甘く蕩けた指先
淹れたてのコーヒーを持って管制室へ訪れれば、案の定ドクターはすやすやと眠りこけていた。傍に置かれたマグカップには、ほんの僅かだけ生温くなったココアが残っている。
つい三十分前には、子どもはもう寝なさい、なんて言って私を追い出したくせに。やはり気になって、少しでも役立てるようにと差し入れを持ってきたらこれである。
「ドクター、風邪を引きますよ」
肩を揺すってみても、ふわふわと揺れる背中は規則正しく上下するばかりだ。憎らしい程にその呼吸は穏やかで、よほど睡眠が深いことが伺える。
二十人にも満たないカルデアのスタッフを束ね、日々激務に忙殺されるドクターの疲労は容易に推察できた。これでも医療部門の部下として、彼をずっと見てきたのだ。たとえ彼より一回り年齢が幼くても、魔術師としては出来損ないでも、医療知識だけは蓄え続けてきた。
いつだって他人と一線を引いて、何があっても微笑み続ける彼の背中を、ずっと追いかけていたのだから。
「ドクター、起きないと悪戯しますよ」
冗談混じりに紡いだ言葉に、ほんの少しだけ本音をブレンドする。彼の眠りを妨げたくはないけれど、身体を壊してしまえば本末転倒だ。
ドクターは角砂糖のように繊細でありながら、決して折れることの無い芯の強さも併せ持っている。ふわふわと溶けてしまいそうな色素の薄い瞳は常に人理修復という絶対的な目標を見据え、己は二の次で地球最後のマスターのために尽くし続けていた。
「ん、名前ちゃん……? ってあれ、もしかしてボク寝てた!?」
「はい、それはもうぐっすりと」
わたわたと慌てるドクターの髪には、いくつもの寝癖がついている。ぴょこんと跳ねるそれが何とも幼く愛らしくて、私は笑いながら軽く手櫛で整えてみせた。ドクターは呆気に取られたような顔でされるがままになっていたが、次の瞬間には蕩けるような優しい笑みを見せてくれる。私の大好きな表情だった。
「ありがとう。あ、コーヒーも淹れてくれたんだ」
「はい。眠気覚ましにと思ったんですが、これからお休みになられるなら逆効果でしたかね」
「ううん、まだもう少し作業が残っているから有難く頂くよ。いつも気を遣わせて悪いね」
「いいえ、私がしたくてしていることなので。夜食でも何でも、もし他に必要な物がお持ちしますが」
「うーん、そうだなあ」
こてんと首を傾げながら、ドクターは何かを思案するように視線を斜め上に向ける。柔らかな若草色の瞳がゆったりと細まり、やがてこちらを真っ直ぐに見据えた。そこに宿っていたのが思いのほか真剣な表情だったため、私は情けないことに胸を高鳴らせながら下を向く。この人はタチの悪いことに、自分が美丈夫だということを自覚していないのだ。
「名前ちゃんが来てくれただけで充分だよ。ありがとう」
「……え」
「こんなに可愛い女の子が、ボクのために何かしてくれるってだけで嬉しいから。むしろ、いつも働かせっぱなしでごめんね。ほら、もう時間も遅いから早く寝た方がいい」
ずるいなあ、と思った。彼は私を心底気遣ってくれているのに、私のことを何ひとつ分かっていないのだ。
砂糖のごとく甘い態度で子ども扱いされることにはすっかり慣れてしまったけれど、やはり女として意識されたい気持ちもある。
「ねえドクター。さっきのお返事、覚えていらっしゃいますか?」
「へ?」
「起きないと悪戯しますよって言ったら、別にいいよって答えてくださいましたよね」
「え、ボクそんなこと言ったの!? ……寝惚けてたのかなあ」
困らせたくて態と意地悪なことを言えば、案の定ドクターは素直に私の言葉を信じてくれた。罪悪感がチリチリと胸を焦がすが、せっかくの機会を逃すものかと内心頭を振る。
「だから、その……。ええと」
「うん?」
段々と気恥ずかしくなり、言葉が尻すぼみになっていく。紅く色付いているであろう顔を隠すように俯くものの、私は意を決して顔を上げた。
「あの、ドクター。手を繋いでも、いいでしょうか」
ぱちりと幾度か瞬きした後、ドクターは花のような笑みを見せる。
「勿論。そんなことでいいの?」
「は、はい」
椅子に座ったまま、ドクターは私に向かって掌を差し出した。恐る恐る握り返すと、その温かさと厚みにとても感動する。いつも誰かの心を拾いあげてくれる優しい指先は、確かに柔らかな温度を宿していた。
羞恥のあまりドクターの膝を眺めながら言葉を紡げずにいると、無言の時間がそっと流れていく。どうにも居心地が悪く、けれどあくまでこちらが悪戯をしているという体なので、やめるタイミングを逃してしまっていた。
「ねえ、名前ちゃん」
「はい、何でしょうか!?」
「ボクも少しだけ悪戯してもいいかな」
「ど、どうぞ。何でも従いますので」
「あはは、そんなに身構えなくても大丈夫。少しだけじっとしててくれればいいから」
ギシリと控えめな音がしたかと思えば、ドクターはゆっくりとした動作で立ち上がっていた。慈しむような視線で見下ろされ思わず硬直した身体が、いつの間にか彼の大きな胸の中にすっぽりと収まっている。ドクターの甘い香りが脳に染み渡っていくような感覚に混乱し、頭の天辺から足の指先に至るまで、全身が心臓になってしまったかのように脈打ち始めた。
「名前ちゃん」
「は、はい……?」
「ボクだったからいいけど、こんな夜遅くに一人で男のところに来ちゃダメだよ。何をされるか分からないんだから」
「い、いやそんな……。こんなちんちくりん、誰も相手にしないですってば」
「キミはそうやって自分のことを卑下するけど、ボクは名前ちゃんがとても魅力的な女の子だと思っているよ」
「……、え」
「これ以上悪い大人に悪戯されたくなければ、もう二度と軽率にこういうことはしないで。約束できるね?」
いつものドクターからは考えられない程に硬い声が、私を諭すような言葉を紡いでいく。事態を上手く呑み込めず思考を巡らせるものの、私の答えは既に決まっていた。
「私は、ドクターになら何をされてもいいと思ってます。だからその、……別に軽率ではないというか」
「え」
「す、すみません! いきなり何を言うんだって話ですよね。……でも、これは私の本心なので。これからも、こうして会いに来ることはやめたくないです」
言いたいことを言い終えると、私はギュッと瞳を閉じながらドクターの返答を待った。それなりに大胆なことを言った自覚はあるためとても怖くてたまらなかったけれど、不思議と気分は晴れやかだ。今までずっと伝えられなかった本心を、その片鱗だけであっても言葉に出来たからだろう。
しかしいくら待っても、ドクターは無言のままだった。これは拒絶されているのかなと内心ショックを受けながら目線をそろそろと上に向けると、首筋まで紅く色付かせたドクターと目が合った。へにゃりと気の抜けたような微笑みを向けられて呆気に取られていると、ドクターはまるで己の顔を隠すように、私の顔を自身の胸に軽く押し当てる。鼻先が真っ白な白衣に触れた。
「名前ちゃん」
「は、はい」
「もうしばらく、こうしていてもいいかな」
「……はい」
バクバクと耳元で爆音を響かせる心臓の音を聞いていると、全身の力がゆるゆると抜けていくようだった。
どんな言動も私の心臓を容易く撃ち抜くのだから、本当にずるいひとだ。
いつか、自分の心に巣食ったワガママで邪な想いを彼に伝えることが出来たならば、ドクターは一体どんな顔をするのだろう。少しでも喜んでくれればいいな、という淡い期待を込めて、彼の胸にぴったりと頬を寄せる。そこに宿る熱は燃えるように私の心を焦がし、幸せの雫を胸いっぱいに満たしていった。
つい三十分前には、子どもはもう寝なさい、なんて言って私を追い出したくせに。やはり気になって、少しでも役立てるようにと差し入れを持ってきたらこれである。
「ドクター、風邪を引きますよ」
肩を揺すってみても、ふわふわと揺れる背中は規則正しく上下するばかりだ。憎らしい程にその呼吸は穏やかで、よほど睡眠が深いことが伺える。
二十人にも満たないカルデアのスタッフを束ね、日々激務に忙殺されるドクターの疲労は容易に推察できた。これでも医療部門の部下として、彼をずっと見てきたのだ。たとえ彼より一回り年齢が幼くても、魔術師としては出来損ないでも、医療知識だけは蓄え続けてきた。
いつだって他人と一線を引いて、何があっても微笑み続ける彼の背中を、ずっと追いかけていたのだから。
「ドクター、起きないと悪戯しますよ」
冗談混じりに紡いだ言葉に、ほんの少しだけ本音をブレンドする。彼の眠りを妨げたくはないけれど、身体を壊してしまえば本末転倒だ。
ドクターは角砂糖のように繊細でありながら、決して折れることの無い芯の強さも併せ持っている。ふわふわと溶けてしまいそうな色素の薄い瞳は常に人理修復という絶対的な目標を見据え、己は二の次で地球最後のマスターのために尽くし続けていた。
「ん、名前ちゃん……? ってあれ、もしかしてボク寝てた!?」
「はい、それはもうぐっすりと」
わたわたと慌てるドクターの髪には、いくつもの寝癖がついている。ぴょこんと跳ねるそれが何とも幼く愛らしくて、私は笑いながら軽く手櫛で整えてみせた。ドクターは呆気に取られたような顔でされるがままになっていたが、次の瞬間には蕩けるような優しい笑みを見せてくれる。私の大好きな表情だった。
「ありがとう。あ、コーヒーも淹れてくれたんだ」
「はい。眠気覚ましにと思ったんですが、これからお休みになられるなら逆効果でしたかね」
「ううん、まだもう少し作業が残っているから有難く頂くよ。いつも気を遣わせて悪いね」
「いいえ、私がしたくてしていることなので。夜食でも何でも、もし他に必要な物がお持ちしますが」
「うーん、そうだなあ」
こてんと首を傾げながら、ドクターは何かを思案するように視線を斜め上に向ける。柔らかな若草色の瞳がゆったりと細まり、やがてこちらを真っ直ぐに見据えた。そこに宿っていたのが思いのほか真剣な表情だったため、私は情けないことに胸を高鳴らせながら下を向く。この人はタチの悪いことに、自分が美丈夫だということを自覚していないのだ。
「名前ちゃんが来てくれただけで充分だよ。ありがとう」
「……え」
「こんなに可愛い女の子が、ボクのために何かしてくれるってだけで嬉しいから。むしろ、いつも働かせっぱなしでごめんね。ほら、もう時間も遅いから早く寝た方がいい」
ずるいなあ、と思った。彼は私を心底気遣ってくれているのに、私のことを何ひとつ分かっていないのだ。
砂糖のごとく甘い態度で子ども扱いされることにはすっかり慣れてしまったけれど、やはり女として意識されたい気持ちもある。
「ねえドクター。さっきのお返事、覚えていらっしゃいますか?」
「へ?」
「起きないと悪戯しますよって言ったら、別にいいよって答えてくださいましたよね」
「え、ボクそんなこと言ったの!? ……寝惚けてたのかなあ」
困らせたくて態と意地悪なことを言えば、案の定ドクターは素直に私の言葉を信じてくれた。罪悪感がチリチリと胸を焦がすが、せっかくの機会を逃すものかと内心頭を振る。
「だから、その……。ええと」
「うん?」
段々と気恥ずかしくなり、言葉が尻すぼみになっていく。紅く色付いているであろう顔を隠すように俯くものの、私は意を決して顔を上げた。
「あの、ドクター。手を繋いでも、いいでしょうか」
ぱちりと幾度か瞬きした後、ドクターは花のような笑みを見せる。
「勿論。そんなことでいいの?」
「は、はい」
椅子に座ったまま、ドクターは私に向かって掌を差し出した。恐る恐る握り返すと、その温かさと厚みにとても感動する。いつも誰かの心を拾いあげてくれる優しい指先は、確かに柔らかな温度を宿していた。
羞恥のあまりドクターの膝を眺めながら言葉を紡げずにいると、無言の時間がそっと流れていく。どうにも居心地が悪く、けれどあくまでこちらが悪戯をしているという体なので、やめるタイミングを逃してしまっていた。
「ねえ、名前ちゃん」
「はい、何でしょうか!?」
「ボクも少しだけ悪戯してもいいかな」
「ど、どうぞ。何でも従いますので」
「あはは、そんなに身構えなくても大丈夫。少しだけじっとしててくれればいいから」
ギシリと控えめな音がしたかと思えば、ドクターはゆっくりとした動作で立ち上がっていた。慈しむような視線で見下ろされ思わず硬直した身体が、いつの間にか彼の大きな胸の中にすっぽりと収まっている。ドクターの甘い香りが脳に染み渡っていくような感覚に混乱し、頭の天辺から足の指先に至るまで、全身が心臓になってしまったかのように脈打ち始めた。
「名前ちゃん」
「は、はい……?」
「ボクだったからいいけど、こんな夜遅くに一人で男のところに来ちゃダメだよ。何をされるか分からないんだから」
「い、いやそんな……。こんなちんちくりん、誰も相手にしないですってば」
「キミはそうやって自分のことを卑下するけど、ボクは名前ちゃんがとても魅力的な女の子だと思っているよ」
「……、え」
「これ以上悪い大人に悪戯されたくなければ、もう二度と軽率にこういうことはしないで。約束できるね?」
いつものドクターからは考えられない程に硬い声が、私を諭すような言葉を紡いでいく。事態を上手く呑み込めず思考を巡らせるものの、私の答えは既に決まっていた。
「私は、ドクターになら何をされてもいいと思ってます。だからその、……別に軽率ではないというか」
「え」
「す、すみません! いきなり何を言うんだって話ですよね。……でも、これは私の本心なので。これからも、こうして会いに来ることはやめたくないです」
言いたいことを言い終えると、私はギュッと瞳を閉じながらドクターの返答を待った。それなりに大胆なことを言った自覚はあるためとても怖くてたまらなかったけれど、不思議と気分は晴れやかだ。今までずっと伝えられなかった本心を、その片鱗だけであっても言葉に出来たからだろう。
しかしいくら待っても、ドクターは無言のままだった。これは拒絶されているのかなと内心ショックを受けながら目線をそろそろと上に向けると、首筋まで紅く色付かせたドクターと目が合った。へにゃりと気の抜けたような微笑みを向けられて呆気に取られていると、ドクターはまるで己の顔を隠すように、私の顔を自身の胸に軽く押し当てる。鼻先が真っ白な白衣に触れた。
「名前ちゃん」
「は、はい」
「もうしばらく、こうしていてもいいかな」
「……はい」
バクバクと耳元で爆音を響かせる心臓の音を聞いていると、全身の力がゆるゆると抜けていくようだった。
どんな言動も私の心臓を容易く撃ち抜くのだから、本当にずるいひとだ。
いつか、自分の心に巣食ったワガママで邪な想いを彼に伝えることが出来たならば、ドクターは一体どんな顔をするのだろう。少しでも喜んでくれればいいな、という淡い期待を込めて、彼の胸にぴったりと頬を寄せる。そこに宿る熱は燃えるように私の心を焦がし、幸せの雫を胸いっぱいに満たしていった。