08:あなたへ捧ぐ花束
頭の中が泥のようにぐちゃぐちゃだった。
真夜中の闇に沈みながら、わたしは自室の机に突っ伏す。まるで深海みたいに静かだと思った。
有難いことに仕事も依頼も途切れることはなく、カリグラフィー作家としてのキャリアは順調だった。
ルームシェアをしてくれる友人たちに助けられて、警察でありながら文通相手になってくれる人までいて。
ホームズくんから護身術を教わったことで一人で出かけられるようにもなったし、御琴羽くんとお洋服を買いに行って気分転換もしているし、グレグソンさんとお茶をしながら英国文化を学ぶ機会も増えた。
食料品や日用品の買い出し先では、顔馴染みになった店員さんと楽しくお喋りすることもある。
これまでの人生を振り返れば、今はこれ以上ない程に恵まれていた。
それなのにふとした瞬間、何の前触れもなくどす黒い感情が押し寄せることがある。
闇に塗れて瞳を閉じても、瞼の裏にべっとりとこびり付く焦燥感。
過去に受けた暴言を覆う瘡蓋 でも抑えきれなくなった、自己否定の思考。
様々な負の感情が湧き上がっては押し寄せて、何も呑み込むことが出来ずに窒息してしまいそうだった。
わたしが今後どんなに成功して明るく生きていけるようになっても、この傷とはずっと付き合っていかなければならない。
精神的な痛みというのはそういうものだった。
完全に治ることがなく、だからこそ共存しなければならないわたしの一部だった。
「…………、」
顔をゆっくりと上げて、大きく深呼吸をした。
机の隅に置いた小さなメモ用紙を一枚ちぎり、ペンを握る。
何も書かなくても構わなかったけれど、自分のイニシャルと短いメッセージを添えた。
部屋を出て階段を降りて、名探偵の部屋の前に立った。
扉の隙間から先程のメモを差し入れて、こん、と床に当たる音を聞く。
床を踏む音と共に、大きな気配を感じた。
「……すぐに行く。少し待っててくれ」
「…………うん」
別に初めてでもないのに恥ずかしくなって、足早に客間まで駆け出した。キッチンへと向かいお茶の準備をする。
迷惑じゃなかったかな、とか、傲慢な女だと思われたかな、とか考えても仕方の無いことばかり浮かんでは消えていく。
言葉通り、ホームズくんはすぐに来た。
いつも通りの澄ました顔でソファに座って、ティーカップを淡々と持ち上げる。
わたしも同じく紅茶を飲んで身体を温めた。大きく息を吐くとほんの少しだけ気持ちが落ち着く。
助けが欲しければ手紙をくれ、と言ってくれたのはホームズくんだった。書くことが見つからなければ白紙でいいから、とにかく何か発信をしてくれと。
わたしはその優しさに今まで何度も救われて、自分のちっぽけさを痛感して何度も息苦しくなっていた。
「今日もごめんね。特別何かがあった訳じゃないんだけど」
「毎日睡眠を削って仕事ばかりしていたら、身体も心も擦り切れるだろう」
「……効率的に捌けないから、机に向かう時間だけが増えちゃって。眠れない日も多いし」
「キミはよくやってる」
ホームズくんは慰めるための嘘は吐かない。痛いほどに分かっていたから、軽く頷いてから深く俯いた。
本当は辛いことだってたくさんあった。
日本人の女であるというだけで、新聞の記者から蔑まれることもあれば、道端で陰口を叩かれたこともある。
一晩かけて書いたキャッチコピーを目の前で破かれたことも、理不尽な理由で採用を断られ続けたこともある。
けれどそれでも、わたしはカリグラフィーが好きだった。
わたしの書いた文字で喜んでくれる人もいた。「ありがとう」や「ステキだ」という言葉を貰えただけで、嫌だったことは瞬く間に溶けて明るい感情が湧き上がって、すべてが報われた。
「ナマエ、今日の予定は?」
夕食でおかわりを頼む時と同じような、いつもの声音に意識を引き戻される。
視線を斜め上に向けて、脳内のカレンダーをなぞっていく。
「……特にはないかな。今抱えている案件は締切がまだ先だし」
「ならキミの行きたい場所へ出かけよう」
「え」
「どこでもいい。無ければ無いで構わないから、考えておいてくれ」
テキパキと話し終えると、ホームズくんはカップを持ったまま立ち上がった。
おやすみ、と降ってきた挨拶に、こちらも同じ言葉を返す。
事態を上手く呑み込むことは出来なかったけれど、脳内にほんの少し眠気が流れ込んできたことに気付いた。
今ならば、いつもよりも前向きな気持ちで眠れそうな気がした。
「さあ行こうか、ナマエ」
朝食を迅速に終えたホームズくんは、探偵として調査へ出かける時の格好をして声をかけてくる。
今やわたしにさえ私服があるというのに、仕事着と部屋着以外に着るものを持たない名探偵は、自分にひどく無頓着のようだった。
いつかホームズくんにプレゼントを贈るとしたら、御琴羽くんからの協力を得て洋服にするのも良いかもしれない。
「本当に、わたしの行きたい場所でいいの?」
「ああ。たまにはこういうのも悪くないだろう」
「なら雑貨屋さんとか、文房具屋さんとか。あっ本屋さんにも行きたいかな」
「…………」
「ホームズくん、嫌だった?」
「いや、別に。単にキミも変わったと思っただけだ」
ホームズくんは瞳を隠すように帽子を目深に被って、くるりと踵を返していく。
その背中に続きながら、ゆるりと思考を巡らせた。果たしてわたしは変わったのだろうか。
確かに気持ちを口に出すことに対して前ほど怯えなくなったし、仕事もお給料も得たことで心身ともに安定した自覚はある。
その変化を支えてくれたのは、ベーカー街で誰よりも共に過ごしたルームメイト達だった。
そういえば、もうすぐ彼らと出会って一年が経つのだと気付く。
記念日を逐一祝うつもりはないけれど、いつかわたし自身の力で彼らに心からの贈りものをしたい気持ちはあった。
与えてもらった優しさに報いる目的ではなく、自分自身の気持ちを込めたプレゼントを贈りたい、と。
洗練された街並みと人々を目で味わいながら、わたしたちはロンドンをゆるりと散策していた。
ホームズくんに案内されたお店を巡り、一目惚れしたお店にも飛び込み、買い物をして、ランチをして、テムズ川に沿って歩いていく。
大きく荘厳な時計台の近くで見つけたアイスクリームの屋台につい吸い寄せられてしまい、今はベンチに座って休憩をしていた。
バニラとチョコレートのシンプルな味が心地好く、歩き回って疲れた足に染みていくようだった。
「ありがとう、ホームズくん」
「何に対しての礼だ?」
「今日連れ出してくれたこと。それから、今までのこと全部」
「一年分の全て、ね」
「うん。受け取ってもらうことが目的じゃなくて、わたしが伝えたいだけの自己満足だから」
出会ってからの時間経過を覚えてくれていたことが嬉しくて、つい頬が緩む。
おそらくホームズくんはわたしの心情を読み取ったのだろう。つんと眉を上げたままアイスを舐めている。
硬い表情の中にも、どことなく柔らかな空気を薄らと感じた。御琴羽くんと過ごしている時によく見せる顔だった。
そのまま自然と、ふたりで取り止めのない会話を続けていく。
実は御琴羽くんはタップダンスが特技であるとか、ホームズくんはキャラメルよりチョコレートの方が好きだとか、わたしは朝焼けよりも夜明けの空に心惹かれることだとか。
アイスを食べ終わった後もゆるゆるとお喋りをしつつ、太陽の光が乱反射するテムズ川の水面を見つめていた、───その時だった。
ぱりん、と近くで何かが砕けるような音がした。
見れば、悲しげに地面を見つめる愛らしいご婦人が屈んでいる。
アザレアのような美しいピンクの髪に、くるりとカールした毛先、質の良いことがひと目でわかるドレス、きらりと左指に光る指輪。
表情は迷子の少女のようであるものの、品のある大人の女性の佇まいをしていた。
此処は政治の中心地にも近いため、もしかしたら貴族の方かもしれない。
「ああ、どうしましょう……」
ご婦人の視線の先にある箱がぱかりと開き、無惨にも硝子の欠片が飛び出していた。リボンが巻かれているためプレゼント用だろうか。
あまりにも悲痛な顔をしているため、こちらの心まで痛んでしまう。近くに誰か頼れる人もいないようで、一人でおろおろとしていた。
あんなにも洗練された女性と自分は似ても似つかないのに他人事とは思えなくて、衝動的に立ち上がる。
この街にひとりぼっちで取り残される怖さを、わたしは誰よりも分かっているつもりだった。
「ホームズくん、ちょっと行ってくる」
「ああ。行ってくるといい」
軽やかな声に背中を押された後、わたしはすぐに駆け寄った。
「お怪我はありませんか?」
エメラルドのように透き通った緑のまるい瞳が、驚いたように向けられた。
「ええ、大丈夫です。貴女は……?」
見ず知らずの人間に声をかけられたら警戒しても不思議ではないものの、彼女は純粋に疑問を抱いている様子だった。
初動で拒否されたら目も当てられないため、内心ほっとする。
「通りすがりの者です。何かお力になれないかと思いまして。こちら、わたしが拾っても宜しいですか?」
地面の箱を掌で指し示すと、彼女は分かりやすく眉を下げた。
「見ず知らずの方のお手を煩わせる訳には参りません。割れたガラスに手を触れると危ないですし」
「わたし、いつも手袋を持ち歩いているんです。すごく丈夫なんですよ」
「ありがとうございます……。実はもう帰らなければならない時間で困っていたので、とても助かります。お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。少しお待ちくださいね」
実際に手袋をはめながら言って、地面に零れ落ちた欠片を拾い集めていく。
この手袋は、インク瓶の蓋を開ける時にどうしても手が汚れることで悩んでいた時、ルームメイト達が贈ってくれたものだった。
薄手ながら丈夫というあまりにの高品質さに、どこで買ったのかと驚くと、ホームズくんの手作りだと返ってきてさらに驚愕するばかりだった。
御琴羽くんは生地の選別やサイズの測定を担当してくれたらしい。
思い出の詰まった手袋で破片を拾い集めながら、手元の箱に目を向ける。装飾のないシンプルな赤い見た目をしていた。
そこに唯一刻まれた文字を見て微かに心がざわめいた。サザーランド工房、フレスノ街。
以前ホームズくんに連れられてガラスのナイフを見せてもらった工房は確か、フレスノ街にある唯一のガラス工房ではなかっただろうか。
あの赤黒いガラスのナイフは、ホームズくんと何気ない会話を交わすキッカケにもなったし、個人的に心惹かれたものの一つだった。
「はい、これで集め終わりました」
「ありがとうございます!私 が割ってしまったものなのに、大切に扱って頂いて」
「とんでもないです。……不躾かもしれないのですが、こちらはイーストエンドの工房でお買い求めになられたんですか?」
「いえ、購入したのはピカデリーサーカスのお店です。製作者はイーストエンドの方、というのは伺っていましたけれど」
「そうですか……。突然申し訳ありません、以前伺ったことのある工房のようだったので気になって」
箱を渡そうと彼女に目を向けると、瞳がきらきらと光っていた。表情も明るいものに変わっている。
「こちらの工房の方、ご存知なんですか?」
「は、はい。ほんの少し言葉を交わした程度ですが」
「家族へのプレゼントにこのガラス細工を贈りたいと思っているんです。お店では最後の一つでしたし、もう一度買いに行こうにも工房の場所が分からなくて困っていまして」
「……もしかして、お一人で行かれるつもりですか?」
「はい!」
あまりにも無邪気な返答に、純真さを感じて微笑んでしまう。
先程の悲壮感が漂う顔は、イーストエンドに赴くことへの覚悟も含んでいたのかもしれない。
「女性お一人では危ないですよ。もしご迷惑でなければ、わたしがおつかいしてきましょうか」
「ええ!? 有難いですけれど、貴女も女性お一人でしょう?」
「大丈夫です。好奇心旺盛な男性のルームメイトがいるので、彼について来てもらうことにします」
ホームズくんの姿を探して背後を見遣る。そこまで距離が離れていないため会話は聞こえていただろう。
手を振れば肩をすくめられた。意外にも素直な名探偵は拒否したい時は一切をシャットアウトするので、つまりあれは肯定の意思だ。
「やはり貴女のお連れの方だったんですね」
「彼のことをご存知なんですか?」
「ふふ、いえいえ。あの方が貴女を見つめる顔がとても優しいものだったので。きっと一緒に来られたんだろうなあと」
「そ、そうでしたか……」
気の所為なのでは、と返したくなったものの彼女の顔を曇らせるのは本意ではない。
体温が上がった気がするのは気の所為で、今後ろを振り返れそうにないのも気の所為だろう。
何故か先程よりご機嫌そうな彼女に変に思われないように、慌てて口を開いた。
「ええと、それで。購入したものはどちらへお届けすれば良いでしょう?」
「あ……! こんなにも親切にして頂いたのに、名乗りもせずに大変失礼いたしました。屋敷の場所はあとでお伝えするとして、まずは自己紹介を」
屋敷という言葉が自然と出るところから見て、やはりそれなりの身分の方なのだろう。
失礼なことを仕出かしていなかっただろうか、とそわそわしつつも、わたしは彼女の花のような笑顔を見詰めた。
「私 はベリル・バンジークスと申します。どうぞ、お見知りおきを」
真夜中の闇に沈みながら、わたしは自室の机に突っ伏す。まるで深海みたいに静かだと思った。
有難いことに仕事も依頼も途切れることはなく、カリグラフィー作家としてのキャリアは順調だった。
ルームシェアをしてくれる友人たちに助けられて、警察でありながら文通相手になってくれる人までいて。
ホームズくんから護身術を教わったことで一人で出かけられるようにもなったし、御琴羽くんとお洋服を買いに行って気分転換もしているし、グレグソンさんとお茶をしながら英国文化を学ぶ機会も増えた。
食料品や日用品の買い出し先では、顔馴染みになった店員さんと楽しくお喋りすることもある。
これまでの人生を振り返れば、今はこれ以上ない程に恵まれていた。
それなのにふとした瞬間、何の前触れもなくどす黒い感情が押し寄せることがある。
闇に塗れて瞳を閉じても、瞼の裏にべっとりとこびり付く焦燥感。
過去に受けた暴言を覆う
様々な負の感情が湧き上がっては押し寄せて、何も呑み込むことが出来ずに窒息してしまいそうだった。
わたしが今後どんなに成功して明るく生きていけるようになっても、この傷とはずっと付き合っていかなければならない。
精神的な痛みというのはそういうものだった。
完全に治ることがなく、だからこそ共存しなければならないわたしの一部だった。
「…………、」
顔をゆっくりと上げて、大きく深呼吸をした。
机の隅に置いた小さなメモ用紙を一枚ちぎり、ペンを握る。
何も書かなくても構わなかったけれど、自分のイニシャルと短いメッセージを添えた。
部屋を出て階段を降りて、名探偵の部屋の前に立った。
扉の隙間から先程のメモを差し入れて、こん、と床に当たる音を聞く。
床を踏む音と共に、大きな気配を感じた。
「……すぐに行く。少し待っててくれ」
「…………うん」
別に初めてでもないのに恥ずかしくなって、足早に客間まで駆け出した。キッチンへと向かいお茶の準備をする。
迷惑じゃなかったかな、とか、傲慢な女だと思われたかな、とか考えても仕方の無いことばかり浮かんでは消えていく。
言葉通り、ホームズくんはすぐに来た。
いつも通りの澄ました顔でソファに座って、ティーカップを淡々と持ち上げる。
わたしも同じく紅茶を飲んで身体を温めた。大きく息を吐くとほんの少しだけ気持ちが落ち着く。
助けが欲しければ手紙をくれ、と言ってくれたのはホームズくんだった。書くことが見つからなければ白紙でいいから、とにかく何か発信をしてくれと。
わたしはその優しさに今まで何度も救われて、自分のちっぽけさを痛感して何度も息苦しくなっていた。
「今日もごめんね。特別何かがあった訳じゃないんだけど」
「毎日睡眠を削って仕事ばかりしていたら、身体も心も擦り切れるだろう」
「……効率的に捌けないから、机に向かう時間だけが増えちゃって。眠れない日も多いし」
「キミはよくやってる」
ホームズくんは慰めるための嘘は吐かない。痛いほどに分かっていたから、軽く頷いてから深く俯いた。
本当は辛いことだってたくさんあった。
日本人の女であるというだけで、新聞の記者から蔑まれることもあれば、道端で陰口を叩かれたこともある。
一晩かけて書いたキャッチコピーを目の前で破かれたことも、理不尽な理由で採用を断られ続けたこともある。
けれどそれでも、わたしはカリグラフィーが好きだった。
わたしの書いた文字で喜んでくれる人もいた。「ありがとう」や「ステキだ」という言葉を貰えただけで、嫌だったことは瞬く間に溶けて明るい感情が湧き上がって、すべてが報われた。
「ナマエ、今日の予定は?」
夕食でおかわりを頼む時と同じような、いつもの声音に意識を引き戻される。
視線を斜め上に向けて、脳内のカレンダーをなぞっていく。
「……特にはないかな。今抱えている案件は締切がまだ先だし」
「ならキミの行きたい場所へ出かけよう」
「え」
「どこでもいい。無ければ無いで構わないから、考えておいてくれ」
テキパキと話し終えると、ホームズくんはカップを持ったまま立ち上がった。
おやすみ、と降ってきた挨拶に、こちらも同じ言葉を返す。
事態を上手く呑み込むことは出来なかったけれど、脳内にほんの少し眠気が流れ込んできたことに気付いた。
今ならば、いつもよりも前向きな気持ちで眠れそうな気がした。
「さあ行こうか、ナマエ」
朝食を迅速に終えたホームズくんは、探偵として調査へ出かける時の格好をして声をかけてくる。
今やわたしにさえ私服があるというのに、仕事着と部屋着以外に着るものを持たない名探偵は、自分にひどく無頓着のようだった。
いつかホームズくんにプレゼントを贈るとしたら、御琴羽くんからの協力を得て洋服にするのも良いかもしれない。
「本当に、わたしの行きたい場所でいいの?」
「ああ。たまにはこういうのも悪くないだろう」
「なら雑貨屋さんとか、文房具屋さんとか。あっ本屋さんにも行きたいかな」
「…………」
「ホームズくん、嫌だった?」
「いや、別に。単にキミも変わったと思っただけだ」
ホームズくんは瞳を隠すように帽子を目深に被って、くるりと踵を返していく。
その背中に続きながら、ゆるりと思考を巡らせた。果たしてわたしは変わったのだろうか。
確かに気持ちを口に出すことに対して前ほど怯えなくなったし、仕事もお給料も得たことで心身ともに安定した自覚はある。
その変化を支えてくれたのは、ベーカー街で誰よりも共に過ごしたルームメイト達だった。
そういえば、もうすぐ彼らと出会って一年が経つのだと気付く。
記念日を逐一祝うつもりはないけれど、いつかわたし自身の力で彼らに心からの贈りものをしたい気持ちはあった。
与えてもらった優しさに報いる目的ではなく、自分自身の気持ちを込めたプレゼントを贈りたい、と。
洗練された街並みと人々を目で味わいながら、わたしたちはロンドンをゆるりと散策していた。
ホームズくんに案内されたお店を巡り、一目惚れしたお店にも飛び込み、買い物をして、ランチをして、テムズ川に沿って歩いていく。
大きく荘厳な時計台の近くで見つけたアイスクリームの屋台につい吸い寄せられてしまい、今はベンチに座って休憩をしていた。
バニラとチョコレートのシンプルな味が心地好く、歩き回って疲れた足に染みていくようだった。
「ありがとう、ホームズくん」
「何に対しての礼だ?」
「今日連れ出してくれたこと。それから、今までのこと全部」
「一年分の全て、ね」
「うん。受け取ってもらうことが目的じゃなくて、わたしが伝えたいだけの自己満足だから」
出会ってからの時間経過を覚えてくれていたことが嬉しくて、つい頬が緩む。
おそらくホームズくんはわたしの心情を読み取ったのだろう。つんと眉を上げたままアイスを舐めている。
硬い表情の中にも、どことなく柔らかな空気を薄らと感じた。御琴羽くんと過ごしている時によく見せる顔だった。
そのまま自然と、ふたりで取り止めのない会話を続けていく。
実は御琴羽くんはタップダンスが特技であるとか、ホームズくんはキャラメルよりチョコレートの方が好きだとか、わたしは朝焼けよりも夜明けの空に心惹かれることだとか。
アイスを食べ終わった後もゆるゆるとお喋りをしつつ、太陽の光が乱反射するテムズ川の水面を見つめていた、───その時だった。
ぱりん、と近くで何かが砕けるような音がした。
見れば、悲しげに地面を見つめる愛らしいご婦人が屈んでいる。
アザレアのような美しいピンクの髪に、くるりとカールした毛先、質の良いことがひと目でわかるドレス、きらりと左指に光る指輪。
表情は迷子の少女のようであるものの、品のある大人の女性の佇まいをしていた。
此処は政治の中心地にも近いため、もしかしたら貴族の方かもしれない。
「ああ、どうしましょう……」
ご婦人の視線の先にある箱がぱかりと開き、無惨にも硝子の欠片が飛び出していた。リボンが巻かれているためプレゼント用だろうか。
あまりにも悲痛な顔をしているため、こちらの心まで痛んでしまう。近くに誰か頼れる人もいないようで、一人でおろおろとしていた。
あんなにも洗練された女性と自分は似ても似つかないのに他人事とは思えなくて、衝動的に立ち上がる。
この街にひとりぼっちで取り残される怖さを、わたしは誰よりも分かっているつもりだった。
「ホームズくん、ちょっと行ってくる」
「ああ。行ってくるといい」
軽やかな声に背中を押された後、わたしはすぐに駆け寄った。
「お怪我はありませんか?」
エメラルドのように透き通った緑のまるい瞳が、驚いたように向けられた。
「ええ、大丈夫です。貴女は……?」
見ず知らずの人間に声をかけられたら警戒しても不思議ではないものの、彼女は純粋に疑問を抱いている様子だった。
初動で拒否されたら目も当てられないため、内心ほっとする。
「通りすがりの者です。何かお力になれないかと思いまして。こちら、わたしが拾っても宜しいですか?」
地面の箱を掌で指し示すと、彼女は分かりやすく眉を下げた。
「見ず知らずの方のお手を煩わせる訳には参りません。割れたガラスに手を触れると危ないですし」
「わたし、いつも手袋を持ち歩いているんです。すごく丈夫なんですよ」
「ありがとうございます……。実はもう帰らなければならない時間で困っていたので、とても助かります。お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。少しお待ちくださいね」
実際に手袋をはめながら言って、地面に零れ落ちた欠片を拾い集めていく。
この手袋は、インク瓶の蓋を開ける時にどうしても手が汚れることで悩んでいた時、ルームメイト達が贈ってくれたものだった。
薄手ながら丈夫というあまりにの高品質さに、どこで買ったのかと驚くと、ホームズくんの手作りだと返ってきてさらに驚愕するばかりだった。
御琴羽くんは生地の選別やサイズの測定を担当してくれたらしい。
思い出の詰まった手袋で破片を拾い集めながら、手元の箱に目を向ける。装飾のないシンプルな赤い見た目をしていた。
そこに唯一刻まれた文字を見て微かに心がざわめいた。サザーランド工房、フレスノ街。
以前ホームズくんに連れられてガラスのナイフを見せてもらった工房は確か、フレスノ街にある唯一のガラス工房ではなかっただろうか。
あの赤黒いガラスのナイフは、ホームズくんと何気ない会話を交わすキッカケにもなったし、個人的に心惹かれたものの一つだった。
「はい、これで集め終わりました」
「ありがとうございます!
「とんでもないです。……不躾かもしれないのですが、こちらはイーストエンドの工房でお買い求めになられたんですか?」
「いえ、購入したのはピカデリーサーカスのお店です。製作者はイーストエンドの方、というのは伺っていましたけれど」
「そうですか……。突然申し訳ありません、以前伺ったことのある工房のようだったので気になって」
箱を渡そうと彼女に目を向けると、瞳がきらきらと光っていた。表情も明るいものに変わっている。
「こちらの工房の方、ご存知なんですか?」
「は、はい。ほんの少し言葉を交わした程度ですが」
「家族へのプレゼントにこのガラス細工を贈りたいと思っているんです。お店では最後の一つでしたし、もう一度買いに行こうにも工房の場所が分からなくて困っていまして」
「……もしかして、お一人で行かれるつもりですか?」
「はい!」
あまりにも無邪気な返答に、純真さを感じて微笑んでしまう。
先程の悲壮感が漂う顔は、イーストエンドに赴くことへの覚悟も含んでいたのかもしれない。
「女性お一人では危ないですよ。もしご迷惑でなければ、わたしがおつかいしてきましょうか」
「ええ!? 有難いですけれど、貴女も女性お一人でしょう?」
「大丈夫です。好奇心旺盛な男性のルームメイトがいるので、彼について来てもらうことにします」
ホームズくんの姿を探して背後を見遣る。そこまで距離が離れていないため会話は聞こえていただろう。
手を振れば肩をすくめられた。意外にも素直な名探偵は拒否したい時は一切をシャットアウトするので、つまりあれは肯定の意思だ。
「やはり貴女のお連れの方だったんですね」
「彼のことをご存知なんですか?」
「ふふ、いえいえ。あの方が貴女を見つめる顔がとても優しいものだったので。きっと一緒に来られたんだろうなあと」
「そ、そうでしたか……」
気の所為なのでは、と返したくなったものの彼女の顔を曇らせるのは本意ではない。
体温が上がった気がするのは気の所為で、今後ろを振り返れそうにないのも気の所為だろう。
何故か先程よりご機嫌そうな彼女に変に思われないように、慌てて口を開いた。
「ええと、それで。購入したものはどちらへお届けすれば良いでしょう?」
「あ……! こんなにも親切にして頂いたのに、名乗りもせずに大変失礼いたしました。屋敷の場所はあとでお伝えするとして、まずは自己紹介を」
屋敷という言葉が自然と出るところから見て、やはりそれなりの身分の方なのだろう。
失礼なことを仕出かしていなかっただろうか、とそわそわしつつも、わたしは彼女の花のような笑顔を見詰めた。
「