人生の中で最も古い記憶は、山の奥で泣き叫びながらこちらに縋り付こうとする、祖父母の必死な形相だった。
次に、山に捨て置かれていく時に見た父親の大きな背中。「いい子で待っていなさい」と冷たく降ってきた、嗄れた声。

戦乱の世において、労働力にならない老人や童が捨てられるのは、ごく自然で当然のことだった。血の繋がった親族を踏み躙り、実の親から見捨てられた無力で汚らしい女が行き着く先は、死か地獄くらいのものだろう。しかし私はそのどちらも選ぶことなく、自ら修羅の道を歩んでいくことになる。

親から言われた通りにいい子で待っていようと、膝を抱えて座り込むみすぼらしい子どもが出会ったのは、下卑た顔をした山賊たちだった。あれが運の尽きだったのかそうでないのか、あの時に死んだ方が幸せだったのか否か、未だに答えは分からないままだ。

襤褸切ぼろきれのように扱われた末、私は人を殺す術を知った。他者を害し、奪い、何もかもを蹂躙する方策を学んでしまった。
生きていくためならば、どんなに卑怯なことでも惨たらしいことでもやってのけていた、あの時期。すっかり日常と化した真っ赤に染まった掌を、無感動に見下ろしていた記憶は生々しくこびりついたままだ。

先輩に出逢うまでの私は、きっと誰が見ても、粗暴で醜い獣でしかなかっただろう。

弱者から搾取することでしか生き延びることしか知らなかった、愚かで残虐な女なぞが。人並みの幸せを求め、誰かを好きになることなど、望んではいけないに決まっていた。



「名前!」
「……、先輩?」

敬愛する女性から名前を呼ばれて、瞬時に意識が覚醒する。瞳を開けて身を起こせば、すっかり見慣れた山田家の居間に横たわっていたのだと気付いた。
しかしながら、忍務を終えた記憶はあるのに先輩のお宅に伺った記憶はない。無様に寝転がったままではいられないと上半身を起こせば、何故だか全身の関節が痛んだ。

「身体、辛いでしょう」

その麗しい顔が何故だか歪んで見えて、眉を寄せる。

「いえ、そんなことは……」
「名前。貴女、熱があるのよ。それもかなり高いわ」
「熱……?」

手の甲で自らの額を触ってみれば、確かに熱いような気がした。けれどこれくらいの体調不良ならば、昔は誰にも気にされず、むしろ罵られながら戦場に駆り出されたものだった。今だって、忍務に行けと言われれば問題なく向かえるだろう。

「……お気遣いありがとうございます。ですが、これくらいは問題ないですから」
「問題ない訳ないでしょう。まったくもう……相変わらず仕方のない子ね。緊急の仕事はあるの?」
「いえ、……数日は余裕がありますね」
「なら此処でしばらく休んでいなさい。申し訳ないけれど、この後少し出かけなくてはならないから……看病は既に頼んであるの」
「え?」

伝蔵さんか利吉くんだろうか、といつもより不明瞭な頭で思考する。が、先輩の言葉をきっかけにして襖越しに恐る恐る顔を出したのは、先日知り合ったばかりの半助さんだった。

「それじゃ、頼んだわね」
「はい、承りました」

半助さんによる深々としたお辞儀を受けた先輩は、満足そうにこちらへ会釈してから出掛けていく。用事があったのに邪魔をして申し訳なかったなと反省していると、私の肩をそっと触る熱を感じた。

「名前さん、お腹は空いていますか?」
「え……? いえ、そんなことは」

ないですよ、と続けようとしたところで、腹の虫がぐうっとか細く鳴き始める。いつもなら自分の身体の感覚くらい制御出来るのに、と顔が熱くなったが、半助さんは一切笑うことなく、真剣な表情でこちらを見つめていた。

「実は、その……おかゆを用意してみたのですが……」
「それは……お手間をお掛けしてしまい、大変申し訳ございません……」
「いえ! わたしがやりたくてやったことですので! 名前さんのように料理が得意な訳ではないので、お口に合うかどうかは分かりませんが」
「料理において一番大事なのは、想いですから。……自分のために誰かが作ってくださったものって、それだけで胸が満たされるんです」

半助さんは、微かに目を細めた。やがて何かを噛み締めるように小さく頷く。

「勉強になります。……それではご用意するので、少々お待ちください」
「恐れ入ります」
「名前さんは、ゆっくりお休みになってくださいね」
「ですが、全てお任せする訳には……」

半助さんだって、完全な本調子という訳では無い筈だ。そう思って声をかけるものの、大きくて温かい手のひらに何度かそっと頭を撫でられて、つい口を閉ざしてしまう。その顔には仄かな笑みが浮かんでいた。
利吉くんを相手にするような子ども扱いをされているのだろうと理解して、不思議な感覚に陥った。決して不快な訳ではなくて、……今まで閉じ込めていた未知なる感情を呼び覚まされるような、得体の知れない気持ちが湧き上がるような気がして、そわそわしてしまう。

───だって、こんな私のことを繊細に優しく触ってくれる人なんて、今まで出会ったことが無かったんだもの。

祖父母や親に関する記憶は曖昧で、私を育てた山賊たちには暴力で支配され続けてきた。今でこそ先輩を慕っているものの、初対面の時に襲いかかった立場で気軽に接することが出来る訳もなく、山田家の皆さんとも一定の距離を置いていた。
だから、何の垣根もなく私という個人と触れ合おうとしてくれる人に、生まれて初めて出逢ってしまったのかもしれないと、そんな自惚れたことを思ってしまう。

「それでは……此処で、お待ちしております」
「はい。すぐに準備してきますので」

布団の上で横になりながら、炊事場でそそくさと動き回る大きな背中を見つめる。先日よりも動きが少しばかりこなれたように見えるのは、それだけ山田家で料理を手伝っているからだろうか。

念のため周辺の気配を探れば、半助さん以外の存在は感じられなかった。伝蔵さんが本気で姿を隠したならば私なぞに見破れないだろうけれど、わざわざご自宅で気配を消す理由など無いだろう。

「名前さん、お待たせ致しました」
「あ、……ありがとう、ございます」

何故かぎこちなく喋ってしまう私を笑うことなく、半助さんはそっとお椀を差し出してくれた。湯気と共に、どこか懐かしいような優しい香りが鼻を擽る。
半助さんは何も言わず、私の背中に手を添えて支えた上で……おかゆを口に運ぼうとする様を、そのままじっと観察するように見つめてくる。
かつての私も、料理を習いたての頃は先輩に対して同様の振る舞いをしていたな、と思い出す。こんな自分が作ったものを人様に振る舞うだなんて、とてもじゃないけれど自信が無かったから。

「……、いかがでしょうか?」

緊張したような面持ちと共に降ってきた、どことなく強張った声に問いかけられる。火傷しないようにゆっくりと舌に乗せたその一口は、とてもやさしくて、温かくて、不思議と胸が詰まるような味を、していた。

「……とても、美味しいです」
「安心しました。……ありがとうございます」
「……半助さん」
「はい?」
「こちらこそ、ありがとうございます。その……私のために、わざわざ時間と労力を割いてくださって」
「先程も申し上げましたが、これはわたしがやりたくてやったことです。……少しでも、名前さんのお役に立ちたかったので」

再びそっと、頭を撫でられる。一つ一つの言葉を噛み締めるように語る半助さんの声も、表情も、指先も。全てが私の心の臓を直接撫で付けるかのごとく優しい温度を宿していた。何故か熱が上がったような気がしたから、やはり自己管理がなっていないなと自戒したけれど。

面映ゆい気持ちのままゆっくりと食べ終えれば、情けないことに、童のごとく自然と瞼が落ちそうになっていた。思考もぼんやりと霞みがかっていく。

「名前さん、おやすみなさい」
「……おやすみ、なさい。あの、半助さん」
「はい」
「私が眠るまで……傍に、いてくださいますか?」

私は、眠ることが苦手だった。必ずと言っていい程に悪夢を見るから。かつての愚かで残虐で罪深い私が、のうのうと暮らす現在の私を責め立てるようにずっと見つめてくるから。あの頃の所業を見せ付けられて、私ごときが普通に暮らすことなんて烏滸がましいのだと、まざまざと思い知らされるから。

けれど。……何故だろう。半助さんの熱を感じている今ならば、ほんの少しだけ、眠ることも怖くないような気がした。

「名前さん」
「……は、い」

今更ながら激しい羞恥心に襲われる。出会ったばかりの関係が浅い女から、突然こんなことを言われたって困るに決まっていた。何か言おうと口を開いたところで、私の両手を柔く包む、やさしい熱と温かい視線を感じた。

「わたしが傍にいます。眠るまでは勿論、眠った後もずっと」
「……ほんとう、ですか?」
「はい、お約束します」
「ありがとう、ございます……」

暗闇に引きずり込まれるような、眠りに落ちる寸前のどうしようもない恐怖に襲われても。私の身体の輪郭を繋ぎ止めてくれるようなやさしい熱が、心に巣食う醜い私にさえも寄り添ってくれるような気がした。

久しぶりに穏やかな眠りに落ちたその時の私は、知らなかったのだ。
寝ている最中の情けない顔をした女を、半助さんがどんな顔で見守ってくれていたのかを。
帰宅した先輩の気配にも気付かない程、熟睡してしまっていたことを。
半助さんの様子を見て、伝蔵さんが揶揄うように声をかけていたことも。

果たして、知らないままでいた方が幸せだったのか否か、未だに答えが出せていないままだった。