まばたく頃には愛になる
「オマエ、バッカじゃねえの」
荒北くんに面と向かって初めて言われた言葉が、それだった。衝撃のあまり、堪えていた涙はほろりと流れ落ちた私の顔は、きっと物凄く間抜けだったと思う。
思春期の悩みだなんて些細なものだ。その時の私も、部活の人間関係や勉強について考えすぎて、堪えきれなくなって、放課後の教室でひとり踞っていただけだ。たまたま忘れ物をしたという荒北くんと遭遇してしまって、帰ろうとしない彼に動揺して、図らずも思いを吐露してしまったという、それだけの話。
「ぐだぐだ一人で悩んで勝手にウジウジ泣いて、自分の思ってることを誰にも何も言おうとしてねえンだろ?そりゃただの逃げだろ。言葉に出さねえで分かってもらおうなんて、調子良すぎだバカ」
不思議と、嫌悪感や恐怖は感じなかった。むしろこういう時は、変に気遣われる方が嫌な思いをするから。
「荒北くん、は」
「あ?」
「人から嫌われることを、怖く思ったりしない?」
彼は、眉をキッと吊り上げて言った。
「俺、嫌われんの慣れてっし。それに、他人の評価なんて気にしてたら何も出来ねえだろ」
真っ直ぐに私を射抜く力強い瞳は、とても綺麗だった。なんて強い人なんだろう。それに比べて、私はなんてちっぽけなんだろう。
ツンと鼻先に何か込み上げたかと思うと、涙がボロボロと零れ落ちていく。そのくせ、泣きながらブサイクな笑顔を浮かべてしまうのが止められない。
「な、何でまた泣くんだヨ!」
「だって、荒北くんがすっごく優しいから」
「はァ…。本当に、訳わかんないのは相変わらずなのネ…」
「え?」
「―――何でもねーよ。おら、俺が泣かせたと思われんだろーが。早く泣きやめ」
ぽんと頬に押し付けられたハンカチは、柔らかくてとてもふわふわしていた。荒北くんは、そのまま乱暴な動作でそれを広げると、優しい手つきで私の両目を覆い隠す。
「荒北くん、濡れちゃうから…!」
「別にいい。つか、これもともと苗字のだし。オマエは覚えてねーみてえだけど」
「え」
「俺は知らないけどさァ。苗字が当たり前だと思ってやった事が、誰かの為になることもあんじゃねーの?」
口調はとても乱暴なのに、降りそそぐ声音は、驚くほどに優しかった。私は、全身に降りそそぐその温かい言葉に、ぎゅっと胸が押しつぶされるかのような息苦しさを覚えてしまう。だめだ、と自制の言葉が頭を掠めた。このままだと私、荒北くんのこと、好きになっちゃう。
「そうだといいな。…うん。私、荒北くんみたいに優しい人になる」
「バッカ、何でそんな目標がそんなちっぽけなんだよ。俺なんかとっくに超えてんだよバァカ」
「バカバカって、酷いなあ」
「事実だろーが。…あー、あと、あんま目え擦んなよ。ちゃんと柔らかい布で拭うだけにしねーと腫れっからな。それから目薬とタオルで冷やすの忘れんな」
夕暮れに染まる教室に二人きり。荒北くんの肌は白いから、全身が赤く色づいているように見えた。綺麗だな、とぼんやり思いながら眺めていると、ふと脳裏に蘇る光景があった。目の前で揺れるリーゼント、足元に擦り寄る子猫、血が滲んだ掌、乱暴に拒絶する口調、照れたように赤くなった耳。そうだ私、半年くらい前に、荒北くんとお話ししたこと、あった。
「ちゃんと、洗濯までしてくれたんだね」
「…柄にもなくアイロンがけまでやったしな」
「返さなくていいって言ったのに」
「俺だって……返すつもりなんか、無かったっつーの」
「それでも、またお話し出来て嬉しい。ありがとう」
とても些細な出来事だった。高校に入学したばかりの頃、怪我をしていた子猫の前にしゃがみ込む、不良みたいな男の子に声をかけた事があった。彼自身もまた掌を擦りむいていたので、絆創膏とハンカチを無理やり貸したのだった。
「いらねえっつったのに、オマエしつこかったよなァ」
「荒北くんがあまりにも頑なだったから、私もムキになっちゃったんだよね」
「俺のせいかよ?」
「うん。だって荒北くん、とっても優しい目をしてたから。少しでもいいから役に立ちたいって、私に思わせちゃったのが悪い」
「……俺のこと忘れてたくせにヨ」
「でも、荒北くんが覚えててくれた」
「―――忘れるわけねーだろうが」
クラスが違ったためにあれから全く言葉を交わす機会がなかった上に、私が人見知りだった事もあり、初対面の人の顔をきちんと覚えられなかったのだと思う。けれど、本当に勿体無い事をしていた。進級してから偶然クラスが同じになっていなければ、荒北くんが忘れ物をしていなければ、私が教室に留まっていなければ、そして、あの日に出逢っていなければ、今日この瞬間は、起こりえない事だった。
「ねえ、荒北くん」
「なんだヨ」
「荒北くんのこと、好きになってもいいかな?」
「……バッカじゃねえの」
随分と大胆な事を言ってしまった、と自分自身に驚いていると、制服のブレザーの袖をキュッと掴まれる感覚がした。彼の頭の重さがそっと肩にかかり、視界の隅には赤く色づいた耳が映る。
「俺が今日ここに来たのは、たまたまじゃねえヨ」
「え?」
「苗字が、まだ教室に残ってるもしれねえって、期待して来た」
「……え」
「笑うなら笑え、バカ」
「…笑うわけ、ないよ」
自惚れずにいられないこの状況に、情けなくも頬がゆるゆると緩む。袖を掴んでいる荒北くんの指先に、私もそっと手を添えた。驚いたように肩を揺らしてから、彼も恐る恐る指を絡めてくる。体温が、吐息が、そして想いすら伝わってきそうなこの距離に、ドキドキする。全身が心臓になってしまったかのようにどくどくと脈打つ感覚が心地良くて、泣きたくなるくらい、嬉しいと思った。
荒北くんに面と向かって初めて言われた言葉が、それだった。衝撃のあまり、堪えていた涙はほろりと流れ落ちた私の顔は、きっと物凄く間抜けだったと思う。
思春期の悩みだなんて些細なものだ。その時の私も、部活の人間関係や勉強について考えすぎて、堪えきれなくなって、放課後の教室でひとり踞っていただけだ。たまたま忘れ物をしたという荒北くんと遭遇してしまって、帰ろうとしない彼に動揺して、図らずも思いを吐露してしまったという、それだけの話。
「ぐだぐだ一人で悩んで勝手にウジウジ泣いて、自分の思ってることを誰にも何も言おうとしてねえンだろ?そりゃただの逃げだろ。言葉に出さねえで分かってもらおうなんて、調子良すぎだバカ」
不思議と、嫌悪感や恐怖は感じなかった。むしろこういう時は、変に気遣われる方が嫌な思いをするから。
「荒北くん、は」
「あ?」
「人から嫌われることを、怖く思ったりしない?」
彼は、眉をキッと吊り上げて言った。
「俺、嫌われんの慣れてっし。それに、他人の評価なんて気にしてたら何も出来ねえだろ」
真っ直ぐに私を射抜く力強い瞳は、とても綺麗だった。なんて強い人なんだろう。それに比べて、私はなんてちっぽけなんだろう。
ツンと鼻先に何か込み上げたかと思うと、涙がボロボロと零れ落ちていく。そのくせ、泣きながらブサイクな笑顔を浮かべてしまうのが止められない。
「な、何でまた泣くんだヨ!」
「だって、荒北くんがすっごく優しいから」
「はァ…。本当に、訳わかんないのは相変わらずなのネ…」
「え?」
「―――何でもねーよ。おら、俺が泣かせたと思われんだろーが。早く泣きやめ」
ぽんと頬に押し付けられたハンカチは、柔らかくてとてもふわふわしていた。荒北くんは、そのまま乱暴な動作でそれを広げると、優しい手つきで私の両目を覆い隠す。
「荒北くん、濡れちゃうから…!」
「別にいい。つか、これもともと苗字のだし。オマエは覚えてねーみてえだけど」
「え」
「俺は知らないけどさァ。苗字が当たり前だと思ってやった事が、誰かの為になることもあんじゃねーの?」
口調はとても乱暴なのに、降りそそぐ声音は、驚くほどに優しかった。私は、全身に降りそそぐその温かい言葉に、ぎゅっと胸が押しつぶされるかのような息苦しさを覚えてしまう。だめだ、と自制の言葉が頭を掠めた。このままだと私、荒北くんのこと、好きになっちゃう。
「そうだといいな。…うん。私、荒北くんみたいに優しい人になる」
「バッカ、何でそんな目標がそんなちっぽけなんだよ。俺なんかとっくに超えてんだよバァカ」
「バカバカって、酷いなあ」
「事実だろーが。…あー、あと、あんま目え擦んなよ。ちゃんと柔らかい布で拭うだけにしねーと腫れっからな。それから目薬とタオルで冷やすの忘れんな」
夕暮れに染まる教室に二人きり。荒北くんの肌は白いから、全身が赤く色づいているように見えた。綺麗だな、とぼんやり思いながら眺めていると、ふと脳裏に蘇る光景があった。目の前で揺れるリーゼント、足元に擦り寄る子猫、血が滲んだ掌、乱暴に拒絶する口調、照れたように赤くなった耳。そうだ私、半年くらい前に、荒北くんとお話ししたこと、あった。
「ちゃんと、洗濯までしてくれたんだね」
「…柄にもなくアイロンがけまでやったしな」
「返さなくていいって言ったのに」
「俺だって……返すつもりなんか、無かったっつーの」
「それでも、またお話し出来て嬉しい。ありがとう」
とても些細な出来事だった。高校に入学したばかりの頃、怪我をしていた子猫の前にしゃがみ込む、不良みたいな男の子に声をかけた事があった。彼自身もまた掌を擦りむいていたので、絆創膏とハンカチを無理やり貸したのだった。
「いらねえっつったのに、オマエしつこかったよなァ」
「荒北くんがあまりにも頑なだったから、私もムキになっちゃったんだよね」
「俺のせいかよ?」
「うん。だって荒北くん、とっても優しい目をしてたから。少しでもいいから役に立ちたいって、私に思わせちゃったのが悪い」
「……俺のこと忘れてたくせにヨ」
「でも、荒北くんが覚えててくれた」
「―――忘れるわけねーだろうが」
クラスが違ったためにあれから全く言葉を交わす機会がなかった上に、私が人見知りだった事もあり、初対面の人の顔をきちんと覚えられなかったのだと思う。けれど、本当に勿体無い事をしていた。進級してから偶然クラスが同じになっていなければ、荒北くんが忘れ物をしていなければ、私が教室に留まっていなければ、そして、あの日に出逢っていなければ、今日この瞬間は、起こりえない事だった。
「ねえ、荒北くん」
「なんだヨ」
「荒北くんのこと、好きになってもいいかな?」
「……バッカじゃねえの」
随分と大胆な事を言ってしまった、と自分自身に驚いていると、制服のブレザーの袖をキュッと掴まれる感覚がした。彼の頭の重さがそっと肩にかかり、視界の隅には赤く色づいた耳が映る。
「俺が今日ここに来たのは、たまたまじゃねえヨ」
「え?」
「苗字が、まだ教室に残ってるもしれねえって、期待して来た」
「……え」
「笑うなら笑え、バカ」
「…笑うわけ、ないよ」
自惚れずにいられないこの状況に、情けなくも頬がゆるゆると緩む。袖を掴んでいる荒北くんの指先に、私もそっと手を添えた。驚いたように肩を揺らしてから、彼も恐る恐る指を絡めてくる。体温が、吐息が、そして想いすら伝わってきそうなこの距離に、ドキドキする。全身が心臓になってしまったかのようにどくどくと脈打つ感覚が心地良くて、泣きたくなるくらい、嬉しいと思った。