桜色にすくわれた日
※何でも大丈夫な方向けのお話です
高校時代に別れた彼女と、社会人になってから再会できるかもしれない。
状況を一言で説明すれば、一昔前のトレンディドラマみたいに陳腐なのに。現実の俺はといえば、久しぶりの全力ダッシュで情けないことに息も絶え絶えだった。心臓はバクバクするし喉の奥が締まって呼吸する度に痛えし、脚はもつれるし全身汗だくすぎてシャツの色も変わってるし。
必死すぎてカッコ悪いなと頭のどこかでは冷静に感じているのに、脳も心臓も身体を構成する何もかもが、アイツを求めてしまっていた。
毎日制服を着ては、朝も放課後も仲間と共に練習で汗を流していた、懐かしくて愛おしくてかけがえの無い、もう終わってしまった日々の片隅で。いつだって彼女は春の陽射しのように、俺を温かく見守ってくれていた。
好きになったキッカケは、本当に些細なものだった。放課後、一人きりで教室に残って本を読む姿が妙に気になったから。夕陽に照らされたサラサラした真っ黒の髪とか、楽しげにゆるりと動く桜色の指先とか、薄い紙を捲っている最中いちいち大袈裟に変わる鮮やかな表情とか。彼女を彩るその全てが、可愛いなって思ったから。
仲良くなりたくて、俺から話しかけた。読書をしている姿から想像していたけど、案の定俺にも優しくしてくれて、一緒にお昼を食べるようになって、休み時間に過ごす時間が長くなって、部活も見に来てくれて、数少ない休日にも会うようになって、何回目かのデートで俺から告白した。
そんな日々から二年近く経った、高校の卒業間近。遠くの大学に行くから別れて、と何でもないことのようにサラリと告げられた時の苦々しさは、今でも思い出せるのに。連絡先も全部ブロックされていると気付いた後、ようやく過去の青臭い思い出として昇華できそうなタイミングで受けた、研磨からの連絡によって状況は一変する。
───苗字さんに久しぶりに会ったけど。クロ、どうする?
そんなの、俺も会うに決まってんだろ。と女々しくも思ってしまった。だから急に呼び出された病院の前で、涼しい顔をする研磨に心底感謝していた。
「クロ、汗だくじゃん」
「そりゃそうだろ。……連絡くれて、ありがとな」
「苗字さんのことずっと気にしてたの、知ってたし。本人から許可は貰ってるから、さっそく行く?」
「おう。頼む」
真っ白で大きな施設の中に入れば、背筋がピンと伸びるような静かな空気に満ちていた。面会用の手続きを難なくこなす研磨の成長を感じながら、俺はアイツとの思い出を噛み締めるように思い出していた。
……やっぱり何年経っても、全然忘れることが出来ていなかった。俺の言葉ひとつひとつに柔らかく笑ってくれる顔とか、俺の言葉を否定せずに受け入れてくれながらも、自分の意見をキッパリと言ってくれる芯の強さとか。部活を見学に来てくれるときの真剣な顔も、本を読んでいる時の楽しそうな顔も、初めてキスをした時の照れた顔も、その先に踏み出した時の期待と不安が入り交じった繊細な顔も。全部ぜんぶ、未だに大好きなままだった。
気付けば研磨が、とある病室の扉をノックしている。
「苗字さん、さっきぶり。入ってもいい?」
「うん、いいよー」
思ったよりも軽くて、あの頃と変わらない柔らかさを伴った声色に、拍子抜けする。
開け放たれた扉の向こうで、彼女は変わらず優しく笑っていた。ベッドで上半身を起こしながら入院着を着ていても、付き合っていた時と全く変わらない温かさがそこにあって、ちょっぴり泣きそうになる。
彼女の視線が俺を捉えて、存在を確かめるようにゆるりと目が細まった。俺は彼女のそんな仕草を好きになったんだと、急にハッと思い出す。
「久しぶり、鉄朗」
「……おう、久しぶり」
「それじゃ俺、今日は配信あるから帰るね」
「孤爪くん、ありがとう。また連絡するね」
「うん」
「本当にありがとな、研磨」
「ん。……まあ頑張って」
飄々と去っていく背中に手を振ってから、改めて彼女に向き直る。ベッドに近付けば椅子に座るよう促された。
「名前、時間取ってくれてありがとな」
ただ名前を呼んでお礼を言うだけなのに、やけに緊張した。最後に会ってから五年以上は経っているのに、心臓の輪郭がようやくあるべき場所に収まったかのような、不思議な安心感が全身を満たしていく。
「ううん。だって、私が呼んだようなものだし」
「え。……研磨からは、そんなこと聞いてないけど?」
「直接的には伝えてないけど、鉄朗の話題は出したから。……本当は、元気かどうか確認できたら、それで良かったんだけどね」
俺を見守る柔らかな視線に全身が包まれて、息苦しくなる。あの時も今までも───彼女のためと言いながら自分が傷付きたくなくて───ずっと仕舞い込んでいたことを、ようやく口に出来る気がした。
「……俺は、名前に会いたかった」
「うん。……ありがとう」
自ら呼んだようなものと言うくせに、会いたいという言葉には同意してくれない、そんないじらしさが切なくて愛しくて仕方が無い。これは早々に退散した方がお互いのためか、と微かな期待を捨てて諦めようとした瞬間。
彼女が何でもないようにそっと、爆弾を落とす。
「鉄朗。私ね、もうすぐ死んじゃうんだ」
「………………、は?」
「だから、一目だけでも会えて良かった。良い思い出になったよ」
「なん、だよ……それ……」
その言葉を噛み砕くのに時間がかかって、全身が強張り心臓は冷え切っていく。
「病気がね、もうどうしようもなくて。長い間それなりに頑張ったんだけど」
長い間という言葉を受けて、とある可能性に思い至る。嫌な予感でズキズキと腹の底が痛んだ。
「……なあ。その病気って、まさか高校の頃から?」
「ふふ、うん。さすが鋭いなあ。卒業のちょっと前にね、分かっちゃって」
「だから……別れるって言ったのか?」
彼女は、全く慌てることなく微笑んだままだった。唇に月を浮かべたような優しい顔に、僅かばかり困ったような色が滲んでいく。
「それが全てって訳ではないけど、ね。治療のために引越すのは決定事項だったし。……こんな爆弾を抱えたまま、鉄朗と付き合うのが辛いって思っちゃったの。ごめんね」
「そっか。……いや、うん。言って欲しかったのが本音だけど、俺に何も言わずに一人で抱え込むような名前だからこそ、好きになったんだよな」
「ふふ、何それ」
「なあ。やっぱり俺たち、もう一度付き合わねえ?」
大きく見開かれた瞳に、彼女がようやく驚愕を宿す。
「……私の話、聞いてた? もうすぐ死んじゃうんだよ?」
「聞いてた。俺もう何も後悔したくねえから、もう一度だけやり直してほしい」
「……鉄朗って、常識人なのに時々めちゃくちゃなこと言うもんなあ」
「そーそー。更に大人になった鉄朗さんは、何がなんでも諦めない鋼の心を会得しちゃったから」
冗談めかして本気の決意を示せば、ゆらゆらと彼女の瞳が逡巡するように揺れた。
「……もしも断ったら、どうする?」
「出来る限り毎日ここに通い詰める。あ、もちろん付き合えたら余計にそうするけどね」
「……今、お仕事も忙しいんでしょ? 私に構ってたら身体壊しちゃうよ」
「名前と二度と会えなくなるよりはマシ。これでも公私はキッチリ分けてるし、今でも身体は動かしてるから簡単に体調は崩さないし」
「……頑固だなあ」
「うん、俺ってば超ワガママで頑固なの。だからそんな男への哀れみってことでも構わないから、……名前の人生最後の彼氏にしてほしい」
彼女が瞳が潤ませながら、唇を強く噛み締める。それから深く俯いて顔が見えなくなってしまったけど、ぽたぽたと涙が零れ落ちるのを確認して、俺は目の前にあった頭を優しく撫でた。今はまだ返事を貰っていない段階だから、あくまで友だちの範疇だと言い訳できる手つきを心がける。
「……あのね、鉄朗」
「ん?」
「私、……これから先も長い未来を生きていくあなたに、呪いを残したくないの」
「名前から貰ったものなら、呪いでも痛みでも恨みでも何でも、全部大事に抱えて生きてくから」
「…………、鉄朗ってば本当に頑固で、ばかだなあ」
きゅっと両目を瞑ってから、彼女は俺を真っ直ぐに見つめてくれる。
「分かった。なら、私が死ぬ最後の瞬間まで、鉄朗のこと好きでいていい?」
「当たり前だろ。なんなら死んだ後もずっと好きでいてくれていいんだけど」
「……またそんなこと言って。鉄朗は、私が死んだ後もちゃんと、自分の幸せについて考えてね」
それは多分、「私のことは忘れて幸せになってね」という意味だと分かった上で。今はまだそんなことを考えたくなかったから、声では返事をせずにただ笑った。
今度はようやく彼氏として彼女を抱き締めた上で、頭を優しく大事に撫でていく。
その段階でようやく、何故研磨と会っていたのか説明を受けた。彼女は学生時代から創作活動を続けており───これは俺も知っていた───、何年か前に詩のコンテストで大賞を受賞し、本を出版したこと。それが思いのほかヒットしたことで、有名な詩人の一人として名を連ね、各界の著名人をイメージして詩を作る企画に参加が決まったこと。そこで彼女から指名したのが研磨だった、ということらしい。
「単純に、もうすぐ死ぬ詩人の作品っていうバリューが欲しくて誘われただけかもしれないけど」
「……そんなこと言うなよ」
「ごめんね、普段は人にこんなこと言わないんだけど。鉄朗の前なら良いかなって」
「はー……絶妙に叱りづらくなること言うんだもんなあ。でも今のはダメ。名前の作品が好きな人たちのことを蔑ろにしてます」
「はあい、反省してます。ありがとうね。……なんか、こうやって怒ってもらうのも久しぶり」
「そうだねえ……。自惚れじゃなかったらさ、研磨を指名したのも、俺がキッカケだった?」
「ふふ、うん。そう。孤爪くんに会いたい気持ちもあったし、どうせなら最後くらいはのびのびと作品を作りたかったし。……あわよくば鉄朗の話を聞けたら良いなあって思って」
「でもこれから俺の話は、俺から直接聞いてね?」
「うん」
「そんで、名前の話も聞かせて」
「……うん、もちろん」
このままお互いのことは忘れて別れた方が、心の痛みは最小限で済むのかもしれない。それでも俺は、どんなに心臓が引きちぎれそうになったとしても、どんなに短い間しか一緒にいられないとしても、俺がしてもらったように、彼女をもっと幸せにしてあげたかった。
かつても今も、彼女のいじらしい気遣いを平気で踏み躙る俺は、きっと世界で一番酷い男なんだろう。
高校時代に別れた彼女と、社会人になってから再会できるかもしれない。
状況を一言で説明すれば、一昔前のトレンディドラマみたいに陳腐なのに。現実の俺はといえば、久しぶりの全力ダッシュで情けないことに息も絶え絶えだった。心臓はバクバクするし喉の奥が締まって呼吸する度に痛えし、脚はもつれるし全身汗だくすぎてシャツの色も変わってるし。
必死すぎてカッコ悪いなと頭のどこかでは冷静に感じているのに、脳も心臓も身体を構成する何もかもが、アイツを求めてしまっていた。
毎日制服を着ては、朝も放課後も仲間と共に練習で汗を流していた、懐かしくて愛おしくてかけがえの無い、もう終わってしまった日々の片隅で。いつだって彼女は春の陽射しのように、俺を温かく見守ってくれていた。
好きになったキッカケは、本当に些細なものだった。放課後、一人きりで教室に残って本を読む姿が妙に気になったから。夕陽に照らされたサラサラした真っ黒の髪とか、楽しげにゆるりと動く桜色の指先とか、薄い紙を捲っている最中いちいち大袈裟に変わる鮮やかな表情とか。彼女を彩るその全てが、可愛いなって思ったから。
仲良くなりたくて、俺から話しかけた。読書をしている姿から想像していたけど、案の定俺にも優しくしてくれて、一緒にお昼を食べるようになって、休み時間に過ごす時間が長くなって、部活も見に来てくれて、数少ない休日にも会うようになって、何回目かのデートで俺から告白した。
そんな日々から二年近く経った、高校の卒業間近。遠くの大学に行くから別れて、と何でもないことのようにサラリと告げられた時の苦々しさは、今でも思い出せるのに。連絡先も全部ブロックされていると気付いた後、ようやく過去の青臭い思い出として昇華できそうなタイミングで受けた、研磨からの連絡によって状況は一変する。
───苗字さんに久しぶりに会ったけど。クロ、どうする?
そんなの、俺も会うに決まってんだろ。と女々しくも思ってしまった。だから急に呼び出された病院の前で、涼しい顔をする研磨に心底感謝していた。
「クロ、汗だくじゃん」
「そりゃそうだろ。……連絡くれて、ありがとな」
「苗字さんのことずっと気にしてたの、知ってたし。本人から許可は貰ってるから、さっそく行く?」
「おう。頼む」
真っ白で大きな施設の中に入れば、背筋がピンと伸びるような静かな空気に満ちていた。面会用の手続きを難なくこなす研磨の成長を感じながら、俺はアイツとの思い出を噛み締めるように思い出していた。
……やっぱり何年経っても、全然忘れることが出来ていなかった。俺の言葉ひとつひとつに柔らかく笑ってくれる顔とか、俺の言葉を否定せずに受け入れてくれながらも、自分の意見をキッパリと言ってくれる芯の強さとか。部活を見学に来てくれるときの真剣な顔も、本を読んでいる時の楽しそうな顔も、初めてキスをした時の照れた顔も、その先に踏み出した時の期待と不安が入り交じった繊細な顔も。全部ぜんぶ、未だに大好きなままだった。
気付けば研磨が、とある病室の扉をノックしている。
「苗字さん、さっきぶり。入ってもいい?」
「うん、いいよー」
思ったよりも軽くて、あの頃と変わらない柔らかさを伴った声色に、拍子抜けする。
開け放たれた扉の向こうで、彼女は変わらず優しく笑っていた。ベッドで上半身を起こしながら入院着を着ていても、付き合っていた時と全く変わらない温かさがそこにあって、ちょっぴり泣きそうになる。
彼女の視線が俺を捉えて、存在を確かめるようにゆるりと目が細まった。俺は彼女のそんな仕草を好きになったんだと、急にハッと思い出す。
「久しぶり、鉄朗」
「……おう、久しぶり」
「それじゃ俺、今日は配信あるから帰るね」
「孤爪くん、ありがとう。また連絡するね」
「うん」
「本当にありがとな、研磨」
「ん。……まあ頑張って」
飄々と去っていく背中に手を振ってから、改めて彼女に向き直る。ベッドに近付けば椅子に座るよう促された。
「名前、時間取ってくれてありがとな」
ただ名前を呼んでお礼を言うだけなのに、やけに緊張した。最後に会ってから五年以上は経っているのに、心臓の輪郭がようやくあるべき場所に収まったかのような、不思議な安心感が全身を満たしていく。
「ううん。だって、私が呼んだようなものだし」
「え。……研磨からは、そんなこと聞いてないけど?」
「直接的には伝えてないけど、鉄朗の話題は出したから。……本当は、元気かどうか確認できたら、それで良かったんだけどね」
俺を見守る柔らかな視線に全身が包まれて、息苦しくなる。あの時も今までも───彼女のためと言いながら自分が傷付きたくなくて───ずっと仕舞い込んでいたことを、ようやく口に出来る気がした。
「……俺は、名前に会いたかった」
「うん。……ありがとう」
自ら呼んだようなものと言うくせに、会いたいという言葉には同意してくれない、そんないじらしさが切なくて愛しくて仕方が無い。これは早々に退散した方がお互いのためか、と微かな期待を捨てて諦めようとした瞬間。
彼女が何でもないようにそっと、爆弾を落とす。
「鉄朗。私ね、もうすぐ死んじゃうんだ」
「………………、は?」
「だから、一目だけでも会えて良かった。良い思い出になったよ」
「なん、だよ……それ……」
その言葉を噛み砕くのに時間がかかって、全身が強張り心臓は冷え切っていく。
「病気がね、もうどうしようもなくて。長い間それなりに頑張ったんだけど」
長い間という言葉を受けて、とある可能性に思い至る。嫌な予感でズキズキと腹の底が痛んだ。
「……なあ。その病気って、まさか高校の頃から?」
「ふふ、うん。さすが鋭いなあ。卒業のちょっと前にね、分かっちゃって」
「だから……別れるって言ったのか?」
彼女は、全く慌てることなく微笑んだままだった。唇に月を浮かべたような優しい顔に、僅かばかり困ったような色が滲んでいく。
「それが全てって訳ではないけど、ね。治療のために引越すのは決定事項だったし。……こんな爆弾を抱えたまま、鉄朗と付き合うのが辛いって思っちゃったの。ごめんね」
「そっか。……いや、うん。言って欲しかったのが本音だけど、俺に何も言わずに一人で抱え込むような名前だからこそ、好きになったんだよな」
「ふふ、何それ」
「なあ。やっぱり俺たち、もう一度付き合わねえ?」
大きく見開かれた瞳に、彼女がようやく驚愕を宿す。
「……私の話、聞いてた? もうすぐ死んじゃうんだよ?」
「聞いてた。俺もう何も後悔したくねえから、もう一度だけやり直してほしい」
「……鉄朗って、常識人なのに時々めちゃくちゃなこと言うもんなあ」
「そーそー。更に大人になった鉄朗さんは、何がなんでも諦めない鋼の心を会得しちゃったから」
冗談めかして本気の決意を示せば、ゆらゆらと彼女の瞳が逡巡するように揺れた。
「……もしも断ったら、どうする?」
「出来る限り毎日ここに通い詰める。あ、もちろん付き合えたら余計にそうするけどね」
「……今、お仕事も忙しいんでしょ? 私に構ってたら身体壊しちゃうよ」
「名前と二度と会えなくなるよりはマシ。これでも公私はキッチリ分けてるし、今でも身体は動かしてるから簡単に体調は崩さないし」
「……頑固だなあ」
「うん、俺ってば超ワガママで頑固なの。だからそんな男への哀れみってことでも構わないから、……名前の人生最後の彼氏にしてほしい」
彼女が瞳が潤ませながら、唇を強く噛み締める。それから深く俯いて顔が見えなくなってしまったけど、ぽたぽたと涙が零れ落ちるのを確認して、俺は目の前にあった頭を優しく撫でた。今はまだ返事を貰っていない段階だから、あくまで友だちの範疇だと言い訳できる手つきを心がける。
「……あのね、鉄朗」
「ん?」
「私、……これから先も長い未来を生きていくあなたに、呪いを残したくないの」
「名前から貰ったものなら、呪いでも痛みでも恨みでも何でも、全部大事に抱えて生きてくから」
「…………、鉄朗ってば本当に頑固で、ばかだなあ」
きゅっと両目を瞑ってから、彼女は俺を真っ直ぐに見つめてくれる。
「分かった。なら、私が死ぬ最後の瞬間まで、鉄朗のこと好きでいていい?」
「当たり前だろ。なんなら死んだ後もずっと好きでいてくれていいんだけど」
「……またそんなこと言って。鉄朗は、私が死んだ後もちゃんと、自分の幸せについて考えてね」
それは多分、「私のことは忘れて幸せになってね」という意味だと分かった上で。今はまだそんなことを考えたくなかったから、声では返事をせずにただ笑った。
今度はようやく彼氏として彼女を抱き締めた上で、頭を優しく大事に撫でていく。
その段階でようやく、何故研磨と会っていたのか説明を受けた。彼女は学生時代から創作活動を続けており───これは俺も知っていた───、何年か前に詩のコンテストで大賞を受賞し、本を出版したこと。それが思いのほかヒットしたことで、有名な詩人の一人として名を連ね、各界の著名人をイメージして詩を作る企画に参加が決まったこと。そこで彼女から指名したのが研磨だった、ということらしい。
「単純に、もうすぐ死ぬ詩人の作品っていうバリューが欲しくて誘われただけかもしれないけど」
「……そんなこと言うなよ」
「ごめんね、普段は人にこんなこと言わないんだけど。鉄朗の前なら良いかなって」
「はー……絶妙に叱りづらくなること言うんだもんなあ。でも今のはダメ。名前の作品が好きな人たちのことを蔑ろにしてます」
「はあい、反省してます。ありがとうね。……なんか、こうやって怒ってもらうのも久しぶり」
「そうだねえ……。自惚れじゃなかったらさ、研磨を指名したのも、俺がキッカケだった?」
「ふふ、うん。そう。孤爪くんに会いたい気持ちもあったし、どうせなら最後くらいはのびのびと作品を作りたかったし。……あわよくば鉄朗の話を聞けたら良いなあって思って」
「でもこれから俺の話は、俺から直接聞いてね?」
「うん」
「そんで、名前の話も聞かせて」
「……うん、もちろん」
このままお互いのことは忘れて別れた方が、心の痛みは最小限で済むのかもしれない。それでも俺は、どんなに心臓が引きちぎれそうになったとしても、どんなに短い間しか一緒にいられないとしても、俺がしてもらったように、彼女をもっと幸せにしてあげたかった。
かつても今も、彼女のいじらしい気遣いを平気で踏み躙る俺は、きっと世界で一番酷い男なんだろう。