22:何億光年先でも叫ぶよ
近頃、ベリルちゃんは実家へ帰ることが増えた。クリムトくんには以前と比べて会えていないし、亜双義くんと顔を合わせる機会も減った。
けれど、決して彼らと険悪になった訳ではない。むしろ一度の会話で交わす情報量は多いし、密度の濃い交流が出来ていると思う。事実、今日も狩猟舞踏会の主催を終えた直後のクリムトくんと、密かに会う約束をしていた。
バンジークス家の庭園には、相変わらず美しい花々が咲き誇っている。ベリルちゃんが手入れを欠かしていない証だろう。今日は生家へ戻っているらしい友人を想いながら、繊細で鮮やかな色に癒されていた。
それにしても、狩猟の後に舞踏会を開かなければならないとは、貴族社会も大変だと思いを馳せる。娯楽の中でも権謀術数をめぐらせ、政治的な交渉さえもしなければならないのだから。
だからこそ、ベリルちゃんやクリムトくんの背中に伸し掛る重圧は相当なものだと考える度、胸が苦しくなるけれど。
「ナマエ、待たせて申し訳ない」
僅かに息を切らせたクリムトくんが、狩猟用の燕尾服に身を包んだままやって来る。全体的な色合いは暗めの紫色だが、襟や袖口はアザレアを思わせる柔らかなピンクの生地で彩られている。それらがバロックくんやベリルちゃんの髪の色だとすぐ気付き、つい微笑んでしまった。
「とんでもない。むしろ忙しいのにごめんね」
「私もちょうど話がしたいと思っていたんだ。気にしないでくれ」
「それなら良かった。場所を移した方が良いかな」
「……いや、此処で構わない」
凛々しく麗しい顔が、いつもより翳りを帯びていることにすぐ気付く。何と声をかけるべきかと思案したところで、クリムトくんを猛スピードで追いかけてくる影を目にして、目を丸くした。
すらりとした体躯にバランス良くついた筋肉を、優雅にしなやかに躍動させながら駆け抜けてくるのは───クリムトくんの愛犬、バルムンク号だ。狩猟犬として名高いサイトハウンド種であり、黒い毛並みが綺麗な子で、会えばいつもクリクリの目で見つめてくれる愛らしくて賢いワンちゃんだった。
ワンワンと吠えながらクリムトくんの足元をぐるぐると回り、飼い主の柔らかな表情を瞬く間に引き出していく。しゃがみ込んでバルムンクくんを撫でる友人と目が合えば、困ったように笑っていた。その胸の内にあるものが何にせよ、お互い話をするための空気が温まったことを感じる。
「……すまない、ナマエ。このまま話をしても良いだろうか?」
「うん、勿論。バルムンクくんも大丈夫だよね?」
義理堅い主従に歩み寄ってからしゃがみ込み、透き通った青みがかった瞳を見つめる。バルムンクくんがわたしの問いに答えるように「ワン!」と力強く鳴けば、垂れた両耳もふるりと揺れた。御礼の意味を込めて、首輪のついた喉元を優しく撫でると、気持ち良さそうに目を細めてくれる。
そのまま暫しの沈黙が流れた。今はお互い心の準備をしているのだと、会話せずとも分かるくらいには、わたしもクリムトくんとの付き合いが長くなっていた。そういえばもう出会ってから三年は経つのかと気付き、感慨深くなる。
例の怪我を負った件をキッカケに友人付き合いが始まり、大英帝国の現状を変えるべく奔走した二年間を、自然と思い返していた。
権力格差による国内の不平等を少しでも無くすため、クリムトくんは司法界の内部から、わたしはマスメディアやイーストエンドの人々と同じ目線から、出来ることは全力でやってきたつもりだ。
法廷における証拠や証言の捏造を阻止するための法案。権力者たちが私腹を肥やしている惨状を書いた記事。貴族院の議員に権力が集中することを防ぐための、監視体制に関する提案。貧民街の犯罪率の高さとその原因を分析し、対策を提言した書類。
隙間時間を作っては顔を合わせて話し合いを重ね、様々な角度から数多くの手を打ってきた。
けれどそのほとんどは、張本人たる権力者たちによって揉み消され続けた。実現したのは、彼らにとって不利にならず世間体も良い、一部の案だけだった。たとえどれ程この国で素敵な縁に恵まれても、結局のところわたしは、社会的に無力な弱者のままなのだと何度思い知ったことだろう。
「ナマエ、……提案がある」
「うん」
「少しばかり、距離を置かせてほしい。これはあくまでも個人的で身勝手な要望だ。……妻とは是非、今まで通り懇意にしてもらいたいのだが」
互いにしゃがんだまま、真っ直ぐに目を合わせる。出会った時から変わらぬ純粋さが滲むブルーアイに、底の見えない複雑な色が渦巻いているようだった。わたしはクリムトくんの言葉とその視線を受け止めてから、一度だけ、大きく頷く。
正直なところ予想はしていたのだ。責任感の強い目の前の友人は、周囲がトラブルに巻き込まれる可能性を察知すれば、たとえ誰であろうと遠ざけると。
「うん、分かった。もしまた、わたしで何か力になれることがあれば、いつでも連絡して」
「……貴女はやはり、優しすぎるな」
「そっくりそのまま、同じ言葉を返すよ。……わたしと友だちになってくれて、ありがとう。クリムトくん」
挨拶と御礼の意を込めて、そっと手を差し出す。クリムトくんは一瞬だけぐっと眉を寄せてから、力強く握り返してくれた。
「こちらこそありがとう。ナマエと友人になれたことは、私の人生における最大の幸福の一つだ」
「……うん、わたしも同じ気持ちだよ。クリムトくんと一緒にたくさん悩んで考えて頑張った数年は、まるで宝物みたいに大切で、実りの多い時間だった」
「……ああ。これから会う機会は減るだろうが、緋色 のインクだけは大事に使い続けると約束しよう」
「嬉しいな。あの朝焼けの色は、クリムトくん以外には誰にも渡してないから」
「そうだったのか……?」
ジェームズさんが退院した後も、工房での作業は変わらずに続けてきた。クリムトくんの助力もあり、硝子細工もインクも大衆向けに販売できることになったから、一端の作り手として数多くの作品を生み出してきたけれど。
「あの緋色 は、わたしの罪と贖罪と決意の証だから。唯一無二の同志であるクリムトくんに、託したかったんだ」
「それは……光栄だな」
微かに声が震えていることに気付かないフリをしたまま、わたしは微笑む。これが今生の別れになる可能性があることを悟っていたから。今の治安と現状では、どちらがいつ命を落としても不思議ではない。わたしはわたしとして、大切な友だちに精一杯の言葉を手向けたかった。
「わたしがあなた達を守るって約束したのに、果たせそうになくて、ごめんね」
「それは違う。ナマエはいつだって、私も妻もバロックのことも、懸命に守ろうとしてくれていた。貴女の優しさと強さに、私たちがどれ程助けられたことか。……私に賛同し、権力者に立ち向かう記事を載せられるよう何度も掛け合ってくれた。私のせいで流布されそうになったバンジークス家の悪い噂も、上層部に直談判してずっと止めてくれていただろう」
「ふふ。さっきからずっと、同じ言葉ばかり返しちゃうけど。イーストエンドの工房で働く、異国の女を貴族に売り込むなんて……今の英国ではあまりに常識外れで、相当な労力が必要だったと思うんだ。わたしのために無理をしてくれて、わたしに心無い言葉が届かないよう守ってくれて、本当にありがとう」
クリムトくんは、笑った。冬場に一人取り残されながら懸命に咲くラベンダーのごとく、儚くも強く優しい色を浮かべながら。
最後に交わした別れのハグが、あまりにも柔らかい温度を宿していたものだから、熱くなった目頭から感情を零さないように必死だった。ここで涙を見せてしまったら、クリムトくんは今後ずっと気にしてしまうだろうから。
「クリムトくん。元気でね」
「ああ。ナマエも、身体には気を付けて。……幸せに、生きてほしい」
深々と頭を下げてから、わたしはバンジークス家の庭園を後にする。気を遣わせないように素早く脚を動かし、感情を溢れさせないように必死に手のひらを握りこんでいたわたしを、門のすぐ外で待ってくれていたのは……ホームズくんだった。
「おかえり、名前」
「……うん、ただいま。ホームズくん」
「おいで」
きっと、今のわたしは酷い顔をしていることだろう。
しかし。たとえ事情を察していても、無理に理由を暴いて相手の心に踏み込むことをせず、優しく腕を広げて声を掛けてくれるのが、ホームズくんだった。
「……ッ」
迷わず真っ直ぐに、その大きくて温かい胸に飛び込んだ。大事な男の子が、わたしの頭を撫でて髪を梳いて、宝物を扱うように背中に熱を分け与えてくれる。その事実が幸せで、切なくて、愛 しいと思った。
もしもいつか、大事な人たちと距離を置かなければならなくなっても。わたしは、わたしに関わる全てのひとの幸福を、全力で祈れる人間になりたかった。
けれど、決して彼らと険悪になった訳ではない。むしろ一度の会話で交わす情報量は多いし、密度の濃い交流が出来ていると思う。事実、今日も狩猟舞踏会の主催を終えた直後のクリムトくんと、密かに会う約束をしていた。
バンジークス家の庭園には、相変わらず美しい花々が咲き誇っている。ベリルちゃんが手入れを欠かしていない証だろう。今日は生家へ戻っているらしい友人を想いながら、繊細で鮮やかな色に癒されていた。
それにしても、狩猟の後に舞踏会を開かなければならないとは、貴族社会も大変だと思いを馳せる。娯楽の中でも権謀術数をめぐらせ、政治的な交渉さえもしなければならないのだから。
だからこそ、ベリルちゃんやクリムトくんの背中に伸し掛る重圧は相当なものだと考える度、胸が苦しくなるけれど。
「ナマエ、待たせて申し訳ない」
僅かに息を切らせたクリムトくんが、狩猟用の燕尾服に身を包んだままやって来る。全体的な色合いは暗めの紫色だが、襟や袖口はアザレアを思わせる柔らかなピンクの生地で彩られている。それらがバロックくんやベリルちゃんの髪の色だとすぐ気付き、つい微笑んでしまった。
「とんでもない。むしろ忙しいのにごめんね」
「私もちょうど話がしたいと思っていたんだ。気にしないでくれ」
「それなら良かった。場所を移した方が良いかな」
「……いや、此処で構わない」
凛々しく麗しい顔が、いつもより翳りを帯びていることにすぐ気付く。何と声をかけるべきかと思案したところで、クリムトくんを猛スピードで追いかけてくる影を目にして、目を丸くした。
すらりとした体躯にバランス良くついた筋肉を、優雅にしなやかに躍動させながら駆け抜けてくるのは───クリムトくんの愛犬、バルムンク号だ。狩猟犬として名高いサイトハウンド種であり、黒い毛並みが綺麗な子で、会えばいつもクリクリの目で見つめてくれる愛らしくて賢いワンちゃんだった。
ワンワンと吠えながらクリムトくんの足元をぐるぐると回り、飼い主の柔らかな表情を瞬く間に引き出していく。しゃがみ込んでバルムンクくんを撫でる友人と目が合えば、困ったように笑っていた。その胸の内にあるものが何にせよ、お互い話をするための空気が温まったことを感じる。
「……すまない、ナマエ。このまま話をしても良いだろうか?」
「うん、勿論。バルムンクくんも大丈夫だよね?」
義理堅い主従に歩み寄ってからしゃがみ込み、透き通った青みがかった瞳を見つめる。バルムンクくんがわたしの問いに答えるように「ワン!」と力強く鳴けば、垂れた両耳もふるりと揺れた。御礼の意味を込めて、首輪のついた喉元を優しく撫でると、気持ち良さそうに目を細めてくれる。
そのまま暫しの沈黙が流れた。今はお互い心の準備をしているのだと、会話せずとも分かるくらいには、わたしもクリムトくんとの付き合いが長くなっていた。そういえばもう出会ってから三年は経つのかと気付き、感慨深くなる。
例の怪我を負った件をキッカケに友人付き合いが始まり、大英帝国の現状を変えるべく奔走した二年間を、自然と思い返していた。
権力格差による国内の不平等を少しでも無くすため、クリムトくんは司法界の内部から、わたしはマスメディアやイーストエンドの人々と同じ目線から、出来ることは全力でやってきたつもりだ。
法廷における証拠や証言の捏造を阻止するための法案。権力者たちが私腹を肥やしている惨状を書いた記事。貴族院の議員に権力が集中することを防ぐための、監視体制に関する提案。貧民街の犯罪率の高さとその原因を分析し、対策を提言した書類。
隙間時間を作っては顔を合わせて話し合いを重ね、様々な角度から数多くの手を打ってきた。
けれどそのほとんどは、張本人たる権力者たちによって揉み消され続けた。実現したのは、彼らにとって不利にならず世間体も良い、一部の案だけだった。たとえどれ程この国で素敵な縁に恵まれても、結局のところわたしは、社会的に無力な弱者のままなのだと何度思い知ったことだろう。
「ナマエ、……提案がある」
「うん」
「少しばかり、距離を置かせてほしい。これはあくまでも個人的で身勝手な要望だ。……妻とは是非、今まで通り懇意にしてもらいたいのだが」
互いにしゃがんだまま、真っ直ぐに目を合わせる。出会った時から変わらぬ純粋さが滲むブルーアイに、底の見えない複雑な色が渦巻いているようだった。わたしはクリムトくんの言葉とその視線を受け止めてから、一度だけ、大きく頷く。
正直なところ予想はしていたのだ。責任感の強い目の前の友人は、周囲がトラブルに巻き込まれる可能性を察知すれば、たとえ誰であろうと遠ざけると。
「うん、分かった。もしまた、わたしで何か力になれることがあれば、いつでも連絡して」
「……貴女はやはり、優しすぎるな」
「そっくりそのまま、同じ言葉を返すよ。……わたしと友だちになってくれて、ありがとう。クリムトくん」
挨拶と御礼の意を込めて、そっと手を差し出す。クリムトくんは一瞬だけぐっと眉を寄せてから、力強く握り返してくれた。
「こちらこそありがとう。ナマエと友人になれたことは、私の人生における最大の幸福の一つだ」
「……うん、わたしも同じ気持ちだよ。クリムトくんと一緒にたくさん悩んで考えて頑張った数年は、まるで宝物みたいに大切で、実りの多い時間だった」
「……ああ。これから会う機会は減るだろうが、
「嬉しいな。あの朝焼けの色は、クリムトくん以外には誰にも渡してないから」
「そうだったのか……?」
ジェームズさんが退院した後も、工房での作業は変わらずに続けてきた。クリムトくんの助力もあり、硝子細工もインクも大衆向けに販売できることになったから、一端の作り手として数多くの作品を生み出してきたけれど。
「あの
「それは……光栄だな」
微かに声が震えていることに気付かないフリをしたまま、わたしは微笑む。これが今生の別れになる可能性があることを悟っていたから。今の治安と現状では、どちらがいつ命を落としても不思議ではない。わたしはわたしとして、大切な友だちに精一杯の言葉を手向けたかった。
「わたしがあなた達を守るって約束したのに、果たせそうになくて、ごめんね」
「それは違う。ナマエはいつだって、私も妻もバロックのことも、懸命に守ろうとしてくれていた。貴女の優しさと強さに、私たちがどれ程助けられたことか。……私に賛同し、権力者に立ち向かう記事を載せられるよう何度も掛け合ってくれた。私のせいで流布されそうになったバンジークス家の悪い噂も、上層部に直談判してずっと止めてくれていただろう」
「ふふ。さっきからずっと、同じ言葉ばかり返しちゃうけど。イーストエンドの工房で働く、異国の女を貴族に売り込むなんて……今の英国ではあまりに常識外れで、相当な労力が必要だったと思うんだ。わたしのために無理をしてくれて、わたしに心無い言葉が届かないよう守ってくれて、本当にありがとう」
クリムトくんは、笑った。冬場に一人取り残されながら懸命に咲くラベンダーのごとく、儚くも強く優しい色を浮かべながら。
最後に交わした別れのハグが、あまりにも柔らかい温度を宿していたものだから、熱くなった目頭から感情を零さないように必死だった。ここで涙を見せてしまったら、クリムトくんは今後ずっと気にしてしまうだろうから。
「クリムトくん。元気でね」
「ああ。ナマエも、身体には気を付けて。……幸せに、生きてほしい」
深々と頭を下げてから、わたしはバンジークス家の庭園を後にする。気を遣わせないように素早く脚を動かし、感情を溢れさせないように必死に手のひらを握りこんでいたわたしを、門のすぐ外で待ってくれていたのは……ホームズくんだった。
「おかえり、名前」
「……うん、ただいま。ホームズくん」
「おいで」
きっと、今のわたしは酷い顔をしていることだろう。
しかし。たとえ事情を察していても、無理に理由を暴いて相手の心に踏み込むことをせず、優しく腕を広げて声を掛けてくれるのが、ホームズくんだった。
「……ッ」
迷わず真っ直ぐに、その大きくて温かい胸に飛び込んだ。大事な男の子が、わたしの頭を撫でて髪を梳いて、宝物を扱うように背中に熱を分け与えてくれる。その事実が幸せで、切なくて、
もしもいつか、大事な人たちと距離を置かなければならなくなっても。わたしは、わたしに関わる全てのひとの幸福を、全力で祈れる人間になりたかった。