見えないものを愛したい
とん、と爪先に何かが触れる感覚がした。授業中のふとした瞬間、何の感情もなく黒板を見つめていた時のことだった。
「あ」と驚いたように声をあげたのは、隣の席の荒北くんだ。人数の都合上、教室で一番後ろの列に座るのは私と彼しかいないため、必然的に足元にあるのは荒北くんの持ち物という事になるのだろう。不自然に指先だけを動かす、その不器用な姿に内心くすりと笑う。
なるべく音を立てないように身体をぐっと折り曲げて、足元に転がっていた消しゴムを拾い上げた。カツカツとチョークが黒板に弾かれる音だけが響く中、先生の背中を横目に、私は消しゴムを荒北くんに手渡す。面食らったような表情にそっと笑いかけてから、すぐに板書を写す作業へと戻っていった。彼が戸惑っている様子は何となく伝わったけれど、私は、じわりと胸に沁みる温かい気持ちが溢れないよう、ペンを動かすのに必死だったのだ。
不自然なほど高鳴る鼓動に合わせて、ノートに文字を走らせる。けれど、脳裏にちらつく荒北くんのあどけない表情によって、口元が緩んでしまい俯いてしまう事が度々あった。それでもなんとか授業に追いつき、残り5分になった頃。
かさ、と指先に何かが触れる音がした。視界にいきなり現れ、クシャクシャと丸まったそれが何であるか、私は既に答えを知っていた。どきどきと高鳴る胸が、私の指先を震わせる。
あんがとネ。鉛筆で、乱暴に書きなぐった文字で紡がれたその言葉。何回も書き直したのであろう、消しゴムの跡が残る紙。喉の奥がきゅっと締まるような感覚に、私は思わず俯く。荒北くんの顔は、暫く見られそうになかった。
「荒北くん、さっきはありがとう」
「別にィ。つか、礼を言うべきなのは俺だろ」
だって嬉しかったから、とはにかみながら俺を真っ直ぐ見つめる視線に、胸の奥がくすぐったくなる感覚がした。ぎゅっと眉間に皺を寄せて平常心を保とうとすると、頭上でくすくすと笑う声がする。席に座ったままの俺は、目線を上げて苗字の笑顔を視界の中心に置いた。悔しさから取った行動ではあったものの、さっそく後悔が頭をもたげる。心臓がバクバク動いてうるさい。自分の身体ながら、思い通りにならないのが苛立たしいとさえ思った。
(くっそ可愛いじゃねーかバカヤロウ)
「さっきの荒北くん、可愛かったね」
「あァ?」
「消しゴム落としちゃうなんて、意外とおっちょこちょいだし」
「ほっとけバカ」
「残念。荒北くんのことなら何でも知りたいので諦めてください」
「……苗字は本当に、何度言っても言いたりねェくらいのバカだよなァ」
正直に言うと、苗字の第一印象はあまり良いものではなかった。リーゼント野郎にわざわざ優しく声をかけるなんて、余程の物好きか周囲の目ばかり気にする偽善者のどちらかだと思っていたからだ。そして結果的に俺の予想は当たり、前者だった事が判明したわけである。
ロードレーサーの練習を始めたばかりの頃、俺はよく転倒して身体のあちこちに怪我を負っていた。あの日は、腕や膝がボロボロになり、さすがに消毒をしようと裏庭を横切って寮の部屋に帰ろうとしたところで、ベンチの上に小さく丸まる子猫を見つけたのだ。俺は動物に懐かれた事がなく、実家で飼っている犬にも家族内で唯一舐めてもらった事が無い。もちろん、野良猫には逃げられた経験しかなく、その時も一瞬迷った挙句に通り過ぎようとしたのだ。
「おまえ、怪我してんのかヨ…」
ぽつりと呟いた言葉はまるで寂しい独り言だった。それでも構わずにロードレーサーを引き、ベンチの傍にしゃがみこむ。怯えたようにチラリとつぶらな瞳で見上げられたが、動こうとする様子がない。前足から僅かに出血している様子が見てとれた。手当てをしてやりたいが、自分自身の消毒すらままならない状態だから此処にいるのだ。ハンカチすら持っていない。せめて気持ちを落ち着かせてやりたいとは思うが、俺がこれ以上近づいても怖がらせるだけだろう。好きなものから嫌われるというのは、存外つらいものだと心の中で一人ごちる。
「ハンカチでも平気かな」
そんな時、苗字がそう声をかけてきたのだ。まったく気配に気付かなかったので、びくりと身体が震えた事が情けなかった。俺の隣りにしゃがみ込み、片手に持った携帯電話で何か操作を始めている。
「あ、清潔な布で止血すればいいって書いてある」
「…ンなこと、調べなくたって分かるだろうが」
「ごめんね。私、恥ずかしながら怪我の手当てとかちゃんとした事なくて…。余計なお世話だったかな」
「お、俺ひとりでも、何とかなったっつーの」
素直に謝罪されるとは思っていなかったので、面食らった。穏やかに笑いかけられた経験が久しく無かったため、ぎこちない返答しか出来ない。しかもその返事の言葉は最悪だ。俺はどんだけ捻くれてんだと自分自身に呆れてしまう。
「頼もしいね。それじゃ任せちゃおうかな」
「オウ」
「あと、これも良かったら使って。男の子が柄もの使うのは嫌だろうけど…」
デフォルメされた猫の絵がプリントされた絆創膏と、もう一枚のハンカチ。嫌どころか、密かに好きなキャラクターだった。だがそれを悟られたくなくて、ぐっと息を詰める。
「いらねえヨ。俺の怪我は唾でもつけときゃ治る」
「それなら、別にこれは使わなくてもいいから。貰ってくれないかな?」
「……、」
「きっと、私が持ってるよりも、この子たちは喜ぶと思うんだ」
しつけえ、と言い返す事も出来た。でも、そんな事はしたくないと、一瞬だが思ってしまった。脳内で葛藤をしている隙に、不意を突かれて掌にハンカチと絆創膏が収まる。気付いた時には、手をひらひらと振りながら、そいつは笑っていた。
「また、どこかで会えるといいね」
「あ、オイ!」
「ハンカチは返さなくていいよ。いらなかったら捨ててもいいし。猫ちゃんは任せたからね」
校則通りにきちんと伸ばされたスカートが揺れる。髪の色も真っ黒で特に制服も着崩していないところを見ると、いわゆるイイコちゃんの部類なんだろう。大人の言う事にハイハイと付き従う奴ばかりだと思っていたからこそ、苦手意識を抱いていたと言うのに。
「くっそ…!」
離れ際に再び向けられた笑顔が、とても眩しく見えた。打算や偏見が一切含まれない純粋な表情に、胸の奥が熱くなるような感覚がする。
福富が乗った自転車にバイクで負けるという情けない結果を残してから、俺は、悔しさを原動力にペダルを漕いできた。顔を歪ませながら、ヨロヨロと一人で走り抜けるばかりだった自分を思い起こす。でも、そんな走りでアイツに勝てるわけも無いと分かっていた。前を向けと、福富はそう言った。ならば向いてやる。ただ真っ直ぐに遠くだけを目指して、漕いでみせる。そしていつか、アイツの笑った顔をまた見てみたいと、思っちまったんだ。
子守唄のような教師の声が、頭をすり抜けていく。教科書を開いてただ眺めていればいい現国の時間は、意識を飛ばすのに丁度いい時間だった。一年の頃は迷う間もなく机に突っ伏して寝ていたが、隣に苗字がいる今はそうはいかない。二年に進級し、同じクラスで隣の席になれると分かった時から、俺は授業で一回も居眠りやサボリをした事はない。たとえ向こうが俺を覚えていなくとも、好きなヤツの前ではカッコつけたいなんていう馬鹿みてえなプライドがあったのだ。
だから、放課後の教室で泣いている苗字を見つけた時は、柄にもなく、運命に近いものを感じていた。いつも持ち歩いていたハンカチを、ようやく返すべき時がきたのだと思った。悪かったと一言謝って、ただ手渡すだけのつもりでいた。
だが実際は、思い返すと頭を抱えたくなるほどの言葉ばかりを吐いてしまった。馬鹿だのウジウジしてるだの、その場で湧き上がった思いを、感情のまま言ったのだ。バカは俺だろ、と自分に突っ込みを入れた記憶が鮮明に残っているので間違いない。
それでも、俺が走る意味となった女に、一人でグズグズと考え込んでほしくなかった。そして何の奇跡が起こったのかあのお人好しは、―――俺のことを、好きになりたいと言った。
アホか趣味サイアクだな、と苗字に呆れる一方で、一番アホなのは自分だと荒北は思っていた。今でも、心が通じたあの放課後を思い出す度に、腹の底から湧き上がる感情で何も考えられなくなる時がある。授業中に消しゴムを落とすなんて情けないザマを晒したのも、これが原因だった。
四時間目の現国が終わり、現在は昼休みである。苗字と共に食堂に向かいながら、ぼんやりと考えた。俺は、コイツからたくさんの言葉を貰った。笑顔を、愛を、そして心をも。小っ恥ずかしい思考に頭が満たされるくらいには、俺は苗字に惚れているらしい。形も何も残らないものは、ガラクタなのだと考えていたこともあった。けれど、自転車でひたすら前を向いて走ることを覚えて、コイツから笑顔を貰って。見えないものこそが力になる事があるのだと知った。
俺は、お前みたいに素直な気持ちを囁けないんだヨ。だからこそ、形に残るもので想いを残したいと思った。
上の階に向かう階段で、苗字は俺よりも数段先を登っている。変わらず校則通りに揺れるスカートは、コイツの真面目さを表していた。少し前まで不良をやっていた俺とは正反対に見えるであろうその姿が、柄にもなく、イトシイと感じた。
「苗字、」
「ん?なに、荒北く…」
周囲に人気がない事を確認してから、名前を呼んだ。ふりむいた笑顔に、俺はそっと手を引いて顔を近づける。柔らかく触れた熱を感じながら瞳を閉じると、ぎゅっと制服の袖を掴まれる感触がした。身体中の血液が、顔に集まる。余韻も何も感じる間もなくそっと顔を離すと、ぽす、と苗字の頭が肩に埋まった。耳が、鮮やかに赤く染まっている。
「荒北くん、…すき」
「……オウ」
ぎこちなくも、応える意味で苗字の背中を撫でると、ワイシャツを再び強く掴まれた。心臓が、バクハツしそうなくらいに脈打つ。くそカッコわりぃ、と思いながら、小さく荒北は呟いた。
「俺もだヨ、バカ」
「あ」と驚いたように声をあげたのは、隣の席の荒北くんだ。人数の都合上、教室で一番後ろの列に座るのは私と彼しかいないため、必然的に足元にあるのは荒北くんの持ち物という事になるのだろう。不自然に指先だけを動かす、その不器用な姿に内心くすりと笑う。
なるべく音を立てないように身体をぐっと折り曲げて、足元に転がっていた消しゴムを拾い上げた。カツカツとチョークが黒板に弾かれる音だけが響く中、先生の背中を横目に、私は消しゴムを荒北くんに手渡す。面食らったような表情にそっと笑いかけてから、すぐに板書を写す作業へと戻っていった。彼が戸惑っている様子は何となく伝わったけれど、私は、じわりと胸に沁みる温かい気持ちが溢れないよう、ペンを動かすのに必死だったのだ。
不自然なほど高鳴る鼓動に合わせて、ノートに文字を走らせる。けれど、脳裏にちらつく荒北くんのあどけない表情によって、口元が緩んでしまい俯いてしまう事が度々あった。それでもなんとか授業に追いつき、残り5分になった頃。
かさ、と指先に何かが触れる音がした。視界にいきなり現れ、クシャクシャと丸まったそれが何であるか、私は既に答えを知っていた。どきどきと高鳴る胸が、私の指先を震わせる。
あんがとネ。鉛筆で、乱暴に書きなぐった文字で紡がれたその言葉。何回も書き直したのであろう、消しゴムの跡が残る紙。喉の奥がきゅっと締まるような感覚に、私は思わず俯く。荒北くんの顔は、暫く見られそうになかった。
「荒北くん、さっきはありがとう」
「別にィ。つか、礼を言うべきなのは俺だろ」
だって嬉しかったから、とはにかみながら俺を真っ直ぐ見つめる視線に、胸の奥がくすぐったくなる感覚がした。ぎゅっと眉間に皺を寄せて平常心を保とうとすると、頭上でくすくすと笑う声がする。席に座ったままの俺は、目線を上げて苗字の笑顔を視界の中心に置いた。悔しさから取った行動ではあったものの、さっそく後悔が頭をもたげる。心臓がバクバク動いてうるさい。自分の身体ながら、思い通りにならないのが苛立たしいとさえ思った。
(くっそ可愛いじゃねーかバカヤロウ)
「さっきの荒北くん、可愛かったね」
「あァ?」
「消しゴム落としちゃうなんて、意外とおっちょこちょいだし」
「ほっとけバカ」
「残念。荒北くんのことなら何でも知りたいので諦めてください」
「……苗字は本当に、何度言っても言いたりねェくらいのバカだよなァ」
正直に言うと、苗字の第一印象はあまり良いものではなかった。リーゼント野郎にわざわざ優しく声をかけるなんて、余程の物好きか周囲の目ばかり気にする偽善者のどちらかだと思っていたからだ。そして結果的に俺の予想は当たり、前者だった事が判明したわけである。
ロードレーサーの練習を始めたばかりの頃、俺はよく転倒して身体のあちこちに怪我を負っていた。あの日は、腕や膝がボロボロになり、さすがに消毒をしようと裏庭を横切って寮の部屋に帰ろうとしたところで、ベンチの上に小さく丸まる子猫を見つけたのだ。俺は動物に懐かれた事がなく、実家で飼っている犬にも家族内で唯一舐めてもらった事が無い。もちろん、野良猫には逃げられた経験しかなく、その時も一瞬迷った挙句に通り過ぎようとしたのだ。
「おまえ、怪我してんのかヨ…」
ぽつりと呟いた言葉はまるで寂しい独り言だった。それでも構わずにロードレーサーを引き、ベンチの傍にしゃがみこむ。怯えたようにチラリとつぶらな瞳で見上げられたが、動こうとする様子がない。前足から僅かに出血している様子が見てとれた。手当てをしてやりたいが、自分自身の消毒すらままならない状態だから此処にいるのだ。ハンカチすら持っていない。せめて気持ちを落ち着かせてやりたいとは思うが、俺がこれ以上近づいても怖がらせるだけだろう。好きなものから嫌われるというのは、存外つらいものだと心の中で一人ごちる。
「ハンカチでも平気かな」
そんな時、苗字がそう声をかけてきたのだ。まったく気配に気付かなかったので、びくりと身体が震えた事が情けなかった。俺の隣りにしゃがみ込み、片手に持った携帯電話で何か操作を始めている。
「あ、清潔な布で止血すればいいって書いてある」
「…ンなこと、調べなくたって分かるだろうが」
「ごめんね。私、恥ずかしながら怪我の手当てとかちゃんとした事なくて…。余計なお世話だったかな」
「お、俺ひとりでも、何とかなったっつーの」
素直に謝罪されるとは思っていなかったので、面食らった。穏やかに笑いかけられた経験が久しく無かったため、ぎこちない返答しか出来ない。しかもその返事の言葉は最悪だ。俺はどんだけ捻くれてんだと自分自身に呆れてしまう。
「頼もしいね。それじゃ任せちゃおうかな」
「オウ」
「あと、これも良かったら使って。男の子が柄もの使うのは嫌だろうけど…」
デフォルメされた猫の絵がプリントされた絆創膏と、もう一枚のハンカチ。嫌どころか、密かに好きなキャラクターだった。だがそれを悟られたくなくて、ぐっと息を詰める。
「いらねえヨ。俺の怪我は唾でもつけときゃ治る」
「それなら、別にこれは使わなくてもいいから。貰ってくれないかな?」
「……、」
「きっと、私が持ってるよりも、この子たちは喜ぶと思うんだ」
しつけえ、と言い返す事も出来た。でも、そんな事はしたくないと、一瞬だが思ってしまった。脳内で葛藤をしている隙に、不意を突かれて掌にハンカチと絆創膏が収まる。気付いた時には、手をひらひらと振りながら、そいつは笑っていた。
「また、どこかで会えるといいね」
「あ、オイ!」
「ハンカチは返さなくていいよ。いらなかったら捨ててもいいし。猫ちゃんは任せたからね」
校則通りにきちんと伸ばされたスカートが揺れる。髪の色も真っ黒で特に制服も着崩していないところを見ると、いわゆるイイコちゃんの部類なんだろう。大人の言う事にハイハイと付き従う奴ばかりだと思っていたからこそ、苦手意識を抱いていたと言うのに。
「くっそ…!」
離れ際に再び向けられた笑顔が、とても眩しく見えた。打算や偏見が一切含まれない純粋な表情に、胸の奥が熱くなるような感覚がする。
福富が乗った自転車にバイクで負けるという情けない結果を残してから、俺は、悔しさを原動力にペダルを漕いできた。顔を歪ませながら、ヨロヨロと一人で走り抜けるばかりだった自分を思い起こす。でも、そんな走りでアイツに勝てるわけも無いと分かっていた。前を向けと、福富はそう言った。ならば向いてやる。ただ真っ直ぐに遠くだけを目指して、漕いでみせる。そしていつか、アイツの笑った顔をまた見てみたいと、思っちまったんだ。
子守唄のような教師の声が、頭をすり抜けていく。教科書を開いてただ眺めていればいい現国の時間は、意識を飛ばすのに丁度いい時間だった。一年の頃は迷う間もなく机に突っ伏して寝ていたが、隣に苗字がいる今はそうはいかない。二年に進級し、同じクラスで隣の席になれると分かった時から、俺は授業で一回も居眠りやサボリをした事はない。たとえ向こうが俺を覚えていなくとも、好きなヤツの前ではカッコつけたいなんていう馬鹿みてえなプライドがあったのだ。
だから、放課後の教室で泣いている苗字を見つけた時は、柄にもなく、運命に近いものを感じていた。いつも持ち歩いていたハンカチを、ようやく返すべき時がきたのだと思った。悪かったと一言謝って、ただ手渡すだけのつもりでいた。
だが実際は、思い返すと頭を抱えたくなるほどの言葉ばかりを吐いてしまった。馬鹿だのウジウジしてるだの、その場で湧き上がった思いを、感情のまま言ったのだ。バカは俺だろ、と自分に突っ込みを入れた記憶が鮮明に残っているので間違いない。
それでも、俺が走る意味となった女に、一人でグズグズと考え込んでほしくなかった。そして何の奇跡が起こったのかあのお人好しは、―――俺のことを、好きになりたいと言った。
アホか趣味サイアクだな、と苗字に呆れる一方で、一番アホなのは自分だと荒北は思っていた。今でも、心が通じたあの放課後を思い出す度に、腹の底から湧き上がる感情で何も考えられなくなる時がある。授業中に消しゴムを落とすなんて情けないザマを晒したのも、これが原因だった。
四時間目の現国が終わり、現在は昼休みである。苗字と共に食堂に向かいながら、ぼんやりと考えた。俺は、コイツからたくさんの言葉を貰った。笑顔を、愛を、そして心をも。小っ恥ずかしい思考に頭が満たされるくらいには、俺は苗字に惚れているらしい。形も何も残らないものは、ガラクタなのだと考えていたこともあった。けれど、自転車でひたすら前を向いて走ることを覚えて、コイツから笑顔を貰って。見えないものこそが力になる事があるのだと知った。
俺は、お前みたいに素直な気持ちを囁けないんだヨ。だからこそ、形に残るもので想いを残したいと思った。
上の階に向かう階段で、苗字は俺よりも数段先を登っている。変わらず校則通りに揺れるスカートは、コイツの真面目さを表していた。少し前まで不良をやっていた俺とは正反対に見えるであろうその姿が、柄にもなく、イトシイと感じた。
「苗字、」
「ん?なに、荒北く…」
周囲に人気がない事を確認してから、名前を呼んだ。ふりむいた笑顔に、俺はそっと手を引いて顔を近づける。柔らかく触れた熱を感じながら瞳を閉じると、ぎゅっと制服の袖を掴まれる感触がした。身体中の血液が、顔に集まる。余韻も何も感じる間もなくそっと顔を離すと、ぽす、と苗字の頭が肩に埋まった。耳が、鮮やかに赤く染まっている。
「荒北くん、…すき」
「……オウ」
ぎこちなくも、応える意味で苗字の背中を撫でると、ワイシャツを再び強く掴まれた。心臓が、バクハツしそうなくらいに脈打つ。くそカッコわりぃ、と思いながら、小さく荒北は呟いた。
「俺もだヨ、バカ」