「バンジークス家に行くなら、私の友人に会うかもしれませんね」

御琴羽くんは、珈琲を片手にゆったりと微笑んでいた。
不思議と夕食中に目が合わなかったホームズくんは早々に自室に引きこもってしまったが、食後のティータイムは穏やかな空気が流れている。

「ご友人というと……確か、刑事さんと判事さんだよね」

日本からの留学生が他にも二人いることは、以前から耳にしていた。もし何か困ったことがあれば頼ってみてください、と気遣ってもらえて嬉しかったからよく覚えている。
記憶を辿りながら紅茶を飲んでいると、その通り、と満足そうな笑みが返ってきた。

「実は、刑事の友人がバンジークス検事とコンビを組んでいまして」
「ホームズくんと御琴羽くんみたいな感じだ」
「そうなりますかね。私の場合は振り回されっぱなしですけど」

病院で留学生として学ぶ御琴羽くんは、私立探偵とは異なり四六時中暇な訳ではない。夜遅くまで外を歩き回る二人を出迎えると、たいてい御琴羽くんの方が疲れきった顔をしていた。
けれど、ソファに座りながら事件について振り返る横顔は楽しそうだった。探偵の相棒として捜査記録を書き残す背中を見かける度に、こちらまでワクワクすることが多い。疲れも忘れるくらい懸命にペンを走らせる様を見て、ホームズくんが微かに笑っているのも知っていた。

「でも御琴羽くん、いつも楽しそうな顔してる」
「バレましたか」
「バレバレです。家でタップダンスしてもいいんだよ」
「その話をどこで……いえ、ホームズですね。ならばこちらもヴァイオリンをせがまなくては」
「弾けるの? 二人とも音楽に合わせてパフォーマンスができるんだ、凄いね」
「いずれ是非、本人に聞いてみてください。快く弾いてくれると思いますよ」

薄らと何か裏を感じる笑顔だったものの、ホームズくんはオペラやクラシックにも精通しているため納得だった。音楽は好きだから生の演奏に興味があるし、今度タイミングを見て尋ねてみようか。

「わたしは、ピアノに少し触れたことがある程度かな。簡単な演奏しか出来ないけど」
「凄いじゃないですか。日本ではまだ一握りの富裕層にしか手が届かないんですよ。倫敦では大衆文化になりつつあるようですが」
「あ、そっか。この時代から見るとわたしって恵まれてるんだ」
「倫敦に来ていきなり刺された人が、恵まれていると自覚するのも不思議な話ですけどね」

僅かに呆れた気配を滲ませつつも、柔和な笑みは崩さない。御琴羽くんは配慮できる男性だから普段は棘を見せないけれど、時折素を見せてくれるようになった気がする。
ティーカップ越しの柔らかな距離感は、日常の象徴のようでとても落ち着いた。一方的かもしれないけれど、御琴羽くんのことは自信をもって友人と呼ぶことができる。
ちらりと時計を確認した穏やかな視線を辿ると、そろそろ眠るべき時間だと気付く。カップの中身を飲み干して、二人揃ってキッチンへと向かった。

「道中は馬車という話でしたけど、当日はくれぐれも気を付けてくださいね。何かあったら私もホームズも心配なので」
「うん、ありがとう。気を付けるね」
「亜双義も力になってくれるでしょうから、何かあれば遠慮なく頼ってみてください」
「アソウギさん、がその刑事の留学生さん?」
「ええ。───亜双義玄真。正義感が強くて誠実な熱い男です」

なんて綺麗な響きだろう、と初めて御琴羽くんの名前を知った時と似た感想を抱く。
漢字を教えてもらうと、御琴羽くんが語る人物像と重なり合って感動した。苗字に義を抱き、名前で真を貫く刑事さん。まさに名は体を表す方なのかもしれない、と会うのが少し楽しみになった。



工房に通い始めて六日目。つまり彼女との約束の前日。
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に丁寧な所作で手渡されたのは、フチと台が黄金の装飾で彩られた美しいワイングラスだった。

「クレームは聞かんぞ」
「滅相もない! これなら絶対に喜んでくれます!」
「……そうか」

決して落とさないように慎重に抱えて、改めてまじまじと観察する。
フチを一周する金属は刺繍を彷彿とさせる程に美しく、花びらのような装飾が幾重にも折り重なっていた。スラリと細く伸びたグラスの持ち手も、しなやかに丸くグラス全体を下支えする台も、余すところなく黄金の輝きに満ちている。まさに精巧緻密な職人技だった。

「元々のグラスは、もう少しシンプルな作りでしたよね。お渡ししたお代で足りましたか?」
「余計に寄越されたから妥当な物を作っただけだ」

無理を承知で引き受けてもらうから、割増で料金を支払うと説明した筈なのに。偏屈そうに見えるけれど、私利私欲で動けない真っ直ぐな人なのだろう。気難しそうなのは見た目だけで、実際はこんなにも懐が深い。
まだ彼女にこのグラスを手渡してはいないけれど、……その前に勇気を出しても良いのではないだろうか。大きく深呼吸をしてから、グラスを箱に入れ直して安全な場所に置く。

「それを持ってさっさと出ていけ」
「本当にありがとうございました。……もう少し此処にいたら駄目ですか」
「ダメだ。お前が居座るのはワイングラスを作り終えるまで。そういう話だった」
「確かにそうです。けれどそれは、バンジークス家の奥方様の代理で依頼したお仕事に関しては、のお話でもある筈です。わたし自身のお願いはまだ一つもお伝えしていません」
「バンジークスの依頼を叶えてやったのに、その上でお前の要望も叶えろと? 随分と図々しくなったな」

険しい顔で断られることは予想通りだった。やはり真正面から拒絶されると心は痛むし動揺するものの、ゆっくりとジェームズさんの瞳を見据えた。
湖のような静謐で透き通ったグリーンは、サザーランド工房のガラス達のように様々な光を宿している。
時に赤く、青く、茶色く、黒く、透明な芸術品の数々を反射したような繊細な瞳。一方的に見つめるだけの状態であるものの、目に見えないジェームズさんの想いを感じるような気がした。

ジェームズ・サザーランド氏は、他者を否定することをしない人だった。わたしが仕事でミスをしても嫌味の一つも言わず、淡々と事実と改善点を教えてくれた。
わたしがガラス作りをしたいと考えていたことを見抜き、自らの作業と並行しながら見守っていてくれた。
たとえホームズくんの言葉があったとしても、無視してわたしを拒否する選択肢もあった筈だ。それなのに六日間ずっと、わたしを受け入れた上でこちらの仕事を認めてくれた。
この世界にとって明らかな異物である自分が、身内でもない第三者から承認されたという事実が、どれほど嬉しかったことか。どんなに言葉を尽くしても伝わらないだろうけれど、たとえ理解されずとも発信しなければならない意志はあった。

「わたしはこれからも、この工房に通いたいです。どうすれば認めてもらえますか?」
「……こちらにどんなメリットがある?」
「バンジークス家の様子をお伝えすることが出来ます。ワイングラスを渡した時の反応も、ジェームズさんのお子さん達がどれほど大切にされているかも」
「………………」

ジェームズさんについて、わたしはいくつか仮説を立てていた。
初対面でバンジークス家の名前を出した途端に大きな反応を見せたこと、ホームズくんが口にした「彼女の頼みを聞かなければならない理由」、メリットが無いにもかかわらず華美な装飾をグラスにつけたこと。
ジェームズさんにとってバンジークス家は特別なのだ。恐らく、ベリル・バンジークス個人がその鍵を握っている。
過去に縁があったのか、彼女の血縁に援助でも受けたのか、はたまた恩を売り付けて懐に入り込もうとしているのか。そのどれもに証拠も根拠もなく、確かなことは何も言えなかったけれど。
可能性が少しでもあるならば、選択肢を全て実行するまでだった。

それにわたしは───毎日飽きもせず、どこまでも真っ直ぐに窯へと向き合っていた小さな背中に賭けてみたかった。何よりも、全身に満ち満ちて沸き立つ熱い思いを伝えたかった。
わたしは、あなたの作品が好きなのだと。あなたの作品をこれからも見守っていきたいのだと。願わくば、あなたの作品こどもたちが数々の笑顔を生む様を見つめたいのだと。

「わたし、ジェームズさんの手助けがしたいんです。フレスノ街の工房で生まれた手作りのグラスは、こんなにも素晴らしいんだって伝えたい。たとえ機械を介さなくとも、イーストエンドで作られた物であろうと、社会的なステータスに関係なく素敵で価値があるんだって、倫敦の人々に知ってもらいたい。たとえ相手にされなくたって、発信しなきゃ何も伝わらないと思うんです」
「…………ワシらの時代は終わった。社会の流れには逆らえん」
「無理に逆らわなくて良いんです。今の時代に合わせた方法でアピールをして、ジェームズさんらしく作品を作っていきましょう。自分の価値観を大切にしながら社会に迎合することって不可能じゃないと思います」
「……従順だったかと思えば、えらく強気に出たな。素人のくせに」
「わたしは何も知らないから、新しい視点で物事を考えられるとも言えませんか? 今まで仕事を通じて社会情勢について学んできましたし、司法や流行についての情報も仕入れれば広報も上手くいくかもしれません」
「探偵の入れ知恵か?」

ジェームズさんはとうとう呆れたように、諦めたように肩をすくめていた。頑なに塞がれていた耳が、少しずつ開かれ始めたことを知る。
ここで安心して引いてはいけない。名探偵の真骨頂は最後の最後、推理の論理を全て明らかにした瞬間なのだと、事件現場に何度も同行して理解していた。わたしは探偵になれなくても、探偵の精神を受け継ぐことは出来る。
答えを間違えないように、ぐっと息を詰めてから改めてジェームズさんの瞳を見つめた。今度はお互い対等に目が合った。

「いえ。全てわたし自身の考えです」
「だろうな」
「お願いします。今は工房に通わせて頂くこと以上は望みません。頻度がどれだけ少なくても構いません。……認めて、頂けないでしょうか」

深々と頭を下げる。返事を聞くまで爪先を見つめたままでいる覚悟だった。
大きな大きな溜め息が降ってくる。言いたいことは全て言い切ったから後悔は無かった。もし完全に拒絶されたら、カリグラフィー作家としての提携先を探しながら次の施策を友人達と考えればいい。
ここでいくら失敗をしても逃げる場所があり、吐き出せる人達がいる。部屋の隅っこで膝を抱いていたあの頃とは違うのだから。

この工房の中で、ここまで重苦しい沈黙が続くのは初めてのことだった。さすがに頭に血が上ってくらくらし始めた時、しわがれた声がわたしの心を堰き止める。

「いいか、ナマエ。頻度が少なければ技術なんて一つも身に付かん」
「え?」

顔を上げる。一気に血が戻った影響か一瞬ふらっとするものの、ジェームズさんの顔がいつも以上に穏やかに見えて息を呑んだ。

「毎日は無理でも出来る限り来い。一人前になりたいならな」

それだけ言うと、さっさと背を向けて窯の前に座った。今日の作業はもう終わっている筈なのに、むっつりと黙り込んだまま手を動かし始める。胸が燃えるように熱くなった。

「……ッ、ありがとうございます!」
「いいからさっさと帰れ。まだ作業が残ってるから相手をしてる暇はない」
「はい!」

これ以上はどれだけ言葉を重ねても無駄なことは、この六日間で痛いほど分かっていた。邪魔をしないように荷物をまとめてから、挨拶をして工房の外に出る。
扉に身体を預けて、薄暗いフレスノ街に座り込んだ。秋の肌寒さも気にならないくらい、心も身体も熱くて仕方がない。

今日はホームズくんが迎えに来てくれることになっていた。タイミング良く聞き慣れた足音を耳にしても、わたしは崩れた顔を元に戻せそうになかった。
突然ぎゅっとハグをしたら、ホームズくんは驚くだろうか。けれど今は湧き上がる喜びを抑えられそうになくて、この歓喜を真っ先に伝えられるのが他ならぬホームズくんである事実も衝動に拍車をかけていた。

コツコツ、コン。コツ、コン。ちょっと神経質で気まぐれで賢くて優しい、大切なルームメイトが紡ぐ音。
わたしが抱く喜びの傍には、いつでもあなたがいる。月並みだけれど、その事実が泣きたいくらい幸せだなあとただ思った。