09:乱反射した海の向こう側
「断る」
険しい顔をした老人───フレスノ街のジェームズ・サザーランド氏───はキッパリと吐き捨てた。半ば予想していたため、肩を落としつつも強く拳を握る。
今のわたしは人の願いを叶えるために此処まで来たのだから、簡単に引き下がる訳にはいかない。
背後にホームズくんの気配は感じるものの、ひとまず成り行きを見守ってくれているようだった。自力で頑張りたいと伝えたから、わたしの意思を尊重してくれるのだろう。
「依頼主がバンジークス家の奥方様だとしても、ですか?」
「……なんだと?」
目の色が変わった。透き通ったグリーンの瞳に剣呑な光が宿る。
司法界で有名な貴族であるバンジークス家は、労働階級の人々にとっても無視できない名前だ。未だに十分な法整備がされていない大英帝国では、社会的な保護を受けられない国民の不満が溜まっている。
実際にわたしも身をもって体感していた。
警察や司法に割かれるべき多くの予算が、いつの間にか闇に消えている現状を。社会的な弱者を切り捨てて私腹を肥やそうとする、権力者たちの醜悪な欲望を。
カリグラフィー作家として新聞社と手を組んで仕事をしている身としても、そういった社会的な空気は自然と把握していた。
だからこそ、司法界で大きな力を持つバンジークス家は一縷の望みとして名前が挙がっていた。公明正大に犯罪者を裁き、弱き者にも目を向ける数少ない貴族として。
以前サザーランド氏が口にした言葉を覚えている。手作業のガラスなんて誰も見向きはしない、と。それは、機械で作られた製品にこそ価値があるという世間的な声を理解していることに他ならない。大英帝国の産業構造を正しく認識しているのだろう。
それでもサザーランド氏は工房でガラスを作り続けている。バンジークス家の人間に認められる程の素晴らしい作品を、一人で黙々と生み出し続けている。
そして、これはホームズくんから提供された情報だが、サザーランド氏はフレスノ街の住人にしては身なりが整っているのだ。確かに再び会ってみると、それなりに質の良い服を着ていることが分かった。
社会情勢を正確に把握できる聡明さ、身だしなみに気を配れる経済的かつ精神的な余裕、バンジークス家の名前に瞬時に反応する理解力、自身の仕事に一途に向き合う確固たるプライド。
ホームズくん程の観察眼はなくとも、目の前の老人に関する情報を洗い出す度に確信を深めていった。ジェームズ・サザーランド氏は、弱者を守らない社会に抗い続ける強いひとなのだろうと。
「わたしに手伝えることなら何でもします。あなたの作品が好きだと笑っていた女性のために、ワイングラスを作って頂けませんか」
「こちらも慈善事業をやっている訳じゃない」
「はい。もしお受け頂けたら割増で料金をお支払いしますし、仕事先の新聞社に広告を出してもらえるように説得します」
「……だが、」
「ヒトツだけ。ボクから口を挟ませてもらうが」
いつの間にか隣に立っていたホームズくんは、凛とした空気を纏いながら人差し指を立てている。まさに、全ての謎を紐解いて論旨明快に解決する名探偵の風格だった。
「あなたには、彼女の頼みを聞かなければならない理由がある筈だ」
「…………、それは」
サザーランド氏は明らかに苦味を潰したような顔をする。相手の心の隙間を的確に突く技術は、世界中の誰もホームズくんに敵わないのかもしれない。
彼女、とはベリル・バンジークスのことを指しているのだろうが、ホームズくんが今の一言にどれだけの鋭さを込めたのか分からなかった。その正体が何なのかは今後の課題としておこう、と頭の片隅に置きつつサザーランド氏の反応を待つ。
「何でもすると言った言葉を違えるなよ」
「は、はい!」
顔を背けてしまった小さな背中に何度も頭を下げた後、すぐに真横を見上げる。湖のような静けさを宿した瞳に吸い寄せられた。視線が重なるとグリーンがほんの少し瞬いて、唇が薄らと弧を描いていく。
ひどく達観しているように見えて、その奥に何か寂しさを秘めているような顔だと思った。最近垣間見える子どもらしさは、ホームズくんが自ら抑圧してきた幼さを今になって発露させているのかもしれない、等と根拠の無い推測さえしてしまいそうになる。
「ありがとう、ホームズくん」
「別に大したことじゃない。ボクの出番は終わったようだし、キミの用事が終わりそうな頃合いにまた戻ってくる」
置いていかれるのか、と寂しさを感じてハッとする。まるで子供みたいな思考だ。フレスノ街へ来ることは自分で決めたのだから毅然としなければならない。澄ました顔を取り繕って大きく頷いた。
「……うん、分かった」
「必ず戻ってくるから、そんな顔はしなくていい」
全てを見透かされているようで照れくさかったけれど、うん、と小さく頷いた。ホームズくんはそんなわたしに呆れてしまったのか、帽子を目深に被って視線をシャットアウトしている。
「こっちに来い」
工房の奥にある小さな扉から、嗄 れた低い声がした。はい、と大声で返事をしてからホームズくんに手を振る。珍しく返ってきた掌のぎこちない動きに笑いつつ、自らの使命を果たすために駆けていった。
サザーランド氏からの要求は雑用ばかりだった。
ガラスの原材料を選別し保管庫まで運ぶ肉体労働を皮切りに、工房内の掃除に書類の整理、お茶汲み等の事務作業もあった。
現代日本で社会人をしていた頃の仕事を想起して、つい懐かしさを覚えてしまう。最近改めて実感したけれど、わたしは仕事をするのが好きだった。
自分の労働が誰かの役に立っていることを実感すると満たされたし、自分が社会と繋がっている感覚でしか得られない満足感があった。
ここで言う社会とは国家単位の大きなものだけでなく、ルームメイト達と共同生活をするコミュニティであったり、工房の小さな作品達が住む空間なども指している。人やモノが集まる温かい空間は、それだけで大切にしたいと思える社会だった。
泣き言を口にするどころか、そんなことを考えながら時折笑うわたしを見て、サザーランド氏は終始怪訝な顔をしていた。
「危ないから離れていろ」
こちらに背を向けたまま高熱の窯へ向き合う姿に目を奪われる。
書類整理も終わり、手持ちの作業には全て区切りがついていた。ミミズがのたうち回ったような手書きのメモや期限切れの請求書ばかりの紙束を置いて、わたしも近くの椅子に腰掛ける。
ふくらはぎに疲労感がじわじわと迫り上がり大きく息を吐いた。こんなにも動き回るのは随分と久しぶりのことだったから、さすがに予想以上に疲弊している。
真っ赤に燃える窯を見詰める。何かに一途に打ち込む姿はとても眩しく、何より羨ましかった。
ホームズくんのように、御琴羽くんのように、サザーランド氏のように。わたしも本当は、自分に誇りを持って自由に真っ直ぐ生きてみたかった。
過去を混ぜっ返すとざらざらとした苦い痛みばかりが喉に突っかえるけれど、今からでも遅くないと思えるまでにはなっていた。それが誰のお陰かは言うまでもない。
それから程なくして工房へ戻ってきたホームズくんと共に、その日は家へ帰ることになる。
ベリルとの約束は一週間後で、尚且つまだワイングラスは仕上がっていないようだったから、明日以降も工房に通い詰める覚悟だった。
「ふたりとも、おかえりなさい」
薄暗い霧の中をくたくたになりながら帰ると、優しく微笑んだルームメイトが出迎えてくれた。それだけで幸せだなと思える生活も、今のわたしにとっては眩しくて堪らない。
何故か悪戯っぽく笑い始めた御琴羽くんの視線を追って背後を見ると、ホームズくんはいつも通りの澄ました顔をしていた。ふたりの間でしか分からない暗号でも交わし合っていたのだろうか。だとしたらロマンを感じるのだけれど。
「良い顔をするようになりましたね、ホームズ」
「放っておいてくれ、ミコトバ」
今日も今日とて、名探偵とその相棒は大の仲良しのようだった。
険しい顔をした老人───フレスノ街のジェームズ・サザーランド氏───はキッパリと吐き捨てた。半ば予想していたため、肩を落としつつも強く拳を握る。
今のわたしは人の願いを叶えるために此処まで来たのだから、簡単に引き下がる訳にはいかない。
背後にホームズくんの気配は感じるものの、ひとまず成り行きを見守ってくれているようだった。自力で頑張りたいと伝えたから、わたしの意思を尊重してくれるのだろう。
「依頼主がバンジークス家の奥方様だとしても、ですか?」
「……なんだと?」
目の色が変わった。透き通ったグリーンの瞳に剣呑な光が宿る。
司法界で有名な貴族であるバンジークス家は、労働階級の人々にとっても無視できない名前だ。未だに十分な法整備がされていない大英帝国では、社会的な保護を受けられない国民の不満が溜まっている。
実際にわたしも身をもって体感していた。
警察や司法に割かれるべき多くの予算が、いつの間にか闇に消えている現状を。社会的な弱者を切り捨てて私腹を肥やそうとする、権力者たちの醜悪な欲望を。
カリグラフィー作家として新聞社と手を組んで仕事をしている身としても、そういった社会的な空気は自然と把握していた。
だからこそ、司法界で大きな力を持つバンジークス家は一縷の望みとして名前が挙がっていた。公明正大に犯罪者を裁き、弱き者にも目を向ける数少ない貴族として。
以前サザーランド氏が口にした言葉を覚えている。手作業のガラスなんて誰も見向きはしない、と。それは、機械で作られた製品にこそ価値があるという世間的な声を理解していることに他ならない。大英帝国の産業構造を正しく認識しているのだろう。
それでもサザーランド氏は工房でガラスを作り続けている。バンジークス家の人間に認められる程の素晴らしい作品を、一人で黙々と生み出し続けている。
そして、これはホームズくんから提供された情報だが、サザーランド氏はフレスノ街の住人にしては身なりが整っているのだ。確かに再び会ってみると、それなりに質の良い服を着ていることが分かった。
社会情勢を正確に把握できる聡明さ、身だしなみに気を配れる経済的かつ精神的な余裕、バンジークス家の名前に瞬時に反応する理解力、自身の仕事に一途に向き合う確固たるプライド。
ホームズくん程の観察眼はなくとも、目の前の老人に関する情報を洗い出す度に確信を深めていった。ジェームズ・サザーランド氏は、弱者を守らない社会に抗い続ける強いひとなのだろうと。
「わたしに手伝えることなら何でもします。あなたの作品が好きだと笑っていた女性のために、ワイングラスを作って頂けませんか」
「こちらも慈善事業をやっている訳じゃない」
「はい。もしお受け頂けたら割増で料金をお支払いしますし、仕事先の新聞社に広告を出してもらえるように説得します」
「……だが、」
「ヒトツだけ。ボクから口を挟ませてもらうが」
いつの間にか隣に立っていたホームズくんは、凛とした空気を纏いながら人差し指を立てている。まさに、全ての謎を紐解いて論旨明快に解決する名探偵の風格だった。
「あなたには、彼女の頼みを聞かなければならない理由がある筈だ」
「…………、それは」
サザーランド氏は明らかに苦味を潰したような顔をする。相手の心の隙間を的確に突く技術は、世界中の誰もホームズくんに敵わないのかもしれない。
彼女、とはベリル・バンジークスのことを指しているのだろうが、ホームズくんが今の一言にどれだけの鋭さを込めたのか分からなかった。その正体が何なのかは今後の課題としておこう、と頭の片隅に置きつつサザーランド氏の反応を待つ。
「何でもすると言った言葉を違えるなよ」
「は、はい!」
顔を背けてしまった小さな背中に何度も頭を下げた後、すぐに真横を見上げる。湖のような静けさを宿した瞳に吸い寄せられた。視線が重なるとグリーンがほんの少し瞬いて、唇が薄らと弧を描いていく。
ひどく達観しているように見えて、その奥に何か寂しさを秘めているような顔だと思った。最近垣間見える子どもらしさは、ホームズくんが自ら抑圧してきた幼さを今になって発露させているのかもしれない、等と根拠の無い推測さえしてしまいそうになる。
「ありがとう、ホームズくん」
「別に大したことじゃない。ボクの出番は終わったようだし、キミの用事が終わりそうな頃合いにまた戻ってくる」
置いていかれるのか、と寂しさを感じてハッとする。まるで子供みたいな思考だ。フレスノ街へ来ることは自分で決めたのだから毅然としなければならない。澄ました顔を取り繕って大きく頷いた。
「……うん、分かった」
「必ず戻ってくるから、そんな顔はしなくていい」
全てを見透かされているようで照れくさかったけれど、うん、と小さく頷いた。ホームズくんはそんなわたしに呆れてしまったのか、帽子を目深に被って視線をシャットアウトしている。
「こっちに来い」
工房の奥にある小さな扉から、
サザーランド氏からの要求は雑用ばかりだった。
ガラスの原材料を選別し保管庫まで運ぶ肉体労働を皮切りに、工房内の掃除に書類の整理、お茶汲み等の事務作業もあった。
現代日本で社会人をしていた頃の仕事を想起して、つい懐かしさを覚えてしまう。最近改めて実感したけれど、わたしは仕事をするのが好きだった。
自分の労働が誰かの役に立っていることを実感すると満たされたし、自分が社会と繋がっている感覚でしか得られない満足感があった。
ここで言う社会とは国家単位の大きなものだけでなく、ルームメイト達と共同生活をするコミュニティであったり、工房の小さな作品達が住む空間なども指している。人やモノが集まる温かい空間は、それだけで大切にしたいと思える社会だった。
泣き言を口にするどころか、そんなことを考えながら時折笑うわたしを見て、サザーランド氏は終始怪訝な顔をしていた。
「危ないから離れていろ」
こちらに背を向けたまま高熱の窯へ向き合う姿に目を奪われる。
書類整理も終わり、手持ちの作業には全て区切りがついていた。ミミズがのたうち回ったような手書きのメモや期限切れの請求書ばかりの紙束を置いて、わたしも近くの椅子に腰掛ける。
ふくらはぎに疲労感がじわじわと迫り上がり大きく息を吐いた。こんなにも動き回るのは随分と久しぶりのことだったから、さすがに予想以上に疲弊している。
真っ赤に燃える窯を見詰める。何かに一途に打ち込む姿はとても眩しく、何より羨ましかった。
ホームズくんのように、御琴羽くんのように、サザーランド氏のように。わたしも本当は、自分に誇りを持って自由に真っ直ぐ生きてみたかった。
過去を混ぜっ返すとざらざらとした苦い痛みばかりが喉に突っかえるけれど、今からでも遅くないと思えるまでにはなっていた。それが誰のお陰かは言うまでもない。
それから程なくして工房へ戻ってきたホームズくんと共に、その日は家へ帰ることになる。
ベリルとの約束は一週間後で、尚且つまだワイングラスは仕上がっていないようだったから、明日以降も工房に通い詰める覚悟だった。
「ふたりとも、おかえりなさい」
薄暗い霧の中をくたくたになりながら帰ると、優しく微笑んだルームメイトが出迎えてくれた。それだけで幸せだなと思える生活も、今のわたしにとっては眩しくて堪らない。
何故か悪戯っぽく笑い始めた御琴羽くんの視線を追って背後を見ると、ホームズくんはいつも通りの澄ました顔をしていた。ふたりの間でしか分からない暗号でも交わし合っていたのだろうか。だとしたらロマンを感じるのだけれど。
「良い顔をするようになりましたね、ホームズ」
「放っておいてくれ、ミコトバ」
今日も今日とて、名探偵とその相棒は大の仲良しのようだった。