徒花に弓張り月(前編)
傍から見れば、私の人生はろくでもないのかもしれない。
ヨーロッパ圏最大の犯罪組織のボスの孫娘として産まれ、幼少期を血腥い世界で過ごし、物心がついた頃に有用な個性を持たないと判明してからは、呆気なくスラム街に捨てられた。
父は、力を何よりも重視し血縁でさえ平気で切り捨てる人だったし、母は寂しさを父でしか埋めることの出来ない人だったから、幼く無力な子どもなど不要だったのだろう。
大の大人から、様々な暴力や欲望の捌け口にされ続けた日々は、正直思い出したくもない。だがせめてもの抵抗として生家から持ち出していた銃によって、裏社会で幅を利かせられると知って以来、生活は一変した。
弱者は常に強者から虐げられる。そんな世界の不条理さを生まれ持って知っていた私は、持てる知識とコネを総動員し、自分で自分の身を守るための力を身に付けた。武器の扱い方も、戦闘における身体の動かし方も、一級の犯罪者たちを間近で見てきたのだから自然と会得できた。……手前味噌ではあるが、一般的に見ても器用な方なのだと思う。
その頃にはすっかり感情を表す術など失い、二度と他人に心を許すことなどないのだろうと悟っていた。
「キミが、ナマエ・ミョウジさんかい?」
旦那様から直接声をかけて頂いたのは、ちょうどその頃だった。
ゴリーニとの関わりを断つべく、母方の苗字を名乗っていたのが功を奏したらしい。地元の名士として知られるシェルビーノ家当主との縁が繋がったことが、私の人生における最大の幸運だった。
ただ、当時の私は旦那様を信用する気持ちなど微塵もなく、利害関係が一致すれば多少手荒いことをされても構わないと思っていたのだけれど。無知だったとはいえ随分と愚かなことだと、我ながら呆れてしまう。
シェルビーノ家では殴られもせず、武器で傷付けられもせず、個性の実験台にされることもなければ、女として求められる機会もなかった。使用人としての仕事を全うしてさえいれば理不尽な目に遭うこともなく、一人の人間として尊重してもらっていた。
今となればそれが当然の権利であると理解しているものの、当時の私は途方に暮れていた。たとえ表の世界とはいえ、社会の中で権力を持つ存在というのは、多かれ少なかれ自らの力を振りかざし、弱者を搾取するのが当然だと思っていたから。
どんなに善良な人間であっても、己の立場を守るためには自分と異なる正義と対立し、その意思と価値観を踏み躙らなければならない時があるのだと、自ずと認識していたから。
しかし、シェルビーノ家の旦那様には、不自然なほど欠点が見当たらなかった。
いくら特殊な個性を持つお嬢様のためとはいえ、どこの馬の骨とも知れないスラム街の孤児を雇うなど、正気の沙汰とは言えないだろう。何が目的なのだと猜疑心に支配されていた私は、眠れない夜にこっそりと屋敷の中を出歩いては、旦那様の真意を探っていた。旦那様がいつ豹変しても落胆しないように、証拠を集めておくのが安全だと思ったからだ。それが私の昔からの生き方だった。
この世に産まれ落ちた瞬間から、他人に期待したことなど一度もない。いざという時の盾にも剣にもなる切り札を常に用意し、強者と事を荒立てぬように切り抜ける。それが私の学んだ処世術だ。
だからこそ、お嬢様の部屋に入っていく旦那様を見かけたのも、まったくの偶然だった。
あれだけ子煩悩な父親でもあるのだから不自然ではないかと思いつつ、扉の隙間から覗き込んだ時。旦那様が、お嬢様の首に手をかけようとしている瞬間を、見た。
「……ナマエ、いるんだろう?」
つい、全身がビクリと震えた。気配を消す技術にはそれなりに長けていると思っていたのだが、どうやら私も井の中の蛙だったらしい。旦那様は明らかに、裏社会を知る側の人間だと悟った。
お嬢様を救おうとする過程で触れたのか、シェルビーノ家を興す途上で知らざるを得なかったのか、判別はつかなかったけれど。少なくとも今、私は旦那様に敵わない弱者側の人間であることは理解した。
「はい、おります。いかなる罰も甘んじて受ける所存です」
「はは。罰を与える理由がないだろう」
ベビーベッドの傍で、旦那様は不自然なくらいにこやかに笑っていた。しかしその不気味さに安堵する。裏の顔を持たない人間など、この世に存在する訳がないのだから。
「私は不躾にも、旦那様のプライベートに触れてしまいましたので」
「プライベート、か……。この様を見てもそう言えるキミの胆力を見込んで、一つ頼みがある」
「何なりと」
「私とお喋りしようか。二人きりで」
いよいよ対価として尊厳を踏み躙られる時がきたのかと、覚悟を決めた。しかし旦那様は、自室に招き入れてもいつも通りに笑うばかりで、丁寧に用意した椅子に私を座らせる始末だった。こちらは相当怪訝な顔をしていただろう。
「ここから先にする話を、誰かに話すかどうかは……ナマエ。キミに任せようと思う」
「……打ち明けることは致しません。絶対に」
「やはりナマエは義理堅い子だね」
「そんなことはございません。所詮は私も、自らの打算で動いているだけですので」
「たとえキミがそう思っていても、あくまで私の主観的で個人的な感想として、ナマエは真面目で誠実な子だと感じるよ」
「……恐れ入ります」
あくまで表面上は和やかでも、水面下では張り詰めた緊張感が漂っていた。出過ぎた真似をしないよう、無表情でいるよう心がける。
「ナマエは、私の妻のことは聞いているかい?」
「……他の使用人から、噂を耳にしたことはございます。しかし客観的な事実は何も存じ上げません」
「そうか。その年で、噂をもとに偏った見方をしないのは相当に賢い子だ。……それだけキミも、苦労をしてきたのだろう」
確かに、もし私が一般的な家庭で育っていれば、学校に通い友人とはしゃいでいるくらいの年齢だった。そんな子どもたちに対する羨ましい気持ちが皆無とは言わない。だが、同学年であるという理由だけで、同じ空間に何年もずっと大勢の人間と共に詰め込まれる環境に、わざわざ身を置きたいとも思わなかった。それならばまだ、自分の身体一つで身を立てられるよう努力している方が好ましい。これを苦労と言われてしまえば否定は出来なかったが。
「私にお気遣い頂く必要はございませんので。旦那様の御都合の良いタイミングで、お好きにお話しくださいませ」
「それではお言葉に甘えようかな。……妻はね、アンナを出産するのと同時に亡くなったんだ。原因は、噂で語られている通りかもしれないね」
「……お嬢様の、過剰変容の個性、でしょうか」
「その通り。私の個性とも妻の個性とも全く異なり、相手に触れただけで個性因子を過剰に変容させる強力な力だ。突然変異 というのは、本当にあるものなんだね」
どんなに医療設備が整った病院であっても、出産時に妊婦が亡くなる確率はゼロにはならない。その上で奥様がお嬢様の個性に適合できなかったならば、命を落としてしまうのも仕方がないだろう。だがこれはあくまで第三者から見た結論であり、当事者である旦那様の心境は想像に難くない。
「率直に言ってしまおうか。……私はね、アンナを恨む気持ちを抑えることが出来ないんだ」
旦那様が、いよいよ顔から一切の感情を削ぎ落す。暗く重たい響きを持った言葉が、私たちの間に鋭く横たわった。
「あの子があんな個性を持って産まれなければ、きっと三人で平和に暮らすことが出来ていたのに……なんてね。つい考えてしまうんだ。父親としてアンナを愛する気持ちは、確かにある筈なのに。最低だろう?」
「……そのようなことは、ないかと存じます。これもあくまで、私の主観的で個人的な思考になってしまうかもしれませんが」
「ナマエの主観的な考えを聞けるのは興味深いね。詳しく聞かせてもらえるかな?」
その瞬間、私は人生で最も悩んでいたかもしれない。自分の思考を他人に共有する必要なんて今まで無かったし、これから先もそんなことをするなんて思ってもいなかったから。
「……旦那様もお分かりかと存じますが、全ての人には複数の人格があると、思うのです」
「うん」
「それぞれの人格が異なる感情を持ち、関わる人物によって発露する言動を変えていくことは、至って自然です」
「……そうかもしれないね」
「私を殴りつけた男性が、同じ日に、同じ手で、実の子を撫でるなど……スラムでは、当然のことでした。酒や薬に狂えば、そんな実の子にさえ手を上げる方もいました」
何故こんなにも歯切れ悪く話してしまうのかと、内心疑問に思っていた。お仕えする旦那様に失礼なことを言っているか心配ならば、既にそれ以上に無礼な振る舞いをしているというのに。それでも今、この場で言葉を紡がなければ何かが手遅れになってしまうと、私は予感していたのかもしれない。
「お嬢様を愛する気持ちと、お嬢様を憎む気持ちが共存する状況を、悪だと断じてしまえば……」
「うん」
「私は、自身のことさえ断罪しなければならないのかも、しれません」
「それは、一体何故だい?」
旦那様の静かな瞳が、私をそっと見守るように貫いていく。一体何故か。その単純で端的な問いかけが、かつて心臓の奥底に重たく沈めた筈の、ありのままの剥き出しの感情に、ぐっと触れたような気がした。名前も形も色も温度も何も分からないけれど、確かにそこには何かしらの、間違いなく私自身の苛烈な心情が、存在した。
「……何故、なのでしょうか」
「ナマエ、実はね。キミと私は同類のような気がしていたんだ」
「同類……?」
「ああ。自分の本当の心を仮面で覆い隠し続けたあまり、その顔が張り付いて離れなくなってしまった仲間なんじゃないか、とね。……だからこそ、キミに声をかけたんだよ。酷い大人だろう?」
旦那様が声をかけてくださったのは、お嬢様のためだからではなく、私の精神性を買ってのことだった。その事実を知った時の衝撃は、何と言い表せば適切に伝わるのだろうか。誰も彼もが私を不要と断じ、肉親にさえ捨てられ蔑まれるばかりだった人生の中で初めて、私という人間を真正面から見てくれる方が現れたのかもしれないという、痛くて怖い程の期待と不安を。
「……いいえ、むしろ光栄です」
「そうか、そう言ってくれると助かるよ。……ナマエ、これからは毎晩私の部屋に来てくれないかい?」
「かしこまりました。何かをお持ちしましょうか?」
「必要ないよ。その身一つで来てくれればそれでいい。……正直なところ、近頃は、あんな行動に出てしまうくらいに疲れていてね。誰かに吐き出してしまわないと、仮面が壊れてしまいそうなんだ」
「……承知いたしました」
「その代わり、私の話を聞くだけの無償奉仕をしろとは言わないよ。ナマエ、キミの心の在り方を少しずつ一緒に探していこう」
「心の在り方、ですか」
「ああ、そうだ。キミが何に喜び、何に哀しみ、何に苦しみ、一体何を求めるのか。何故キミは、自分自身を断罪する必要があると感じたのか。時間をかけて、共にゆっくりと考えていこう。……ナマエは賢いから、きっといつか、自分で答えを見つけられるとは思うけどね」
「いえ。感情の機微には疎いので、ご教示いただけますと幸いです。その代わり、旦那様のどのような憎悪も愛情も、否定は致しません」
「ありがとう、ナマエ。キミがいてくれて良かった」
「……恐れ入ります」
胸の奥が温かくなるような、目頭が熱くなるような感情の奔流でさえ、いつも通り無表情という仮面の下に覆い隠す。しかしきっと旦那様はそんな私の状態を察しているのだろう。ここではない何処か遠くを眺めるように目を眇めてから、ぽつりと言った。
「私のこの憎しみと愛は、きっと死によってしか救われないものなんだ。……だからナマエ。私は、キミとずっと一緒にはいられないだろう」
「構いません。いつか旦那様の御心が救われることを、シェルビーノ家の使用人として、心からお祈りしております」
その言葉は決して嘘ではなかった。確かに旦那様は、私という人間の存在を認め、私に心の在り方を教えようとしてくれた唯一無二のひとだ。今後かけがえのないご主人様になっていくのだろうと、確かに予感していた。
だが、薄情なのは承知で───ただそれだけなのだ。旦那様は、亡くなった奥様と現在傍にいるお嬢様を何よりも愛しているからこそ苦しんでいて、私はその苦しみを共有できるだけの都合のいい使用人でしかなかった。
それで良かった。私は結局、いつか一人で死ぬのだから。人から愛されることなく、誰かを愛することもなく。シェルビーノ家にて果たすべき役割を終えた瞬間、潔くこの世から立ち去るつもりなのだから。生きる喜びも死ぬメリットも見つけないまま、虚しくつまらない人生を歩んでいくしかないのだから。
なればこそ、懐かしいスラム街で綺麗な赤毛の少年を発見した時。私はもしかしたら、本能的な危機感を覚えていたのかもしれない。地面に座り込みながら呆然と見上げてくるその美しい瞳が、あまりにも無垢に私を見つめてくる純粋な目が、いつか私という人間の奥底まで暴き立てるのかもしれない、と。
「……ジュリオ」
「はい」
私を捨てた肉親によって作られた要塞の最奥、一面の花畑が広がる空間の片隅にて。
夜空を宿した瞳が、私を静かに見つめていた。久方ぶりの再会時には容赦なく蹴り飛ばし、先程パウロを救出した際には完全に無視をしたのに。憎悪や悲嘆を一切滲ませないまま、怖いほど真っ直ぐにこちらを見据えていた。
先程私はダークマイトから、ジュリオを排除せよと言外に命令を受けた。心をへし折れ、とは随分意地の悪いことを言うものだと目を細めてしまう。直接的に手を下せとは口にせず、保身に走るような物言いをするがあの男らしく、同時に私の父親らしいとも自嘲してしまった。
結局のところ、私はいつも逃げてばかりいた。旦那様が本当は私に何を望んでいたのか、毎晩対話をしていても知ることが叶わなかった。お嬢様のことだって使用人として慕う気持ちはあれど、私個人としてどのような思いを向ければ適切なのか、今も分からないままだった。
───わたしね、ナマエがいてくれて良かったって思うの。
お嬢様が幼かった頃、そう言って笑いかけてくださったことがある。本来ならば学校に通い始める年齢となっても、決して同年代の子どもと交流できず、屋敷の中でひっそりと息を押し殺すように生活されていた。
そんなお嬢様の個性に影響を受けない貴重な立場だった私は、一般的な勉強から礼儀作法までを教える家庭教師の役割も任されていた。旦那様曰く、「私が下手なことをしないように見張っていてくれ」とのことだったけれど。
「無表情で冷淡な態度ばかり取ってしまいますが、つまらなくはありませんか?」
「まさか! ナマエはとっても優しいもの!」
「やさしい、とは似つかわしくない表現かと思いますが」
「ふふ。だって、お勉強はわたしのペースに合わせてくれるし、上手く出来たら褒めてくれて、ダメな時は一緒にどうすれば良いか考えてくれるでしょう?」
「いたって普通のことでは?」
「そんなことないわ。わたしの頭を撫でて、抱きしめて、大切に扱ってくれる。そんなことをしてくれるのは……ナマエだけよ」
そこに旦那様の名前が挙がらないことを、敢えて指摘することはなかった。きっとお嬢様は、旦那様の葛藤を察していた。そして、そんなお嬢様の思考を旦那様も見抜いているのだろうと、それくらいのことは分かっていた。
「条件さえ整えば、私でなくともお嬢様を大切にしてくださる方はきっと現れます。その時は、私のことなどお忘れください」
出来る限り淡々と言えば、まろやかで温かなブルーの瞳に何か言いたげな色が宿った気がした。お嬢様は僅かばかり逡巡するように考え込んだ後、小さな声ながらキッパリと言う。
「……それでも、わたしは、ナマエに傍にいてほしいわ」
「……恐れ入ります」
私はきっと、お嬢様のそのやさしい言葉が恐ろしかったのだ。旦那様とは違った意味で私自身を求めてくれる言葉にどれほど期待しようとも、結局最後にお嬢様が一番に想うのは私ではない。
いくら愛憎が入り混じっていようとも、実の父親からあれだけ愛されるお嬢様のことを、一個人として心から敬愛しているのか、それとも羨ましく妬ましく思う気持ちがあるのか、それさえも未だに不明瞭だったから。
そして───案の定、お嬢様を唯一救うことの出来る個性の持ち主が現れた。私は、お嬢様にとって必ずしも必要な存在ではなくなり、旦那様だって、私がいなくとも精神的な安定を図ることはいくらでも可能だ。
私をただの使用人にしてくれた執事候補生のガキ様は、それはもう警戒心が剥き出しの子犬のように威勢が良く、思いのほか飲み込みも早ければ鍛え甲斐もあった。
言ってしまうのであれば……きっと、ジュリオと過ごす時間は、楽しかったのだろうと思う。シェルビーノ家の使用人としてでも、ゴリーニファミリーの関係者としてでもなく、社会的な肩書きを持たないまま会うことの叶った、初めての子だったから。
初対面の日にシャワーを浴びせて着替えを行い、その後に何故だか私の名前を聞かれて。数々の教養とマナーを叩き込み教え導く立場だった筈が、お嬢様への態度について叱られて。二人で買い物にも行った最中、雨に降られてお茶をしては自分の出自に思いを馳せることもあった。
「ナマエ、ジュリオのことはどう思っているんだい?」
「旦那様、いつもながら唐突ですね。勤勉な同僚だと思いますが」
「そういうことではなくてね。一人の女性として、ジュリオに男性的な魅力を感じるか、ということなんだが」
「…………。仰る意味が分かりかねますが」
「私もついお節介を焼いてしまいたくなるくらい、ジュリオが一途で健気だからね。それで結局どうなんだい?」
「……お嬢様のお相手と考えれば、これ以上無いほどの好条件かと。それは旦那様もお分かりでしょう」
「───ナマエ」
あれは確か、シェルビーノ家に襲撃があった夜の、数日前のことだった。いつもながら揶揄うように唐突な言葉遊びを始めたのかと思えば、旦那様は、いつになく真剣な顔で私に向き合ってくれた。
「誰かを敬い慈しむ心と、恋焦がれる想いは、全くの別物なんだよ」
「……恋や愛といった想いは、私には無縁でございます。それぞれ別個のものだと、一応認識はしておりますが」
「そうかい? ならばもし、ナマエが私を想う気持ちが恋愛感情だと誤解している人がいたら、一体どう思う?」
「……私の感情を、第三者が勝手に決め付けないで頂きたいとは思います。そもそも旦那様に失礼ですし」
「そう。ナマエの感情はナマエだけのものだ。同様に、ジュリオがナマエにどんな気持ちを抱いているのか。それを決められるのは本人だけなんだよ」
身体は成人を迎えていても、精神的には未だにひどく幼いのだと自覚する。旦那様は私を優しく諭すように、私の価値観を尊重した物言いをしてくださるから、余計に己の未熟さが浮き彫りになった。
「私が障害となるのも申し訳ないからね。一度、ジュリオともきちんと話をするといい」
「お気遣い、痛み入ります。……旦那様」
「うん」
「いつも私を教え導いてくださり、ありがとうございます」
「むしろ私の方が助けられているからね。……こちらこそ、ナマエのお陰でアンナに上手く向き合うことが出来ているから、いつも感謝しているよ」
「恐縮です」
しかしどんなに旦那様が優しく声をかけてくれたとしても、この世に産まれ落ちてしまった、という己の罪が消えることは無い。ゴリーニファミリーによって旦那様の命が奪われたあの夜から、私に纏わりつく咎は、ますます重く血に塗れたものとなった。
自分にとっては死こそが救いなのだと、旦那様が以前から仰っていたのは事実だ。しかしながら、お嬢様を犯罪組織に奪われた上に、出血多量で亡くなるという苦しみなど、決して体験させたい訳が無かった。それも私の血縁者が元凶であり、下手すれば私も原因の一端を担っている可能性すらある。たとえ私自身はゴリーニとの繋がりを断っていても、情報というものはいつどこで漏れるか分からないものだ。
あの夜。目の前で段々と力を失っていく主人に対して、止血すらまともに出来ずただ無力だった私を、果たして旦那様は許してくださるだろうか。……いや、今は、旦那様の御意思など考えても無意味だったか。
「……、ナマエ」
そう。あの時、確かに旦那様は微笑んでいた。私の出自も裏社会での振る舞いも全て熟知していたのだから、ゴリーニが来た時点で全てを推察できただろうに。
「キミ、に……最期に伝えたいことが、あるんだ」
嗚呼。真っ赤に染まった手と感情に支配されていた私は、一体なんと答えたのだったか。それすらも思い出せない程に薄情で愚かな人間を、一体誰が赦すというのだろうか。
こんな女に最期の鉄槌を与えてくれる存在は、きっと今、目の前の男だけだった。
ヨーロッパ圏最大の犯罪組織のボスの孫娘として産まれ、幼少期を血腥い世界で過ごし、物心がついた頃に有用な個性を持たないと判明してからは、呆気なくスラム街に捨てられた。
父は、力を何よりも重視し血縁でさえ平気で切り捨てる人だったし、母は寂しさを父でしか埋めることの出来ない人だったから、幼く無力な子どもなど不要だったのだろう。
大の大人から、様々な暴力や欲望の捌け口にされ続けた日々は、正直思い出したくもない。だがせめてもの抵抗として生家から持ち出していた銃によって、裏社会で幅を利かせられると知って以来、生活は一変した。
弱者は常に強者から虐げられる。そんな世界の不条理さを生まれ持って知っていた私は、持てる知識とコネを総動員し、自分で自分の身を守るための力を身に付けた。武器の扱い方も、戦闘における身体の動かし方も、一級の犯罪者たちを間近で見てきたのだから自然と会得できた。……手前味噌ではあるが、一般的に見ても器用な方なのだと思う。
その頃にはすっかり感情を表す術など失い、二度と他人に心を許すことなどないのだろうと悟っていた。
「キミが、ナマエ・ミョウジさんかい?」
旦那様から直接声をかけて頂いたのは、ちょうどその頃だった。
ゴリーニとの関わりを断つべく、母方の苗字を名乗っていたのが功を奏したらしい。地元の名士として知られるシェルビーノ家当主との縁が繋がったことが、私の人生における最大の幸運だった。
ただ、当時の私は旦那様を信用する気持ちなど微塵もなく、利害関係が一致すれば多少手荒いことをされても構わないと思っていたのだけれど。無知だったとはいえ随分と愚かなことだと、我ながら呆れてしまう。
シェルビーノ家では殴られもせず、武器で傷付けられもせず、個性の実験台にされることもなければ、女として求められる機会もなかった。使用人としての仕事を全うしてさえいれば理不尽な目に遭うこともなく、一人の人間として尊重してもらっていた。
今となればそれが当然の権利であると理解しているものの、当時の私は途方に暮れていた。たとえ表の世界とはいえ、社会の中で権力を持つ存在というのは、多かれ少なかれ自らの力を振りかざし、弱者を搾取するのが当然だと思っていたから。
どんなに善良な人間であっても、己の立場を守るためには自分と異なる正義と対立し、その意思と価値観を踏み躙らなければならない時があるのだと、自ずと認識していたから。
しかし、シェルビーノ家の旦那様には、不自然なほど欠点が見当たらなかった。
いくら特殊な個性を持つお嬢様のためとはいえ、どこの馬の骨とも知れないスラム街の孤児を雇うなど、正気の沙汰とは言えないだろう。何が目的なのだと猜疑心に支配されていた私は、眠れない夜にこっそりと屋敷の中を出歩いては、旦那様の真意を探っていた。旦那様がいつ豹変しても落胆しないように、証拠を集めておくのが安全だと思ったからだ。それが私の昔からの生き方だった。
この世に産まれ落ちた瞬間から、他人に期待したことなど一度もない。いざという時の盾にも剣にもなる切り札を常に用意し、強者と事を荒立てぬように切り抜ける。それが私の学んだ処世術だ。
だからこそ、お嬢様の部屋に入っていく旦那様を見かけたのも、まったくの偶然だった。
あれだけ子煩悩な父親でもあるのだから不自然ではないかと思いつつ、扉の隙間から覗き込んだ時。旦那様が、お嬢様の首に手をかけようとしている瞬間を、見た。
「……ナマエ、いるんだろう?」
つい、全身がビクリと震えた。気配を消す技術にはそれなりに長けていると思っていたのだが、どうやら私も井の中の蛙だったらしい。旦那様は明らかに、裏社会を知る側の人間だと悟った。
お嬢様を救おうとする過程で触れたのか、シェルビーノ家を興す途上で知らざるを得なかったのか、判別はつかなかったけれど。少なくとも今、私は旦那様に敵わない弱者側の人間であることは理解した。
「はい、おります。いかなる罰も甘んじて受ける所存です」
「はは。罰を与える理由がないだろう」
ベビーベッドの傍で、旦那様は不自然なくらいにこやかに笑っていた。しかしその不気味さに安堵する。裏の顔を持たない人間など、この世に存在する訳がないのだから。
「私は不躾にも、旦那様のプライベートに触れてしまいましたので」
「プライベート、か……。この様を見てもそう言えるキミの胆力を見込んで、一つ頼みがある」
「何なりと」
「私とお喋りしようか。二人きりで」
いよいよ対価として尊厳を踏み躙られる時がきたのかと、覚悟を決めた。しかし旦那様は、自室に招き入れてもいつも通りに笑うばかりで、丁寧に用意した椅子に私を座らせる始末だった。こちらは相当怪訝な顔をしていただろう。
「ここから先にする話を、誰かに話すかどうかは……ナマエ。キミに任せようと思う」
「……打ち明けることは致しません。絶対に」
「やはりナマエは義理堅い子だね」
「そんなことはございません。所詮は私も、自らの打算で動いているだけですので」
「たとえキミがそう思っていても、あくまで私の主観的で個人的な感想として、ナマエは真面目で誠実な子だと感じるよ」
「……恐れ入ります」
あくまで表面上は和やかでも、水面下では張り詰めた緊張感が漂っていた。出過ぎた真似をしないよう、無表情でいるよう心がける。
「ナマエは、私の妻のことは聞いているかい?」
「……他の使用人から、噂を耳にしたことはございます。しかし客観的な事実は何も存じ上げません」
「そうか。その年で、噂をもとに偏った見方をしないのは相当に賢い子だ。……それだけキミも、苦労をしてきたのだろう」
確かに、もし私が一般的な家庭で育っていれば、学校に通い友人とはしゃいでいるくらいの年齢だった。そんな子どもたちに対する羨ましい気持ちが皆無とは言わない。だが、同学年であるという理由だけで、同じ空間に何年もずっと大勢の人間と共に詰め込まれる環境に、わざわざ身を置きたいとも思わなかった。それならばまだ、自分の身体一つで身を立てられるよう努力している方が好ましい。これを苦労と言われてしまえば否定は出来なかったが。
「私にお気遣い頂く必要はございませんので。旦那様の御都合の良いタイミングで、お好きにお話しくださいませ」
「それではお言葉に甘えようかな。……妻はね、アンナを出産するのと同時に亡くなったんだ。原因は、噂で語られている通りかもしれないね」
「……お嬢様の、過剰変容の個性、でしょうか」
「その通り。私の個性とも妻の個性とも全く異なり、相手に触れただけで個性因子を過剰に変容させる強力な力だ。
どんなに医療設備が整った病院であっても、出産時に妊婦が亡くなる確率はゼロにはならない。その上で奥様がお嬢様の個性に適合できなかったならば、命を落としてしまうのも仕方がないだろう。だがこれはあくまで第三者から見た結論であり、当事者である旦那様の心境は想像に難くない。
「率直に言ってしまおうか。……私はね、アンナを恨む気持ちを抑えることが出来ないんだ」
旦那様が、いよいよ顔から一切の感情を削ぎ落す。暗く重たい響きを持った言葉が、私たちの間に鋭く横たわった。
「あの子があんな個性を持って産まれなければ、きっと三人で平和に暮らすことが出来ていたのに……なんてね。つい考えてしまうんだ。父親としてアンナを愛する気持ちは、確かにある筈なのに。最低だろう?」
「……そのようなことは、ないかと存じます。これもあくまで、私の主観的で個人的な思考になってしまうかもしれませんが」
「ナマエの主観的な考えを聞けるのは興味深いね。詳しく聞かせてもらえるかな?」
その瞬間、私は人生で最も悩んでいたかもしれない。自分の思考を他人に共有する必要なんて今まで無かったし、これから先もそんなことをするなんて思ってもいなかったから。
「……旦那様もお分かりかと存じますが、全ての人には複数の人格があると、思うのです」
「うん」
「それぞれの人格が異なる感情を持ち、関わる人物によって発露する言動を変えていくことは、至って自然です」
「……そうかもしれないね」
「私を殴りつけた男性が、同じ日に、同じ手で、実の子を撫でるなど……スラムでは、当然のことでした。酒や薬に狂えば、そんな実の子にさえ手を上げる方もいました」
何故こんなにも歯切れ悪く話してしまうのかと、内心疑問に思っていた。お仕えする旦那様に失礼なことを言っているか心配ならば、既にそれ以上に無礼な振る舞いをしているというのに。それでも今、この場で言葉を紡がなければ何かが手遅れになってしまうと、私は予感していたのかもしれない。
「お嬢様を愛する気持ちと、お嬢様を憎む気持ちが共存する状況を、悪だと断じてしまえば……」
「うん」
「私は、自身のことさえ断罪しなければならないのかも、しれません」
「それは、一体何故だい?」
旦那様の静かな瞳が、私をそっと見守るように貫いていく。一体何故か。その単純で端的な問いかけが、かつて心臓の奥底に重たく沈めた筈の、ありのままの剥き出しの感情に、ぐっと触れたような気がした。名前も形も色も温度も何も分からないけれど、確かにそこには何かしらの、間違いなく私自身の苛烈な心情が、存在した。
「……何故、なのでしょうか」
「ナマエ、実はね。キミと私は同類のような気がしていたんだ」
「同類……?」
「ああ。自分の本当の心を仮面で覆い隠し続けたあまり、その顔が張り付いて離れなくなってしまった仲間なんじゃないか、とね。……だからこそ、キミに声をかけたんだよ。酷い大人だろう?」
旦那様が声をかけてくださったのは、お嬢様のためだからではなく、私の精神性を買ってのことだった。その事実を知った時の衝撃は、何と言い表せば適切に伝わるのだろうか。誰も彼もが私を不要と断じ、肉親にさえ捨てられ蔑まれるばかりだった人生の中で初めて、私という人間を真正面から見てくれる方が現れたのかもしれないという、痛くて怖い程の期待と不安を。
「……いいえ、むしろ光栄です」
「そうか、そう言ってくれると助かるよ。……ナマエ、これからは毎晩私の部屋に来てくれないかい?」
「かしこまりました。何かをお持ちしましょうか?」
「必要ないよ。その身一つで来てくれればそれでいい。……正直なところ、近頃は、あんな行動に出てしまうくらいに疲れていてね。誰かに吐き出してしまわないと、仮面が壊れてしまいそうなんだ」
「……承知いたしました」
「その代わり、私の話を聞くだけの無償奉仕をしろとは言わないよ。ナマエ、キミの心の在り方を少しずつ一緒に探していこう」
「心の在り方、ですか」
「ああ、そうだ。キミが何に喜び、何に哀しみ、何に苦しみ、一体何を求めるのか。何故キミは、自分自身を断罪する必要があると感じたのか。時間をかけて、共にゆっくりと考えていこう。……ナマエは賢いから、きっといつか、自分で答えを見つけられるとは思うけどね」
「いえ。感情の機微には疎いので、ご教示いただけますと幸いです。その代わり、旦那様のどのような憎悪も愛情も、否定は致しません」
「ありがとう、ナマエ。キミがいてくれて良かった」
「……恐れ入ります」
胸の奥が温かくなるような、目頭が熱くなるような感情の奔流でさえ、いつも通り無表情という仮面の下に覆い隠す。しかしきっと旦那様はそんな私の状態を察しているのだろう。ここではない何処か遠くを眺めるように目を眇めてから、ぽつりと言った。
「私のこの憎しみと愛は、きっと死によってしか救われないものなんだ。……だからナマエ。私は、キミとずっと一緒にはいられないだろう」
「構いません。いつか旦那様の御心が救われることを、シェルビーノ家の使用人として、心からお祈りしております」
その言葉は決して嘘ではなかった。確かに旦那様は、私という人間の存在を認め、私に心の在り方を教えようとしてくれた唯一無二のひとだ。今後かけがえのないご主人様になっていくのだろうと、確かに予感していた。
だが、薄情なのは承知で───ただそれだけなのだ。旦那様は、亡くなった奥様と現在傍にいるお嬢様を何よりも愛しているからこそ苦しんでいて、私はその苦しみを共有できるだけの都合のいい使用人でしかなかった。
それで良かった。私は結局、いつか一人で死ぬのだから。人から愛されることなく、誰かを愛することもなく。シェルビーノ家にて果たすべき役割を終えた瞬間、潔くこの世から立ち去るつもりなのだから。生きる喜びも死ぬメリットも見つけないまま、虚しくつまらない人生を歩んでいくしかないのだから。
なればこそ、懐かしいスラム街で綺麗な赤毛の少年を発見した時。私はもしかしたら、本能的な危機感を覚えていたのかもしれない。地面に座り込みながら呆然と見上げてくるその美しい瞳が、あまりにも無垢に私を見つめてくる純粋な目が、いつか私という人間の奥底まで暴き立てるのかもしれない、と。
「……ジュリオ」
「はい」
私を捨てた肉親によって作られた要塞の最奥、一面の花畑が広がる空間の片隅にて。
夜空を宿した瞳が、私を静かに見つめていた。久方ぶりの再会時には容赦なく蹴り飛ばし、先程パウロを救出した際には完全に無視をしたのに。憎悪や悲嘆を一切滲ませないまま、怖いほど真っ直ぐにこちらを見据えていた。
先程私はダークマイトから、ジュリオを排除せよと言外に命令を受けた。心をへし折れ、とは随分意地の悪いことを言うものだと目を細めてしまう。直接的に手を下せとは口にせず、保身に走るような物言いをするがあの男らしく、同時に私の父親らしいとも自嘲してしまった。
結局のところ、私はいつも逃げてばかりいた。旦那様が本当は私に何を望んでいたのか、毎晩対話をしていても知ることが叶わなかった。お嬢様のことだって使用人として慕う気持ちはあれど、私個人としてどのような思いを向ければ適切なのか、今も分からないままだった。
───わたしね、ナマエがいてくれて良かったって思うの。
お嬢様が幼かった頃、そう言って笑いかけてくださったことがある。本来ならば学校に通い始める年齢となっても、決して同年代の子どもと交流できず、屋敷の中でひっそりと息を押し殺すように生活されていた。
そんなお嬢様の個性に影響を受けない貴重な立場だった私は、一般的な勉強から礼儀作法までを教える家庭教師の役割も任されていた。旦那様曰く、「私が下手なことをしないように見張っていてくれ」とのことだったけれど。
「無表情で冷淡な態度ばかり取ってしまいますが、つまらなくはありませんか?」
「まさか! ナマエはとっても優しいもの!」
「やさしい、とは似つかわしくない表現かと思いますが」
「ふふ。だって、お勉強はわたしのペースに合わせてくれるし、上手く出来たら褒めてくれて、ダメな時は一緒にどうすれば良いか考えてくれるでしょう?」
「いたって普通のことでは?」
「そんなことないわ。わたしの頭を撫でて、抱きしめて、大切に扱ってくれる。そんなことをしてくれるのは……ナマエだけよ」
そこに旦那様の名前が挙がらないことを、敢えて指摘することはなかった。きっとお嬢様は、旦那様の葛藤を察していた。そして、そんなお嬢様の思考を旦那様も見抜いているのだろうと、それくらいのことは分かっていた。
「条件さえ整えば、私でなくともお嬢様を大切にしてくださる方はきっと現れます。その時は、私のことなどお忘れください」
出来る限り淡々と言えば、まろやかで温かなブルーの瞳に何か言いたげな色が宿った気がした。お嬢様は僅かばかり逡巡するように考え込んだ後、小さな声ながらキッパリと言う。
「……それでも、わたしは、ナマエに傍にいてほしいわ」
「……恐れ入ります」
私はきっと、お嬢様のそのやさしい言葉が恐ろしかったのだ。旦那様とは違った意味で私自身を求めてくれる言葉にどれほど期待しようとも、結局最後にお嬢様が一番に想うのは私ではない。
いくら愛憎が入り混じっていようとも、実の父親からあれだけ愛されるお嬢様のことを、一個人として心から敬愛しているのか、それとも羨ましく妬ましく思う気持ちがあるのか、それさえも未だに不明瞭だったから。
そして───案の定、お嬢様を唯一救うことの出来る個性の持ち主が現れた。私は、お嬢様にとって必ずしも必要な存在ではなくなり、旦那様だって、私がいなくとも精神的な安定を図ることはいくらでも可能だ。
私をただの使用人にしてくれた執事候補生のガキ様は、それはもう警戒心が剥き出しの子犬のように威勢が良く、思いのほか飲み込みも早ければ鍛え甲斐もあった。
言ってしまうのであれば……きっと、ジュリオと過ごす時間は、楽しかったのだろうと思う。シェルビーノ家の使用人としてでも、ゴリーニファミリーの関係者としてでもなく、社会的な肩書きを持たないまま会うことの叶った、初めての子だったから。
初対面の日にシャワーを浴びせて着替えを行い、その後に何故だか私の名前を聞かれて。数々の教養とマナーを叩き込み教え導く立場だった筈が、お嬢様への態度について叱られて。二人で買い物にも行った最中、雨に降られてお茶をしては自分の出自に思いを馳せることもあった。
「ナマエ、ジュリオのことはどう思っているんだい?」
「旦那様、いつもながら唐突ですね。勤勉な同僚だと思いますが」
「そういうことではなくてね。一人の女性として、ジュリオに男性的な魅力を感じるか、ということなんだが」
「…………。仰る意味が分かりかねますが」
「私もついお節介を焼いてしまいたくなるくらい、ジュリオが一途で健気だからね。それで結局どうなんだい?」
「……お嬢様のお相手と考えれば、これ以上無いほどの好条件かと。それは旦那様もお分かりでしょう」
「───ナマエ」
あれは確か、シェルビーノ家に襲撃があった夜の、数日前のことだった。いつもながら揶揄うように唐突な言葉遊びを始めたのかと思えば、旦那様は、いつになく真剣な顔で私に向き合ってくれた。
「誰かを敬い慈しむ心と、恋焦がれる想いは、全くの別物なんだよ」
「……恋や愛といった想いは、私には無縁でございます。それぞれ別個のものだと、一応認識はしておりますが」
「そうかい? ならばもし、ナマエが私を想う気持ちが恋愛感情だと誤解している人がいたら、一体どう思う?」
「……私の感情を、第三者が勝手に決め付けないで頂きたいとは思います。そもそも旦那様に失礼ですし」
「そう。ナマエの感情はナマエだけのものだ。同様に、ジュリオがナマエにどんな気持ちを抱いているのか。それを決められるのは本人だけなんだよ」
身体は成人を迎えていても、精神的には未だにひどく幼いのだと自覚する。旦那様は私を優しく諭すように、私の価値観を尊重した物言いをしてくださるから、余計に己の未熟さが浮き彫りになった。
「私が障害となるのも申し訳ないからね。一度、ジュリオともきちんと話をするといい」
「お気遣い、痛み入ります。……旦那様」
「うん」
「いつも私を教え導いてくださり、ありがとうございます」
「むしろ私の方が助けられているからね。……こちらこそ、ナマエのお陰でアンナに上手く向き合うことが出来ているから、いつも感謝しているよ」
「恐縮です」
しかしどんなに旦那様が優しく声をかけてくれたとしても、この世に産まれ落ちてしまった、という己の罪が消えることは無い。ゴリーニファミリーによって旦那様の命が奪われたあの夜から、私に纏わりつく咎は、ますます重く血に塗れたものとなった。
自分にとっては死こそが救いなのだと、旦那様が以前から仰っていたのは事実だ。しかしながら、お嬢様を犯罪組織に奪われた上に、出血多量で亡くなるという苦しみなど、決して体験させたい訳が無かった。それも私の血縁者が元凶であり、下手すれば私も原因の一端を担っている可能性すらある。たとえ私自身はゴリーニとの繋がりを断っていても、情報というものはいつどこで漏れるか分からないものだ。
あの夜。目の前で段々と力を失っていく主人に対して、止血すらまともに出来ずただ無力だった私を、果たして旦那様は許してくださるだろうか。……いや、今は、旦那様の御意思など考えても無意味だったか。
「……、ナマエ」
そう。あの時、確かに旦那様は微笑んでいた。私の出自も裏社会での振る舞いも全て熟知していたのだから、ゴリーニが来た時点で全てを推察できただろうに。
「キミ、に……最期に伝えたいことが、あるんだ」
嗚呼。真っ赤に染まった手と感情に支配されていた私は、一体なんと答えたのだったか。それすらも思い出せない程に薄情で愚かな人間を、一体誰が赦すというのだろうか。
こんな女に最期の鉄槌を与えてくれる存在は、きっと今、目の前の男だけだった。