琥珀の結実
「ナマエの瞳って、アンバーみたいでとっても綺麗よね!」
お屋敷のテラスにてお茶を飲みながら、お嬢様がそう言って目を輝かせたことがあった。真っ青な海を背景に艶やかな黒い髪を靡かせる彼女は、心から慕う相手から温かな言葉を受けたことで、一瞬だけそっと微笑む。その顔はやはり綺麗だと思ったし、俺に向けられるべきものではないと痛感した。
金髪に黒髪。青い目に茶色の目。ピンクのドレスに黒いメイド服。そして、笑顔と無表情。容貌や雰囲気は対照的にさえ見えるのに、まるで姉妹のようだと感じるのは、俺が二人の間にある確固たる信頼を知っていたからだ。
お嬢様が産まれたばかりの頃から屋敷にいたと聞く彼女は、時折その瞳に、子を守る親のようなやわらかい光を宿すことがあった。
「恐縮です。ブラウンなど自分では地味だと感じてしまいますが、お嬢様に褒めて頂けるのは大変嬉しく思います」
相手の言葉を真っ直ぐに受け止めた上で、使用人としての礼儀も弁えつつ、謙遜しすぎず素直に喜ぶ。そんな気質の彼女だからこそ、お嬢様も躊躇いなく甘えられるのだろう。
俺はあくまで個性でしか役に立つことが出来ないから、人間性や仕事ぶりで貢献する姿がひどく眩しかった。
「月並みではございますが、お嬢様の瞳は海のように美しいですから。太陽の光を受けてキラキラと輝いては、全てを温かく受け止めてくださるようで」
「ふふ、ありがとう! ならナマエから見て、ジュリオの瞳はどう思う?」
あくまで給仕をするだけの傍観者に徹するつもりが、急に話題の中心に挙がり飛び上がってしまった。椅子に座るお嬢様が悪戯っぽく笑いながら俺を見て、彼女もまた意外そうに瞬いた後、俺を見る。
テーブルの傍に控えていたから間近で二対の視線を浴びる羽目になり、動揺が悟られないよう表情を取り繕うので精一杯だった。お嬢様は恐らく全てを察しているのだろう。俺の気持ちも、彼女の想いも。
だからこそ彼女が生み出す沈黙が居た堪れず、その真っ直ぐな視線から逃れるように口を開いた。
「メイド長、無理にお気遣い頂かなくとも大丈夫ですから」
「ジュリオの瞳は……夜空のようだと思います。星の煌めきも月の静けさも包み込んでくれる、広くて大きな空を思い出しますから」
「私は海で、ジュリオは夜空なのね。どこにいてもすぐに見ることの出来る景色だから、いつでもナマエに思い出してもらえるみたいで嬉しいわ! ね、ジュリオ?」
お嬢様から無邪気に笑いかけられて、言葉に詰まる。嬉しいなどとありきたりな言葉に当てはめてしまって良いのか真剣に悩むくらい、その時の俺は衝撃と喜びを感じていた。だって俺は彼女に救われてばかりで、彼女の役に立てているとは到底思えなかったし、彼女に美しさを見出してもらえる程の容貌を持っている自信も無かった。
彼女ならば……シェルビーノ家の使用人として、特別に綺麗に想うのは、お仕えするお二人だけで良いと。そう考えるだろうとばかり思っていたのに。
「……そう、ですね。ありがとうございます」
「以前も申し上げたでしょう。あなた様が称賛だと感じる言葉であっても、あくまで主観的で個人的な感想ですから」
ハッと顔を上げる。かつて雨音に包まれる中で髪の色を褒めてもらった時の、やわらかな紅茶の香りを思い出す。白いテーブルクロスに載っていた、青いティーカップの熱さを思い出す。あの一度きりのデートを大切に覚えていたのは、俺だけじゃなかったんだと、知る。
胸の奥底から湧き上がる熱くて甘やかな感情を押し殺すように、深々と頭を下げた。
「ねえナマエ! それなら今度のサン・ロレンツォの夜は、ジュリオと二人で過ごしたらどうかしら?」
サン・ロレンツォの夜とは、流れ星に願い事をかけるイタリアではごく一般的な風習だ。ペルセウス座流星群がよく見える夏の盛りに毎年行われており、恋人たちが永遠の愛を誓う意味合いも強いのが特徴だった。
お嬢様の考えが透けて見えるようでつい苦笑してしまう。彼女が夜を共に過ごしたいのは、決して俺ではないだろうに。案の定、本人も怪訝な顔をしている。
「……お嬢様、意味が分かりかねるのですが」
「だって、ジュリオの瞳を夜空のようだと思うのでしょう? 私のせいで二人は休みもほとんど取れないし……、実際に流れ星が降る夜を共にしたら、素敵なんじゃないかと思って!」
「私たちは心から喜んでお嬢様にお仕えしておりますし、そのことを気になさる必要はございません。……こちらを慮って言ってくださったのは、十分承知しているのですが」
今回ばかりは彼女の言葉に同意する。ゆっくりと顔を上げながら見つめたお嬢様は、それはもう楽しそうに笑っていた。年相応にはしゃぐ姿は微笑ましい限りなのだが、話題の中心に据えられるのは正直落ち着かない。
「私としては、お嬢様とジュリオが二人で過ごすものだとばかり思っておりました」
「え?」
「は?」
執事としてあるまじき返答をした俺に、彼女からの厳しい目線が飛んでくる。失礼しました、と素早く口にすれば、すぐ納得したように頷いた。
次の瞬間、旦那様が彼女の名前を呼ぶ声が微かに聞こえた。案の定、彼女は僅かに柔らかな顔で深々とお辞儀をしてから軽やかに踵を返していく。その背中を呆然と見送っていると、拗ねた色の滲む声が鋭く飛んできた。
「もう! ジュリオがハッキリした態度を取らないから、ナマエに何も伝わっていないじゃない!」
「……お嬢様、一体何のことでしょう」
「……これでも私ね、二人に幸せになってほしいと思っているのよ」
「そう言ってくださるだけで有難いですし、先程メイド長も仰っていましたが、お嬢様にお仕え出来ているだけで幸せですから」
お嬢様が何かを言いかけるように口を開いたものの、やがて口を噤んでしまった。気付かなかったフリをしながら黙々と給仕を続けていく。シェルビーノ家にいられるだけで幸福だという言葉に、まったく嘘は無いのだ。だからこそ俺は、この執事福に袖を通したあの日から、俺個人の想いは出来る限り封印しようと決めていた。
それなのに俺は、二人を探し求める旅の最中、不意にとある宝石に目を奪われていた。
あれはポーランドの海岸沿いにあった、熱い陽射しが降り注ぐ露店でのこと。まるで太陽に愛されているかのごとくピンポイントに光を受け止めるネックレスは、神聖なまでに黄金色に煌めいていて、素朴な街並みの中でもやけに目を引いた。
「やあ、お兄さん! 何かお探しかい?」
「……いえ、少し目を惹かれただけですので」
「うちの宝石に一目惚れしてくれたなんて、情熱的で嬉しいな。アンバーは、自分への贈り物にも誰かへのプレゼントにもピッタリな品でね」
「そう、ですか」
だから足を止めてしまったのか、と自嘲しながら納得する。琥珀 は、お嬢様が彼女の瞳を褒める時に例えた宝石だった。シェルビーノ家への贈り物としても時々届くことはあったが、実際に一人で眺めるのは初めてかもしれない。
こうして見ると、やはりお嬢様の審美眼はさすがで、琥珀 とは言い得て妙だと思った。遥か昔の天然樹脂が化石となった、世界唯一の植物由来の宝石。
かつて彼女から叩き込まれた客観的な情報を思い出すよりも前に、俺はその美しさに鮮烈なまでに惹かれていた。それは彼女を一目見た時と同じような感覚だったと気付いた時にはもう遅く、またもや残照を追い求めるかのごとく無意識の内に彼女に焦がれてしまったのだと、思い知る。
「アンバーは、健康や愛を象徴する幸福の石なんだ。大事なひとに贈るお守りとしては、最高のプレゼントだと思うよ」
「ですが……今は、渡そうにも渡せないので」
「おや。もしかして、辛いことを思い出させてしまったかな。ごめんね」
「いえ、お気遣いなく。……もし万が一贈れたとしても、俺からのプレゼントは喜んでくださらないと思いますし」
「お兄さん程の色男が、随分と気弱なことを言うね! プレゼントは、相手が喜ぶかどうかで選ぶものじゃないだろ? 自分が贈りたいかどうか、相手のために選ぶ時間をどれだけ大切に出来たか。それに尽きるんじゃないかな」
そこで、初めて店主ときちんと目が合った。黒髪短髪で同じ年頃の青年が、茶色い目を無邪気に細めて笑っている。肌は褐色だったが、この国には彼女と似たような特徴を持つ人々が多いことに、改めて気付いた。
頑なに閉ざしていた心がほんの僅か緩んでいくような心地に驚きつつ、彼の言葉に深く頷いて同意する。
「あの。値段は割増でお支払いしますので、厳重に梱包いただいても宜しいですか」
「勿論だよ! どんな輸送方法にも耐えられるようにしっかり包むね! ……これを贈りたいひとに、早く再会できると良いね」
「はい。……ありがとうございます」
あの夜以来、他人と真正面から会話をするのは、随分と久しぶりのような気がした。もし再び出会えた時、彼女に対して装飾品を贈ったとしたら、何を遊び惚けていたのだと叱られてしまうかもしれない。
だがそれで良かった。大切なものを忘れそうになった時、いつだって俺を引き戻してくれるのは彼女の存在なのだと、改めて実感したから。その背中が、横顔が、声が、言葉が、表情が、指先が、いつも俺をこの世界に繋ぎ止めてくれるのだと、痛感することが出来たから。
───たとえ今後どのような決断を下し、どのような結末を迎えようとも、あなた様の人生は、あなた様自身が掴み取ったもの。誰に何と言われようと、誇るべきものです。
彼女の文字で綴られた、あの切なくて温かな言葉を思い出す。あんたに出会えた時点で、俺は既に自分の人生を誇らしく感じられたんだって、このアンバーに感謝と祈りを込めながら。
俺は、夢を見ていた。優しくて柔らかな、心の奥底に仕舞い込んでいた筈のかつての思い出だった。
目を覚ませば、彼女もお嬢様もそこにはいなかった。
忌々しいゴリーニのボスの個性によって作られたであろう、広大な山並みが見える空間の中で、情けなくも寝転んでいた。やけに美しく壮大な自然の風景を模したこの場所は、閉ざされた世界で生きざるを得なかった二人に対する皮肉かと、正直吐き捨てたくなったが。
しかしそんな悠長なことも言っていられず、俺は突然、ゴリーニの部下であろう黒服の刺客に襲われていた。……何故か、「個性を出せなくて」と笑いながら宣う、役立たずなヒーローのガキ様が隣にいたが。
ゴリーニの奴らが持つ個性は粗方把握していたため、個性を使用不能にするフィールドが周辺に形成されたのだろう、と予想はついた。だがそんなアドバイスをしてやる義理はないし、この程度の刺客 であるならば力を借りずとも何とかなった。
ショック弾を使用して行動不能にした後、大事に受け継いだバイクが横転しているのに気付き、持ち上げようとする。……が、彼女から受けた蹴りと直後に降り注いだ瓦礫によるダメージが蓄積していたのか、服は破れてバイクを元に戻すことさえ一苦労だった。
少しも手加減してくれないところが彼女らしくてひどく懐かしいと、情けない気持ちになりつつ懸命に全身に力を込める。そんな俺を助けたのは、先程散々罵って遠ざけた筈のヒーローのガキ様だった。
成程。……彼女の言う通り、緊急時の初対面だからこそ分析できる人間性というのはあるらしい。人助けを使命とするヒーローらしいと思いつつ、俺は彼女が本当の意味でのヒーローでなくて良かったと、的外れなことを考えてしまっていた。
本人は頑なに認めないだろうが、彼女は優しいひとだから。無様に蹲って逃避することしか出来なかった餓鬼さえも見捨てず、手を差し伸べてしまうようなひとだから。受けた恩を決して忘れることなく、自分の一生を捧げてでも報いようと身を粉にするひとだったから。
耳にしただけの俺でさえおぞましく感じる虐待を受けていたにも拘わらず、平穏に幸せに暮らしていたシェルビーノ家を心から慕うことが出来る程に、精神が強いひとだから。
今でさえこんなにも距離が遠いというのに、これ以上手の届かない場所へ行かれたら……。
「……ジュリオさん?」
黒服から拝借した携帯端末を使用し、抜け道を探した後のことだった。バイクの積み荷に括り付けたヒーローのガキ様───デクというらしい───に話しかけられて、ハッとする。
「何ですか」
「いえ、何か考え事をされていたようだったので」
「……今後の目的を再確認していただけです。お気になさらず」
「そうですか……。僕でお役に立てることがあれば、何でも言ってくださいね!」
どうやら彼は本当に、根っからの善良な少年らしい。スラム街での生活を知っている身からすると胡散臭く感じる程には。だが決して不快な訳ではなく、ここまで真っ直ぐな人間と関わるのが久しぶりすぎて距離感を図りかねている、といった方が適当かもしれない。
薄暗いトンネルの中をバイクで走り続けていると、ゴリーニの手下から襲撃を受けた。こちらは攻撃の手数も少ないというのに厄介だと歯噛みしつつ、トンネルを抜けた先に見えた海岸らしき場所で、パウロ・ゴリーニと対峙する。
彼女が乗っていた頃よりもすっかり大改造したバイクを駆使し、個性を取り戻したデクをサポートする。……どうやら、思ったよりも強大な個性を有している上に、頭もそこそこ回るらしいと認識を改めた。
特に難なくパウロに勝利できたかと思った、次の瞬間。俺は、こちらを無遠慮に見下ろす憎き気配を察知する。間違いなくボスがそこにいると確信しながら銃を撃てば、確かに奴はそこにいた。俺の弾なんか意にも介さないような飄々とした顔で。
頭上に作られていたテラスのような場所で、ボスはパウロを処罰しようとしていた。俺たちに倒されたことで期待外れだと見なされたのだろう。実の娘さえも駒のように使い潰そうとする無慈悲な男らしいと、苦々しく思った時。……またもや俺は、絶句する。
「ダークマイト様」
「おや、ナマエ。わざわざ様子を見に来てくれるなんて優しいね」
「恐縮です」
彼女が、ボスの後ろに控える形で立っていた。このまま銃口を向け続ければ、同時に彼女を傷付けるかもしれない。元々敵う筈がないとは思っていなかったが、ならば俺は余計に今撃つことが出来なかった。ゆっくりと銃を下ろしていく。
どんなに必死に見つめても、今度は彼女と目が合うことはなかった。
「ダークマイト様、パウロは貴重な人材です。簡単に切り捨てるのは大変勿体ないかと」
「んー、そうかい? だがナマエ、オールマイトは一度たりとも約束を違えたり、失敗したりしたことはなかったよ」
「ええ、圧倒的な強者だからこその象徴。ダークマイト様のお考えはご尤もです。一方で、弱者に慈悲をお与えになるのもまた、世界に平和をもたらす象徴としての権威を高めるのではないかと、私は思います」
無表情かつ無感動に語っているように見えて、相手の気質に最大限配慮していることを感じさせる言葉選びだった。実の親子である筈なのに、明確な上下関係を前提とした会話をしている様に吐き気がする。
「成程ねえ。一理ある。それに可愛い娘の頼みだ。父親としては聞いてやりたいからね」
「……恐れ入ります。場所に困るようでしたら、私の自室をご自由に使って頂いて構いませんので」
「ではお言葉に甘えて、君の私室に送ろうか。パウロ、ナマエに感謝するといい」
両腕を掴まれて宙吊りになっていた男が、涙を流しながら口を開いた。
「ひ、姫! あ、ありがとうございます! この御恩、一生忘れません!」
「……いえ、お気になさらず」
ゴリーニファミリーの面々から「姫」と呼ばれていることに対して、どうやら彼女は乗り気ではないらしい。長年の付き合いがあったからこそ読み取れた感情に、身勝手ながら安心する。やはり彼女は彼らに心を許した訳ではなく、胸に秘めた目的に従って動いているのだろうと推察できたから。
「だがナマエ、こちらを邪魔しようとする虫の排除はしても構わないだろう?」
「……どうぞ、ご随意に」
パウロが別の空間に送られた後、ボスが標的としたのは俺たちだった。デクが容赦なく打倒されていく様を苦々しく眺め、出来る限りサポートしながらも、浮遊の個性によりこの空間を離れていく彼女の背中をつい目で追ってしまった。
しかし自分の命は守らねばならないと、敗北を喫したデクを回収するべくバイクを走らせる。彼女が消えた後にも、燕尾服のポケットに大事に仕舞った黒薔薇が、香しい残り香を俺に刻み付けていった。高らかな笑いを最後に消えたボスを睨みつけながらも、俺は再びハンドルを回す。
別の空間に移動し、態勢を整えようとした俺たちを迎えたのは、どこか懐かしさを覚える市街地を模した場所だった。街並みの特徴を見るにヨーロッパのどこかなのだろう。もしかしたらボスや彼女に所縁のある地なのかもしれないと思えば、心臓の奥深くにさらなる憎悪が滲んでいく。
そこで俺は、さらに心臓を衝かれる光景を目の当たりにした。
「……ッ、お嬢様!」
鍔の広い帽子を被った女と共にいた、虚ろな顔をしたお嬢様を発見する。周囲には、過剰変容の個性に適合しなかったであろう大勢の人間が倒れていた。本人の意思を無視して個性だけ搾取しようとするゴリーニの姿勢には、やはり虫唾が走る。
未だにお嬢様の求めに対する答えは見つけられていないのが実情だったが、それでも今、手を伸ばさなければならないのだということは分かっていた。しかし、その思いさえもゴリーニによって阻まれる。
対象者に幻影を見せる個性の持ち主がいることは知っていたのに、つい動揺したことで油断してしまった。
怪しく光った女の目に射抜かれ、俺はまた夢を見る。
彼女と、お嬢様と、旦那様と共に暮らしていた頃の、平和な日常を、夢に見る。
何度も何度も繰り返し、擦り切れてしまいそうな程に思い起こした記憶に、囚われたままでいたかった。
そんな俺の甘ったれた思考を射殺さんとするばかりに、お嬢様が俺の首に手をかけ、強く締め上げていく。
呼吸が奪われ、脳に酸素が行き渡らず、目の前がチカチカと点滅する程の息苦しさに襲われ、これも因果応報かと覚悟を決めそうになった時。
───ジュリオ。お嬢様のことは頼みました。
彼女の声が、頭の中で甦る。そうだ、俺は彼女からお嬢様を託された。お嬢様から、お嬢様自身を殺すように頼まれた。ならばお嬢様ご本人が、俺を今ここで殺そうとする筈がない。
事態を打破すべく、お嬢様の姿をした何者かに手を伸ばす。そこで強烈な違和感を覚えた。かつて個性を使えた右手が、怪我一つなく純白の手袋を身に着けている。
……そんな訳がない。俺の右手はあの悪夢のような夜、瓦礫に潰されたことで義手になったのだ。彼女からのアドバイスを元に改良し、銃としての機能を保持させたのだ。
この胸糞悪い夢を打破せねばと、元凶を撃ち落とすべく右腕を起動させる。撃て、撃て、撃て、撃て……!
探知機能を使って探り当てた場所を、ピンポイントで撃ち抜く。すると俺の首を絞めていた指先が緩み、一気に肺に酸素が入ってきた。夢の世界が急速に消え、先程の街並みが目の前に広がっていく。今感じている息苦しさこそが、俺にとっての現実なのだと思い知る。呼吸を整えるために何度か咳を繰り返しながら、状況を把握していった。
どうやら俺は、幻覚を見せる個性を持った女を的確に無力化できたらしい。腕を抑えながら倒れ込むその姿を一瞥する。
すぐ傍にあった階段の踊り場にて、慌てたようにお嬢様がご自身の姿を見下ろしていた。その青い瞳には明確な意思と感情が宿っており、今も一人の人間として心から慕う気持ちと、願うならば今後も末永くお仕えしたいという思考が湧きあがった。
だが、───その頭頂部には、個性の暴走の形跡が見えた。豊かな小麦畑を思わせる美しい金髪に、彼女に似た黒が入り交じっている。お嬢様が仰る「もしもの時」が近づいていることを、痛感した。
自分の願いよりも主君の望みを叶えるべき存在が使用人なのだと。俺はすっかり、彼女から学んでしまっていたのだ。
「ジュリオ……!」
「お嬢様……」
俺に気付き、駆け寄ろうとしてくれたお嬢様に対して、再び銃口を向けた。すると、かつてご自分が口にされた願いと現状を思い出されたのだろう。全身を強張らせた後、覚悟を決めたようにゆっくりと頷いた。
「……ねえジュリオ、一つだけ聞いてもいい?」
僅かばかり恐怖の色を滲ませながらも、お嬢様は必死に笑おうとしていた。今まさにお嬢様の命を奪おうとしている俺は、内心冷や汗をかきながら、声が震えないよう細心の注意を払う。
「……何なりと」
「ナマエには、会えた?」
「はい。……メイド長は、相変わらずでしたね」
「そうでしょう。何年経ってもずっと、ナマエは切ないくらい優しくて、強くて、自分よりも私のことを優先してくれるの。……ジュリオ、ごめんなさい。私のせいで、あなた達を引き離してしまって」
「お嬢様が謝る必要なんてないでしょう! ……むしろ、お二人を助けられない程に無力で、申し訳ありません」
「そんなことないわ。いつもナマエと会う度にね、話していたのよ。きっといつか、ジュリオが助けに来てくれるって。だから希望を持ちましょうって」
「……ッ」
心臓が握り潰されそうだった。助けるだなんてとんでもない。俺は今まさに、お嬢様に手をかけようとしているというのに。未だに彼女には全く敵わないというのに。
情けなさのあまりつい目を逸らした瞬間、お嬢様の悲鳴が聞こえた。浮遊の個性が使われ、ボスのもとへと再び連れ去られてしまう様を目撃する。血が滲みそうな程に歯ぎしりをした。ああ、なんてみっともない。
「……ジュリオさん」
デクを中心に、ヒーローらしき少年少女たちが俺へと真っ直ぐに目を向ける。……ああ、くそ。いよいよ、こちらの事情を語らざるを得ない場面が訪れたようだった。
シェルビーノ家のこと、お嬢様の個性のこと、俺のこと。……そして、彼女のこと。それぞれの願いと望みと思いについて、俺が知っている範囲で明らかにしていった。
すると彼らは、お嬢様と彼女を共に救おうと、お嬢様の個性を抑える手立てを一緒に考えようと、心底朗らかな笑顔でそう言った。そんなものがあるのかと半信半疑な思いが湧きつつも、確かに俺は、彼らに比べて個性の抑制については無知であると思い至る。もし一時的であっても個性を消す方法があるならば、……万が一にも殺さずに済む選択肢があるならば、この手で掴み取ってみたかった。
彼らの言葉を、俺は受け入れてしまった。───きっと彼女も同意してくれる筈だと、それだけは確信があったから。
その後、俺は隙間時間を使って、義手や義足に仕込んだサポートアイテムに更なる細工を施していく。すっかり第二の身体にも慣れたものだと自嘲しながら、時折、大勢の避難民を助けるヒーローたちを観察した。どんな絶望的な状況にあっても笑顔を崩さず、他者を助けるために奮闘する精神は、確かに高潔なものだと思ったし、あのボスなんかとは似ても似つかない。
俺たちを絶望の底に突き落とし、この事態を招いたのは、ヒーローでもオールマイトでもなく、あの邪悪な精神を持った利己的な男なのだ。八つ当たりじみた精神でヒーローを軽んじていた思考を反省し、今後自分が成すべきことを再認識する。
お嬢様を助け、ボスを倒し、可能ならば彼女にも手を伸ばす。たとえ二人から何と言われようと、自分がやりたいことを成し遂げたいと、彼らのお陰で思うことが出来た。
準備が整った段階で、やたらとガラの悪い少年がその場を仕切り始めた。どうやらデクを含めた四人の少年が、同じ目的を持ってボスのもとへと向かうらしい。ならば追いかけない理由はないと、俺もバイクにて並走する。
途中で何回か難所はあったものの、ヒーローたちの奮闘と協力のお陰で、俺はデクと共に船の最深部へと辿り着いた。
そこは色鮮やかな花が一面に咲いているのに一切の香りが無く、所詮は作り物のハリボテでしかないのだと痛感する。
待ち受けていたのは、虚ろな顔をしながら腰かけるお嬢様、お嬢様の傍に控える彼女、そして全ての元凶たるゴリーニのボスだった。
「ナマエ、分かっているね? 手加減は無用だ。かつての仲間の心を、徹底的にへし折ってやりなさい」
「……かしこまりました、ダークマイト様」
彼女の瞳に、真っ直ぐ射抜かれる。これから戦わなければならない状況は理解しているのに、俺は不謹慎にも喜びを感じてしまっていた。
彼女が一個人として俺を見てくれたことなんて、今までに一度も無かったから。出会った時からずっと、ナマエ・ミョウジはシェルビーノ家の使用人であり、その心に触れるチャンスなど存在しなかったから。
黒薔薇を仕舞ったポケットに触れながら、かつて彼女を想って買った琥珀を想起する。自分の胸に蒔いた種が実らなくても構わなかった。だがせめて、彼女が全てを諦めることのないように、この手で最期まで足掻いてみせようと、改めて誓いを立てていった。
お屋敷のテラスにてお茶を飲みながら、お嬢様がそう言って目を輝かせたことがあった。真っ青な海を背景に艶やかな黒い髪を靡かせる彼女は、心から慕う相手から温かな言葉を受けたことで、一瞬だけそっと微笑む。その顔はやはり綺麗だと思ったし、俺に向けられるべきものではないと痛感した。
金髪に黒髪。青い目に茶色の目。ピンクのドレスに黒いメイド服。そして、笑顔と無表情。容貌や雰囲気は対照的にさえ見えるのに、まるで姉妹のようだと感じるのは、俺が二人の間にある確固たる信頼を知っていたからだ。
お嬢様が産まれたばかりの頃から屋敷にいたと聞く彼女は、時折その瞳に、子を守る親のようなやわらかい光を宿すことがあった。
「恐縮です。ブラウンなど自分では地味だと感じてしまいますが、お嬢様に褒めて頂けるのは大変嬉しく思います」
相手の言葉を真っ直ぐに受け止めた上で、使用人としての礼儀も弁えつつ、謙遜しすぎず素直に喜ぶ。そんな気質の彼女だからこそ、お嬢様も躊躇いなく甘えられるのだろう。
俺はあくまで個性でしか役に立つことが出来ないから、人間性や仕事ぶりで貢献する姿がひどく眩しかった。
「月並みではございますが、お嬢様の瞳は海のように美しいですから。太陽の光を受けてキラキラと輝いては、全てを温かく受け止めてくださるようで」
「ふふ、ありがとう! ならナマエから見て、ジュリオの瞳はどう思う?」
あくまで給仕をするだけの傍観者に徹するつもりが、急に話題の中心に挙がり飛び上がってしまった。椅子に座るお嬢様が悪戯っぽく笑いながら俺を見て、彼女もまた意外そうに瞬いた後、俺を見る。
テーブルの傍に控えていたから間近で二対の視線を浴びる羽目になり、動揺が悟られないよう表情を取り繕うので精一杯だった。お嬢様は恐らく全てを察しているのだろう。俺の気持ちも、彼女の想いも。
だからこそ彼女が生み出す沈黙が居た堪れず、その真っ直ぐな視線から逃れるように口を開いた。
「メイド長、無理にお気遣い頂かなくとも大丈夫ですから」
「ジュリオの瞳は……夜空のようだと思います。星の煌めきも月の静けさも包み込んでくれる、広くて大きな空を思い出しますから」
「私は海で、ジュリオは夜空なのね。どこにいてもすぐに見ることの出来る景色だから、いつでもナマエに思い出してもらえるみたいで嬉しいわ! ね、ジュリオ?」
お嬢様から無邪気に笑いかけられて、言葉に詰まる。嬉しいなどとありきたりな言葉に当てはめてしまって良いのか真剣に悩むくらい、その時の俺は衝撃と喜びを感じていた。だって俺は彼女に救われてばかりで、彼女の役に立てているとは到底思えなかったし、彼女に美しさを見出してもらえる程の容貌を持っている自信も無かった。
彼女ならば……シェルビーノ家の使用人として、特別に綺麗に想うのは、お仕えするお二人だけで良いと。そう考えるだろうとばかり思っていたのに。
「……そう、ですね。ありがとうございます」
「以前も申し上げたでしょう。あなた様が称賛だと感じる言葉であっても、あくまで主観的で個人的な感想ですから」
ハッと顔を上げる。かつて雨音に包まれる中で髪の色を褒めてもらった時の、やわらかな紅茶の香りを思い出す。白いテーブルクロスに載っていた、青いティーカップの熱さを思い出す。あの一度きりのデートを大切に覚えていたのは、俺だけじゃなかったんだと、知る。
胸の奥底から湧き上がる熱くて甘やかな感情を押し殺すように、深々と頭を下げた。
「ねえナマエ! それなら今度のサン・ロレンツォの夜は、ジュリオと二人で過ごしたらどうかしら?」
サン・ロレンツォの夜とは、流れ星に願い事をかけるイタリアではごく一般的な風習だ。ペルセウス座流星群がよく見える夏の盛りに毎年行われており、恋人たちが永遠の愛を誓う意味合いも強いのが特徴だった。
お嬢様の考えが透けて見えるようでつい苦笑してしまう。彼女が夜を共に過ごしたいのは、決して俺ではないだろうに。案の定、本人も怪訝な顔をしている。
「……お嬢様、意味が分かりかねるのですが」
「だって、ジュリオの瞳を夜空のようだと思うのでしょう? 私のせいで二人は休みもほとんど取れないし……、実際に流れ星が降る夜を共にしたら、素敵なんじゃないかと思って!」
「私たちは心から喜んでお嬢様にお仕えしておりますし、そのことを気になさる必要はございません。……こちらを慮って言ってくださったのは、十分承知しているのですが」
今回ばかりは彼女の言葉に同意する。ゆっくりと顔を上げながら見つめたお嬢様は、それはもう楽しそうに笑っていた。年相応にはしゃぐ姿は微笑ましい限りなのだが、話題の中心に据えられるのは正直落ち着かない。
「私としては、お嬢様とジュリオが二人で過ごすものだとばかり思っておりました」
「え?」
「は?」
執事としてあるまじき返答をした俺に、彼女からの厳しい目線が飛んでくる。失礼しました、と素早く口にすれば、すぐ納得したように頷いた。
次の瞬間、旦那様が彼女の名前を呼ぶ声が微かに聞こえた。案の定、彼女は僅かに柔らかな顔で深々とお辞儀をしてから軽やかに踵を返していく。その背中を呆然と見送っていると、拗ねた色の滲む声が鋭く飛んできた。
「もう! ジュリオがハッキリした態度を取らないから、ナマエに何も伝わっていないじゃない!」
「……お嬢様、一体何のことでしょう」
「……これでも私ね、二人に幸せになってほしいと思っているのよ」
「そう言ってくださるだけで有難いですし、先程メイド長も仰っていましたが、お嬢様にお仕え出来ているだけで幸せですから」
お嬢様が何かを言いかけるように口を開いたものの、やがて口を噤んでしまった。気付かなかったフリをしながら黙々と給仕を続けていく。シェルビーノ家にいられるだけで幸福だという言葉に、まったく嘘は無いのだ。だからこそ俺は、この執事福に袖を通したあの日から、俺個人の想いは出来る限り封印しようと決めていた。
それなのに俺は、二人を探し求める旅の最中、不意にとある宝石に目を奪われていた。
あれはポーランドの海岸沿いにあった、熱い陽射しが降り注ぐ露店でのこと。まるで太陽に愛されているかのごとくピンポイントに光を受け止めるネックレスは、神聖なまでに黄金色に煌めいていて、素朴な街並みの中でもやけに目を引いた。
「やあ、お兄さん! 何かお探しかい?」
「……いえ、少し目を惹かれただけですので」
「うちの宝石に一目惚れしてくれたなんて、情熱的で嬉しいな。アンバーは、自分への贈り物にも誰かへのプレゼントにもピッタリな品でね」
「そう、ですか」
だから足を止めてしまったのか、と自嘲しながら納得する。
こうして見ると、やはりお嬢様の審美眼はさすがで、
かつて彼女から叩き込まれた客観的な情報を思い出すよりも前に、俺はその美しさに鮮烈なまでに惹かれていた。それは彼女を一目見た時と同じような感覚だったと気付いた時にはもう遅く、またもや残照を追い求めるかのごとく無意識の内に彼女に焦がれてしまったのだと、思い知る。
「アンバーは、健康や愛を象徴する幸福の石なんだ。大事なひとに贈るお守りとしては、最高のプレゼントだと思うよ」
「ですが……今は、渡そうにも渡せないので」
「おや。もしかして、辛いことを思い出させてしまったかな。ごめんね」
「いえ、お気遣いなく。……もし万が一贈れたとしても、俺からのプレゼントは喜んでくださらないと思いますし」
「お兄さん程の色男が、随分と気弱なことを言うね! プレゼントは、相手が喜ぶかどうかで選ぶものじゃないだろ? 自分が贈りたいかどうか、相手のために選ぶ時間をどれだけ大切に出来たか。それに尽きるんじゃないかな」
そこで、初めて店主ときちんと目が合った。黒髪短髪で同じ年頃の青年が、茶色い目を無邪気に細めて笑っている。肌は褐色だったが、この国には彼女と似たような特徴を持つ人々が多いことに、改めて気付いた。
頑なに閉ざしていた心がほんの僅か緩んでいくような心地に驚きつつ、彼の言葉に深く頷いて同意する。
「あの。値段は割増でお支払いしますので、厳重に梱包いただいても宜しいですか」
「勿論だよ! どんな輸送方法にも耐えられるようにしっかり包むね! ……これを贈りたいひとに、早く再会できると良いね」
「はい。……ありがとうございます」
あの夜以来、他人と真正面から会話をするのは、随分と久しぶりのような気がした。もし再び出会えた時、彼女に対して装飾品を贈ったとしたら、何を遊び惚けていたのだと叱られてしまうかもしれない。
だがそれで良かった。大切なものを忘れそうになった時、いつだって俺を引き戻してくれるのは彼女の存在なのだと、改めて実感したから。その背中が、横顔が、声が、言葉が、表情が、指先が、いつも俺をこの世界に繋ぎ止めてくれるのだと、痛感することが出来たから。
───たとえ今後どのような決断を下し、どのような結末を迎えようとも、あなた様の人生は、あなた様自身が掴み取ったもの。誰に何と言われようと、誇るべきものです。
彼女の文字で綴られた、あの切なくて温かな言葉を思い出す。あんたに出会えた時点で、俺は既に自分の人生を誇らしく感じられたんだって、このアンバーに感謝と祈りを込めながら。
俺は、夢を見ていた。優しくて柔らかな、心の奥底に仕舞い込んでいた筈のかつての思い出だった。
目を覚ませば、彼女もお嬢様もそこにはいなかった。
忌々しいゴリーニのボスの個性によって作られたであろう、広大な山並みが見える空間の中で、情けなくも寝転んでいた。やけに美しく壮大な自然の風景を模したこの場所は、閉ざされた世界で生きざるを得なかった二人に対する皮肉かと、正直吐き捨てたくなったが。
しかしそんな悠長なことも言っていられず、俺は突然、ゴリーニの部下であろう黒服の刺客に襲われていた。……何故か、「個性を出せなくて」と笑いながら宣う、役立たずなヒーローのガキ様が隣にいたが。
ゴリーニの奴らが持つ個性は粗方把握していたため、個性を使用不能にするフィールドが周辺に形成されたのだろう、と予想はついた。だがそんなアドバイスをしてやる義理はないし、この程度の
ショック弾を使用して行動不能にした後、大事に受け継いだバイクが横転しているのに気付き、持ち上げようとする。……が、彼女から受けた蹴りと直後に降り注いだ瓦礫によるダメージが蓄積していたのか、服は破れてバイクを元に戻すことさえ一苦労だった。
少しも手加減してくれないところが彼女らしくてひどく懐かしいと、情けない気持ちになりつつ懸命に全身に力を込める。そんな俺を助けたのは、先程散々罵って遠ざけた筈のヒーローのガキ様だった。
成程。……彼女の言う通り、緊急時の初対面だからこそ分析できる人間性というのはあるらしい。人助けを使命とするヒーローらしいと思いつつ、俺は彼女が本当の意味でのヒーローでなくて良かったと、的外れなことを考えてしまっていた。
本人は頑なに認めないだろうが、彼女は優しいひとだから。無様に蹲って逃避することしか出来なかった餓鬼さえも見捨てず、手を差し伸べてしまうようなひとだから。受けた恩を決して忘れることなく、自分の一生を捧げてでも報いようと身を粉にするひとだったから。
耳にしただけの俺でさえおぞましく感じる虐待を受けていたにも拘わらず、平穏に幸せに暮らしていたシェルビーノ家を心から慕うことが出来る程に、精神が強いひとだから。
今でさえこんなにも距離が遠いというのに、これ以上手の届かない場所へ行かれたら……。
「……ジュリオさん?」
黒服から拝借した携帯端末を使用し、抜け道を探した後のことだった。バイクの積み荷に括り付けたヒーローのガキ様───デクというらしい───に話しかけられて、ハッとする。
「何ですか」
「いえ、何か考え事をされていたようだったので」
「……今後の目的を再確認していただけです。お気になさらず」
「そうですか……。僕でお役に立てることがあれば、何でも言ってくださいね!」
どうやら彼は本当に、根っからの善良な少年らしい。スラム街での生活を知っている身からすると胡散臭く感じる程には。だが決して不快な訳ではなく、ここまで真っ直ぐな人間と関わるのが久しぶりすぎて距離感を図りかねている、といった方が適当かもしれない。
薄暗いトンネルの中をバイクで走り続けていると、ゴリーニの手下から襲撃を受けた。こちらは攻撃の手数も少ないというのに厄介だと歯噛みしつつ、トンネルを抜けた先に見えた海岸らしき場所で、パウロ・ゴリーニと対峙する。
彼女が乗っていた頃よりもすっかり大改造したバイクを駆使し、個性を取り戻したデクをサポートする。……どうやら、思ったよりも強大な個性を有している上に、頭もそこそこ回るらしいと認識を改めた。
特に難なくパウロに勝利できたかと思った、次の瞬間。俺は、こちらを無遠慮に見下ろす憎き気配を察知する。間違いなくボスがそこにいると確信しながら銃を撃てば、確かに奴はそこにいた。俺の弾なんか意にも介さないような飄々とした顔で。
頭上に作られていたテラスのような場所で、ボスはパウロを処罰しようとしていた。俺たちに倒されたことで期待外れだと見なされたのだろう。実の娘さえも駒のように使い潰そうとする無慈悲な男らしいと、苦々しく思った時。……またもや俺は、絶句する。
「ダークマイト様」
「おや、ナマエ。わざわざ様子を見に来てくれるなんて優しいね」
「恐縮です」
彼女が、ボスの後ろに控える形で立っていた。このまま銃口を向け続ければ、同時に彼女を傷付けるかもしれない。元々敵う筈がないとは思っていなかったが、ならば俺は余計に今撃つことが出来なかった。ゆっくりと銃を下ろしていく。
どんなに必死に見つめても、今度は彼女と目が合うことはなかった。
「ダークマイト様、パウロは貴重な人材です。簡単に切り捨てるのは大変勿体ないかと」
「んー、そうかい? だがナマエ、オールマイトは一度たりとも約束を違えたり、失敗したりしたことはなかったよ」
「ええ、圧倒的な強者だからこその象徴。ダークマイト様のお考えはご尤もです。一方で、弱者に慈悲をお与えになるのもまた、世界に平和をもたらす象徴としての権威を高めるのではないかと、私は思います」
無表情かつ無感動に語っているように見えて、相手の気質に最大限配慮していることを感じさせる言葉選びだった。実の親子である筈なのに、明確な上下関係を前提とした会話をしている様に吐き気がする。
「成程ねえ。一理ある。それに可愛い娘の頼みだ。父親としては聞いてやりたいからね」
「……恐れ入ります。場所に困るようでしたら、私の自室をご自由に使って頂いて構いませんので」
「ではお言葉に甘えて、君の私室に送ろうか。パウロ、ナマエに感謝するといい」
両腕を掴まれて宙吊りになっていた男が、涙を流しながら口を開いた。
「ひ、姫! あ、ありがとうございます! この御恩、一生忘れません!」
「……いえ、お気になさらず」
ゴリーニファミリーの面々から「姫」と呼ばれていることに対して、どうやら彼女は乗り気ではないらしい。長年の付き合いがあったからこそ読み取れた感情に、身勝手ながら安心する。やはり彼女は彼らに心を許した訳ではなく、胸に秘めた目的に従って動いているのだろうと推察できたから。
「だがナマエ、こちらを邪魔しようとする虫の排除はしても構わないだろう?」
「……どうぞ、ご随意に」
パウロが別の空間に送られた後、ボスが標的としたのは俺たちだった。デクが容赦なく打倒されていく様を苦々しく眺め、出来る限りサポートしながらも、浮遊の個性によりこの空間を離れていく彼女の背中をつい目で追ってしまった。
しかし自分の命は守らねばならないと、敗北を喫したデクを回収するべくバイクを走らせる。彼女が消えた後にも、燕尾服のポケットに大事に仕舞った黒薔薇が、香しい残り香を俺に刻み付けていった。高らかな笑いを最後に消えたボスを睨みつけながらも、俺は再びハンドルを回す。
別の空間に移動し、態勢を整えようとした俺たちを迎えたのは、どこか懐かしさを覚える市街地を模した場所だった。街並みの特徴を見るにヨーロッパのどこかなのだろう。もしかしたらボスや彼女に所縁のある地なのかもしれないと思えば、心臓の奥深くにさらなる憎悪が滲んでいく。
そこで俺は、さらに心臓を衝かれる光景を目の当たりにした。
「……ッ、お嬢様!」
鍔の広い帽子を被った女と共にいた、虚ろな顔をしたお嬢様を発見する。周囲には、過剰変容の個性に適合しなかったであろう大勢の人間が倒れていた。本人の意思を無視して個性だけ搾取しようとするゴリーニの姿勢には、やはり虫唾が走る。
未だにお嬢様の求めに対する答えは見つけられていないのが実情だったが、それでも今、手を伸ばさなければならないのだということは分かっていた。しかし、その思いさえもゴリーニによって阻まれる。
対象者に幻影を見せる個性の持ち主がいることは知っていたのに、つい動揺したことで油断してしまった。
怪しく光った女の目に射抜かれ、俺はまた夢を見る。
彼女と、お嬢様と、旦那様と共に暮らしていた頃の、平和な日常を、夢に見る。
何度も何度も繰り返し、擦り切れてしまいそうな程に思い起こした記憶に、囚われたままでいたかった。
そんな俺の甘ったれた思考を射殺さんとするばかりに、お嬢様が俺の首に手をかけ、強く締め上げていく。
呼吸が奪われ、脳に酸素が行き渡らず、目の前がチカチカと点滅する程の息苦しさに襲われ、これも因果応報かと覚悟を決めそうになった時。
───ジュリオ。お嬢様のことは頼みました。
彼女の声が、頭の中で甦る。そうだ、俺は彼女からお嬢様を託された。お嬢様から、お嬢様自身を殺すように頼まれた。ならばお嬢様ご本人が、俺を今ここで殺そうとする筈がない。
事態を打破すべく、お嬢様の姿をした何者かに手を伸ばす。そこで強烈な違和感を覚えた。かつて個性を使えた右手が、怪我一つなく純白の手袋を身に着けている。
……そんな訳がない。俺の右手はあの悪夢のような夜、瓦礫に潰されたことで義手になったのだ。彼女からのアドバイスを元に改良し、銃としての機能を保持させたのだ。
この胸糞悪い夢を打破せねばと、元凶を撃ち落とすべく右腕を起動させる。撃て、撃て、撃て、撃て……!
探知機能を使って探り当てた場所を、ピンポイントで撃ち抜く。すると俺の首を絞めていた指先が緩み、一気に肺に酸素が入ってきた。夢の世界が急速に消え、先程の街並みが目の前に広がっていく。今感じている息苦しさこそが、俺にとっての現実なのだと思い知る。呼吸を整えるために何度か咳を繰り返しながら、状況を把握していった。
どうやら俺は、幻覚を見せる個性を持った女を的確に無力化できたらしい。腕を抑えながら倒れ込むその姿を一瞥する。
すぐ傍にあった階段の踊り場にて、慌てたようにお嬢様がご自身の姿を見下ろしていた。その青い瞳には明確な意思と感情が宿っており、今も一人の人間として心から慕う気持ちと、願うならば今後も末永くお仕えしたいという思考が湧きあがった。
だが、───その頭頂部には、個性の暴走の形跡が見えた。豊かな小麦畑を思わせる美しい金髪に、彼女に似た黒が入り交じっている。お嬢様が仰る「もしもの時」が近づいていることを、痛感した。
自分の願いよりも主君の望みを叶えるべき存在が使用人なのだと。俺はすっかり、彼女から学んでしまっていたのだ。
「ジュリオ……!」
「お嬢様……」
俺に気付き、駆け寄ろうとしてくれたお嬢様に対して、再び銃口を向けた。すると、かつてご自分が口にされた願いと現状を思い出されたのだろう。全身を強張らせた後、覚悟を決めたようにゆっくりと頷いた。
「……ねえジュリオ、一つだけ聞いてもいい?」
僅かばかり恐怖の色を滲ませながらも、お嬢様は必死に笑おうとしていた。今まさにお嬢様の命を奪おうとしている俺は、内心冷や汗をかきながら、声が震えないよう細心の注意を払う。
「……何なりと」
「ナマエには、会えた?」
「はい。……メイド長は、相変わらずでしたね」
「そうでしょう。何年経ってもずっと、ナマエは切ないくらい優しくて、強くて、自分よりも私のことを優先してくれるの。……ジュリオ、ごめんなさい。私のせいで、あなた達を引き離してしまって」
「お嬢様が謝る必要なんてないでしょう! ……むしろ、お二人を助けられない程に無力で、申し訳ありません」
「そんなことないわ。いつもナマエと会う度にね、話していたのよ。きっといつか、ジュリオが助けに来てくれるって。だから希望を持ちましょうって」
「……ッ」
心臓が握り潰されそうだった。助けるだなんてとんでもない。俺は今まさに、お嬢様に手をかけようとしているというのに。未だに彼女には全く敵わないというのに。
情けなさのあまりつい目を逸らした瞬間、お嬢様の悲鳴が聞こえた。浮遊の個性が使われ、ボスのもとへと再び連れ去られてしまう様を目撃する。血が滲みそうな程に歯ぎしりをした。ああ、なんてみっともない。
「……ジュリオさん」
デクを中心に、ヒーローらしき少年少女たちが俺へと真っ直ぐに目を向ける。……ああ、くそ。いよいよ、こちらの事情を語らざるを得ない場面が訪れたようだった。
シェルビーノ家のこと、お嬢様の個性のこと、俺のこと。……そして、彼女のこと。それぞれの願いと望みと思いについて、俺が知っている範囲で明らかにしていった。
すると彼らは、お嬢様と彼女を共に救おうと、お嬢様の個性を抑える手立てを一緒に考えようと、心底朗らかな笑顔でそう言った。そんなものがあるのかと半信半疑な思いが湧きつつも、確かに俺は、彼らに比べて個性の抑制については無知であると思い至る。もし一時的であっても個性を消す方法があるならば、……万が一にも殺さずに済む選択肢があるならば、この手で掴み取ってみたかった。
彼らの言葉を、俺は受け入れてしまった。───きっと彼女も同意してくれる筈だと、それだけは確信があったから。
その後、俺は隙間時間を使って、義手や義足に仕込んだサポートアイテムに更なる細工を施していく。すっかり第二の身体にも慣れたものだと自嘲しながら、時折、大勢の避難民を助けるヒーローたちを観察した。どんな絶望的な状況にあっても笑顔を崩さず、他者を助けるために奮闘する精神は、確かに高潔なものだと思ったし、あのボスなんかとは似ても似つかない。
俺たちを絶望の底に突き落とし、この事態を招いたのは、ヒーローでもオールマイトでもなく、あの邪悪な精神を持った利己的な男なのだ。八つ当たりじみた精神でヒーローを軽んじていた思考を反省し、今後自分が成すべきことを再認識する。
お嬢様を助け、ボスを倒し、可能ならば彼女にも手を伸ばす。たとえ二人から何と言われようと、自分がやりたいことを成し遂げたいと、彼らのお陰で思うことが出来た。
準備が整った段階で、やたらとガラの悪い少年がその場を仕切り始めた。どうやらデクを含めた四人の少年が、同じ目的を持ってボスのもとへと向かうらしい。ならば追いかけない理由はないと、俺もバイクにて並走する。
途中で何回か難所はあったものの、ヒーローたちの奮闘と協力のお陰で、俺はデクと共に船の最深部へと辿り着いた。
そこは色鮮やかな花が一面に咲いているのに一切の香りが無く、所詮は作り物のハリボテでしかないのだと痛感する。
待ち受けていたのは、虚ろな顔をしながら腰かけるお嬢様、お嬢様の傍に控える彼女、そして全ての元凶たるゴリーニのボスだった。
「ナマエ、分かっているね? 手加減は無用だ。かつての仲間の心を、徹底的にへし折ってやりなさい」
「……かしこまりました、ダークマイト様」
彼女の瞳に、真っ直ぐ射抜かれる。これから戦わなければならない状況は理解しているのに、俺は不謹慎にも喜びを感じてしまっていた。
彼女が一個人として俺を見てくれたことなんて、今までに一度も無かったから。出会った時からずっと、ナマエ・ミョウジはシェルビーノ家の使用人であり、その心に触れるチャンスなど存在しなかったから。
黒薔薇を仕舞ったポケットに触れながら、かつて彼女を想って買った琥珀を想起する。自分の胸に蒔いた種が実らなくても構わなかった。だがせめて、彼女が全てを諦めることのないように、この手で最期まで足掻いてみせようと、改めて誓いを立てていった。