頼し、自分の成すべきことに注力すべきだと思った。
歩いてすぐの場所にある薄暗い寝床に戻り、鞄の中身を確認する。真っ先に目についたのは赤い通帳とキャッシュカード、そして茶封筒に入れられた手紙だった。
中身の予想がついた通帳から確認すると、そこには俺名義のとんでもない金額が記載されていた。間に挟まっていた小さな便箋には、旦那様の字で「ジュリオへ。少しでも君の役に立つことを祈っている」と書かれている。本当に、非の打ち所がない方だと感嘆すると共に目頭が熱くなった。
しかし、こんなところで泣いてはいられないと咄嗟に上を向いてから、腹の底から迫り上がってくる感情を必死に押し殺す。お嬢様と彼女は今も辛い状況に置かれているのだから、俺がここで感情的になってどうする。しばらく天井を仰いだ後、今度は封筒に手をつけた。
表に書かれた宛名は、紛れもなく彼女の字だった。大きく丁寧で美しい字に彩られた「ジュリオ・ガンディーニ様」が、自分の名前なのにやけに眩しいものに見えて仕方が無い。
封はされていなかったため、そのままゆっくりと慎重に開く。純白の便箋には一切の装飾がなく、黒い文字がびっしりと綴られており、実に彼女らしいと思った。
───ジュリオ・ガンディーニ様へ
今この手紙を読んでいるということは、恐らくシェルビーノ家に醜い魔の手が迫ったのでしょう。本来ならば私が全てをお守りすべきところ、あなた様に重荷を背負わせる事態となってしまい、大変申し訳ございません。
旦那様があなた様へ託した資金は、どうぞご自由に。
戦闘力を底上げするためのサポートアイテムに使うもよし、あなた様が別の人生を歩むための資金にするもよし、シェルビーノ家のために使うもよし。あなた様の意思を尊重したいと旦那様は仰っていましたし、私も心からそう思っております。
餞別として、私のバイクを差し上げましょう。
かつてあなた様と初めて出会った時にも、初めて二人で買い物へ行った時にも乗っていた愛車です。鍵と場所は、あの雨の日に入ったカフェの店主に託しておりますので。
もし不要であればご放念ください。お役に立つのであれば、お好きに改造なさってください。
ジュリオ。あなた様はいつだって目の前の相手に誠実に向き合い、時には叱るという判断も下せる強い方です。過去にあらゆる人から傷付けられてきた経験をも、他者に優しさとして分け与えることの出来る、懐の深い方です。
お嬢様にとっても、旦那様にとっても、まさにあなた様はヒーローのような存在です。あなた様がこのお屋敷に来てくださってから、お二人はとても朗らかに穏やかに笑ってくださるようになりました。
私では決して成しえないことを成し遂げてくださった。感謝してもしきれません。
たとえ今後どのような決断を下し、どのような結末を迎えようとも、あなた様の人生は、あなた様自身が掴み取ったもの。誰に何と言われようと、誇るべきものです。
ですからどうか、後悔のないように生きてほしいと祈っております。お幸せに。
ナマエ・ミョウジより───
「……こんな手紙を書いておいて、忘れろ、なんてよく言うよな」
ガラガラに嗄れた声はみっともなかった。しかしあの夜以来、細い糸を繋ぐような辛うじての感覚ではあるものの、初めて気力が漲ってくるような気がして、堰き止めていた感情が溢れ出してくるようで、堪えきれずに笑って、泣いた。ああ、あんたの言う通り自由に生きてやるよ。
義手になったことで個性が使えなくなり、すっかり木偶の坊と化した右腕を見下ろす。たとえお嬢様と再会出来たとしても、今は個性因子を相殺することさえ出来ない。俺なんかを取り立ててくださった、旦那様に与えられた役割を全うすることさえも叶わない。
ならば彼女から教えを受けた通り、まずは戦闘力を底上げするのが全ての近道だろう。
俺は顔を上げた。今まで彼女から授かった全ての情報と感情を糧にして、自分自身の目的を果たすために。たとえこれから破滅や地獄への道を歩んでいくのだとしても、彼女が俺の人生を誇るべきものだと言ってくれたのだから。
やってやるよ。お嬢様もあんたも、この手で取り戻してやる。たとえ自己中で無謀だと言われようが、かつて「自分のことは何もかも嫌い」だと言った
なあ、それくらいのことは許されるだろ。───ナマエ。
それからは、旦那様から与えられた資金で身体を改造し、彼女から授かったバイクで世界中を旅した。
生憎、情報収集の手段には困らなかった。あの鞄を開けた時の鍵に、ゴリーニの紋章が入っていたことに後から気付いたから。あれさえ見せれば、国を問わず裏社会に通じる情報屋と取引するのは実に簡単だった。
「……敵わねえな、やっぱり」
あの夜について考える度、憎悪の炎で身が焼かれてしまいそうだったから。手紙やバイクなど彼女の痕跡に触れ、お嬢様の写真を見つめながら紅茶を淹れることで、かつての穏やかで平和だった日々を思い出し、俺は何とか平静を保っていた。
それ以外の空き時間は彼女から教わったトレーニングに全て注ぎ込み、常に万全の準備を整えながら国を渡り歩くこと数年。……俺は、ようやく奴らの消息を先回りして掴むことが出来た。彼女に縁のある地である日本にゴリーニが訪れることを知った時は、なんて皮肉だと怒りによって心臓が燃えてしまいそうだったが。
ヴィランにより混乱の渦に巻き込まれていることは認知していたが、中でも日本の治安は相当悪かった。実際目の当たりにすると、その惨状は想定以上だ。
到着したばかりの俺でさえ一度強盗に遭遇し、あまりにも見ていられずショック弾を使い捕獲したくらいだった。もし戦い方を学んだこともない立場だったならば、俺もまた、暴力を恐れて蹲るだけの避難民でしかいられなかっただろう。
スラム街を想起させる程の環境を見て、一体彼女は何を思うのだろうか、とつい考えてしまう。
だがヴィランによる騒ぎは、俺にとって二人の行方を掴むための重要な手がかりだった。ゴリーニファミリーは、各地で世間を揺るがす程の大犯罪を犯しては、痕跡を隠そうともせずに逃亡する奴らである。犯罪が横行する場で騒ぎがあれば、その裏には大抵ゴリーニの存在があった。
あのボスはどうやら、個性の多様性を存分に利用できるくらいの知恵は持っているらしい。胸糞悪いことに、逃亡するには最適な個性ばかりが揃っていることも知っていた。そんなヤツらがお嬢様の適合者になってしまった事実がまた、実に不快で我慢ならなかったが。
彼女が無個性なのに個性の成長方法を熟知していたのは、個性に対して異様に執着するアイツの影響だったのかもしれない。それならば、俺に色々教えてくれた間に口数が少なくなるのは納得だった。彼女の古傷を抉っていたのかもしれないと後悔する前に、今は成すべきことを成すしかなかったが。
バイクと義手に搭載したサポートアイテムを駆使し、犯罪の発生場所にバイクを走らせる。だが期待とは裏腹にそこにいたのは、いかにも低俗で愚劣な犯罪者共と、未だに年若いヒーローらしき少年少女たちだった。捕縛した罪人たちを前に和気藹々と会話している様は、実に緊張感が無く反吐が出る。
ヒーローという職業自体に縁も興味も無かったが、ゴリーニがシェルビーノ家を狙ったのは、元を正せばオールマイトというヒーローに起因している旨の情報は掴んでいた。
ボスがオールマイトに憧れ、強大な能力を求めた結果、お嬢様を攫った上に旦那様の命を奪ったのだと。だからこそ、いくらヒーローが崇高な仕事だと言われようが、既に喪われた命を取り戻すことさえ出来ないのならば、彼らに良い感情を持てる筈もなかった。
にべもなく上から一連の光景を見下ろした後、次の心当たりを探すべく右手でアクセルをひねる。延々とバイクで心当たりの場所を探しながら、徐々に赤く染まっていく街を見下ろす。かつて彼女が夕焼けと呼んでいた太陽の色は、確かに美しいと言っても差し支えなかった。今は心が凍り付いてしまって、自然を綺麗だと思う感覚さえ失ってしまっていたが。
───私が、私でいられるうちに……。殺して。
───私のことなど、金輪際お忘れになった方が宜しいかと。
二つの大事な声が悲痛な色を伴って、いつまでも俺の頭の中をこだまする。情けないことに俺は、お嬢様の懇願に対する答えを未だに持ち合わせていなかった。
数年も顔を合わせていない二人の現状を知らないまま、俺自身の勝手な願望だけで決めて良いことだとは、到底思えなかったから。決断を下すのは、実際に今の二人の様子を見てからにすると、そうハッキリと決めていた。
だが、もし二人の意思が反していたとしたらどうする?
……その疑問に対しても、みっともないことに答えが出せていない。
誰にとっても役立たずでしかなかった俺に、穏やかで温かな日常を与えてくれた、清らかで健気で優しいお嬢様を、……殺す。そんな暴挙を、シェルビーノ家のお二人に全てを捧げていた彼女が許してくれるとは到底考えられない。それがたとえ、お嬢様ご自身の願いだとしても。
「…………ッ」
しかし、決断の時はそのすぐ後にやってきた。お嬢様が、適合者の一人であるゴリーニの輩と共に走って逃げる様を、確かにこの目で目撃してしまったから。どんなに距離が離れていたってすぐに分かる。
悩む間も無く、本能のままにバイクで走り出した。たとえもう二度と言葉を交わすことが叶わなくとも、少しでも大事なひとの傍にいたいと思うのは至って自然なことだろう。
周囲を必死に探っても、彼女の気配だけは確認できないままだった。あのボスが簡単にお嬢様を逃がすとは思えないため、恐らくは彼女からの協力も踏まえた上で逃亡を図ったのだろう。
あの夜以来、お嬢様は何度も何度も個性の発作に悩まされてきたに違いない。シェルビーノ家にいた時でさえ意識が朦朧としていたのだから、因子を相殺する術を失った現在の苦痛は想像に難くなかった。
お嬢様の個性は強力だ。このままゴリーニの連中に使い潰される日々が続けば、暴走して何が起こるか分からない程に。もし自分の個性がキッカケとなり大勢の人々を害する結果に至ったら、お嬢様は苦しむだろう。自分の運命を呪い、自分の存在を何よりも厭うだろう。まるで彼女のように。
銃口を、向ける。俺に対して優しく笑いかけてくれたお嬢様の命を奪うべく。……その時、脳内で凛とした声が響いた。
───手が震えていますよ、ジュリオ。人を撃つ覚悟のない者に、銃を持つ資格はございません。……たとえ、銃口を向ける相手が、自分にとってどのような存在であったとしても。
何でよりによって、こんな時に思い出すんだ。脳内でリアルに揺らめくかつての彼女に向けて、歯ぎしりする。
「それでも俺は……ッ!」
他でもないお嬢様の望みを叶えられるのが、俺以外にいないならば。お嬢様にとって最悪の結末を回避する手段を持つのが、この世に俺しか存在しないならば。
「……ッ、やるしかねえだろ!」
引き金を引いて、撃った。どんなに距離が離れていようとも、バイクを走らせている最中であっても。何度も何度も。
しかし全ての弾は俺を嘲笑うように、ことごとく外れていく。俺の存在に気付いたお嬢様が跪き、あらゆる運命を受け入れるかのように祈るポーズを取ってくれているのに。
こちらの本音を暴き出すかのごとく、弾丸はゴリーニ側の
少年の個性に腕を捕われたまま、巨大な船を舞い降りる気配を感じて、見上げて───絶句する。己の記憶を幾度も擦り切れる程に手繰り寄せながら、ひどく強く焦がれていた彼女が、かつてと変わらぬ姿でそこにいた。
ゴリーニのボスとお嬢様の後ろに控えながら。俺がどんなに見つめたところで何も返そうとしない、静かで清らかなブラウンの瞳の美しさに、ただただ呆然とする。
「……ナマエ、」
名前を呼ぶだけで、胸が燃え上がるようだった。決して本人には届かない声の筈だったのに、一瞬だけ目が合ったような気がした。
ボスの忌々しく仰々しい声も、ヒーローらしき少年の正義感に満ちた声も、洗脳されたように無表情になったお嬢様の姿も、全てに心臓が掻きむしられるような感覚を覚えるのに。
相も変わらず凛々しく立つ彼女の顔を見つめるだけで、俺は、かつて何も知らない餓鬼だった頃の自分に戻ってしまいそうで恐ろしかった。答えの分からぬ問いに向き合う使命から逃げ、
俺の目的は、二人を救うことである筈なのに。
少年による捕縛から抜け出した後、迷いを振り払うべくバイクを走らせて、船に向かって飛び上がる。自分の戦闘力では、とてもじゃないがゴリーニの連中に敵う訳がないことくらいは分かっていた。
それでも俺は、お嬢様の望みを叶えるために走らなければならなかった。しかし。
突如として視界の中央に、真っ黒な一輪の薔薇が、現れた。
「ブルーノ」
彼女が、知らない男の名前を呼んでいた。
「かしこまりましたよ、お姫様」
オールバック姿の男がパチンと指を鳴らせば、黒い薔薇の動きが空中で止まる。その花が、シェルビーノ家を誰よりも慈しむ白くしなやかな指先から投げられたものだと気付いたのは、彼女が船からふわりと飛び降りた瞬間だった。
元々の高い身体能力と個性の力が合わされば、まるで天使のような動きまで出来るのかと、こんな状況なのに馬鹿なことを考えてしまいそうだった。
モノトーンのメイド服に覆い隠されていた革製の黒いパンプスが、長く伸びた瑞々しい茎をピンポイントに丁寧に踏む。器用にバランスを保ちながら前傾姿勢を取った彼女が、俺を見据えながら両膝を折り曲げ、脚にグッと力を込めたのを、見る。
間違いなく目が合った。その事実に対する隠しきれない喜びに気を取られた一瞬の隙に、眼前に迫った彼女に胸倉を掴まれていた。相変わらず無感動で、無表情で、綺麗で、愛おしくて。
「ジュリオ。あの時の言葉を、覚えていますか?」
「……なッ」
瞬間、彼女の左脚が俺のバイクを横に吹っ飛ばす。全身に衝撃が走ったところで、ようやく自分が廃墟と化した建物に容赦なく追いやられてしまったのだと分かった。灰色の瓦礫の中で咄嗟に受け身を取ったものの、情けなくもあの日のように意識が薄れてゆく。
だがその最中にも感じていた。俺は今、左手で何かを掴んでいる。ゆっくりと見下ろせば、そこには黒い薔薇があった。彼女の髪と衣服を思わせる、黒くて艶やかで香しく美しい花だった。
「……ナマエ」
彼女のいない場所で、彼女の名前を呼ぶ。たったそれだけの行為でしかないのに、俺の心臓は初めて鼓動を覚えたように熱く脈打っていく。
今の自分が彼女に対して抱いているのが、怒りなのか、憧れなのか、憎しみなのか、哀しみなのか、それさえも分からなくなってきてしまった。
だが確かに俺の全身はナマエ・ミョウジを求めて、アンナ・シェルビーノの救済を望んでいた。
───あの時の言葉を、覚えていますか?
「……あんたと交わした言葉は、全部覚えてるに決まってんだろ」
たとえ今のあんたが敵でも、味方でも。俺はずっと、ずっと。
…………、……………。