私の家は、忍術学園からも先輩の家からも離れた郊外にある、こじんまりとした一軒家だ。仕事のイロハを先輩から教わった末、いわゆるフリーのプロくのいちとして飛び回るようになってからは、長期的に滞在することもほとんど無かったけれど。

お休みの日は料理をしたり本を読んだり裁縫をしたりと一人で過ごすこともあれば、山田家へお裾分けをしに行くことも多い。だからこそ我が家に第三者がいるという状況が珍しくて、自分で招いた状況なのに不思議な感覚だった。

「半助さん」
「は、はい!?」

居心地悪そうに座る姿に声をかければ、びくりを肩を震わせる。伝蔵さんからは出歩いても構わない体調だと聞いていたし、先輩からは「連れて行ってあげなさい」とにこやかに送り出されたものだから、心配ないかと思っていたのだが。少々楽観的すぎただろうか。

「お夕飯、何が良いですか?」
「え! ええと……そうですね。名前さんが作られるものなら何でも」
「練り物以外、ですよね?」
「うっ……はい、仰る通りで」

先日おでんの差し入れに伺ったら、半助さんだけがとんでもない顔をして固まっていたことをよく覚えている。食べ物の好き嫌いを知る程に付き合いがある訳では無かったから、どうしようもないことではあったけれど。
……それでも、何故か。半助さんに手料理を食べてもらえないことが、ほんの少しだけ寂しいような、そんな気がしていた。

「好き嫌いがあるだなんて……みっともない、ですよね」
「いえ、お気持ちは分かりますよ。私も苦手なものはありますし」
「えっ!」
「あら、随分と驚いた顔をなさいますね?」
「いえ、その……名前さんは食べる所作がとてもお綺麗ですし、お料理もお好きなので。好き嫌いされるようにはお見受けしなくてですね」
「……。褒めても何も出ませんよ?」

かつて利吉くんから笑われたくらいには───馬鹿にして揶揄うような笑い方ではなくて、むしろ優しく一から教えてくれたのだけれど───酷い箸の持ち⽅をしていたのに。山田家の皆さんの動きを⾒よう⾒まねで再現すれば、案外すんなりと習得できたのが救いだったか。

幼い頃からずっと、⼈の真似をすることだけは上⼿かったのだ。山賊たちからも「技術を盗み取ることだけは上手い」と揶揄されていたくらいだ。
半助さんは、何気ない人の所作を褒められる程の優しさも教養もある人だ。育ちからして私とは異なる方なのだろう。

「そんな! わたしはただ名前さんを……」
「私を?」
「……名前さんを、素敵な方だなと、常日頃から思っているだけ、でして」
「それは……ありがとうございます……?」

さすがは喜車の術も巧みだと───相手をおだてて油断させる忍術だ───感動したのだが、何故だか半助さんは両手で顔を覆ったまま深く項垂れていく。
最近は山田家に顔を出す度、「お兄ちゃんから忍術を教わるのが楽しい!」と利吉くんがはしゃいでいたから、忍であった過去を隠してはいないのだろう。忍術を私の前で披露することに不都合があるとも思えないのだが。そんな風に首を傾げつつも、今夜の予定を脳内で組み立てていく。

「これから食材の買い出しに行きますけど、半助さんもいらっしゃいますか?」
「はい勿論! 荷物持ちはお任せください!」
「それではお言葉に甘えて、頼りにさせて頂きますね」

ふうわりと、以前よりも優しく笑うようになった顔を微笑ましく見つめる。山田家は、半助さんにとってそれだけ温かくて安心出来る居場所なのだろう。あの柔らかな空気に心を溶かされた覚えのある身として、つい共感と懐旧の念を抱いてしまった。

そんな半助さんと共に、ゆっくりと町の中を歩き、お買い物をしてからお夕飯を一緒に作り、代わる代わるお風呂に入ってから就寝の準備をする。

布団の上に座りながら、今日過ごした何気ない一日を思い返していた。そういえば、自宅周辺でこんなにも誰かと長く時間を共にするのは初めての経験だったかもしれない。先輩と過ごす際は、出来る限りご迷惑をおかけしないようにすべく、こちらから出向くことを心掛けていたから。

がらりと扉の開く音がした。恐る恐る風呂場から顔を出した半助さんが、手拭いで髪を拭きながら、入浴後特有の赤らんだ頬をぎこちなく動かして笑っている。
別に警戒されている訳ではないのだろう、と思う。かつて、他人とどういう態度で接すれば良いのか分からなかった頃の自分を思い出すから、困惑や緊張に近しい感情を抱いているのだろうと推察していた。

「名前さん、ちょうど良い湯加減でした」
「それは良かったです。しかし一つ、残念なお知らせがございまして」
「え!」
「……私、眠くないんです。一切、これっぽっちも」
「そうでしたか……。では、無理に眠らずとも良いのでは?」

すっかり呆気にとられた様子の半助さんが、ゆったりとした足取りで近づいてくる。既に敷いてあった隣の布団を掌でぽんと叩けば、一瞬ぎくりと肩を震わせながらも大人しく座ってくれた。

「だって、私が眠らないと半助さんは困るでしょう?」
「そんなことはないですよ……?」
「お願いしたじゃないですか。私の手を握って、一緒に寝てくれませんかと」
「……あの、名前さん。前にも申し上げましたが、あまり軽々しくそういうことは言わない方が」

そういうこと、が指す意味を正確に理解している自信はないが、無防備な姿を無闇に晒すなということだろう。かつて山で過ごしていた頃、骨の髄まで学ばざるを得なかった教訓だった。全身に怪我を負いながら名を捨てた半助さんならば、余計に身に染みて感じていることだろう。

「それならば問題はないかと。このようなお願いは半助さんにしか致しませんので」

先日の山田家にて熱を出して倒れた時、あまりにもよく眠れて驚愕したのだ。それこそ物心がついて以来初めてのことだったから。
氷ノ山にて倒れていた私を見付けてくれたのも半助さんだと聞き、更に感謝の念は尽きなかった。案の定、無意識の内に武器を向けてしまっていたと聞き、申し訳なさも募るばかりだったけれど。

山に捨てられてからずっと、常に気を張っていなければ生きることさえ出来なかった。それは睡眠中も例外ではなく、いついかなる時も敵襲に備えて全身に神経を巡らせてきた。くのいちとしての仕事を始めてからもその在り方を変えずに済んだから、むしろ楽に感じていたくらいだったのに。

だからこそ私は先日お願いしたのだ。「私の家で、私の⼿を握りながら、⼀緒に眠ってくれませんか」と。今度は明確に、意識的に安らかに眠れるように。

「……名前さん」
「はい」

半助さんが何故か再び顔を両手で覆っている。隠しきれていない耳が僅かに赤らんでいた。ちょうど良い湯加減だった、という言葉はどうやら真実だったらしい。

「少し、夜風に当たってきても良いですか?」
「ええ、どうぞ。今晩は穏やかな気候ですし、湯冷めの心配もないと思います。私も準備しますので」
「え! ……名前さんもいらっしゃるんですか?」
「ご迷惑でしたら遠慮致します。少し歩いた方が眠気がくるかもしれないな、と思いまして」
「いえいえ! とんでもないです! むしろ嬉し、い……です……」
「それは良かったです」

その言葉が嘘でないことくらいはすぐに分かったから、仄かに笑う。
互いに背を向けて、寝間着から外出用の私服へ一瞬で着替えた。衣擦れの音すらほとんど立てないのは、もはや習慣のようなものだった。くるりと振り返り、互いの準備が済んだことを知る。

「では、行きましょうか」
「はい。どこまでもお供します」
「ふふ。むしろ、お供するのは私の方だと思いますけれど」

家の戸に手をかけながら、ふと思いついて振り返る。半助さんの負担を減らし、私が無事に眠くなれるように、出来ることは全てしておきたかった。

「半助さん。手を繋ぎながら歩きませんか?」
「は、はい……。喜んで……」
「恐れ入ります。では改めて、参りましょうか」

互いの掌をそっと包むように、手を繋ぎながら歩いた。月明かりも風も無い、蒸し暑く曇った夜空の下、ぽつりぽつりと言葉を交わしていく。
今日お店で見かけた櫛が素敵だったとか、いつもより葱が少し安くてお得だったとか、最近はこんな料理を作ったのだとか。些細で何気なくて他愛ない雑談は、しかし一度修羅の道を選んだ女にとってはあまりにも眩しく、何故かほんの少し切ない気がした。

そして、私たちは共に光を見る。

家から最も近い小川に差し掛かった時、視界いっぱいに淡くも力強い灯りが数多く燈るのを、そっと眺めた。……蛍だ。ゆらゆらと幾度も点滅しては浮かび上がり、一つ一つの光が大きな街を形作るように舞い踊る。

それは花のようにも、家のようにも、空のようにも、畑のようにも、城のようにも、人のようにも見えた。かつて私が数多く踏み躙り散らしていった、尊く得難い日常の象徴を、改めてまざまざと突き付けられたような気がした。

「……綺麗、ですね」

半助さんが、目の前の景色を噛み締めるように呟いた。心なしか、握られた手に力が入っていく。私もまた、同じだけの力をそっと返した。

こんなにも鮮烈な光を灯しているのに、彼らはもうすぐ寿命で命が尽きてしまうのだ。いや、死ぬ間際だからこそ、こんなにも見る者の心を打つ光景を生み出せるのかもしれない。
素直に羨ましいと思った。かつて先輩と出会った時に散らす覚悟だった命を、私もいつかこうやって燃やし尽くすことが出来るのだろうか、と夢見てしまうくらいには。

「……名前さん、一つお尋ねしても良いですか?」
「……はい、構いませんが」

考え事をしていたからか、反応が遅れてしまった。反省しながら半助さんを見れば、いつの間にかその瞳にも温かな光が宿り、こちらを柔く見つめている。蛍の灯りが反射しているようにさえ思える程、その目はひどく優しい色をしているように思えた。

「名前さんは、どんな食べ物が苦手なんですか?」
「ああ。……そういえば、お話ししていませんでしたね」

これから先は、誰にも打ち明けたことのない話だった。苦手と言っても、半助さんのように冷や汗をかいて固まってしまう程の抵抗感ではなかったから。その上、あまり気持ち良い話ではなく、些末な事柄でもある。

「お恥ずかしながら、少しばかり……海藻が苦手でして」
「海藻というと、ワカメや昆布といった?」
「はい。全く食べれない、という訳ではないのですが……。ぬめりを帯びた食感を噛み締めると、思い出してしまうんです」
「……」
「……、血の感触を」

これだけ言えば伝わるだろう、と思った。あくまで推測でしかないけれど、半助さんが練り物を苦手にしている理由も、私に近しいものだろうと感じていたから。

「……なら、名前さん」
「はい、何でしょう?」
「今度、海藻を食べなければいけない時が来たら、いつでもわたしを呼んでください」

唐突な話に一瞬困惑するものの、きっと場を和ませようとしてくれたのだろう。

「ふふ、ありがとうございます。それなら半助さんも、忍術学園で練り物が出たら、私を呼んでくださいね」
「……名前さんなら当然ご存じ、ですよね」

半助さんが忍術学園の教師になろうとしていることは、既に知っていた。なにせ光栄なことに、先輩からも伝蔵さんからも「どう思う?」と相談を受けていた身である。
なにやら本人が浮かない顔をしていることは予想外だったけれど、気付かないふりをして話を続けた。

「はい。半助さんは先生に向いていると仰ったお二人のお言葉、私も全面的に同意しますから」
「……本当に、わたしが向いていると思いますか?」

沈黙が落ちる。その先に続く言葉は恐らく、「こんな後ろ暗いものを抱えた人間が務めるなんて」とか、「無垢な子どもたちに触れても良いのだろうか」とか。そのあたりだろうと推察できてしまった。

私は未だに、半助さんの出自も本名も存じ上げない。けれど、私が発した言葉の意味を即座に読み取れる程、その身体には重たいものが伸し掛っていることくらいは、既に分かっていた。

「はい、向いていると思います。半助さんは、自分の弱さに対して、誠実に向き合える強さをお持ちですから」
「わたしは……そこまで大した人間ではないですよ」
「そんなことはないと思いますけれど……。なればこそ、学園の子どもたちは、半助さんの背中から学ぶことが多いかもしれません」
「そう、でしょうか」
「完璧じゃないからこそ、落ちこぼれた人間を掬い上げられるのかもしれない、と。……少なくとも私は、そう思うんです」
「……完璧じゃないからこそ、掬い上げられる」
「はい。自分の欠点を真っ直ぐ受け止められる人は、他者の失敗も伸びしろだと受け入れられる。己の弱さに向き合える人は、誰かが躓いて転んだ時にも、隣で支えて手を差し伸べてあげられる。……山田家の皆さんと過ごす中で、私が学んだことです」
「……なら、名前さんも教師に向いていらっしゃいますね」
「え?」

本気で驚いて、つい声が出てしまう。そんな私を見つめる半助さんの目は、引き続き柔らかい色を宿していた。視界の隅で、ゆらりゆらりと蛍が光り続けている。

「こんな弱気になったわたし相手にも、こうして同じ目線に立って、優しく導いてくださるんですから」
「個人的に考えていたことを口にしただけ、ですけれど……。そう言って頂けるのは、素直に嬉しいものですね。ありがとうございます」
「こちらこそ。……本当に、ありがとうございます」
「いえ、お役に立てたならば良かったです」

そのまま暫し沈黙が続いた。ふと視線を外し、蛍が舞い踊る様を眺める。繋がった手から、半助さんの体温がじわりと熱く伝わってくるような気がした。

「名前さん」
「はい。何でしょう、半助さん」

名前を呼ばれて、自然と互いの視線が引き寄せられる。後から思えば───それはさながら、蛍のつがいが運命の相手に巡り会ったかのごとく。

「やはり、……とても、きれいですね」

その朗らかな笑顔が、真っ直ぐ私へと向けられる。先程も聞いた言葉を、先程も見た笑顔で告げられた、たったそれだけの瞬間でしかなかった筈なのに。

私の胸の内に、まるで無数の蛍が色鮮やかに舞うようだ、と思った。

その正体を見付けるよりも先に、私は自然と笑っていた。それはきっと。この夜を永遠に忘れないでいたいと、本能的に感じてしまっていたからなのだろう。