一睡もせずに迎えたまろやかな朝の中で、太陽に目を灼かれるのが好きだった。

たとえ己の奥底に蠢く言の葉たちを、どれほど丁寧に飾り付けていたとしても。
そこに辿り着くまでに、途方もない時間をかけていたとしても。どれだけ己の身を削り、全身全霊を込めて書いていたのだとしても。
今まで積み上げてきた私の全てが、あの柔らかな光を浴びた瞬間に、ゆるりと霧散していくような感覚がした。だからこそ私は、「もっともっと書かなければ」と激しく急き立ててくる衝動に、延々と突き動かされているのだろう。
この焦りと喜びを感じる時にだけ、己の生を実感できるような気がしていた。

もういっそのこと、いつ死んでも構わないと思うくらいには、一瞬一瞬に魂を込めながら書く。それが、小説と出会ってから無限に繰り返してきた私の在り方だった。

「名前」

それは、私の名だった。
物語を紡ぐためだけに全てを投げ打つ怪物が、人の形を取り戻すために必要な音の塊だった。

背後から伸びてきた冷たい指先が、私の頬を撫ぜる。それは決して慈しむための動きではなく、獣を宥めるような色を宿していた。爪先から頭の天辺まで無尽蔵に突き抜けていた情動も、潮が引くように徐々に収まっていくのを感じる。

「名前」

そして、ピースがカチリとハマるように、私の全身からだらりと力が抜けていった。
声の持ち主は背後に立ったまま、私の顎を人差し指で持ち上げる。ピタリと目が合った。相変わらず、月の光を神が手ずから織り上げたような繊細な瞳だった。目を細めてその光を味わっていたつもりが、何故か急速に近付いてくる。

「純く、……ッ」

唇に熱が触れた。幾度となく交わしてきたそれに、つい瞠目する。一度離れて、再び距離を詰めようとしてきたその口に向けて慌てて掌を差し入れた。
不満げにジッと、無言のまま見詰められる。何故かこちらが悪者扱いされていそうな表情だったからムッとしてしまった。

「私、徹夜明けなの! せめて歯を磨かせて!」
「……僕は気にしないけど」
「私が気にするんです!」

ぐっと手で顔を押し返しても、筋肉の塊たるしなやかな身体はびくともしない。かつてトップアスリートとして輝いていた男性に対して、運動なんてマトモにしたことのない貧弱な女が勝てる筈もなかった。
しかしこちらも引く気はないぞ、という思いで攻防を続けていれば、やがて彼の方が観念したかのようにフッと力を緩めた。また同様の事態に陥らないよう、素早く立ち上がってから洗面所へと向かう。さすがについてくる気配はなかった。

「名前」
「なに、純くん」

背を向けたまま、その儚い声に応える。もうすっかり私は私として、ズボラで怠け癖の強い負けず嫌いな人間に戻ってしまっていた。急激に押し寄せた睡魔と食欲で思考は覚束ないし、精神と肉体が分離したかのようにチグハグなまま立っている。
けれど、私を辛うじてこの世界に繋ぎ止めてくれるその声を聞けば、ささくれ立った心も自然と凪いでいった。

「待ってる」
「……うん」

自分勝手なのはお互い様か、と肩をすくめながら顔を洗いに歩き出す。最低限の身支度を整えた後に戻れば、彼は先程まで私が座っていた椅子に腰かけながら、ぼんやりと宙を見つめていた。まさに先程、キスをしていた瞬間を彷彿とさせる姿勢だな、と気付いてしまう。彼が何を求めているのか、自ずと悟るくらいには私たちの付き合いも長くなっていた。

ゆっくりと近寄ってから、今度は私が彼を見下ろした。ピタリと目が合う。鎖骨から喉仏にかけてのラインを確かめるように指を滑らせれば、月を宿した瞼がそっと震えた。
意外と身体の反応は素直なところが可愛いんだけど、と微笑みながら目を閉じる。ほんの少しざらりとした両頬に手を滑らせながら、今度は私からキスをした。

一呼吸置いてから、触れるだけのそれを終えようとする───と、再度私の顔をガッと掴まれる感覚がした。

「え」

離れられない。被捕食者のような気分になりながら、私は情熱的にも機械的にも思えるその口付けを享受する。熱くて長い舌が、私の輪郭を確かめるようにじっとりと舐っていった。それなのに一方的に蹂躙するような乱暴さは無く、こちらの準備が整うまで待っていてくれる優しささえ感じる。
ギュッと胸が詰まるような心地のまま舌を絡めれば、待ち構えられていたように吸われて、舐められて、撫ぜられる。初めて交わした時はもっと肉食動物のようだったのに、今となっては蝶を捕らえた蜘蛛のような狡猾ささえ感じる。

かつては、こんなキスをするような男だなんて想像すらしていなかったのに。

「名前」

涼しい顔で離れていく様を、息を切らせながら見つめる。相変わらず私を呼ぶ声も冷然としていたけれど、どこか縋るように彼の指先が私の袖を掴んだ。

「純くん、満足した?」
「してない」
「そっか。じゃ、私は寝るから」
「僕の話、聞いてた?」
「そっちこそ私の話聞いてた? 眠いの、寝たいの」
「僕はもっと名前に触れたい」
「…………」

顔も声も涼しいくせに、紡ぐ言葉だけが的確に私の呼吸を奪う。ずるいなあと思った。そんなことを言われてこれ以上拒否なんて出来る訳ないのに。けれど、襲い掛かる睡魔を呼び起こした本人に請われても、わざわざ応える義理がないのもまた事実だった。

「なら純くん、一緒に寝てよ。私のこと抱き締めてて良いからさ」
「……随分と我儘だね」

いやどの口が言うの、とは思ったけれど、相手は情緒が未発達でとんでもなく不器用な夜鷹純だ。いくらキスが上手くなろうが、幼子のごとく純粋に捻くれてしまったままの、どこまでも可愛いひとだった。

「うん。知っての通り、私って超ワガママなの。だから、純くんが甘やかしてくれる?」
「……仕方ないな」

瞬く間に立ち上がったかと思えば、パッと漆黒の身を翻していた。きょとんとその姿を見つめていたら、いつの間にか全身がふわりと宙に浮かんでいる。
今まで何度も抱き上げられてきたし、彼の両腕にはこの上ない安定感があるとはいえ、事前の予告無しにやられると心臓に悪い。

「あのね純くん! 何回されてもビックリするんですけど!」
「うん。名前はいつも僕に乱されてればいいと思う」
「……無茶言うなあ」

ほんと、仕方の無いくらい可愛いひと。眉を下げながら真正面からその顔を見つめれば、何を思ったのか再び唇が触れ合っていた。

友人でも恋人でも私たちは、こうしてまたか細い糸を手繰り寄せるように身を寄せ合って、熱を分け合っていくことしか出来なかった。

けれど私は知っていた。夜をまるごと流し込んだ太陽のようなあなたを、これからもきっと、どうしようもなく愛してしまうのだろうと。