荒涼の先に月涼し
ボトル洗いを終えたらすぐ、仁花ちゃんと一緒に体育館へと戻った。先程とは打って変わってリベロ魂シャツを着ながら入れば、ちょうど音駒が休憩のターンだったらしい。
真っ先に黒尾に爆笑され、海には和やかな笑顔で迎えられ、夜久には探るような目を向けられた。すぐに駆け寄ってくる我らが守護神は、ついたじろいでしまうほど真っ直ぐな瞳で見つめてくるものだから、後ろめたいことがなくともギクリとしてしまう。
「おい苗字、何かあったか?」
「んー? ちょっとシャツが濡れちゃったから、着替えてきただけ」
「ならちょっと手、見せてみろ」
温かくて皮の厚い硬い両手が、私の手の甲をそっと包みこんでいく。労るように手のひら全体で撫でられながら、指先から手首に至るまでまじまじと観察されるのが分かって、純粋な羞恥心に襲われた。
楽器の練習をしている影響で手の皮は硬いし、大きいペンだこはあるし、水仕事が多いから荒れているし、正直女の子らしく綺麗な手とは言えないから。
「……ん。怪我はしてねえみたいだな。いつも通りの綺麗な手だ」
「あー、……うん。心配してくれてありがと」
綺麗なんかじゃないと言いそうになったけど、さすがに夜久が本気でそう思ってくれていることくらいは分かるから、何とか言葉を濁して誤魔化した。
「水を被るなんて注意散漫な真似、苗字は普段やらねえだろ。なら怪我したか、誰か他の奴に気を取られた隙にやったかと思ったんだよ」
今回は単なるお節介の結果だったが、鋭い、と内心ヒヤリとしつつ笑う。自惚れかもしれないが、私以上に私のことを分かってくれているような気がした。自然と胸が熱くなる。
「それじゃ、私そろそろ仕事に戻るね」
「おー。邪魔して悪かったな、気を付けろよ」
「夜久も。何か身体に違和感あったら、すぐ言って」
今は音駒にとっても大事な時期で、リベロの身体は頭の天辺から爪先に至るまで大切なものだから。言語化しなくとも互いに同じことを考えていることが分かったから、私たちはまた笑って拳を突き合わせた。
その後も滞りなく、練習試合が繰り返されていく。相変わらず色々と挑戦する烏野さんに対し、我らが音駒は、息を潜めながら鋭く爪を研ぐかのごとく集中力を高めていた。
やはり今日も世界一カッコイイなと思いつつ、マネージャーの仕事と並行して食事の準備を進めていく。
そうしてあっという間に合宿の一日目は過ぎていき、いよいよ自主練習の時間が訪れた。雪絵ちゃんを筆頭にマネージャー陣が融通をきかせてくれたので、レシーブ練習をしている第二体育館へと真っ先に足を向ける。
昼間と変わらずリベロ魂シャツを着つつ、差し入れを持ちながら入れば、バチッと目が合った西谷くんが瞳をキラキラと輝かせてくれた。今日も眩しくて素敵すぎる。
「苗字さん! そのTシャツ、めっちゃカッチョいいッスね!」
「え! そうかな!?」
「……苗字って、西谷くんを前にするとはしゃぐよなー」
一緒に練習をしていたらしい夜久が、どことなくジトリとした目でやってきた。私が一番はしゃいでしまうのは音駒の皆の前だと思うのだが、どうやらそうは見えないらしい。
「はしゃぐというか、ファン心理が働いて緊張するって方が正しいかも」
「緊張ねえ……。俺の前でも滅多にしねえだろ」
「まあ、夜久に緊張してたらキリないし。それよりほら。差し入れいる?」
「いる」
「俺も欲しいッス!」
「西谷くん! どうぞ……!」
大人しくプロテインバーをもぐもぐと食べ始めた二人に笑いつつ、その場で周囲のメンバーに呼びかけて、希望者に同じものを配っていく。ここはリベロ陣を中心に、全校の選手が満遍なく集まってる印象だった。中でも音駒率が高いので安心するし、目が合った福永と無言でハイタッチをしておく。よし、可愛い後輩と触れ合えたので大満足。
しかし、こういった休憩時間でさえ夜久と西谷くんに視線が集まっているのを見るに、やはりこの二人の背中から学ぼうとしているメンバーが多いんだろうなと実感した。なにせ、性格もプレーも男前なリベロなので。と考えながら周囲を見渡していると、ふと違和感に気付く。
「あれ、そういえば灰羽は? 夜久、初日から徹底的にしごくって言ってたよね」
「あー、……今日は黒尾に任せたんだよ」
「夜久が諦めるってことは、灰羽が相当ごねたか。夜久にワンツーマンで教えてもらえるとか、むしろ羨ましいくらいなのに」
「超分かります! なんで今日は、俺が夜久くんを独り占めさせてもらってて!」
ピョーンと飛び上がりながら心底嬉しそうに笑う西谷くんの顔が、やはり眩しい。その上で夜久に対する呼び方が親しいものに変わっていることに気付き、生まれて初めて感じる激しいときめきに襲われた。
「なるほど。これが尊いという気持ち……」
「苗字、何を訳わかんねえこと言ってんだ。そろそろ再開するけど、ボール出ししてくか?」
「する!」
「よし。頼んだ」
特等席でレシーブ練を⾒学させてもらいながら、合間にふと、黒尾のことを考える。いつもは飄々として本⼼を掴ませないように振る舞う主将が、今日は素直に激励を求めて⽢えるような⾔動を取ってきたのだ。きっと、本⼈が思っているよりも緊張しているのだと思う。友だち兼マネージャーとしては、あまり踏み込みすぎるつもりはなかったけど。
「苗字、何かあったか?」
一息入れた時、気遣うように声をかけてくれたのは海だった。やはり視野が広いなと擽ったい気持ちになりつつ、自分の思考が表に出るくらいには悩んでいたらしい、と初めて知る。
「海、心配してくれてありがと。私に何かあったって訳じゃなくて……ちょっと黒尾が心配で」
「ああ、今日ずっとソワソワしてたもんな。苗字に相談したって言ってたから、俺から詳しくは聞かなかったんだけど」
「うん、有難いことにね。……ねえ海、聞きたいんだけど。さりげなく様子を見に行くの、迷惑じゃないかな?」
「黒尾から相談したって言うし、むしろ苗字から踏み込まれるのは大歓迎なんじゃないか?」
「そう、だよね……。うん、ありがと海! 私ちょっと行ってくる!」
友人が一人もいなかった私が、他校のメンバーとそれなりにコミュニケーションを取れるレベルまで至ったのは、海の存在が相当大きかった。たとえば友だちとして、クラスメイトとして、部員として、他人に対しては一体どんな振る舞いをするのが自然なのか。一年生の頃はうざったいくらい逐一相談していた記憶がある。
黒尾は、ワイワイ騒ぎながらさりげなく甘やかしてくれるお父さんという感じだが、海は圧倒的な包容力で人間としての成長を支えてくれるお兄ちゃんのようだった。実際、海にはお姉さんも弟さんもいるからか、距離感のはかり方が音駒で一番巧みだと思う。
「いってらっしゃい。初日だし、俺は少し早めに休むな。苗字も何かあったら、また遠慮なく相談しろよ」
「本当にありがと……。むしろ海には相談しすぎて迷惑かけてないか心配するレベルだけど、また後でサインください」
「はは、俺ので良ければ喜んで。……あ、夜久がこっち見てるな」
壁際で話していたから、最後に少しボリュームが落とされた言葉は、私たち二人しか聞いていなかっただろう。おかしそうに笑う海の視線の先を見れば、確かに夜久がこちらを見ていた。ガン見である。……自惚れでなければ、私のことを多少気にしてくれているのかもしれない。海も同じ思考に至ったようだ。
「後で部屋でもフォロー入れとくから、いってこい」
「海、何もかもありがとね……。それじゃお疲れ!」
「苗字もお疲れ。また明日な」
夜久のもとへ真っ直ぐ飛んで行くと、何故か仁王立ちで迎えられた。とても頼りになる男前なのは間違いないけど、結構な頻度で突拍子もない言動が飛び出てくるからな、と若干身構える。
「夜久、どしたの」
「苗字、楽になったか?」
何が、とは言わないけど、海が気付いていたなら夜久が気付いていない筈もなかったか。穏やかな気持ちのまま、ゆるりと笑顔を返す。
「うん、海のお陰で」
「なら良かったわ。俺もそろそろ上がってリエーフの様子見に行くけど、苗字はどうする?」
「あ、ならちょうどいいや。私もついてく」
「おし、なら行くか」
そんな風に話していると、犬岡や福永も一緒に行きたいと近寄ってくる。可愛い後輩の頼みは聞いてあげたくなるのが先輩という生き物だし、二人の顔色はすこぶる良さそうなので問題ないだろう。
「夜久くん! 苗字さん! お疲れッした!」
「おー。西谷くんもお疲れ!」
「西谷くん、お疲れ様……! ゆっくり休んでね!」
そうして帰り際の挨拶を交わした後、音駒の皆と一緒に第三体育館までの道のりを歩いていく。森然は自然が近い環境だからか、いつもより蝉の声が大きく聞こえた。こういうのも夏の醍醐味だよね、と語らいつつ目的地の扉を開ければ───真っ先に、バツの悪そうな顔をした黒尾と目が合った。
すれ違いざまに、苦々しい顔をした月島くんが去っていくのを見て、何となくの事情を察してしまう。恐らく……いつものノリでちょっかいをかけた結果、失敗したか。
夜久たちが灰羽に話しかけていく隙を見て、我らが主将に真っ直ぐ駆け寄った。ネットを挟んだ向こうにいた赤葦や木兎にも挨拶をしつつ、いつもより覇気が無い友達に向き直る。
「黒尾。何か手伝えることある?」
「あー、うーん……。彼、タオルを忘れてったみたいだから、ホントなら届けてあげたいんだけど」
「そう思いながら踏みとどまってるってことは、ここにいたメンバーより、まだ第三者が届けた方が良さげ?」
「たぶん。……悪い」
「謝らない。避けた方がいい話題は?」
「チビちゃ……じゃなくて、烏野の十番くんについて、かな」
「了解。それじゃ追いかけてくるから、また明日、澤村くんのとこ一緒に行こう」
こういうのは報連相が大事だし、黒尾なら謝罪も一人で行きそうだけど。思ったより落ち込んでいそうだから、少しでも励ませる言葉をあげたかった。
「はあい……。ありがとね、苗字」
「お互い様。じゃ、またすぐ戻るから!」
黒尾が指差した先にあったタオルを回収して、素早く駆け出す。音駒の皆も私の様子を見て色々と察したのか、快く手を振って送り出してくれた。夜久だけは目で「あとで説明しろよ」と言っていそうだけど、そのあたりは一旦黒尾に任せることにする。
日向くん、というヒントを得た私の足は、自然と第一体育館に向かっていた。影山くんと共に練習する予定だ、と練習終わりに大声で話しているのを聞いていたから。
どうやら予想は的中したようだった。明るい体育館の中から真っ暗な廊下に飛び出してきた、苦々しげな顔をする男の子に遭遇する。
「月島くん」
「……何でしょうか」
案の定、刺々しい声だった。今日は会話を長引かせずに、用件だけ素早く済ませた方が良いと判断する。
「疲れてるところ、急にごめんね。このタオル、忘れてたみたいだから届けに来たんだ」
「どうも。……主将さんから何か聞きましたか」
「ううん、詳しくは何も。……もし私で手伝えることがあったら、いつでも声かけてね」
「……僕のことも、そうやって取り巻きの一人にでもするつもりですか?」
「え?」
眼鏡の奥に浮かぶ剣呑な光が、私を射抜く。まるで手負いの動物みたいな目をしている、と思った。この子はきっと今、何かが原因で傷ついているのだろう。怪我をしている訳ではなさそうだから、恐らくは、目には見えないどこかに負った傷が痛んでいるのかもしれない。
自分の傷を癒す方法が分からないからこそ攻撃的な言葉を使ってしまう心境は、これでも理解できるつもりだった。
黒尾から心のスイッチを押されてしまった直後、自分を制御できない追い詰められた精神状態に陥った時に、急に現れたのが私だったのだとしたら。それは気分を害しても仕方がないだろう。なにせ私と黒尾は関係性も距離感も近い訳だし。
だからこそ、今はただ彼から溢れる言葉を受け止めることが、偶然居合わせた私がしてあげられることなのだろうと腹をくくる。
「いいですよねえ、苗字さんは。勉強も料理も何でも出来て、周りからチヤホヤされて、お姫様みたいに扱われて、常に貴女を肯定してくれる存在が傍にいて。そりゃさぞかし気分が良いですよね。貴女の大好きな主将の気分を害したから、無理やり仲良しごっこでもさせるつもりなんですか? 随分と自分勝手じゃないですか。僕はそんなこと望んでないのに」
とめどなく流れ落ちていく言葉の数々には、やはり、悪意よりも痛みが滲んでいるような気がした。もしも私の感覚が的外れでないならば、勝手な憶測をして無理に今の言葉に返事をするのは得策ではないだろう。
「…………ねえ、月島くん」
「……。はい」
「ハーブティーって好き?」
「は?」
本気で驚いたような瞳が、丸くなって私を見下ろす。うん、方向性は間違っていなさそうだった。
「夏場だけど、気持ちが落ち着くかもしれないし。良かったら、温かいお茶淹れるよ?」
「……何で、怒らないんですか。文句も言わないんですか」
「その必要がないからかな。……あ、もちろん無理に飲めなんて言わないけど」
「ここで断ったら僕だけ悪者になりますし……実質、拒否権ないですよね」
「うん、そうかも」
とうとう月島くんが、深々と息を吐き出す。そもそも黒尾がこの子に声をかけた理由は、ゴミ捨て場の決戦を実現させたいからだし、ならば志を同じくする私が気に掛けるのも当然だった。
それに何より、今の私は音駒のマネージャーであり、合同合宿をサポートするマネージャーというポジションでもあるから。関係の薄い他校の後輩にも、多少踏み込んだって構わないだろう。
「何も聞かないし、何も言わない。それでいいかな?」
「……苗字さんがそこまでするメリットって、何ですか」
「うーん……。明け透けもなく言えば、音駒と因縁のある烏野さんと深く関わりたいっていうファン心理かな。自分勝手なエゴだと思う」
「成程。……納得はしますが、このまま自分が口にしたことの責任を取らないのは気持ち悪いです」
「そっか」
「さすがに言いすぎました。……申し訳ありませんでした」
俯いた月島くんが、自らの顔を隠すように頭を下げた。少しは気持ちが落ち着いたようで良かったと、素直に安心する。うちの主将のせいで心が乱れてしまったならば、マネージャーとして出来る限りのフォローはしておきたかったし。
「謝罪、確かに受け取りました。ありがとね」
「……それだけですか?」
「え?」
「正直、音駒の皆さんに突き出されても仕方がないと思ったので」
全くない発想だったので、ついきょとんとする。月島くん相手ならば多少込み入った話をしても構わないか、と口を開く。
「……こういうのって、誰が悪いかって話にすると余計に拗れちゃうから。それに、一度口にした言葉に対してずっと揚げ足を取っていくのって、卑怯じゃない? 時間が経つにつれて人の考え方が変わっていくのは自然だし、一時の感情や言葉を軽率に否定するのは良くないと思うんだよね」
「……僕、苗字さんの取り巻きにはなりませんよ」
「さっきから言ってるけどそれ何!? いや、意味は何となく分かるんだけど」
少しだけ空気が緩むのが分かって、改めてホッとする。お互いに感じていたであろう息苦しさが、確かに解けていく。
「この流れでなんですが、お茶はいらないです」
「うん、キッパリ言ってくれた方が助かる。ありがとね」
「……その代わり、僕に出来ることはします。何でもとは言いませんけど」
月島くんが、背筋を真っ直ぐと伸ばしながら言う。確かにまったく傷付かなかったと言えば嘘になるし、責任を取りたいとは本気で思ってくれていそうだし。……その時、烏野の中では月島くんに一番話しかけていた、山口くんの声を思い出す。
「ツッキーと蛍くんなら、どっちがいい?」
「は?」
「呼び方。どっちがいい?」
「…………。その二択なら、ツッキーですかね」
「うん、分かった。これからそう呼ばせてもらうね」
「……苗字さんって、思ったよりもいい性格してるんですね」
本気で嫌そうな顔をされて、つい笑いが溢れる。本人が苦手そうで私が嬉しいことと言ったら、咄嗟にこれくらいしか思いつかなかったのだ。
「それじゃ、おやすみツッキー。明日からもよろしくね」
「……おやすみなさい。失礼します」
素早く去っていく背中を見送ってから、第一体育館の中へと目を移す。日向くんと影山くんが元気よく速攻を合わせたり、各校のエース陣が黙々とスパイクを打ったりしていた。
その中で田中くんと切磋琢磨する山本に内心エールを送りながら、第三体育館への道を辿る。普段なら差し入れを持って立ち寄るところだけど、今日はさすがに我らが主将が心配だったので。
「お疲れー」
「苗字! 悪い! どうだった!?」
中には黒尾と夜久がいた。二人以外は既に戻ったらしく、真っ直ぐに飛んできた黒尾の背後で夜久が仁王立ちしている。ここまで仁王立ちが似合うリベロは夜久以外にいないんじゃないだろうかと、つい感動してしまった。
「案の定ちょっと荒れてたけど、タオルは返してきたよ。最終的に、ツッキーって呼ばせてもらうことになったよ」
「ちょっと待って苗字さん! 色々飛躍しすぎてるし情報過多です!」
「えー。そう?」
「俺も黒尾に同意だな。苗字、出来る範囲でいいから詳しく説明しろ」
「うん。実際、二人には相談しておきたかったからちょうどいいかな」
内容をかいつまんで説明していく。その中でツッキーが私に何と言ったかの言及は避けたものの、二人とも何となく内容を察したのか、考え込みながら難しい顔をしていた。
「……とまあ、そんな感じの会話をしまして。本気でツッキー呼びするかどうかと、澤村くんにどう共有するかの二点が難しいなと」
「ま、ツッキー呼びはしていいんじゃね? 向こうがそれなりのこと言ってきた上で、苗字に対する責任を取った結果ってことなんでしょ」
「一応、そういうことにはなるかな」
「……そこは俺も異論なしだな」
「そうは言ってもやっくん、顔怖いですけど? 俺以外の男をあだ名で呼ぶんだな、って感じ?」
「…………うっせーな」
「はい図星。まあ澤村さんには明日俺がかるーく説明しとくから、そこは心配しないでいい。……それより俺としては、苗字の方が心配かなー」
「え? 何が?」
上から覗き込んできた黒尾が、困ったように笑ってから夜久を見る。視線を受けた本人は、軽く頷いてからキッパリと口を開いた。
「苗字、抱き締めてもいいか?」
「夜久さんが今日も唐突!?」
「ウン、俺が邪魔だね。もう戻るから、お二人さんでごゆっくりー」
ひらひらと手を振る黒い背中が、言葉通り扉に向かっていく。どことなく寂しそうな様子が気になったものの、今回は黒尾に恩を売る形になってしまった私が口を出すべきでない気がしたから、伝えたいことだけ叫ぶことにした。
「黒尾! 海が黒尾のこと心配してたから、良かったら声かけてみてね。お疲れ!」
「……本当にありがとネ。苗字もやっくんもまたなー」
「お疲れ。無理すんなよ」
「うん」
扉が閉まって、ゆったりとした足音と蝉の声が遠のいていく。閉まったドアを何となく二人でじっと見つめてから、改めて向き直った。相変わらず凛とした真っ直ぐな瞳が、私を包んでいく。
「で、いいか? 苗字」
当然だが、先程の発言は有耶無耶にならなかったらしい。顔が熱くなっていく。
「い、いいけど……。汗くさいのを我慢してもらえれば」
「お互い様だろ」
くしゃりと笑ってから、夜久が私をそっと抱き寄せる。張りのある筋肉の厚みと、柔らかな体温に直接触れるのは、やはりいつまでも慣れなくて、純粋に照れた。子どもをあやすように、夜久の大きくて温かな手が私の背中を何度も撫でる。
「傷付いた時も辛い時も、ちゃんと言えよ。俺はそういうこと察するの、得意じゃねえからさ」
「むしろ、夜久は私に関してよく気がつくなって感動するんだけど」
「そりゃ、苗字のことはいつも見てるからな」
心臓がギュッと飛び上がるように痛んだ瞬間、自分の心が今どんな形をしているのか、私はようやく認識した。やさしい体温に縋りつけば、胸の内が自然と口からこぼれ落ちていく。
「……あのね、夜久」
「ん?」
「ツッキーが、音駒の皆のこと……私の取り巻きって言ってて」
「あー、間違ってはねえな。俺たち苗字に対しては超過保護だし」
「それは嬉しいんだけどね? 私の大好きな皆はそんなにチョロくないぞ! って対抗心みたいな気持ちも湧いちゃって」
「引っかかるのがそこなのが苗字らしいな」
「……、あとね」
「おー」
「夜久は、常に私を肯定してくれて、チヤホヤしてくれて、お姫様扱いしてくれる存在なんだって」
何だよそれ、と笑い交じりの返答がくるだろうと予想していた。それなのに夜久は今までと違って沈黙を保った後、顎先を私の肩にそっと乗せてくる。目を合わせていないとはいえ、今までよりも顔の距離が近くなって緊張した。
「……夜久?」
「……、悪い。自分の行動を突き付けられて、猛烈な羞恥心に襲われてた」
「え!? そんなことなくない……?」
「あるんだよなー、これが。我ながら俺、苗字に超甘えもん」
「でも必要な時はちゃんと叱ってくれるし、全肯定ではない気がするけど」
「そりゃ確かに、盲目的に全部の行動を認めるのは違うと思うけどな。苗字の考えてることも感じてることも、出来る限り肯定したいのは事実」
「それは……確かに甘いね……」
「だろ?」
一瞬夜久の腕の力がギュッと強くなったかと思えば、パッと熱が離れて、再びお互いに見つめ合う形になっていた。温かくて眩しくて無邪気なその笑顔が、今日も私をやさしく照らし出す。
「戻ろうぜ。明日のためにも休まないとな」
「……うん、そだね。シャワー浴びたら少しだけ文化祭の練習もしたいし」
「お。音楽室だよな? 行っていいか?」
「いいけど、無理はしないでね」
「俺の自己管理スキルを舐めんなよ」
「それを言われちゃうとお手上げです」
心臓にピリッと突き刺さっていた棘が、いつのまにかゆるりと溶けていくのを感じる。すっかり真っ暗になった廊下を二人で歩きながら、私は改めて自覚した。
自分が思ったよりも傷付いていたこととか、音駒の皆が大好きであることとか、ツッキーとも少しずつ仲良くなりたいなーとか、やっぱり夜久が大好きだって気持ちとか。
自分の輪郭を、確実に緩やかに取り戻していくような感覚がひどく心地好くて、繋がった掌からやさしい気持ちが溢れ出していく。この体温がいつだって私を鼓舞してくれる事実が幸せで、また明日からも頑張ろうと、改めて決意した。
真っ先に黒尾に爆笑され、海には和やかな笑顔で迎えられ、夜久には探るような目を向けられた。すぐに駆け寄ってくる我らが守護神は、ついたじろいでしまうほど真っ直ぐな瞳で見つめてくるものだから、後ろめたいことがなくともギクリとしてしまう。
「おい苗字、何かあったか?」
「んー? ちょっとシャツが濡れちゃったから、着替えてきただけ」
「ならちょっと手、見せてみろ」
温かくて皮の厚い硬い両手が、私の手の甲をそっと包みこんでいく。労るように手のひら全体で撫でられながら、指先から手首に至るまでまじまじと観察されるのが分かって、純粋な羞恥心に襲われた。
楽器の練習をしている影響で手の皮は硬いし、大きいペンだこはあるし、水仕事が多いから荒れているし、正直女の子らしく綺麗な手とは言えないから。
「……ん。怪我はしてねえみたいだな。いつも通りの綺麗な手だ」
「あー、……うん。心配してくれてありがと」
綺麗なんかじゃないと言いそうになったけど、さすがに夜久が本気でそう思ってくれていることくらいは分かるから、何とか言葉を濁して誤魔化した。
「水を被るなんて注意散漫な真似、苗字は普段やらねえだろ。なら怪我したか、誰か他の奴に気を取られた隙にやったかと思ったんだよ」
今回は単なるお節介の結果だったが、鋭い、と内心ヒヤリとしつつ笑う。自惚れかもしれないが、私以上に私のことを分かってくれているような気がした。自然と胸が熱くなる。
「それじゃ、私そろそろ仕事に戻るね」
「おー。邪魔して悪かったな、気を付けろよ」
「夜久も。何か身体に違和感あったら、すぐ言って」
今は音駒にとっても大事な時期で、リベロの身体は頭の天辺から爪先に至るまで大切なものだから。言語化しなくとも互いに同じことを考えていることが分かったから、私たちはまた笑って拳を突き合わせた。
その後も滞りなく、練習試合が繰り返されていく。相変わらず色々と挑戦する烏野さんに対し、我らが音駒は、息を潜めながら鋭く爪を研ぐかのごとく集中力を高めていた。
やはり今日も世界一カッコイイなと思いつつ、マネージャーの仕事と並行して食事の準備を進めていく。
そうしてあっという間に合宿の一日目は過ぎていき、いよいよ自主練習の時間が訪れた。雪絵ちゃんを筆頭にマネージャー陣が融通をきかせてくれたので、レシーブ練習をしている第二体育館へと真っ先に足を向ける。
昼間と変わらずリベロ魂シャツを着つつ、差し入れを持ちながら入れば、バチッと目が合った西谷くんが瞳をキラキラと輝かせてくれた。今日も眩しくて素敵すぎる。
「苗字さん! そのTシャツ、めっちゃカッチョいいッスね!」
「え! そうかな!?」
「……苗字って、西谷くんを前にするとはしゃぐよなー」
一緒に練習をしていたらしい夜久が、どことなくジトリとした目でやってきた。私が一番はしゃいでしまうのは音駒の皆の前だと思うのだが、どうやらそうは見えないらしい。
「はしゃぐというか、ファン心理が働いて緊張するって方が正しいかも」
「緊張ねえ……。俺の前でも滅多にしねえだろ」
「まあ、夜久に緊張してたらキリないし。それよりほら。差し入れいる?」
「いる」
「俺も欲しいッス!」
「西谷くん! どうぞ……!」
大人しくプロテインバーをもぐもぐと食べ始めた二人に笑いつつ、その場で周囲のメンバーに呼びかけて、希望者に同じものを配っていく。ここはリベロ陣を中心に、全校の選手が満遍なく集まってる印象だった。中でも音駒率が高いので安心するし、目が合った福永と無言でハイタッチをしておく。よし、可愛い後輩と触れ合えたので大満足。
しかし、こういった休憩時間でさえ夜久と西谷くんに視線が集まっているのを見るに、やはりこの二人の背中から学ぼうとしているメンバーが多いんだろうなと実感した。なにせ、性格もプレーも男前なリベロなので。と考えながら周囲を見渡していると、ふと違和感に気付く。
「あれ、そういえば灰羽は? 夜久、初日から徹底的にしごくって言ってたよね」
「あー、……今日は黒尾に任せたんだよ」
「夜久が諦めるってことは、灰羽が相当ごねたか。夜久にワンツーマンで教えてもらえるとか、むしろ羨ましいくらいなのに」
「超分かります! なんで今日は、俺が夜久くんを独り占めさせてもらってて!」
ピョーンと飛び上がりながら心底嬉しそうに笑う西谷くんの顔が、やはり眩しい。その上で夜久に対する呼び方が親しいものに変わっていることに気付き、生まれて初めて感じる激しいときめきに襲われた。
「なるほど。これが尊いという気持ち……」
「苗字、何を訳わかんねえこと言ってんだ。そろそろ再開するけど、ボール出ししてくか?」
「する!」
「よし。頼んだ」
特等席でレシーブ練を⾒学させてもらいながら、合間にふと、黒尾のことを考える。いつもは飄々として本⼼を掴ませないように振る舞う主将が、今日は素直に激励を求めて⽢えるような⾔動を取ってきたのだ。きっと、本⼈が思っているよりも緊張しているのだと思う。友だち兼マネージャーとしては、あまり踏み込みすぎるつもりはなかったけど。
「苗字、何かあったか?」
一息入れた時、気遣うように声をかけてくれたのは海だった。やはり視野が広いなと擽ったい気持ちになりつつ、自分の思考が表に出るくらいには悩んでいたらしい、と初めて知る。
「海、心配してくれてありがと。私に何かあったって訳じゃなくて……ちょっと黒尾が心配で」
「ああ、今日ずっとソワソワしてたもんな。苗字に相談したって言ってたから、俺から詳しくは聞かなかったんだけど」
「うん、有難いことにね。……ねえ海、聞きたいんだけど。さりげなく様子を見に行くの、迷惑じゃないかな?」
「黒尾から相談したって言うし、むしろ苗字から踏み込まれるのは大歓迎なんじゃないか?」
「そう、だよね……。うん、ありがと海! 私ちょっと行ってくる!」
友人が一人もいなかった私が、他校のメンバーとそれなりにコミュニケーションを取れるレベルまで至ったのは、海の存在が相当大きかった。たとえば友だちとして、クラスメイトとして、部員として、他人に対しては一体どんな振る舞いをするのが自然なのか。一年生の頃はうざったいくらい逐一相談していた記憶がある。
黒尾は、ワイワイ騒ぎながらさりげなく甘やかしてくれるお父さんという感じだが、海は圧倒的な包容力で人間としての成長を支えてくれるお兄ちゃんのようだった。実際、海にはお姉さんも弟さんもいるからか、距離感のはかり方が音駒で一番巧みだと思う。
「いってらっしゃい。初日だし、俺は少し早めに休むな。苗字も何かあったら、また遠慮なく相談しろよ」
「本当にありがと……。むしろ海には相談しすぎて迷惑かけてないか心配するレベルだけど、また後でサインください」
「はは、俺ので良ければ喜んで。……あ、夜久がこっち見てるな」
壁際で話していたから、最後に少しボリュームが落とされた言葉は、私たち二人しか聞いていなかっただろう。おかしそうに笑う海の視線の先を見れば、確かに夜久がこちらを見ていた。ガン見である。……自惚れでなければ、私のことを多少気にしてくれているのかもしれない。海も同じ思考に至ったようだ。
「後で部屋でもフォロー入れとくから、いってこい」
「海、何もかもありがとね……。それじゃお疲れ!」
「苗字もお疲れ。また明日な」
夜久のもとへ真っ直ぐ飛んで行くと、何故か仁王立ちで迎えられた。とても頼りになる男前なのは間違いないけど、結構な頻度で突拍子もない言動が飛び出てくるからな、と若干身構える。
「夜久、どしたの」
「苗字、楽になったか?」
何が、とは言わないけど、海が気付いていたなら夜久が気付いていない筈もなかったか。穏やかな気持ちのまま、ゆるりと笑顔を返す。
「うん、海のお陰で」
「なら良かったわ。俺もそろそろ上がってリエーフの様子見に行くけど、苗字はどうする?」
「あ、ならちょうどいいや。私もついてく」
「おし、なら行くか」
そんな風に話していると、犬岡や福永も一緒に行きたいと近寄ってくる。可愛い後輩の頼みは聞いてあげたくなるのが先輩という生き物だし、二人の顔色はすこぶる良さそうなので問題ないだろう。
「夜久くん! 苗字さん! お疲れッした!」
「おー。西谷くんもお疲れ!」
「西谷くん、お疲れ様……! ゆっくり休んでね!」
そうして帰り際の挨拶を交わした後、音駒の皆と一緒に第三体育館までの道のりを歩いていく。森然は自然が近い環境だからか、いつもより蝉の声が大きく聞こえた。こういうのも夏の醍醐味だよね、と語らいつつ目的地の扉を開ければ───真っ先に、バツの悪そうな顔をした黒尾と目が合った。
すれ違いざまに、苦々しい顔をした月島くんが去っていくのを見て、何となくの事情を察してしまう。恐らく……いつものノリでちょっかいをかけた結果、失敗したか。
夜久たちが灰羽に話しかけていく隙を見て、我らが主将に真っ直ぐ駆け寄った。ネットを挟んだ向こうにいた赤葦や木兎にも挨拶をしつつ、いつもより覇気が無い友達に向き直る。
「黒尾。何か手伝えることある?」
「あー、うーん……。彼、タオルを忘れてったみたいだから、ホントなら届けてあげたいんだけど」
「そう思いながら踏みとどまってるってことは、ここにいたメンバーより、まだ第三者が届けた方が良さげ?」
「たぶん。……悪い」
「謝らない。避けた方がいい話題は?」
「チビちゃ……じゃなくて、烏野の十番くんについて、かな」
「了解。それじゃ追いかけてくるから、また明日、澤村くんのとこ一緒に行こう」
こういうのは報連相が大事だし、黒尾なら謝罪も一人で行きそうだけど。思ったより落ち込んでいそうだから、少しでも励ませる言葉をあげたかった。
「はあい……。ありがとね、苗字」
「お互い様。じゃ、またすぐ戻るから!」
黒尾が指差した先にあったタオルを回収して、素早く駆け出す。音駒の皆も私の様子を見て色々と察したのか、快く手を振って送り出してくれた。夜久だけは目で「あとで説明しろよ」と言っていそうだけど、そのあたりは一旦黒尾に任せることにする。
日向くん、というヒントを得た私の足は、自然と第一体育館に向かっていた。影山くんと共に練習する予定だ、と練習終わりに大声で話しているのを聞いていたから。
どうやら予想は的中したようだった。明るい体育館の中から真っ暗な廊下に飛び出してきた、苦々しげな顔をする男の子に遭遇する。
「月島くん」
「……何でしょうか」
案の定、刺々しい声だった。今日は会話を長引かせずに、用件だけ素早く済ませた方が良いと判断する。
「疲れてるところ、急にごめんね。このタオル、忘れてたみたいだから届けに来たんだ」
「どうも。……主将さんから何か聞きましたか」
「ううん、詳しくは何も。……もし私で手伝えることがあったら、いつでも声かけてね」
「……僕のことも、そうやって取り巻きの一人にでもするつもりですか?」
「え?」
眼鏡の奥に浮かぶ剣呑な光が、私を射抜く。まるで手負いの動物みたいな目をしている、と思った。この子はきっと今、何かが原因で傷ついているのだろう。怪我をしている訳ではなさそうだから、恐らくは、目には見えないどこかに負った傷が痛んでいるのかもしれない。
自分の傷を癒す方法が分からないからこそ攻撃的な言葉を使ってしまう心境は、これでも理解できるつもりだった。
黒尾から心のスイッチを押されてしまった直後、自分を制御できない追い詰められた精神状態に陥った時に、急に現れたのが私だったのだとしたら。それは気分を害しても仕方がないだろう。なにせ私と黒尾は関係性も距離感も近い訳だし。
だからこそ、今はただ彼から溢れる言葉を受け止めることが、偶然居合わせた私がしてあげられることなのだろうと腹をくくる。
「いいですよねえ、苗字さんは。勉強も料理も何でも出来て、周りからチヤホヤされて、お姫様みたいに扱われて、常に貴女を肯定してくれる存在が傍にいて。そりゃさぞかし気分が良いですよね。貴女の大好きな主将の気分を害したから、無理やり仲良しごっこでもさせるつもりなんですか? 随分と自分勝手じゃないですか。僕はそんなこと望んでないのに」
とめどなく流れ落ちていく言葉の数々には、やはり、悪意よりも痛みが滲んでいるような気がした。もしも私の感覚が的外れでないならば、勝手な憶測をして無理に今の言葉に返事をするのは得策ではないだろう。
「…………ねえ、月島くん」
「……。はい」
「ハーブティーって好き?」
「は?」
本気で驚いたような瞳が、丸くなって私を見下ろす。うん、方向性は間違っていなさそうだった。
「夏場だけど、気持ちが落ち着くかもしれないし。良かったら、温かいお茶淹れるよ?」
「……何で、怒らないんですか。文句も言わないんですか」
「その必要がないからかな。……あ、もちろん無理に飲めなんて言わないけど」
「ここで断ったら僕だけ悪者になりますし……実質、拒否権ないですよね」
「うん、そうかも」
とうとう月島くんが、深々と息を吐き出す。そもそも黒尾がこの子に声をかけた理由は、ゴミ捨て場の決戦を実現させたいからだし、ならば志を同じくする私が気に掛けるのも当然だった。
それに何より、今の私は音駒のマネージャーであり、合同合宿をサポートするマネージャーというポジションでもあるから。関係の薄い他校の後輩にも、多少踏み込んだって構わないだろう。
「何も聞かないし、何も言わない。それでいいかな?」
「……苗字さんがそこまでするメリットって、何ですか」
「うーん……。明け透けもなく言えば、音駒と因縁のある烏野さんと深く関わりたいっていうファン心理かな。自分勝手なエゴだと思う」
「成程。……納得はしますが、このまま自分が口にしたことの責任を取らないのは気持ち悪いです」
「そっか」
「さすがに言いすぎました。……申し訳ありませんでした」
俯いた月島くんが、自らの顔を隠すように頭を下げた。少しは気持ちが落ち着いたようで良かったと、素直に安心する。うちの主将のせいで心が乱れてしまったならば、マネージャーとして出来る限りのフォローはしておきたかったし。
「謝罪、確かに受け取りました。ありがとね」
「……それだけですか?」
「え?」
「正直、音駒の皆さんに突き出されても仕方がないと思ったので」
全くない発想だったので、ついきょとんとする。月島くん相手ならば多少込み入った話をしても構わないか、と口を開く。
「……こういうのって、誰が悪いかって話にすると余計に拗れちゃうから。それに、一度口にした言葉に対してずっと揚げ足を取っていくのって、卑怯じゃない? 時間が経つにつれて人の考え方が変わっていくのは自然だし、一時の感情や言葉を軽率に否定するのは良くないと思うんだよね」
「……僕、苗字さんの取り巻きにはなりませんよ」
「さっきから言ってるけどそれ何!? いや、意味は何となく分かるんだけど」
少しだけ空気が緩むのが分かって、改めてホッとする。お互いに感じていたであろう息苦しさが、確かに解けていく。
「この流れでなんですが、お茶はいらないです」
「うん、キッパリ言ってくれた方が助かる。ありがとね」
「……その代わり、僕に出来ることはします。何でもとは言いませんけど」
月島くんが、背筋を真っ直ぐと伸ばしながら言う。確かにまったく傷付かなかったと言えば嘘になるし、責任を取りたいとは本気で思ってくれていそうだし。……その時、烏野の中では月島くんに一番話しかけていた、山口くんの声を思い出す。
「ツッキーと蛍くんなら、どっちがいい?」
「は?」
「呼び方。どっちがいい?」
「…………。その二択なら、ツッキーですかね」
「うん、分かった。これからそう呼ばせてもらうね」
「……苗字さんって、思ったよりもいい性格してるんですね」
本気で嫌そうな顔をされて、つい笑いが溢れる。本人が苦手そうで私が嬉しいことと言ったら、咄嗟にこれくらいしか思いつかなかったのだ。
「それじゃ、おやすみツッキー。明日からもよろしくね」
「……おやすみなさい。失礼します」
素早く去っていく背中を見送ってから、第一体育館の中へと目を移す。日向くんと影山くんが元気よく速攻を合わせたり、各校のエース陣が黙々とスパイクを打ったりしていた。
その中で田中くんと切磋琢磨する山本に内心エールを送りながら、第三体育館への道を辿る。普段なら差し入れを持って立ち寄るところだけど、今日はさすがに我らが主将が心配だったので。
「お疲れー」
「苗字! 悪い! どうだった!?」
中には黒尾と夜久がいた。二人以外は既に戻ったらしく、真っ直ぐに飛んできた黒尾の背後で夜久が仁王立ちしている。ここまで仁王立ちが似合うリベロは夜久以外にいないんじゃないだろうかと、つい感動してしまった。
「案の定ちょっと荒れてたけど、タオルは返してきたよ。最終的に、ツッキーって呼ばせてもらうことになったよ」
「ちょっと待って苗字さん! 色々飛躍しすぎてるし情報過多です!」
「えー。そう?」
「俺も黒尾に同意だな。苗字、出来る範囲でいいから詳しく説明しろ」
「うん。実際、二人には相談しておきたかったからちょうどいいかな」
内容をかいつまんで説明していく。その中でツッキーが私に何と言ったかの言及は避けたものの、二人とも何となく内容を察したのか、考え込みながら難しい顔をしていた。
「……とまあ、そんな感じの会話をしまして。本気でツッキー呼びするかどうかと、澤村くんにどう共有するかの二点が難しいなと」
「ま、ツッキー呼びはしていいんじゃね? 向こうがそれなりのこと言ってきた上で、苗字に対する責任を取った結果ってことなんでしょ」
「一応、そういうことにはなるかな」
「……そこは俺も異論なしだな」
「そうは言ってもやっくん、顔怖いですけど? 俺以外の男をあだ名で呼ぶんだな、って感じ?」
「…………うっせーな」
「はい図星。まあ澤村さんには明日俺がかるーく説明しとくから、そこは心配しないでいい。……それより俺としては、苗字の方が心配かなー」
「え? 何が?」
上から覗き込んできた黒尾が、困ったように笑ってから夜久を見る。視線を受けた本人は、軽く頷いてからキッパリと口を開いた。
「苗字、抱き締めてもいいか?」
「夜久さんが今日も唐突!?」
「ウン、俺が邪魔だね。もう戻るから、お二人さんでごゆっくりー」
ひらひらと手を振る黒い背中が、言葉通り扉に向かっていく。どことなく寂しそうな様子が気になったものの、今回は黒尾に恩を売る形になってしまった私が口を出すべきでない気がしたから、伝えたいことだけ叫ぶことにした。
「黒尾! 海が黒尾のこと心配してたから、良かったら声かけてみてね。お疲れ!」
「……本当にありがとネ。苗字もやっくんもまたなー」
「お疲れ。無理すんなよ」
「うん」
扉が閉まって、ゆったりとした足音と蝉の声が遠のいていく。閉まったドアを何となく二人でじっと見つめてから、改めて向き直った。相変わらず凛とした真っ直ぐな瞳が、私を包んでいく。
「で、いいか? 苗字」
当然だが、先程の発言は有耶無耶にならなかったらしい。顔が熱くなっていく。
「い、いいけど……。汗くさいのを我慢してもらえれば」
「お互い様だろ」
くしゃりと笑ってから、夜久が私をそっと抱き寄せる。張りのある筋肉の厚みと、柔らかな体温に直接触れるのは、やはりいつまでも慣れなくて、純粋に照れた。子どもをあやすように、夜久の大きくて温かな手が私の背中を何度も撫でる。
「傷付いた時も辛い時も、ちゃんと言えよ。俺はそういうこと察するの、得意じゃねえからさ」
「むしろ、夜久は私に関してよく気がつくなって感動するんだけど」
「そりゃ、苗字のことはいつも見てるからな」
心臓がギュッと飛び上がるように痛んだ瞬間、自分の心が今どんな形をしているのか、私はようやく認識した。やさしい体温に縋りつけば、胸の内が自然と口からこぼれ落ちていく。
「……あのね、夜久」
「ん?」
「ツッキーが、音駒の皆のこと……私の取り巻きって言ってて」
「あー、間違ってはねえな。俺たち苗字に対しては超過保護だし」
「それは嬉しいんだけどね? 私の大好きな皆はそんなにチョロくないぞ! って対抗心みたいな気持ちも湧いちゃって」
「引っかかるのがそこなのが苗字らしいな」
「……、あとね」
「おー」
「夜久は、常に私を肯定してくれて、チヤホヤしてくれて、お姫様扱いしてくれる存在なんだって」
何だよそれ、と笑い交じりの返答がくるだろうと予想していた。それなのに夜久は今までと違って沈黙を保った後、顎先を私の肩にそっと乗せてくる。目を合わせていないとはいえ、今までよりも顔の距離が近くなって緊張した。
「……夜久?」
「……、悪い。自分の行動を突き付けられて、猛烈な羞恥心に襲われてた」
「え!? そんなことなくない……?」
「あるんだよなー、これが。我ながら俺、苗字に超甘えもん」
「でも必要な時はちゃんと叱ってくれるし、全肯定ではない気がするけど」
「そりゃ確かに、盲目的に全部の行動を認めるのは違うと思うけどな。苗字の考えてることも感じてることも、出来る限り肯定したいのは事実」
「それは……確かに甘いね……」
「だろ?」
一瞬夜久の腕の力がギュッと強くなったかと思えば、パッと熱が離れて、再びお互いに見つめ合う形になっていた。温かくて眩しくて無邪気なその笑顔が、今日も私をやさしく照らし出す。
「戻ろうぜ。明日のためにも休まないとな」
「……うん、そだね。シャワー浴びたら少しだけ文化祭の練習もしたいし」
「お。音楽室だよな? 行っていいか?」
「いいけど、無理はしないでね」
「俺の自己管理スキルを舐めんなよ」
「それを言われちゃうとお手上げです」
心臓にピリッと突き刺さっていた棘が、いつのまにかゆるりと溶けていくのを感じる。すっかり真っ暗になった廊下を二人で歩きながら、私は改めて自覚した。
自分が思ったよりも傷付いていたこととか、音駒の皆が大好きであることとか、ツッキーとも少しずつ仲良くなりたいなーとか、やっぱり夜久が大好きだって気持ちとか。
自分の輪郭を、確実に緩やかに取り戻していくような感覚がひどく心地好くて、繋がった掌からやさしい気持ちが溢れ出していく。この体温がいつだって私を鼓舞してくれる事実が幸せで、また明日からも頑張ろうと、改めて決意した。