朝早くに吾童⼭へ⾜を踏み⼊れた時、何故だか懐かしい感覚がした。雪⼭登⼭など経験したことは無い筈だけれど、もしかしたら失った記憶の中に⼿がかりがあるのかもしれない。

肌を刺す空気は冷たいものの、肺いっぱいに吸い込む空気は清廉で神聖に思えて、ひどく気持ちが良かった。きっと夜になれば星が綺麗に⾒えるのだろう。その光景はきっとかぐやさんが喜ぶだろうし、⼣神くんも夜空を⾒上げるのが好きだと知っていた。いずれ機会があれば共に来たいなと呑気なことを思いながらも、着実に⾜を進めていく。

坂を最後まで登り、⽊製の長い吊り橋を渡り切った後。ようやく⽬的地が⾒えて安堵した。

───葉桜院という名の、霊能⼒の修⾏場だ。

⽇本国内でクライン王国に関する情報を集めるならば、倉院の⾥か此処だろうと⽬星をつけていた。だが里は基本的に部外者を受け入れないらしいと情報を掴んだため、事前にアポイントメントを取り付けて今回の本命へとやって来た訳である。

深く大きく息を吸い込んでから、入口の門をくぐろうと足を踏み出した瞬間。前方から誰ががやってくる気配がした。
真っ白な頭巾に紫の法衣、胸元に見える大きな勾玉。そして何よりも、全身を覆う清廉な空気が印象的な女性だった。

きっと彼女こそがお目当ての方だろうと、過去の公判記録を頭の中で洗いながら確信する。だからこそ私は、お待たせしないよう素早く近付いてから深々と頭を下げた。

「こんにちは。本日お約束しておりました、苗字名前と申します」
「苗字さん。遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」

彼女は恭しく頭を下げてから、ゆったりと柔らかく微笑んだ。まさしく桜が綻ぶような可憐な笑みだと感じる。圧倒的に私に欠けているものをお持ちの方だ、と思った。

「初めまして、葉桜院あやめと申します。少しでもお力になれれば良いのですが」
「優しいお言葉、痛み入ります。会ってくださっただけでも大変有難い限りですので」
「ここまでいらっしゃるのは大変だったでしょう? ぜひ、中でお休みくださいませ」
「恐れ入ります」

大層不思議なことに、葉桜院の敷地を進む度に身体の芯が温まるような感覚がした。まるで、欠落した記憶の中にいる自分が喜んでいるような、懐かしんでいるような、そんな気がしてしまう。
だが此処に来るのは本当に初めての筈だった。……欠けた記憶はクライン王国に関するものだけの筈だから、それは確かなのだが、と思考を巡らせていく。

そのまま客間に通されて、温かいお茶を飲みながらほっと息をついた。住職である毘忌尼さんは所用のため不在であり、他に修行者もいないとのことで、彼女と私の二人きりでじっくりとお話が出来るらしい。正直、大変有難い。

「苗字さん。クライン王国に関すること、なのですが」
「はい」

僅かばかり翳った顔を見て、おおよその返答を察する。

「申し訳ありません。私も、一般的に知られていること以上の知識はあまり持ち合わせておらず……」
「いえ、謝らないでください。その事実を知ることが出来ただけでも、充分な収穫ですから」

事実、綾里家の血縁者の方から直接お話を伺えただけでも満足だった。彼女の過去を考えると、検事と一対一で会うだけでも相当な覚悟が必要だっただろう。感謝を込めて頭を下げる。

「ですが、一つだけ気になったことがございまして」
「はい、何でしょうか?」

確かに彼女は「あまり知らない」という言い方をされていた。つまり、心当たり自体はあるということなのかもしれない。

「苗字さんは時折、耳が鋭くなることがあると。お手紙にはそのように書かれていたかと思うのですが」
「……ええ。何の前触れもなく、周囲の音や景色を拾い上げてしまう時があるんです。大量の情報が、一気に頭の中に流れ込んでくるような感覚で」

事前に電話もお手紙も差し上げていたから、おおよその内容は把握して頂いているだろう。しかし当事者にもかかわらずこの事象は何度経験しても言語化が難しく、理解が追い付いていないのも事実だった。
彼女は僅かばかり逡巡したような顔をした後、意を決した様子で話しかけてくる。

「苗字さん。手がかりになるかは分からないのですが。……ダマラン、という弦楽器はご存じでしょうか?」
「……いえ、記憶にはないですね。もしかしてそれは、クライン王国の楽器なんでしょうか」

何故だか耳の奥にこびりつくような名前だと思った。そもそもまともに楽器自体に触れたことが無い筈だから、頭を捻るばかりだけれど。

「はい、古くから伝わる民族楽器だと聞いております。それも、王族が関わる行事には必ず用いられるのだとか」
「成程。……個人的な調査では見当たらない名前でした」
「ただでさえあの国に関する情報が規制されている筈ですもの。私も、かつて里で絵本を読んでいた程度の知識しかないのですが、確かこんなことが書いてあったと思うのです。……過去を見通す巫女を支えた、第三の目を持ったダマランの演奏者がいる、と」

彼女の口から、可憐な声でそれが紡がれた瞬間。脳髄の奥底がギリギリと蝕まれるような感覚に陥った。これが焦燥なのか、憤怒なのか、歓喜なのか、自分でも判別がつかぬ程に激しい感情の奔流に晒されて、一瞬目の前がチカチカと明滅していく。過去の欠落した自分が何かを叫んでいる、と。本能的にそう痛感した。

「……、さん! 苗字さん、大丈夫ですか!?」

頭を抱えて蹲ってしまった私の肩を、彼女が悲痛な面持ちでさすってくれていた。その柔らかく温かな指先に救われるような心地となり、そっと目を細める。最近は周囲の人々に同様の心配をかけてばかりで、ひどく申し訳ない限りだった。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません……。ですが、自分の今の反応を見るに、その情報は間違いなく当たりだと思うんです。他に何かご存じではありませんか?」
「……。出来るだけ思い出してはみたのですが、幼い頃に読んだきりだったので……」
「……大変貴重な情報を得ることが出来ました。本当にありがとうございます」
「少しでもお役に立てたのならば、私も嬉しいです」

本来ならお話を伺ったらすぐに帰る予定だったが、貧血のようにふらついてまともに立てそうになかった。いつも以上の症状が出ており歯がゆいが、有力な情報を得られたことで安心しているのかもしれない。
彼女が私の背中をさすりながら心配そうに見つめた後、ゆったりと口を開く。

「苗字さん、もし良かったら本日は泊まっていかれませんか?」
「そんな……ご迷惑じゃありませんか?」
「元々ここは修行場ですもの。お客様をお迎えする準備は常に整っておりますし。今晩は一人で過ごす予定だったので、一緒にいてくださると心強いですから」

こちらに気を遣わせないような言い回しをしてくださる様子を受けて、改めて彼女の人となりを知る。第一印象の通り、とても優しく温かい方なのだろう。
彼女の生い立ちは公判記録から大まかに知っていた。倉院の里で過ごした幼少期は、両親から冷遇されていたため恵まれた環境ではなかったと。そんな苦い思い出を振り返り、見ず知らずの人間の力になろうとしてくれたことへの感謝を、私もじっくりとお伝えしたかった。

「それでは……お言葉に甘えさせて頂きます」
「はい、ぜひ。準備をしてまいりますので、少々お待ちくださいね」

たおやかに身を翻した背中を見送ってから、壁にもたれ掛かって頭を冷やすように俯いた。自分の記憶や心さえも不透明な現状が情けなくて堪らないが、それでも着実に一歩ずつ己の過去に近付いているような実感があった。
中でも特に、ドゥルクという名の男性と、ダマランと呼ばれる楽器が鍵を握っているような気がしてならない。今はまだ理由も何も分からないけれど、これだけの手がかりさえあれば現地での調査も何とかなりそうだった。王泥喜さんと葉桜院さんには感謝してもしきれない。

この間に、夕神くんに進捗報告をしておくことにした。日帰りの予定が宿泊に変わったことも伝えておかなければ、真面目な彼は心配してくれるかもしれないから。さすがに電話をするだけの体力はないため、メールだけ送っておくことにする。

「苗字さん、お食事はカレーでも宜しいですか?」
「ええ、勿論。お手伝いいたします」
「……いえ、未だに顔色が宜しくないですもの。ご無理なさらず」
「……申し訳ありません、恐れ入ります」
「謝らないでください。私、嬉しかったんですよ」

微笑んだ彼女が、ゆったりと頭巾を外していく。艶やかな黒髪が美しく眩しかった。私よりも歳上の筈だが、そんな年齢差も感じさせない程に若々しい方だと感じる。

「こんな女のことを、未だに頼ってくださる方がいらっしゃって。……既に己の罪も償ったとはいえ、世間から消え去るべき存在だと思っていたので」

その儚い顔に、暗い影が落ちた。そんな表情をさせてしまったことに対する申し訳なさと同時に、私の心にもどろりと夜闇が流し込まれるような心地がする。

「……お気持ちは分かります。私も、社会から消えてしまいたくて此処を訪れたのかもしれません」
「……苗字さん」

驚いたような瞳に見つめられるのが分かったから、応えるように視線を交わす。初めてお会いした方に本心を曝け出すなんて、傍から見れば愚かしい行為かもしれない。それでも私は微塵も後悔などしていなかった。むしろ、この瞬間をどこかで望んでいたような気さえした。

「己の過去を知りたくてクライン王国に行くと、事前に申し上げたかと思います。……けれど私の真の目的は、その先にありまして」
「その先、と申しますと……?」
「この世で最も大事なひとに、私を忘れてもらいたいと、……そう願っています。このまま私が日本にいたら、きっと彼らの邪魔になってしまうので」

彼女からすれば、随分と抽象的な話で何を言っているのか分からないだろう。しかしそれでも、深く納得したような顔で頷いてくれた。

───私は、夕神くんと心音さんの邪魔をしたくないのだ。誰よりも美しい夕神くんには、彼が命を賭けて守り抜いた、あの向日葵のように明るく美しい微笑みだけを見ていてほしい。そう本気で思っているから。昔も今も本当は、私のような存在が隣にいては駄目なのだと、痛い程に理解しているから。

「苗字さんのお気持ち、分かる気が致します。……いえ、分かるという言葉では足りない程に、不思議と心の奥底で理解できたような、そんな感覚がございます」
「私も、……葉桜院さんならば何故か理解してくださるような気がしていました。不思議なものですね」

そもそもこの場所だって、夕神くんから渋い顔をされるくらいには検事局から距離が遠く、なかなかに辺鄙な土地だった。今回は運良く有力な手掛かりを掴むことが出来たけれど、空振りに終わる可能性の方が圧倒的に高かったのだ。
それでも私は、論理的で建設的な理由も無いままに此処へ来ることを決めた。それはほとんど本能に近い決断だった、と記憶している。

「もしかしたら、ご先祖様のお導きなのかもしれません。……せっかくの御縁ですもの。名前さん、とお呼びしても宜しいでしょうか?」
「はい、勿論です。では私も……」

同性の友人など作れた試しがない身からすると、呼び方を変えるだけでも相当な勇気が必要だった。こちらの緊張が伝わったのか、彼女は微笑ましそうにくすりと笑ってから、そっと私の両手を取る。

「ぜひ、あやめとお呼びください。名前さん」
「では……あやめさん」

嬉しそうに笑ってくれた様を見ると、胸の中に草原が広がるような心地となった。まさに名前の通り、凛とした花のような美しさを持った女性だと思う。甲斐甲斐しく食事や寝床の準備までしてくださり、更に感謝の念が募った。

お風呂に入り就寝の準備を終えた頃には、すっかり体調も元通りになっていた。休息の時間を充分に取れたお陰でもあったし、あやめさんとの出会いにより精神的な余裕が出たからだろう、とも踏んでいる。

その晩、私たちは睡眠を忘れたかのように喋り続けた。互いの事情を察していても無理に踏み込もうとしない───と言ったら自画自賛になってしまうかもしれないが、他ならぬ彼女がそう口にしてくれたので───他人との距離の取り方が似ているからだろうか。普段は表に出さない不安や苦悩も、自然と表に出すことが出来た。

夕神くんへの想いも、己の出自に対する疑心も、今後の未来に関する後ろめたさも。私が何を吐き出しても懐深く受け止めてくださったし、決して口外しないと約束してくれた。その誓いを躊躇いなく信じることが出来たし、私もまた、あやめさんが打ち明けてくれた数々の繊細な想いを墓場まで持っていくと誓約する。

「名前さんは、とてもお優しい方ですね。……つい安心して何でもお話ししてしまいます。初めてお会いした気がしないくらいに」
「光栄です。……もし、私がクライン王国に関係しているのだとすれば、あやめさんとも元々御縁があったのかもしれないですからね」

綾里家は、クライン王国にルーツを持つ一族だ。私の出自は未だに想像も出来ないが、場合によっては血縁関係があっても不思議ではないだろう。

「あら。では、……私もようやく、この身に流れる血を慈しむことが出来るかもしれません」

心底嬉しそうに、あやめさんは笑ってくれた。嬉しい、と素直に感じる。両親の記憶さえ朧気な私は、肉親に対して複雑な感情を抱くあやめさんに対して、本当の意味で寄り添うことは出来ないだろう。だがそれでも、彼女を理解しようと努力することは出来る。

私は物心がついた頃から、何かに急き立てられるようにして検事を目指していた。その目的を果たした後は、夕神くんを追いかけて、かぐやさんに構ってもらい、御剣さんの下で働き続けてきた。成歩堂さんや心音さん、王泥喜さんをはじめ、検事局の先輩方にも大変お世話になったし、業務を遂行する上で問題のない関係性は築けてきただろう。

今までの私は、誰かの代わりにしかなれなかった。いや、代わりになれた等と考えるのは烏滸がましいかもしれない。だが間違いなく私は、常に代わりの利く存在だった。
夕神くんには心音さんがいればいい。かぐやさんは希月真理さんがいて───今は実弟の夕神くんが常に面会に行ける状況だ。検事局には既に牙琉検事や狩魔冥検事、一柳検事など優秀な人材が揃っており、私がいなくとも十分に仕事は回る。
弁護士の皆さんにとっても、淡々と詰める私のような検事は苦手な部類だろう。

今日だって、あやめさんがいなければ私は一人で倒れて何も出来なかったに違いない。仕事をするのにも支障が出てしまう程のコンディションならば、夕神くんの傍にいたって何の役にも立てない。
そもそも、最愛の男の子と心音さんとの間にあった蟠りが解消された今、私は完全に邪魔者でしかなかった。その事実を認識していたにもかかわらず、ただ夕神くんの傍にいたいからという理由で今の今まで事態を先送りにしてしまっていたのだから、……現状は、その罰なのかもしれない。

だからこそ。あやめさんは、私を唯一無二の存在として扱ってくれていることが本能的に理解できたからこそ、こんなにも泣きそうな気持ちになるのだろうか。替えの利かない存在として私を認識してくれるひとがいるという事実に、情けなくも救われてしまいそうだった。

翌朝。気付けば私たちは、布団の上で並んだまま寝ぼけまなこを擦っていた。お互い羞恥心を隠すように身支度を整えて、協力しながら朝ご飯の準備をする。
気付けば、クライン王国に旅立つまで残り数日まで迫っていた。渡航にあたっての最終確認もしなければならないから、さすがに今日は早めに帰らなければならない。しかし心臓の奥がじくじくと痛む程には寂しさを覚えていることを自覚し、咄嗟に胸を抑えてしまう。

「そういえば名前さん、一つご提案があるんですが」
「提案、ですか……?」
「はい。……もし良ければ、私と文通をしてくださいませんか?」

まるで思春期の少女のような会話に、自然と胸も躍る。学生時代は、こうやって人とコミュニケーションを取るよりも検事になるための勉強を優先してきたから、こんな経験は初めてだった……と思う。
きっと私は、周囲から見れば犠牲にしてきた者が多い不器用な人間なのだろう。それに対して引け目を感じたことは無かったのだが。

「……私で良ければぜひ」
「ありがとうございます。お恥ずかしながら、未だに携帯電話も持ち合わせていないものですから……」
「私もプライベートな用事ではほぼ使わないので……。それでは、向こうに到着したら住所をお伝えするための手紙を書きますね」
「まあ! お待ちしております」

自然と目線が合って、ほっこりとした空気が流れる。本当は、日本に未練など残すべきではないと理解していた。けれどあやめさんは、もし私がクライン王国から戻らなくとも責めることはないだろう、とも感じていた。出会ったばかりなのに不思議な方だ、と夢見心地に考える。



「名前さん、どうかご達者で」

別れ際、真剣な顔でゆっくりと手を握ってくれた熱を、忘れないでいたかった。

「あやめさんも、どうかお元気で。……幸せになってくださいね」

もう二度と会うことが無いかもしれない友人を惜しむことくらい、こんな自分にも許されるのだろうか。切なげに儚く笑う彼女の瞳の中で、私は何故だか、子どものように泣きそうな顔をしているように見えた。