徒花に弓張り月(後編)
多少の傷を負いながらも、目の前にやって来てくれたジュリオに向き直り───。無事に機械化出来たらしい右手の掌を、私の左胸にそっと押し当てる。その硬い指先に熱は宿らない筈なのに、決意と熱意がじんわりと伝わってくるような気がした。
「は、……ハァッ!?」
「相変わらず、あなた様は声が大きいですね」
鼓膜が破れる勢いだと肩をすくめる。何故だかジュリオの顔は、髪色のように赤く色づいていた。しかし……やはり、その姿は相変わらず美しいと感じる。いくら本人が卑下しようとも、かつて例えた紅雨や紅葉のごとく、夕焼けや朝焼けのごとく、ありのままの自然な純粋さを湛えた色をしていた。
「なッ、ばッ……ハァ!?」
「何一つ、全く言葉になっておりませんが」
「あんたが突然突拍子もないことするからだろうがよ!?」
「それは大変失礼いたしました。……ジュリオ」
「なんだよ」
「私を撃ってください」
夜空色の瞳は一瞬だけ強張りつつも、私を静かに見据えたままだった。背後では激しい戦闘音がしているというのに、まるでここだけが小舞台のようだ、と思う。
今だけは、お嬢様がデボラの幻影に囚われていることに感謝した。大事なひとが手を汚す瞬間を見たら心を痛めてしまう、とても優しい方だから。
「……俺に、あんたを殺せって?」
「此処に来たということは、お嬢様の命を救う覚悟を決めたのでしょう。となれば、どのような結末を迎えても、私という存在が邪魔になります」
「お嬢様は絶対に、そんなことは思わねえ!」
「ええ、確かに同意します。ですがもう、お嬢様の考えだけで私の処遇が決まる状況ではないのだと、さすがに分かるでしょう?」
「…………ッ」
これだけ言えば、明確に理解してくれたらしい。私が産まれ落ちた瞬間から抱えることになった、生きている、という罪について。
「世界の命運が掛かっているこの時期、この場所において。これだけの規模の問題を起こし、民間人にまで大損害をもたらしたゴリーニの名を。ヒーローもヴィランも関係なく、世界中の人が憎むでしょう」
「…………」
「私は今まで散々、裏社会においてゴリーニの血縁であることを活用してきました。人の口に戸は立てられません。いくら緘口令を敷いたとて、私の出自が公にならない筈がないのです。……このゴリーニの血が途絶えぬ限り、シェルビーノ家にも悪評が付き纏うことでしょう。私は、私を必要としてくださった旦那様とお嬢様を、もうこれ以上、苦しめたくないのです」
私の意思は明確だ。この場所で、お嬢様を唯一守り抜ける存在によって撃たれ、潔くこの世から退場する。どうやら、ジュリオをここまで導いてくれたヒーローは味方のようだし、お嬢様の無事も確保出来るだろう。私が生きているメリットも理由も、今はもう一切無い。
「もし手を汚すことが嫌ならば、腕だけを貸してください。自分で撃ちますので。そうすればあなた様は、ゴリーニの血縁を絶やしたヒーローになるでしょう」
「…………、…………」
深く俯いた後、ジュリオが右腕の銃を起動させ、私の心臓に照準を合わせる。ようやく全てが終わる、と安堵にも似た気持ちが胸に満ちていった。……かと思えば、その銃口が勢いよく別方向を向き、激しい音を何度も立てて発砲する。
見れば、戦闘中のダークマイトを狙ったようだった。奴がお嬢様の個性に適合した今ならば、銃弾など子供の玩具程度にしか感じないだろうから、今すぐこちらに狙いを定めることはないだろうけれど。それでも目的を邪魔されるのが何より大嫌いな輩だから、下手に手を出せばジュリオが傷付くことになりかねない。
「ジュリオ! 一体何をしているのか、分かっていますか!?」
「ああ! 分かってるよ! それでも俺は、もう二度とあんたを喪いたくねえ!」
喪いたくない等と簡単に言ってくれる。結局はどうせ、私のことなど捨て去ってしまうくせに。
「同情といった類の儚い情なら不要です! 今すぐに捨て去ってください! ……ッそれに言ったでしょう! 私はこれから世界中に憎まれ、永遠に死ぬまで迷惑をかけ続ける女です! ならばせめて今、苦しみが少ない状態で行かせてください!」
「嫌だ! いくらワガママと言われようが、俺があんたを殺せる訳ねえだろ!」
旦那様の死を確信した時と似て非なる激情が、腹の底から湧き上がり、胸の内を濁流のごとく掻き回し、全身に満ち満ちていく。シェルビーノ家に襲撃があった夜は、哀しみや怒りを感じる暇さえなかった。それよりもお嬢様の心と身体をお守りしなければならなかったから。
しかし今は私がいなくとも、世界は全て上手く回っていくのだ。そんな事実はジュリオならば簡単に理解できる筈だった。強烈に視界が歪む程の、今までに感じたことのない熱が頭を突き抜けていく。
「私はもう、死によってしか救われないんです! とっくに生きることに疲れたんです! だからお願い……一瞬だけ、その手を貸してくれるだけで良いんです……」
激しい感情を発散したあまり力が抜けたのか、つい地面に膝をついてしまった。何故か未だに視界が滲んだままで、両頬が熱い液体で濡れているような気がした。そして、ジュリオの左手が私の頬に触れた瞬間、ようやく気付く。……私は、泣いているのかと。
「俺は、たとえ、世界中の誰もがあんたに罪があると糾弾しようが、ナマエ・ミョウジを受け入れる」
「……」
それは、優しくてあたたかな声だった。陽だまりのように柔らかで、星のように穏やかで、月のように繊細な色を宿している、と感じた。
「償い切れない罪も含めて、まるごとあんたの全てを受け入れるし、もし背負いきれなくなったら一緒に抱えてやる」
「…………ッ」
「裁かれるべき罰が死後も永遠に続くって言うんなら、地獄であんたの分も肩代わりする覚悟だってあるよ。───だから、なにも怖がらなくていい」
「こわがる……?」
我ながら、か細く震えた声だった。しかしジュリオは一切馬鹿にすることなく、私の頬に手を添えたまま、眼帯に覆われていない左目を細めた。その様は夜空に浮かぶ月が満ち欠けしていくように美しく、世界の暗闇をそっと見守る半月を想起させる。
「あんたの心を、俺は全部受け入れる。だから今だけは俺を信じて、この手を取ってほしい。ここから出て何をするかは、あんたの自由だから。……それに、この国の職業ヒーローは思ったよりも信頼できそうな奴らだったんだ。ゴリーニの血のことだって、乗り越えられる道を一緒に見つけてくれるだろうよ」
「何故……そこまで、私に肩入れするんですか」
「……あー、言わなきゃダメか?」
月のような顔で一方的に激しく心を揺さぶってきたかと思えば、今は初対面の頃を思わせる無垢さを覗かせて。最終的に困ったように眉を下げた後、けれどジュリオは迷いなく言い切った。
「俺は、ナマエ・ミョウジを愛してるから」
愛してる。その言葉を聞いた経験は、数多くある。当然意味も知っていた。街中でカップルが言い合っているのも耳にしたことがあるし、旦那様がお嬢様に対して口にする光景も何度も見てきた。……かつて、どこかで同じ言葉を向けられたような気もした。
けれど、一体何故。ジュリオがその一言を私に向けてくれたというだけで、こんなにも胸の奥が烈しく搔き回されるような心地になるのだろう。
「……よく、分かりません」
「今はそれでいい。だから、それ以上泣くなよ」
「別に私だって、泣こうと思って……泣いている訳では……」
「……やっぱりナマエ、かわいいよな」
かわいい。世界で一番、私に似つかわしくないと言っても差し支えない形容詞だった。「そういうことはお嬢様に言って差し上げてください」と、普段ならば無感動にぴしゃりと言ってしまえるのに。
今は喉の奥が張り付いたように上手く言葉が出なくて、不思議と顔まで迫り上がる熱を手の甲で覆い隠すことに必死だった。現実的に問題は何一つ解決していないというのに、それでも今の私は、その温かな手を取っても良いのだろうかと、僅かでもそう考えるようになってしまっていた。
「わ、たしは……決して、かわいく、ないです……」
「いや、今の俺にとっては世界で一番かわいい」
「む、無駄な会話は、控えてください……ッ!」
「なら、もう俺にナマエを撃てなんて言わねえか?」
「い、言いません! 言いませんから……! それに、私は私でやれることを思い付きましたので!」
「……何をする気だ?」
「ジュリオも見ていたから分かると思いますが……。ダークマイトが処断しようとしたファミリーのメンバーを、個人的に匿っているんです。なので彼らに協力を仰いでみようかと。やはり放ってはおけませんし」
どうやら三人のヒーローがこの場に集ったようだから、ダークマイトを打倒する手札は揃っているかもしれないけれど。お嬢様の個性が今まさに限界を迎えそうになっていることを、この数年傍にいた立場としてひしひしと肌で感じていた。
現状を打開しお嬢様を救えるのは、やはりジュリオ・ガンディーニしかいない。もしかしたら、ジュリオもお嬢様の暴走に巻き込まれてしまうかもしれないけれど。……たった一つだけ可能性が残っていることを、私も旦那様も以前から分かっていたのだ。
ならば今は少しでも二人の力になるために、せめて逃走経路の確保くらいは手伝えるように、自分なりに動こうと思った。
頑固で融通が利かない私にも必死に手を伸ばしてくれたジュリオのように、私も自分に出来ることを精一杯果たしたかった。
「ですからジュリオ、お嬢様のことは頼みました」
あの頃と同じ言葉を、あの頃とは違った熱を込めながら伝える。ジュリオもそれを感じ取ったのか、夜空に硬い決意を宿したように頷いてくれた。
「……分かった」
二人で共に見つめる方向は、今度こそ同じだった。お嬢様は、花畑の隅に優雅に鎮座したソファに腰かけていた。豊かな金髪に漆黒が入り混じり、デボラによって心が囚われたままで虚ろな顔をしている。
……今ならば、お嬢様に向ける自分の心が少しだけ理解出来たような気がした。きっと私は、実の親から愛されてきたお嬢様が羨ましく、けれど同時に、一人の人間としてアンナ様を愛している。ようやく己の心の輪郭が見えたような気がした。
「それではジュリオ、私は行きます」
不要と判断されたファミリーのメンバーは、全員私の自室に送ってもらうよう頼んでいた。事前にダークマイトに持たされていた端末のスイッチを押せば、すぐに扉が現れて向かえるだろう。
これからパウロやサイモンに対して、何を頼もうかと脳内でシミュレーションを始めたところで、───突如、全身が何かやさしい熱に包まれた。視界には赤く綺麗な髪と眼帯、鼻を擽るのは嗅ぎなれた薔薇の芳香。
……ジュリオが私を抱き留めているのだと気付いて、またもや謎の熱に襲われる。しかしそれよりも今は、恐らくジュリオが持っているであろう花の正体に意識を向けることで、なんとか気を逸らした。
「薔薇、持っているんですか……?」
「ああ、持ってる。ナマエが育てたんだろ?」
「仰る通りですが……」
ジュリオがポケットから大事そうに取り出した漆黒の花びらは、お嬢様を喜ばせるためにこの数年手ずから育ててきた薔薇の一つだった。あの時は、容赦なく廃墟に向けて蹴り飛ばしたから無残にも散ってしまっていたが。
「黒い薔薇の花言葉は、恨みと憎しみ……だったか?」
「……ええ、そうですね」
シェルビーノ家の使用人として、基本的な宝石言葉や花言葉は頭に入れておけ、とジュリオに指導したのは私だった。旦那様にとって、お屋敷に届く贈り物の質と内容は重要な取引材料の一つとなり得る。特に薔薇は旦那様もお嬢様もお好きだったから、色や本数ごとの内容も一通りリスト化していた。もし黒い薔薇が届いたら警戒するようにと伝えていた筈だ。
「それから、決して滅びることのない愛。で、一本の薔薇を贈る意味は、一目惚れ」
「……ジュリオ、何が言いたいんですか?」
こうして言葉を交わす間もずっと抱き締められていて、正直気が気じゃない。ようやく腕の力が緩んだかと思えば、その指先が私の顔の輪郭をなぞるように滑っていく。顎先を固定されて、否が応でも目が合った。視界いっぱいに美しい夜空が広がっていく。
「俺もいつか、あんたに贈るよ」
「……期待せずに待っておきます」
「ああ。それじゃナマエ、死ぬなよ」
「はい。ジュリオもお気を付けて」
互いに踵を返し、私は自室へと繋がる扉の前へ向かう。真っ直ぐにお嬢様のもとへと駆けていくジュリオの背中を確認しつつ、幼いヒーローと今まさに戦闘を繰り広げる、愉快気な実の父親の姿を見た。
「…………」
ダークマイト───バルド・ゴリーニは、私のことなど駒としか見ていない。自分にとって利用価値のある人間か否か、その価値観でしか他者を値踏みできない精神性は、いっそのこと哀れで愚かに映る。しかし、幼少期だけでもゴリーニファミリーで過ごした経験のある私は知っていた。あの血腥い犯罪組織の中で伸し上がるには、情など捨てて暴力に頼るのが最短経路なのだと。
私が無個性だと判明する前までは、父も母も祖父も大層私に優しかった。街中に出かけてはジェラートを買ってもらい、フリルのついたドレスも大きなリボンも買ってもらった。たくさん頭を撫でてもらって、抱き締めてもらった瞬間が幾度もあった。……そんな過去なんて捨て去った筈だったのに、全てを完全に忘れられないのは何故だろう。
自分の感情や思考が不鮮明だった時、毎度対話をしてくださっていた旦那様はもういない。けれど、自然と頭の中で声が響いたような気がした。
───ナマエ。恨みと愛はね、両立するものなんだよ。
嗚呼そうか、と納得する。私は旦那様と同じく、肉親に対してどうしようもない愛情と怨恨を抱えていた。ただそれだけだった。本当に、……単にそれだけだったのだ。私の無個性が原因で父に捨てられ、最後にはスラム街に置き去りにしていった母のことも、私は、確かに慕っていたのだろう。
三人の年若いヒーローたちと対峙する悪役然とした父を、もう一度だけ見た。……どんなにあなたが私をホムンクルスのようだと見下していようが、私よりもアンナ様を大切に想っていようが、私が誰よりもお慕いしてきた旦那様を手にかけた張本人であろうが、きっと、実の子としてあなたを愛してしまっていたのだ。だから。
「……さようなら、お父様」
私は、自らの愛に別れを告げた。
それからの顛末は、聞くところによるとこうだ。ヒーローたちがダークマイトを倒したかと思ったら、お嬢様の個性が暴走してしまい、一時は絶体絶命の状態になった。しかし他でもないジュリオがお嬢様の個性と適合した結果、全ての個性因子を相殺して事なきを得た、と。
やはりそうだったか、と話を聞いて安堵した。いつか旦那様とも話していたのだ。お嬢様に直接触れることの出来る人間の中で、唯一適合者か否かを試していないのが他ならぬジュリオだった。長年お嬢様の個性因子を相殺し続けてきたジュリオならば、年月と共に適合率は上がっている筈だと踏んでいたから。
あの後、ゴリーニファミリーの生き残りは全員警察に引き渡した。私も必要とあらば自首すると申し出たのだが、雄英高校の方々の口添えもあり特に罪に問われることもなく───確かに私自身は犯罪を犯していなかったけれど───ジュリオとお嬢様と共に、これからも生きていけることになった。
大層有難く幸せなことだと、素直に思う。たとえ今はシェルビーノ家のお屋敷に戻れなくとも、二人が生きてくれているだけで満足だった。
「ねえナマエ、少しいいかしら?」
「はい、何なりとお申し付けください。アンナ様」
「もう! 私のことはアンナと呼んでって言ったでしょう?」
「……大変失礼しました、アンナ」
純白のワンピースに身を包んだかつてのお嬢様から、拗ねた顔で見つめられる。今回で雇用関係も完全に終わったから呼び方を変える約束をしたのだと、二人はそう言っていた。
旦那様が盛り立ててきたシェルビーノ家は、今後どのような形になるにせよ、確かに一度終焉を迎えてしまったのだ。……これが、寂しく切ないという気持ちなのかもしれない。
呼び方の変更に伴い、口調も砕けたものにしてほしいとお願いされたが、さすがに昔からの習慣を今から変えるのは難しく、勘弁してほしいと願い出たばかりだった。
「でも、ナマエらしくて安心するわ。ワガママを言ってごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ融通が利かず申し訳ありません。それで、いかがなさいましたか?」
「今から少しだけ、外の空気を吸ってこようと思うの。一緒にどうかしら、と思って」
「喜んでお供します。ジュリオにも一報を入れておきますね」
「ふふ、ありがとう。お願いするわ!」
ジュリオは何やら用事があるからと、先ほど避難所から出て行ったのだ。アンナ様……ではなく、アンナがやけに嬉しそうに笑っているが、何かあったのだろうかと内心首を傾げる。
「ナマエ、行きましょ!」
「はい」
あのお嬢様が自ら外に出たいと申し出てくれるだけでも、かなりの進歩だと胸が温かくなる。とはいえ未だに危険が続く中で遠出もできず、文字通り周囲を少し散歩するだけに留まった。それでも花が綻ぶように次々と嬉しそうにお喋りをされるものだから、こちらの胸まで華やぐようだった。
「アンナ。……、ナマエ」
馴染みのある気配が段々と近付いているのは察していた。何となく様子を窺っているようだったから泳がせていたのだが、と振り返れば、シンプルなシャツとジーンズに身を包んだジュリオがいた。
顔立ちも整っているし髪も瞳の色も綺麗だから、どんな服装でも自然と華が出るのだろうと目を細める。相変わらず地味なこちらとは対照的だ。どうやら細長く白い包みを持っているようだが、あれが今回の外出の理由だったのだろうか。
「ジュリオ! 準備は出来た?」
「……、一応は」
「そんなやる気のない返答じゃ、ナマエは簡単にあげないわよ?」
「いや、最終的に決めるのはナマエ自身だからな……」
何故か私の名前が挙がっているが、口を挟める気配でもないので大人しく見守ることに徹した。ニコニコと愛らしい笑顔で私から距離を取った……アンナが、距離を空けて向かい合う私たちを、横から眺める位置に立った。
「……やっぱり、アンナもまだ此処にいるんだよな?」
「当然でしょう? 私はお父様の代わりに、ナマエの幸せを見届ける義務があるんだから」
「……。それなら仕方ないか」
どこか諦めたように、けれど吹っ切れたような顔をしたジュリオが歩み寄ってくる。あれ以来、三人で過ごすことがほとんどだったから、こうして二人で向き合うのは随分と久しぶりだ。
それこそダークマイトが創った要塞の中で抱き締められた時ぶりだ、と思い出したところで、心臓が一瞬ドキリと音を立てたような気がした。
「……、ナマエ」
「はい。何でしょうか」
「これ……を、受け取ってほしい」
と、その手に持っていた細長い包みをこちらに差し出してくる。特に断る理由もないため頷き、そのまま受け取った。
「開けても宜しいですか?」
「……おう」
ジュリオの口が何故か重たい。疑問に思いつつも、……アンナの瞳がキラキラとこちらを見つめているのを感じたから、特に口には出さず丁重に包みを開けていく。視界に映った鮮烈な赤と、鼻を擽る香しい匂い───それはシェルビーノ家を想起させる、一輪の薔薇だった。
お嬢様が好きな色であり、旦那様が愛し憎んだ色であり、ジュリオの髪の色でもある。様々な想いと願いが詰まった赤が、私の手の中でそっと咲き誇っていた。
「……美しいですね」
「おう。……あんたみたいにな」
サラリと口にされた言葉に、胸の奥がカッと熱くなるような気がした。衝動的に口を開いてしまう。
「正気でいらっしゃいますか?」
「何で今ここでその反応なんだよ!?」
「……大変失礼いたしました。自己評価と他者評価の乖離が、つい気になってしまいまして。しかし何故これを私に?」
「……、約束しただろ。いつかあんたに贈るって」
それはその通りなのだけれど、戸惑ってしまう。……しかし何故、私は戸惑っているのだろう。ジュリオが義理堅い人であることなんて知っているし、どんなに緊急事態中であろうが約束を果たすのは不自然じゃない。今はもうヒントをくれる旦那様はいないから、自分で考えなければならないのは分かっていた。
「さすがに黒い薔薇は珍しかったから、今の状況じゃ探せなかったけどな」
「……黒い薔薇も、元はと言えば赤い色がより濃く表れた品種ですから。見た目が異なるだけで、実質は変わりません」
「なら、俺は約束を反故にした訳じゃねえってことか。安心した」
「もしかして、わざわざこのために外出なさったんですか? 今は花を得るのも一苦労でしょうに」
「これくらいしないと、あんた本当の意味で分かってくれないだろ? 俺の気持ち」
困ったように、ジュリオが笑った。いつだってあなたは、私の前ではどこか居心地悪そうな顔をしていることが多かった。その事実が何故か、……最近ほんの少しだけ、息苦しかった。
何故だろうと思考し始めた瞬間、以前ジュリオが口にしてくれた言葉の数々が、自然と脳内で溢れ出していく。
───俺は、たとえ、世界中の誰もがあんたに罪があると糾弾しようが、ナマエ・ミョウジを受け入れる。
───償い切れない罪も含めて、まるごとあんたの全てを受け入れるし、もし背負いきれなくなったら一緒に抱えてやる。
───裁かれるべき罰が死後も永遠に続くって言うんなら、地獄であんたの分も肩代わりする覚悟だってあるよ。だから、なにも怖がらなくていい。
───あんたの心を、俺は全部受け入れる。だから今だけは俺を信じて、この手を取ってほしい。ここから出て何をするかは、あんたの自由だから。
───俺は、ナマエ・ミョウジを愛してるから。
「どうなんでしょうか……。生憎、人の気持ちを理解するのは不得手でして。申し訳ありません」
「謝ってほしい訳じゃねえよ。……日本人のこういう場面での作法がどういうものかは聞いてるから、改めて言うぞ?」
「……?」
こういう場面とは何だろう、と思いつつも。夜空色の瞳に真剣に射抜かれて、一瞬息が止まる。
「……俺はナマエ・ミョウジを愛してる。ただ一人の男として、出会った時からずっと。たぶん一目惚れだった。……気持ち悪いって感じたなら謝る」
「…………、その必要はないですが。何で、私なんかを?」
「理由なんて、理屈で説明できるもんじゃないんだよな。……あの時俺を助けてくれたあんたは、世界中の誰よりもカッコよくて強い、俺のヒーローだった。無表情なのに優しくて、厳しいのに親切で。シェルビーノ家で過ごしながら、たくさんの一面を見ていく内に分かったんだよ。───ナマエ・ミョウジは、ほんの少し不器用で自分に厳しくて努力家で、しかもめちゃくちゃ綺麗で可愛い、俺が好きになった人なんだって」
気持ちというのは目に見えない。いくらでも口頭で偽れるもので、私だってスラムや裏社会を生き抜くためにその全てを押し殺し、嘘で塗り固めてきた。
シェルビーノ家でも、私が人に気持ちを伝える場面なんてほとんど無かった。必要とあらば旦那様が汲み取ってくれたし、お嬢様はいつだって素直に語りかけてくれたし、ジュリオは必要以上に踏み込むことをしないでいてくれたから。
だから、誰かに自分の気持ちを伝えることがこんなにも難しいことを、相手に自分の想いを届けるために言葉を尽くすのがこんなにも怖いことを、……私は、初めて知った。
「……。随分と、謎の評価を下されますね」
「謎じゃねえよ。俺にとっては真実だ」
「私はまだ、……自分の気持ちというものがよく分かりません。ですが、かつて旦那様から教えて頂きました。誰かを敬い慈しむ心と、恋焦がれる想いは、全くの別物なのだと」
「……そうだな。アンナを想う気持ちと、ナマエを想う気持ちは、俺からしたらどっちも愛と呼べる。……でも違うんだよ。一緒にいると穏やかな気持ちで過ごせる家族と、一つ一つの言動に胸を掻き毟られっぱなしなのに、つい目で追っちまう相手っていうのは」
「それは……大変ですね?」
「大変だよ。俺はずっと、あんたに振り回されっぱなしだ」
口ではそんなことを言うのに、ジュリオの表情は晴れやかだ。近頃ようやく柔らかさを取り戻してきた夜空色の目が、私を捉えて優しく細まっていく。その瞳で見つめられると、胸の奥がぐしゃぐしゃと掻き乱されていくようで、正直とても困った。
「私は……つまらなくて、ろくでもない人間です。感情の機微も読み取れませんし、不快な思いをたくさんさせるでしょう」
「それこそ俺なんて、粗暴で単純でつまらねえ男だよ。それでも、あんたにとって難しいことがあるなら手伝いたいし、可能なら一緒に考えていきたいって思う」
「……今はそうしたいと考えていても、これから先、あなた様がずっと同じ思考や感情を抱いているとは限りません。私に呆れることも、距離を置きたいと考えることもあるでしょう」
「それでも、そんな時にこそ。俺は、あんたの傍にいたいよ。……別に一番になれなくたっていい。ただ今は、ナマエの力になりたい。未来のことなんてその時に考えりゃいい」
「そうそう! ナマエ、私のことも心配しないでね?」
突如目の前に、満面の笑みを浮かべた……アンナが現れて、つい驚いてしまう。それ程までにジュリオの言葉に集中していたのだという事実に気付いて、息苦しさに胸が掻き乱されていく。
「私ね、自分なりにシェルビーノ家を再興したいと考えてるわ。最初はジュリオとナマエの手は借りることになるけれど、最終的にあなた達には自由に生きて欲しいなって思ってるの」
「……勿論、私で力になれるならどこまでもお供いたします」
「ありがとう。……だからね、その過程で、出来る範囲で良いから、ナマエが知るお父様のことを教えてくれないかしら? 結局私は、お父様の本音を知らないままだった気がしていて。父が守りたいと思った家を、自分の力で支えていきたいの」
「……本当に、お強くなられましたね。アンナ」
父親から逃げてばかりだった私とは対照的だ、と素直に感嘆する。アンナは、儚く寂しげな雰囲気で再び笑ってから、私の両手をそっと取った。
「でもね。もしジュリオと結婚して、子どもが産まれたとしても、ナマエが望むならずっとシェルビーノ家にいてくれていいのよ?」
「………………、はい?」
「なッ、……アンナ!?」
「だから私のことは心配しないで! 日本での知り合いもたくさん出来たし、これからもっと世界を広げて大勢の人と知り合って、自分なりに生きていくわ!」
眩しく笑う我らが花は愛らしいが、向けられた言葉に混乱する。しかし私以上に慌てた様子のジュリオが、焦ったように言葉を募らせていった。
「アンナの決意は立派だが! いきなり結婚だの子どもだのの話は早えだろ!?」
「これくらい言わないとナマエには伝わらないでしょう? それに、日本では真剣交際をしたい相手に告白する文化があるって話してたのは、ジュリオじゃない!」
「それはそうなんだが! 物事には順序ってもんがあってだな!?」
楽しげながら本気で騒ぎ出した二人を見て、ふと、あの夜に沈めた筈の言葉が蘇る。
───ナマエ。キミ、に……最期に伝えたいことが、あるんだ。
───愛しているよ。私は、ナマエ・ミョウジを、ただ一人の人間として、愛してる。
辛かっただろうに、苦しかっただろうに、最期の最後まで幸せそうに微笑んでいた様を、思い出す。
「…………、ッ」
「…………ナマエ?」
「おいナマエ! 泣いてるのか!?」
つい先程まで真剣に言い合っていた二人が、今度は私の様子を見て、慌てたように肩や背中を撫でてくれる。ボロボロと溢れ出すこれこそが、自分の心の奥底から産まれた感情なのだと、ようやく受け入れられるようになってきた。
「ごめ、んなさい……ッ。何故だか急に、込み上げてきて、しまって」
「謝る必要なんてねえよ。むしろ、素直に気持ちを表してくれて嬉しい」
「それでナマエ! ジュリオとの真剣交際の件、考えてくれたかしら!?」
「だからアンナ! 何で張本人の俺を差し置いて聞くんだよ!?」
私がどんな血を引いていても、どんな振る舞いをしていても、世間的に見れば愛想が無くて無礼な女であっても。ジュリオとアンナは、ナマエ・ミョウジという女を本気で受け入れて、大切に愛してくれるのだろう、と。ようやく私は本能的に理解をする。
───ようやく分かったのかい?
ごめんなさい、旦那様。私は物分りが悪い女なのです。
───そんなことはない。今までもこれからも、ナマエは私の自慢の家族だよ。だから、胸を張って生きておくれ。
はい、生きます。旦那様と出逢えたことを、心から誇りにして生きていきます。
「ふふ。……少し言いたいことがあるのですが。ジュリオ、アンナ、少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
「え!? あ! おう!」
「笑ったナマエも可愛いわ! 何かしら?」
夜空と海を宿した瞳が、キラキラと目の前で輝いていた。今の私には何よりも尊く、美しくて愛おしい、世界で唯一無二のやさしい色だった。
「私は、ジュリオとアンナを愛しています。心から。今は、自分の気持ちを上手く言葉にしきれないですが……私と出逢ってくれて、本当にありがとうございました」
たとえ自分がどんなにろくでもない人間であっても、それを受け入れた上で生きたいと思える感情こそが、愛なのかもしれない。顔を真っ赤にさせながら、泣き笑いを浮かべて抱きついてくる二人を受け止めながら、私はきっと、心から笑うことが出来ていた。
愛を知った徒花が、月と海に照らされ、そっと光り輝いていく様を。明るい青空で輝く一つの星が、永遠に見守り続けていた。
「は、……ハァッ!?」
「相変わらず、あなた様は声が大きいですね」
鼓膜が破れる勢いだと肩をすくめる。何故だかジュリオの顔は、髪色のように赤く色づいていた。しかし……やはり、その姿は相変わらず美しいと感じる。いくら本人が卑下しようとも、かつて例えた紅雨や紅葉のごとく、夕焼けや朝焼けのごとく、ありのままの自然な純粋さを湛えた色をしていた。
「なッ、ばッ……ハァ!?」
「何一つ、全く言葉になっておりませんが」
「あんたが突然突拍子もないことするからだろうがよ!?」
「それは大変失礼いたしました。……ジュリオ」
「なんだよ」
「私を撃ってください」
夜空色の瞳は一瞬だけ強張りつつも、私を静かに見据えたままだった。背後では激しい戦闘音がしているというのに、まるでここだけが小舞台のようだ、と思う。
今だけは、お嬢様がデボラの幻影に囚われていることに感謝した。大事なひとが手を汚す瞬間を見たら心を痛めてしまう、とても優しい方だから。
「……俺に、あんたを殺せって?」
「此処に来たということは、お嬢様の命を救う覚悟を決めたのでしょう。となれば、どのような結末を迎えても、私という存在が邪魔になります」
「お嬢様は絶対に、そんなことは思わねえ!」
「ええ、確かに同意します。ですがもう、お嬢様の考えだけで私の処遇が決まる状況ではないのだと、さすがに分かるでしょう?」
「…………ッ」
これだけ言えば、明確に理解してくれたらしい。私が産まれ落ちた瞬間から抱えることになった、生きている、という罪について。
「世界の命運が掛かっているこの時期、この場所において。これだけの規模の問題を起こし、民間人にまで大損害をもたらしたゴリーニの名を。ヒーローもヴィランも関係なく、世界中の人が憎むでしょう」
「…………」
「私は今まで散々、裏社会においてゴリーニの血縁であることを活用してきました。人の口に戸は立てられません。いくら緘口令を敷いたとて、私の出自が公にならない筈がないのです。……このゴリーニの血が途絶えぬ限り、シェルビーノ家にも悪評が付き纏うことでしょう。私は、私を必要としてくださった旦那様とお嬢様を、もうこれ以上、苦しめたくないのです」
私の意思は明確だ。この場所で、お嬢様を唯一守り抜ける存在によって撃たれ、潔くこの世から退場する。どうやら、ジュリオをここまで導いてくれたヒーローは味方のようだし、お嬢様の無事も確保出来るだろう。私が生きているメリットも理由も、今はもう一切無い。
「もし手を汚すことが嫌ならば、腕だけを貸してください。自分で撃ちますので。そうすればあなた様は、ゴリーニの血縁を絶やしたヒーローになるでしょう」
「…………、…………」
深く俯いた後、ジュリオが右腕の銃を起動させ、私の心臓に照準を合わせる。ようやく全てが終わる、と安堵にも似た気持ちが胸に満ちていった。……かと思えば、その銃口が勢いよく別方向を向き、激しい音を何度も立てて発砲する。
見れば、戦闘中のダークマイトを狙ったようだった。奴がお嬢様の個性に適合した今ならば、銃弾など子供の玩具程度にしか感じないだろうから、今すぐこちらに狙いを定めることはないだろうけれど。それでも目的を邪魔されるのが何より大嫌いな輩だから、下手に手を出せばジュリオが傷付くことになりかねない。
「ジュリオ! 一体何をしているのか、分かっていますか!?」
「ああ! 分かってるよ! それでも俺は、もう二度とあんたを喪いたくねえ!」
喪いたくない等と簡単に言ってくれる。結局はどうせ、私のことなど捨て去ってしまうくせに。
「同情といった類の儚い情なら不要です! 今すぐに捨て去ってください! ……ッそれに言ったでしょう! 私はこれから世界中に憎まれ、永遠に死ぬまで迷惑をかけ続ける女です! ならばせめて今、苦しみが少ない状態で行かせてください!」
「嫌だ! いくらワガママと言われようが、俺があんたを殺せる訳ねえだろ!」
旦那様の死を確信した時と似て非なる激情が、腹の底から湧き上がり、胸の内を濁流のごとく掻き回し、全身に満ち満ちていく。シェルビーノ家に襲撃があった夜は、哀しみや怒りを感じる暇さえなかった。それよりもお嬢様の心と身体をお守りしなければならなかったから。
しかし今は私がいなくとも、世界は全て上手く回っていくのだ。そんな事実はジュリオならば簡単に理解できる筈だった。強烈に視界が歪む程の、今までに感じたことのない熱が頭を突き抜けていく。
「私はもう、死によってしか救われないんです! とっくに生きることに疲れたんです! だからお願い……一瞬だけ、その手を貸してくれるだけで良いんです……」
激しい感情を発散したあまり力が抜けたのか、つい地面に膝をついてしまった。何故か未だに視界が滲んだままで、両頬が熱い液体で濡れているような気がした。そして、ジュリオの左手が私の頬に触れた瞬間、ようやく気付く。……私は、泣いているのかと。
「俺は、たとえ、世界中の誰もがあんたに罪があると糾弾しようが、ナマエ・ミョウジを受け入れる」
「……」
それは、優しくてあたたかな声だった。陽だまりのように柔らかで、星のように穏やかで、月のように繊細な色を宿している、と感じた。
「償い切れない罪も含めて、まるごとあんたの全てを受け入れるし、もし背負いきれなくなったら一緒に抱えてやる」
「…………ッ」
「裁かれるべき罰が死後も永遠に続くって言うんなら、地獄であんたの分も肩代わりする覚悟だってあるよ。───だから、なにも怖がらなくていい」
「こわがる……?」
我ながら、か細く震えた声だった。しかしジュリオは一切馬鹿にすることなく、私の頬に手を添えたまま、眼帯に覆われていない左目を細めた。その様は夜空に浮かぶ月が満ち欠けしていくように美しく、世界の暗闇をそっと見守る半月を想起させる。
「あんたの心を、俺は全部受け入れる。だから今だけは俺を信じて、この手を取ってほしい。ここから出て何をするかは、あんたの自由だから。……それに、この国の職業ヒーローは思ったよりも信頼できそうな奴らだったんだ。ゴリーニの血のことだって、乗り越えられる道を一緒に見つけてくれるだろうよ」
「何故……そこまで、私に肩入れするんですか」
「……あー、言わなきゃダメか?」
月のような顔で一方的に激しく心を揺さぶってきたかと思えば、今は初対面の頃を思わせる無垢さを覗かせて。最終的に困ったように眉を下げた後、けれどジュリオは迷いなく言い切った。
「俺は、ナマエ・ミョウジを愛してるから」
愛してる。その言葉を聞いた経験は、数多くある。当然意味も知っていた。街中でカップルが言い合っているのも耳にしたことがあるし、旦那様がお嬢様に対して口にする光景も何度も見てきた。……かつて、どこかで同じ言葉を向けられたような気もした。
けれど、一体何故。ジュリオがその一言を私に向けてくれたというだけで、こんなにも胸の奥が烈しく搔き回されるような心地になるのだろう。
「……よく、分かりません」
「今はそれでいい。だから、それ以上泣くなよ」
「別に私だって、泣こうと思って……泣いている訳では……」
「……やっぱりナマエ、かわいいよな」
かわいい。世界で一番、私に似つかわしくないと言っても差し支えない形容詞だった。「そういうことはお嬢様に言って差し上げてください」と、普段ならば無感動にぴしゃりと言ってしまえるのに。
今は喉の奥が張り付いたように上手く言葉が出なくて、不思議と顔まで迫り上がる熱を手の甲で覆い隠すことに必死だった。現実的に問題は何一つ解決していないというのに、それでも今の私は、その温かな手を取っても良いのだろうかと、僅かでもそう考えるようになってしまっていた。
「わ、たしは……決して、かわいく、ないです……」
「いや、今の俺にとっては世界で一番かわいい」
「む、無駄な会話は、控えてください……ッ!」
「なら、もう俺にナマエを撃てなんて言わねえか?」
「い、言いません! 言いませんから……! それに、私は私でやれることを思い付きましたので!」
「……何をする気だ?」
「ジュリオも見ていたから分かると思いますが……。ダークマイトが処断しようとしたファミリーのメンバーを、個人的に匿っているんです。なので彼らに協力を仰いでみようかと。やはり放ってはおけませんし」
どうやら三人のヒーローがこの場に集ったようだから、ダークマイトを打倒する手札は揃っているかもしれないけれど。お嬢様の個性が今まさに限界を迎えそうになっていることを、この数年傍にいた立場としてひしひしと肌で感じていた。
現状を打開しお嬢様を救えるのは、やはりジュリオ・ガンディーニしかいない。もしかしたら、ジュリオもお嬢様の暴走に巻き込まれてしまうかもしれないけれど。……たった一つだけ可能性が残っていることを、私も旦那様も以前から分かっていたのだ。
ならば今は少しでも二人の力になるために、せめて逃走経路の確保くらいは手伝えるように、自分なりに動こうと思った。
頑固で融通が利かない私にも必死に手を伸ばしてくれたジュリオのように、私も自分に出来ることを精一杯果たしたかった。
「ですからジュリオ、お嬢様のことは頼みました」
あの頃と同じ言葉を、あの頃とは違った熱を込めながら伝える。ジュリオもそれを感じ取ったのか、夜空に硬い決意を宿したように頷いてくれた。
「……分かった」
二人で共に見つめる方向は、今度こそ同じだった。お嬢様は、花畑の隅に優雅に鎮座したソファに腰かけていた。豊かな金髪に漆黒が入り混じり、デボラによって心が囚われたままで虚ろな顔をしている。
……今ならば、お嬢様に向ける自分の心が少しだけ理解出来たような気がした。きっと私は、実の親から愛されてきたお嬢様が羨ましく、けれど同時に、一人の人間としてアンナ様を愛している。ようやく己の心の輪郭が見えたような気がした。
「それではジュリオ、私は行きます」
不要と判断されたファミリーのメンバーは、全員私の自室に送ってもらうよう頼んでいた。事前にダークマイトに持たされていた端末のスイッチを押せば、すぐに扉が現れて向かえるだろう。
これからパウロやサイモンに対して、何を頼もうかと脳内でシミュレーションを始めたところで、───突如、全身が何かやさしい熱に包まれた。視界には赤く綺麗な髪と眼帯、鼻を擽るのは嗅ぎなれた薔薇の芳香。
……ジュリオが私を抱き留めているのだと気付いて、またもや謎の熱に襲われる。しかしそれよりも今は、恐らくジュリオが持っているであろう花の正体に意識を向けることで、なんとか気を逸らした。
「薔薇、持っているんですか……?」
「ああ、持ってる。ナマエが育てたんだろ?」
「仰る通りですが……」
ジュリオがポケットから大事そうに取り出した漆黒の花びらは、お嬢様を喜ばせるためにこの数年手ずから育ててきた薔薇の一つだった。あの時は、容赦なく廃墟に向けて蹴り飛ばしたから無残にも散ってしまっていたが。
「黒い薔薇の花言葉は、恨みと憎しみ……だったか?」
「……ええ、そうですね」
シェルビーノ家の使用人として、基本的な宝石言葉や花言葉は頭に入れておけ、とジュリオに指導したのは私だった。旦那様にとって、お屋敷に届く贈り物の質と内容は重要な取引材料の一つとなり得る。特に薔薇は旦那様もお嬢様もお好きだったから、色や本数ごとの内容も一通りリスト化していた。もし黒い薔薇が届いたら警戒するようにと伝えていた筈だ。
「それから、決して滅びることのない愛。で、一本の薔薇を贈る意味は、一目惚れ」
「……ジュリオ、何が言いたいんですか?」
こうして言葉を交わす間もずっと抱き締められていて、正直気が気じゃない。ようやく腕の力が緩んだかと思えば、その指先が私の顔の輪郭をなぞるように滑っていく。顎先を固定されて、否が応でも目が合った。視界いっぱいに美しい夜空が広がっていく。
「俺もいつか、あんたに贈るよ」
「……期待せずに待っておきます」
「ああ。それじゃナマエ、死ぬなよ」
「はい。ジュリオもお気を付けて」
互いに踵を返し、私は自室へと繋がる扉の前へ向かう。真っ直ぐにお嬢様のもとへと駆けていくジュリオの背中を確認しつつ、幼いヒーローと今まさに戦闘を繰り広げる、愉快気な実の父親の姿を見た。
「…………」
ダークマイト───バルド・ゴリーニは、私のことなど駒としか見ていない。自分にとって利用価値のある人間か否か、その価値観でしか他者を値踏みできない精神性は、いっそのこと哀れで愚かに映る。しかし、幼少期だけでもゴリーニファミリーで過ごした経験のある私は知っていた。あの血腥い犯罪組織の中で伸し上がるには、情など捨てて暴力に頼るのが最短経路なのだと。
私が無個性だと判明する前までは、父も母も祖父も大層私に優しかった。街中に出かけてはジェラートを買ってもらい、フリルのついたドレスも大きなリボンも買ってもらった。たくさん頭を撫でてもらって、抱き締めてもらった瞬間が幾度もあった。……そんな過去なんて捨て去った筈だったのに、全てを完全に忘れられないのは何故だろう。
自分の感情や思考が不鮮明だった時、毎度対話をしてくださっていた旦那様はもういない。けれど、自然と頭の中で声が響いたような気がした。
───ナマエ。恨みと愛はね、両立するものなんだよ。
嗚呼そうか、と納得する。私は旦那様と同じく、肉親に対してどうしようもない愛情と怨恨を抱えていた。ただそれだけだった。本当に、……単にそれだけだったのだ。私の無個性が原因で父に捨てられ、最後にはスラム街に置き去りにしていった母のことも、私は、確かに慕っていたのだろう。
三人の年若いヒーローたちと対峙する悪役然とした父を、もう一度だけ見た。……どんなにあなたが私をホムンクルスのようだと見下していようが、私よりもアンナ様を大切に想っていようが、私が誰よりもお慕いしてきた旦那様を手にかけた張本人であろうが、きっと、実の子としてあなたを愛してしまっていたのだ。だから。
「……さようなら、お父様」
私は、自らの愛に別れを告げた。
それからの顛末は、聞くところによるとこうだ。ヒーローたちがダークマイトを倒したかと思ったら、お嬢様の個性が暴走してしまい、一時は絶体絶命の状態になった。しかし他でもないジュリオがお嬢様の個性と適合した結果、全ての個性因子を相殺して事なきを得た、と。
やはりそうだったか、と話を聞いて安堵した。いつか旦那様とも話していたのだ。お嬢様に直接触れることの出来る人間の中で、唯一適合者か否かを試していないのが他ならぬジュリオだった。長年お嬢様の個性因子を相殺し続けてきたジュリオならば、年月と共に適合率は上がっている筈だと踏んでいたから。
あの後、ゴリーニファミリーの生き残りは全員警察に引き渡した。私も必要とあらば自首すると申し出たのだが、雄英高校の方々の口添えもあり特に罪に問われることもなく───確かに私自身は犯罪を犯していなかったけれど───ジュリオとお嬢様と共に、これからも生きていけることになった。
大層有難く幸せなことだと、素直に思う。たとえ今はシェルビーノ家のお屋敷に戻れなくとも、二人が生きてくれているだけで満足だった。
「ねえナマエ、少しいいかしら?」
「はい、何なりとお申し付けください。アンナ様」
「もう! 私のことはアンナと呼んでって言ったでしょう?」
「……大変失礼しました、アンナ」
純白のワンピースに身を包んだかつてのお嬢様から、拗ねた顔で見つめられる。今回で雇用関係も完全に終わったから呼び方を変える約束をしたのだと、二人はそう言っていた。
旦那様が盛り立ててきたシェルビーノ家は、今後どのような形になるにせよ、確かに一度終焉を迎えてしまったのだ。……これが、寂しく切ないという気持ちなのかもしれない。
呼び方の変更に伴い、口調も砕けたものにしてほしいとお願いされたが、さすがに昔からの習慣を今から変えるのは難しく、勘弁してほしいと願い出たばかりだった。
「でも、ナマエらしくて安心するわ。ワガママを言ってごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ融通が利かず申し訳ありません。それで、いかがなさいましたか?」
「今から少しだけ、外の空気を吸ってこようと思うの。一緒にどうかしら、と思って」
「喜んでお供します。ジュリオにも一報を入れておきますね」
「ふふ、ありがとう。お願いするわ!」
ジュリオは何やら用事があるからと、先ほど避難所から出て行ったのだ。アンナ様……ではなく、アンナがやけに嬉しそうに笑っているが、何かあったのだろうかと内心首を傾げる。
「ナマエ、行きましょ!」
「はい」
あのお嬢様が自ら外に出たいと申し出てくれるだけでも、かなりの進歩だと胸が温かくなる。とはいえ未だに危険が続く中で遠出もできず、文字通り周囲を少し散歩するだけに留まった。それでも花が綻ぶように次々と嬉しそうにお喋りをされるものだから、こちらの胸まで華やぐようだった。
「アンナ。……、ナマエ」
馴染みのある気配が段々と近付いているのは察していた。何となく様子を窺っているようだったから泳がせていたのだが、と振り返れば、シンプルなシャツとジーンズに身を包んだジュリオがいた。
顔立ちも整っているし髪も瞳の色も綺麗だから、どんな服装でも自然と華が出るのだろうと目を細める。相変わらず地味なこちらとは対照的だ。どうやら細長く白い包みを持っているようだが、あれが今回の外出の理由だったのだろうか。
「ジュリオ! 準備は出来た?」
「……、一応は」
「そんなやる気のない返答じゃ、ナマエは簡単にあげないわよ?」
「いや、最終的に決めるのはナマエ自身だからな……」
何故か私の名前が挙がっているが、口を挟める気配でもないので大人しく見守ることに徹した。ニコニコと愛らしい笑顔で私から距離を取った……アンナが、距離を空けて向かい合う私たちを、横から眺める位置に立った。
「……やっぱり、アンナもまだ此処にいるんだよな?」
「当然でしょう? 私はお父様の代わりに、ナマエの幸せを見届ける義務があるんだから」
「……。それなら仕方ないか」
どこか諦めたように、けれど吹っ切れたような顔をしたジュリオが歩み寄ってくる。あれ以来、三人で過ごすことがほとんどだったから、こうして二人で向き合うのは随分と久しぶりだ。
それこそダークマイトが創った要塞の中で抱き締められた時ぶりだ、と思い出したところで、心臓が一瞬ドキリと音を立てたような気がした。
「……、ナマエ」
「はい。何でしょうか」
「これ……を、受け取ってほしい」
と、その手に持っていた細長い包みをこちらに差し出してくる。特に断る理由もないため頷き、そのまま受け取った。
「開けても宜しいですか?」
「……おう」
ジュリオの口が何故か重たい。疑問に思いつつも、……アンナの瞳がキラキラとこちらを見つめているのを感じたから、特に口には出さず丁重に包みを開けていく。視界に映った鮮烈な赤と、鼻を擽る香しい匂い───それはシェルビーノ家を想起させる、一輪の薔薇だった。
お嬢様が好きな色であり、旦那様が愛し憎んだ色であり、ジュリオの髪の色でもある。様々な想いと願いが詰まった赤が、私の手の中でそっと咲き誇っていた。
「……美しいですね」
「おう。……あんたみたいにな」
サラリと口にされた言葉に、胸の奥がカッと熱くなるような気がした。衝動的に口を開いてしまう。
「正気でいらっしゃいますか?」
「何で今ここでその反応なんだよ!?」
「……大変失礼いたしました。自己評価と他者評価の乖離が、つい気になってしまいまして。しかし何故これを私に?」
「……、約束しただろ。いつかあんたに贈るって」
それはその通りなのだけれど、戸惑ってしまう。……しかし何故、私は戸惑っているのだろう。ジュリオが義理堅い人であることなんて知っているし、どんなに緊急事態中であろうが約束を果たすのは不自然じゃない。今はもうヒントをくれる旦那様はいないから、自分で考えなければならないのは分かっていた。
「さすがに黒い薔薇は珍しかったから、今の状況じゃ探せなかったけどな」
「……黒い薔薇も、元はと言えば赤い色がより濃く表れた品種ですから。見た目が異なるだけで、実質は変わりません」
「なら、俺は約束を反故にした訳じゃねえってことか。安心した」
「もしかして、わざわざこのために外出なさったんですか? 今は花を得るのも一苦労でしょうに」
「これくらいしないと、あんた本当の意味で分かってくれないだろ? 俺の気持ち」
困ったように、ジュリオが笑った。いつだってあなたは、私の前ではどこか居心地悪そうな顔をしていることが多かった。その事実が何故か、……最近ほんの少しだけ、息苦しかった。
何故だろうと思考し始めた瞬間、以前ジュリオが口にしてくれた言葉の数々が、自然と脳内で溢れ出していく。
───俺は、たとえ、世界中の誰もがあんたに罪があると糾弾しようが、ナマエ・ミョウジを受け入れる。
───償い切れない罪も含めて、まるごとあんたの全てを受け入れるし、もし背負いきれなくなったら一緒に抱えてやる。
───裁かれるべき罰が死後も永遠に続くって言うんなら、地獄であんたの分も肩代わりする覚悟だってあるよ。だから、なにも怖がらなくていい。
───あんたの心を、俺は全部受け入れる。だから今だけは俺を信じて、この手を取ってほしい。ここから出て何をするかは、あんたの自由だから。
───俺は、ナマエ・ミョウジを愛してるから。
「どうなんでしょうか……。生憎、人の気持ちを理解するのは不得手でして。申し訳ありません」
「謝ってほしい訳じゃねえよ。……日本人のこういう場面での作法がどういうものかは聞いてるから、改めて言うぞ?」
「……?」
こういう場面とは何だろう、と思いつつも。夜空色の瞳に真剣に射抜かれて、一瞬息が止まる。
「……俺はナマエ・ミョウジを愛してる。ただ一人の男として、出会った時からずっと。たぶん一目惚れだった。……気持ち悪いって感じたなら謝る」
「…………、その必要はないですが。何で、私なんかを?」
「理由なんて、理屈で説明できるもんじゃないんだよな。……あの時俺を助けてくれたあんたは、世界中の誰よりもカッコよくて強い、俺のヒーローだった。無表情なのに優しくて、厳しいのに親切で。シェルビーノ家で過ごしながら、たくさんの一面を見ていく内に分かったんだよ。───ナマエ・ミョウジは、ほんの少し不器用で自分に厳しくて努力家で、しかもめちゃくちゃ綺麗で可愛い、俺が好きになった人なんだって」
気持ちというのは目に見えない。いくらでも口頭で偽れるもので、私だってスラムや裏社会を生き抜くためにその全てを押し殺し、嘘で塗り固めてきた。
シェルビーノ家でも、私が人に気持ちを伝える場面なんてほとんど無かった。必要とあらば旦那様が汲み取ってくれたし、お嬢様はいつだって素直に語りかけてくれたし、ジュリオは必要以上に踏み込むことをしないでいてくれたから。
だから、誰かに自分の気持ちを伝えることがこんなにも難しいことを、相手に自分の想いを届けるために言葉を尽くすのがこんなにも怖いことを、……私は、初めて知った。
「……。随分と、謎の評価を下されますね」
「謎じゃねえよ。俺にとっては真実だ」
「私はまだ、……自分の気持ちというものがよく分かりません。ですが、かつて旦那様から教えて頂きました。誰かを敬い慈しむ心と、恋焦がれる想いは、全くの別物なのだと」
「……そうだな。アンナを想う気持ちと、ナマエを想う気持ちは、俺からしたらどっちも愛と呼べる。……でも違うんだよ。一緒にいると穏やかな気持ちで過ごせる家族と、一つ一つの言動に胸を掻き毟られっぱなしなのに、つい目で追っちまう相手っていうのは」
「それは……大変ですね?」
「大変だよ。俺はずっと、あんたに振り回されっぱなしだ」
口ではそんなことを言うのに、ジュリオの表情は晴れやかだ。近頃ようやく柔らかさを取り戻してきた夜空色の目が、私を捉えて優しく細まっていく。その瞳で見つめられると、胸の奥がぐしゃぐしゃと掻き乱されていくようで、正直とても困った。
「私は……つまらなくて、ろくでもない人間です。感情の機微も読み取れませんし、不快な思いをたくさんさせるでしょう」
「それこそ俺なんて、粗暴で単純でつまらねえ男だよ。それでも、あんたにとって難しいことがあるなら手伝いたいし、可能なら一緒に考えていきたいって思う」
「……今はそうしたいと考えていても、これから先、あなた様がずっと同じ思考や感情を抱いているとは限りません。私に呆れることも、距離を置きたいと考えることもあるでしょう」
「それでも、そんな時にこそ。俺は、あんたの傍にいたいよ。……別に一番になれなくたっていい。ただ今は、ナマエの力になりたい。未来のことなんてその時に考えりゃいい」
「そうそう! ナマエ、私のことも心配しないでね?」
突如目の前に、満面の笑みを浮かべた……アンナが現れて、つい驚いてしまう。それ程までにジュリオの言葉に集中していたのだという事実に気付いて、息苦しさに胸が掻き乱されていく。
「私ね、自分なりにシェルビーノ家を再興したいと考えてるわ。最初はジュリオとナマエの手は借りることになるけれど、最終的にあなた達には自由に生きて欲しいなって思ってるの」
「……勿論、私で力になれるならどこまでもお供いたします」
「ありがとう。……だからね、その過程で、出来る範囲で良いから、ナマエが知るお父様のことを教えてくれないかしら? 結局私は、お父様の本音を知らないままだった気がしていて。父が守りたいと思った家を、自分の力で支えていきたいの」
「……本当に、お強くなられましたね。アンナ」
父親から逃げてばかりだった私とは対照的だ、と素直に感嘆する。アンナは、儚く寂しげな雰囲気で再び笑ってから、私の両手をそっと取った。
「でもね。もしジュリオと結婚して、子どもが産まれたとしても、ナマエが望むならずっとシェルビーノ家にいてくれていいのよ?」
「………………、はい?」
「なッ、……アンナ!?」
「だから私のことは心配しないで! 日本での知り合いもたくさん出来たし、これからもっと世界を広げて大勢の人と知り合って、自分なりに生きていくわ!」
眩しく笑う我らが花は愛らしいが、向けられた言葉に混乱する。しかし私以上に慌てた様子のジュリオが、焦ったように言葉を募らせていった。
「アンナの決意は立派だが! いきなり結婚だの子どもだのの話は早えだろ!?」
「これくらい言わないとナマエには伝わらないでしょう? それに、日本では真剣交際をしたい相手に告白する文化があるって話してたのは、ジュリオじゃない!」
「それはそうなんだが! 物事には順序ってもんがあってだな!?」
楽しげながら本気で騒ぎ出した二人を見て、ふと、あの夜に沈めた筈の言葉が蘇る。
───ナマエ。キミ、に……最期に伝えたいことが、あるんだ。
───愛しているよ。私は、ナマエ・ミョウジを、ただ一人の人間として、愛してる。
辛かっただろうに、苦しかっただろうに、最期の最後まで幸せそうに微笑んでいた様を、思い出す。
「…………、ッ」
「…………ナマエ?」
「おいナマエ! 泣いてるのか!?」
つい先程まで真剣に言い合っていた二人が、今度は私の様子を見て、慌てたように肩や背中を撫でてくれる。ボロボロと溢れ出すこれこそが、自分の心の奥底から産まれた感情なのだと、ようやく受け入れられるようになってきた。
「ごめ、んなさい……ッ。何故だか急に、込み上げてきて、しまって」
「謝る必要なんてねえよ。むしろ、素直に気持ちを表してくれて嬉しい」
「それでナマエ! ジュリオとの真剣交際の件、考えてくれたかしら!?」
「だからアンナ! 何で張本人の俺を差し置いて聞くんだよ!?」
私がどんな血を引いていても、どんな振る舞いをしていても、世間的に見れば愛想が無くて無礼な女であっても。ジュリオとアンナは、ナマエ・ミョウジという女を本気で受け入れて、大切に愛してくれるのだろう、と。ようやく私は本能的に理解をする。
───ようやく分かったのかい?
ごめんなさい、旦那様。私は物分りが悪い女なのです。
───そんなことはない。今までもこれからも、ナマエは私の自慢の家族だよ。だから、胸を張って生きておくれ。
はい、生きます。旦那様と出逢えたことを、心から誇りにして生きていきます。
「ふふ。……少し言いたいことがあるのですが。ジュリオ、アンナ、少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
「え!? あ! おう!」
「笑ったナマエも可愛いわ! 何かしら?」
夜空と海を宿した瞳が、キラキラと目の前で輝いていた。今の私には何よりも尊く、美しくて愛おしい、世界で唯一無二のやさしい色だった。
「私は、ジュリオとアンナを愛しています。心から。今は、自分の気持ちを上手く言葉にしきれないですが……私と出逢ってくれて、本当にありがとうございました」
たとえ自分がどんなにろくでもない人間であっても、それを受け入れた上で生きたいと思える感情こそが、愛なのかもしれない。顔を真っ赤にさせながら、泣き笑いを浮かべて抱きついてくる二人を受け止めながら、私はきっと、心から笑うことが出来ていた。
愛を知った徒花が、月と海に照らされ、そっと光り輝いていく様を。明るい青空で輝く一つの星が、永遠に見守り続けていた。