10:いびつなグラスと鍋の底
工房に通い始めて五日目。雑用をすっかり終えてしまったわたしは、作品製作をサポートする立場となっていた。
窯の温度管理や材料の準備は勿論のこと、作業中に指示されたことを文書として記録し、空き時間には工房の商品管理をすることもあった。
当初は渋い顔をされていたが、わたしがそれなりに出来ると分かってからは任せる作業量を増やしてくれた。社会人経験がここまで活きるとは予想外だったし、痛みばかりの過去を少しでもポジティブに受け止められるのは嬉しい。
「ナマエ」
「はい、ジェームズさん!」
朝一番の釜の準備を終えたところで、背後から声をかけられる。しゃがれた低い声は既に耳に馴染んでいた。
「一度やってみろ」
「え?」
「やりたいんだろ。ガラス作り」
静かで透き通ったグリーンの瞳に射抜かれる。わたしがミスをしても、声を荒らげることなく淡々と指摘してくれた指が、今度は真っ直ぐに窯を差していた。
「……はい。でも、ジェームズさんの作業の邪魔になりませんか?」
「いいから気が変わらない内に早くやれ」
以前なら、誰かの迷惑になるかもしれない行為には尻込みしていた筈なのに。驚く程にすんなりと肯定してしまう。
結論から言うと、その後は散々の出来だった。完成したグラスは、形は歪 で厚さは不揃いで表面には気泡ばかりで表面にはツヤがなくて。
それでも何故か、失敗した恥ずかしさよりも作品を形に出来た達成感の方が大きかった。
「ふん。初めてにしては悪くない」
ジェームズさんは、少しも微笑むことなく一瞥したきり自分の作業に移っていた。
緊張と集中が途切れた身体はそのまま床に座り込んでしまう。恐らく下半身は、ケイ砂やソーダ灰などガラスの原材料で塗れているに違いない。
洗濯が大変だなと一瞬思うものの、わたしは笑いながら自分が作ったガラスを手に取って天井に翳した。どんなに形が歪でも、光を浴びるときらきら透き通って美しかった。
カリグラフィーの仕事は、自分の好きなことにチャレンジ出来るから楽しい。
しかし先日、仕事先の新聞社の編集長が変わると連絡を受けたのだ。新しく就任した男性は、噂と違わず人種や性別で他人を見下す人だったから……今後も順調に続けられる可能性は低かった。
幸い、サザーランド工房の広告は無事に掲載してもらえるとのことだったから、それ以上を望むことはせずにいようと思っている。
わたしの最も大きな目標は、ホームズくんと御琴羽くんに恩を返すことだった。このまま好きなことにばかり縋って本末転倒になるのは避けたい。
大英帝国において、わたしは未だに力が弱い社会的弱者でしかなかった。誰かに頼って力を蓄えることでしか生きられなかったから。
正直そういった理屈を抜きにしても、工房での仕事は楽しかったのだけれど。
ワイングラスを無事に彼女へ渡すことが出来たならば、もっと勇気を出しても良いのかもしれない。休憩を終えて再び材料の準備をしている間も、今後について思いを馳せていた。
ジェームズさんは夜になる前にさっさと作業を終えてしまうため、わたしも馬車を呼んで一人で帰宅していた。
ポストを覗いて何も入っていないことを確認する。御琴羽くんはまだ病院の筈だから、ホームズくんが見てくれたのかもしれない。
家のベルを鳴らすと、少し経ってから予想通り名探偵が顔を出した。
「やあナマエ、今日も満足そうな顔をしている」
「お陰様で。ホームズくん、お腹空いた?」
「いや、今はまだ。それより、例のお嬢さんから手紙が届いているようだが」
「ありがとう! すぐに読まなきゃ」
テーブルに品のある便箋が置いてあるのを見て、素早く手を洗ってからコートを脱いでソファに座る。
少し触っただけでも質の良い紙が使われているのが分かった。封蝋に刻印されたバンジークス家の家紋は、交差するサーベルと王冠が印象的でとても美しい。
剥がすのが勿体なくて仕方がないものの、なるべく傷付けないように慎重に剥がしていく。
「ナマエ、紅茶を飲むだろう」
「うん。あ、でも自分でやるから」
「ついでだから待っててくれ」
ありがとう、とキッチンに聞こえるように伝えてから封筒に再び向き合った。
菖蒲 に似た花があしらわれた便箋も綺麗で、今度彼女に会ったらお店で買えるか尋ねようと決める。
丁寧で繊細な筆記体で綴られた内容は、主に三つ。二日後の待ち合わせ場所をバンジークス家の屋敷にしたいこと、今回のお礼として欲しいものを教えてほしい旨、わたしのカリグラフィーを見て大変感銘を受けたこと。
彼女とは一度会ったきりであるものの、嘘をつくような性格でないことは分かったから素直に照れてしまう。貴族のお屋敷に伺うのはとても緊張するけれど、彼女の旦那さんが少しの粗相で人を罰する人だとは思えないから多少は楽観視しても良いだろう。
向かいのソファで足を組みながら新聞を読むホームズくんをちらりと見てから、わたしもゆっくりとお茶を飲む。
最近手書きの文字と言えばホームズくんとジェームズさんばかり見ていたから、彼女の柔らかな文字との違いを感じて興味深かった。どちらかと言えばホームズくんよりジェームズさんの方が彼女の字に似ている。
せっかく目の前に名探偵がいるのだから、少しくらい好奇心を満たしても良いだろうか。
「ねえホームズくん。やっぱり英国内でも出身地によって筆跡に差は出てくるよね」
「ああ、当然性格も表れるが地域差は大きい。ボクは個人的な経験に頼っているが……キミなら出来るんじゃないか」
「何を?」
「警察にも頼りにされるレベルの筆跡鑑定」
「ええ、さすがにそれは……。そもそも警察はホームズくんの科学技術にも懐疑的なんだよね? 体系化されていない筆跡鑑定はそれ以上に相手にされない気がする」
「相手にされるかどうかは大きな問題じゃない。自分の武器を増やしておくに越したことはないさ」
「そっか、そうだね……。確かにその通りだ」
ホームズくんは何処まで先を見通しているのだろうか。その視線の先が気になってしまう。
しかし答えの分からない問いを考えるよりも、自分の成長のために行動すべきであることも理解していた。
「また何か分からないことがあったら聞いてくれ」
「うん、何から何までありがとう」
再び手紙を読み直して、当日の待ち合わせ時間を確認する。ティータイムに伺えば良いとのことなので、朝早くに出る必要が無さそうで安心した。工房の仕事は楽しいけれどその分とても疲れるから、睡眠時間をもう少し確保したいと思っていたところだった。
ここ数日は特に、首肩のコリや手の疲れ、脚のむくみも気になっていた。元々カリグラフィーで上半身を酷使しがちだったから、ここにきて疲れで様々な不調がぶり返しているような感覚だ。
現代のようにマッサージを気軽に受けられる環境があれば良かったのだが。肩をぐるぐると回したり身体を解したりしていると、ホームズくんがじっとこちらを見詰めているのが分かった。
「ナマエ」
「ん?」
「この前言っていたものが完成したんだ。要らなければ捨ててもいいが、念のため試してくれないか」
「この前……というと、もしかして」
「キミが今やっているマッサージ用のクリーム、と言えばいいのか」
工房に行った初日の夜、確かに現代のマッサージクリームが便利だったという話はした覚えがある。
食後のお茶をしながら聞き流していたとばかり思っていたのに、こんなにも早く作り上げてしまうだなんて。毎日暇さえあれば実験をしているから、その副産物なのだろう。
向かいから隣に移動してくれたホームズくんが差し出したのは、丸くて小さな瓶だった。蓋を開ければ記憶と寸分違わない白いクリームが詰まっている。
「本当にありがとう! さっそく使ってもいい?」
「ああ、もちろん。キミは手足を酷使しているから、よく解した方がいい」
喋りながら、ホームズくんはわたしの右手を取った。手の甲にクリームを掬った指を置き、指圧するように骨と骨の間を滑らせていく。
「あ、それ気持ちいい……」
「人体の構造として、手の筋肉は腕の筋肉に繋がっている。腕は肩や首に繋がっているし、このあたりは重点的に触った方がいいだろう」
手首から肘にかけても丁寧に指圧してくれる感覚が気持ち良くて、つい目を閉じてしまう。血流が巡って自分の体温は上がるし、ホームズくんの体温も感じてぽかぽかした。彼の優しさが伝わってくるようで、とても温かい。
「ありがとう、ホームズくん。残りは自分でやるから……」
温かい指が再び掌に戻ってきたところで、これ以上は甘えてはいけないと目を開ける。しかし予想以上にホームズくんとの距離が近いことに気付いて、つい言葉が途切れてしまった。
いつもはそれなりに距離を開けているのに、今はお互い肌を触れ合わせている状態だからだろうか。
ホームズくんの顔が整っていることも優しいことも既に痛いほど知っている筈なのに、何故か動揺して沈黙してしまった。ホームズくんも何も言わずにわたしを見ている。
やわらかい緑の目は、感情の読めない色を宿していた。何もかも冷静に受け止めているかのような、どこか寂しさも感じる深くて瑞々しい緑色。この世界で初めてわたしを見つけてくれた瞳。
この瞳に目に映ることが出来たから、今こうして生きていられるのだと実感する。
触れ合う右手にほんの少し力を入れて、ホームズくんの大きな手を労るように指を絡めた。
自分よりも年下で、けれど誰よりも聡明で優しくて強いひと。感謝を込めて指先で手の甲を撫ぜていく。
その間も何故か互いに目を逸らさないまま沈黙が続き、さすがに羞恥心が込み上げてきた頃。
ルームメイトの帰宅を知らせるベルが、わたし達の謎の静けさを救ってくれた。
「御琴羽くん、おかえりなさい!」
「ただいま帰りました。……慌てているようですが、何かありました?」
「え? いや、何もないよ。晩ご飯を用意するから少し待っててね」
───あの方が貴女を見つめる顔がとても優しいものだったので。
ふと、先日の彼女の言葉が甦る。確かに優しい瞳だった。ホームズくんはいつでも優しいけれど、それはわたし個人に向くものではなくて、ルームメイトや被害者という肩書きに付随するものだと思っている。
けれどそれも正しいのかどうか分からなくなってしまった。今はまだ、名探偵の心を暴きたいなんてとても考えられなかったけれど。
深く息を吐き出して、キッチンでの作業に集中する。
結局わたしはルームメイトのことを何も分かっていないのかもしれないと、鍋をかき回しながら肩を落とした。
「……自分らしく生きるのって難しいよ、ホームズくん」
窯の温度管理や材料の準備は勿論のこと、作業中に指示されたことを文書として記録し、空き時間には工房の商品管理をすることもあった。
当初は渋い顔をされていたが、わたしがそれなりに出来ると分かってからは任せる作業量を増やしてくれた。社会人経験がここまで活きるとは予想外だったし、痛みばかりの過去を少しでもポジティブに受け止められるのは嬉しい。
「ナマエ」
「はい、ジェームズさん!」
朝一番の釜の準備を終えたところで、背後から声をかけられる。しゃがれた低い声は既に耳に馴染んでいた。
「一度やってみろ」
「え?」
「やりたいんだろ。ガラス作り」
静かで透き通ったグリーンの瞳に射抜かれる。わたしがミスをしても、声を荒らげることなく淡々と指摘してくれた指が、今度は真っ直ぐに窯を差していた。
「……はい。でも、ジェームズさんの作業の邪魔になりませんか?」
「いいから気が変わらない内に早くやれ」
以前なら、誰かの迷惑になるかもしれない行為には尻込みしていた筈なのに。驚く程にすんなりと肯定してしまう。
結論から言うと、その後は散々の出来だった。完成したグラスは、形は
それでも何故か、失敗した恥ずかしさよりも作品を形に出来た達成感の方が大きかった。
「ふん。初めてにしては悪くない」
ジェームズさんは、少しも微笑むことなく一瞥したきり自分の作業に移っていた。
緊張と集中が途切れた身体はそのまま床に座り込んでしまう。恐らく下半身は、ケイ砂やソーダ灰などガラスの原材料で塗れているに違いない。
洗濯が大変だなと一瞬思うものの、わたしは笑いながら自分が作ったガラスを手に取って天井に翳した。どんなに形が歪でも、光を浴びるときらきら透き通って美しかった。
カリグラフィーの仕事は、自分の好きなことにチャレンジ出来るから楽しい。
しかし先日、仕事先の新聞社の編集長が変わると連絡を受けたのだ。新しく就任した男性は、噂と違わず人種や性別で他人を見下す人だったから……今後も順調に続けられる可能性は低かった。
幸い、サザーランド工房の広告は無事に掲載してもらえるとのことだったから、それ以上を望むことはせずにいようと思っている。
わたしの最も大きな目標は、ホームズくんと御琴羽くんに恩を返すことだった。このまま好きなことにばかり縋って本末転倒になるのは避けたい。
大英帝国において、わたしは未だに力が弱い社会的弱者でしかなかった。誰かに頼って力を蓄えることでしか生きられなかったから。
正直そういった理屈を抜きにしても、工房での仕事は楽しかったのだけれど。
ワイングラスを無事に彼女へ渡すことが出来たならば、もっと勇気を出しても良いのかもしれない。休憩を終えて再び材料の準備をしている間も、今後について思いを馳せていた。
ジェームズさんは夜になる前にさっさと作業を終えてしまうため、わたしも馬車を呼んで一人で帰宅していた。
ポストを覗いて何も入っていないことを確認する。御琴羽くんはまだ病院の筈だから、ホームズくんが見てくれたのかもしれない。
家のベルを鳴らすと、少し経ってから予想通り名探偵が顔を出した。
「やあナマエ、今日も満足そうな顔をしている」
「お陰様で。ホームズくん、お腹空いた?」
「いや、今はまだ。それより、例のお嬢さんから手紙が届いているようだが」
「ありがとう! すぐに読まなきゃ」
テーブルに品のある便箋が置いてあるのを見て、素早く手を洗ってからコートを脱いでソファに座る。
少し触っただけでも質の良い紙が使われているのが分かった。封蝋に刻印されたバンジークス家の家紋は、交差するサーベルと王冠が印象的でとても美しい。
剥がすのが勿体なくて仕方がないものの、なるべく傷付けないように慎重に剥がしていく。
「ナマエ、紅茶を飲むだろう」
「うん。あ、でも自分でやるから」
「ついでだから待っててくれ」
ありがとう、とキッチンに聞こえるように伝えてから封筒に再び向き合った。
丁寧で繊細な筆記体で綴られた内容は、主に三つ。二日後の待ち合わせ場所をバンジークス家の屋敷にしたいこと、今回のお礼として欲しいものを教えてほしい旨、わたしのカリグラフィーを見て大変感銘を受けたこと。
彼女とは一度会ったきりであるものの、嘘をつくような性格でないことは分かったから素直に照れてしまう。貴族のお屋敷に伺うのはとても緊張するけれど、彼女の旦那さんが少しの粗相で人を罰する人だとは思えないから多少は楽観視しても良いだろう。
向かいのソファで足を組みながら新聞を読むホームズくんをちらりと見てから、わたしもゆっくりとお茶を飲む。
最近手書きの文字と言えばホームズくんとジェームズさんばかり見ていたから、彼女の柔らかな文字との違いを感じて興味深かった。どちらかと言えばホームズくんよりジェームズさんの方が彼女の字に似ている。
せっかく目の前に名探偵がいるのだから、少しくらい好奇心を満たしても良いだろうか。
「ねえホームズくん。やっぱり英国内でも出身地によって筆跡に差は出てくるよね」
「ああ、当然性格も表れるが地域差は大きい。ボクは個人的な経験に頼っているが……キミなら出来るんじゃないか」
「何を?」
「警察にも頼りにされるレベルの筆跡鑑定」
「ええ、さすがにそれは……。そもそも警察はホームズくんの科学技術にも懐疑的なんだよね? 体系化されていない筆跡鑑定はそれ以上に相手にされない気がする」
「相手にされるかどうかは大きな問題じゃない。自分の武器を増やしておくに越したことはないさ」
「そっか、そうだね……。確かにその通りだ」
ホームズくんは何処まで先を見通しているのだろうか。その視線の先が気になってしまう。
しかし答えの分からない問いを考えるよりも、自分の成長のために行動すべきであることも理解していた。
「また何か分からないことがあったら聞いてくれ」
「うん、何から何までありがとう」
再び手紙を読み直して、当日の待ち合わせ時間を確認する。ティータイムに伺えば良いとのことなので、朝早くに出る必要が無さそうで安心した。工房の仕事は楽しいけれどその分とても疲れるから、睡眠時間をもう少し確保したいと思っていたところだった。
ここ数日は特に、首肩のコリや手の疲れ、脚のむくみも気になっていた。元々カリグラフィーで上半身を酷使しがちだったから、ここにきて疲れで様々な不調がぶり返しているような感覚だ。
現代のようにマッサージを気軽に受けられる環境があれば良かったのだが。肩をぐるぐると回したり身体を解したりしていると、ホームズくんがじっとこちらを見詰めているのが分かった。
「ナマエ」
「ん?」
「この前言っていたものが完成したんだ。要らなければ捨ててもいいが、念のため試してくれないか」
「この前……というと、もしかして」
「キミが今やっているマッサージ用のクリーム、と言えばいいのか」
工房に行った初日の夜、確かに現代のマッサージクリームが便利だったという話はした覚えがある。
食後のお茶をしながら聞き流していたとばかり思っていたのに、こんなにも早く作り上げてしまうだなんて。毎日暇さえあれば実験をしているから、その副産物なのだろう。
向かいから隣に移動してくれたホームズくんが差し出したのは、丸くて小さな瓶だった。蓋を開ければ記憶と寸分違わない白いクリームが詰まっている。
「本当にありがとう! さっそく使ってもいい?」
「ああ、もちろん。キミは手足を酷使しているから、よく解した方がいい」
喋りながら、ホームズくんはわたしの右手を取った。手の甲にクリームを掬った指を置き、指圧するように骨と骨の間を滑らせていく。
「あ、それ気持ちいい……」
「人体の構造として、手の筋肉は腕の筋肉に繋がっている。腕は肩や首に繋がっているし、このあたりは重点的に触った方がいいだろう」
手首から肘にかけても丁寧に指圧してくれる感覚が気持ち良くて、つい目を閉じてしまう。血流が巡って自分の体温は上がるし、ホームズくんの体温も感じてぽかぽかした。彼の優しさが伝わってくるようで、とても温かい。
「ありがとう、ホームズくん。残りは自分でやるから……」
温かい指が再び掌に戻ってきたところで、これ以上は甘えてはいけないと目を開ける。しかし予想以上にホームズくんとの距離が近いことに気付いて、つい言葉が途切れてしまった。
いつもはそれなりに距離を開けているのに、今はお互い肌を触れ合わせている状態だからだろうか。
ホームズくんの顔が整っていることも優しいことも既に痛いほど知っている筈なのに、何故か動揺して沈黙してしまった。ホームズくんも何も言わずにわたしを見ている。
やわらかい緑の目は、感情の読めない色を宿していた。何もかも冷静に受け止めているかのような、どこか寂しさも感じる深くて瑞々しい緑色。この世界で初めてわたしを見つけてくれた瞳。
この瞳に目に映ることが出来たから、今こうして生きていられるのだと実感する。
触れ合う右手にほんの少し力を入れて、ホームズくんの大きな手を労るように指を絡めた。
自分よりも年下で、けれど誰よりも聡明で優しくて強いひと。感謝を込めて指先で手の甲を撫ぜていく。
その間も何故か互いに目を逸らさないまま沈黙が続き、さすがに羞恥心が込み上げてきた頃。
ルームメイトの帰宅を知らせるベルが、わたし達の謎の静けさを救ってくれた。
「御琴羽くん、おかえりなさい!」
「ただいま帰りました。……慌てているようですが、何かありました?」
「え? いや、何もないよ。晩ご飯を用意するから少し待っててね」
───あの方が貴女を見つめる顔がとても優しいものだったので。
ふと、先日の彼女の言葉が甦る。確かに優しい瞳だった。ホームズくんはいつでも優しいけれど、それはわたし個人に向くものではなくて、ルームメイトや被害者という肩書きに付随するものだと思っている。
けれどそれも正しいのかどうか分からなくなってしまった。今はまだ、名探偵の心を暴きたいなんてとても考えられなかったけれど。
深く息を吐き出して、キッチンでの作業に集中する。
結局わたしはルームメイトのことを何も分かっていないのかもしれないと、鍋をかき回しながら肩を落とした。
「……自分らしく生きるのって難しいよ、ホームズくん」