世界一ひどい男の話をしよう。

それは、神をその肉体に宿した英雄。他人の思考まで覗き見る千里眼を得た弓兵。孤独である運命を選び取った、どこまでも寂しがり屋なひとだった。



古ぼけた壁に囲まれた小さな部屋には、申し訳程度に整えられたベッドが鎮座している。夜の帳が下りて薄暗くなった室内を満たすのは、貧相で野暮ったい娼婦の呼吸のみ。他人に吐き出す愚痴すらも持たない女は、今日もまた自身を道具のように扱う男に抱かれるだけだった。

未来のない自由を厭うたことはない。生にも死にも特別執着がある訳ではない。それでも、仕事開始を告げるノックに僅かな期待を感じ始めてしまうのは、きっと。

「ようナマエ、元気だったか?」
「……英雄様は、余ほど暇なのね」

裏路地のこじんまりとした娼館に足繁く通うのは、この国では知らぬ者がいない大英雄───アーラシュその人だ。

彼との関係が始まったキッカケは運命的なものではなく、ただの偶然だった。一年ほど前、やけに身なりが清潔な美青年が、商人に騙されそうになっているのを見かけたことがあった。世間知らずの高貴な御方が偶然迷い込んだだけならば、自業自得であるため放置するつもりだったのだ。

しかし、商人に対してやけに友好的な態度を取る男の笑顔を見て、嬉しそうに身振り手振りを交えて話す声を聞いて、何故だか放っておけなくなった。

しかし結局、女は商人を言いくるめることに失敗し、二人して必死に逃げ回る羽目になってしまった。全力で走り気が立っていたこともあって、彼が国の英雄とも知らず叱り付けてしまったのだ。

「こんな場所で見知らぬ人に話しかけるなんて非常識よ。もっと自分を大切にしなさい。これに懲りたら二度と無茶な真似はしないこと。分かった?」
「…………、ああ。分かった。お嬢さんの名前は?」
「……? ナマエ、だけど」
「そうか、ナマエ。これから毎日会いに行ってもいいか?」
「あなた人の話聞いてた!?」

その翌日から、男は隙あらば娼館の顧客として顔を見せるようになった。生きるために身体を売る女を貶めることなく、その想いを真っ直ぐに届けてくれるのだから、多少気持ちが絆されるのも仕方ないというものだろう。

「面倒なことに、男は惚れた女には毎日会いたいものなんだ。悪いな」
「……馬鹿みたい。お金はもっと有益なことに使った方が良いでしょうに」

彼ほどの立場と容貌ならば、他にいくらでも女がいたって不思議ではない。娼館に来ているというのに、一向に手を出してこないのもそのためだと考えている。

こんな館には勿体ない程に金を積んで、学の無い女と夜通し語り明かすだけの夜。決して愉快ではないだろうに、男はいつだって瞳を輝かせて、蕩けたように柔らかな笑みを見せた。

「なあナマエ、今日も面白い話を持ってきたんだ。聞いてくれるか?」
「……、ねえ」
「ん?」
「また私を抱かないの?」

男は柔和な笑顔を崩さないまま目をすっと細めて、女の無造作な髪を豪快に撫で付ける。

「無理強いはしたくないんだ。お前が好きだから」
「私には仕事をさせる価値も無いって?」
「いや、単に俺の気持ちの問題だ。だからいつか───俺になら身体を預けていいって、ナマエが心から思えるように全力で口説かせてくれ」

男と言葉を交わしていると、女は勘違いしそうになった。己は彼から愛されるだけの価値があるという幻想で、胸が掻き乱されていく。

「私じゃあなたの寂しさを埋めることは出来ないのに?」
「それに気付いてくれたのは、お前が初めてだって知ってるか?」
「……知らない」

だろうな、と笑いまじりに口にしてから、男は身体に纏っていた鎧を外してベッドに寝転がった。無防備に投げ出された太い腕を枕にしながら隣に並ぶと、男は少年のように無邪気な笑みを見せる。

もし己が英雄を狙う刺客だとしたら、こんなにも絶好の機会はないだろう。

「私は、あなたなんて嫌いだもの」

彼の心を占めるのは己ではない。それはこの国に生きる民であり、彼が仕える偉大なる王だった。それが当然で、本来ならばこうして交流を持っていること自体が間違っているというのに、女は身分不相応な願望が胸の内に広がっていくのを感じていた。

出来ることならば、二度と期待など抱けぬように手酷く扱ってほしかった。けれど、男は決してそのような結末を選び取らないのだろう。

「それじゃ、元気でな。ナマエ」

朝になって別れる時、男は決して次に会う約束を取り付けようとしない。他の男と交わるなと言ってこない。だから女は、男と共に過ごす夜が泡沫の夢でしかないのだと思い込むことが出来た。

粗末なベッドに一人で身体を横たえる度、女の身体の隅々にまで寂寞が満ちていく。男と出会うまでは、この気持ちに「寂しい」という名前があるだなんて知らなかった。男と出会わなければきっと、「嬉しい」ことも「楽しい」ことも経験することなく、ありふれた死を迎えられたのに。



だからこそ、男が戦争でその身を散らしたのだと知った時も、女は決して泣かなかった。最後の最後まで孤独で在り続ける道を選んだことに呆れこそすれ、その生き方を礼賛なんてしてやるものかと決意した。

男を英雄だと崇める国民達が彼の勇姿を語る横で、女は一人でひっそりと、哀しみが滲んでいた男の横顔を弔っていく。

「あなたは聞き分けがないし無茶ばかりするし、本当に不器用なひとだったわね」

暗闇に浸りかけた部屋の中、女は窓辺に置いていたランプにそっと明かりを灯す。

「私なんかに構っていて後悔しなかった?」

返ってこない言葉に苦笑してから、女は夜空の輪郭をなぞるように窓枠に手を添えた。心も身体もすっかり冷え切ってしまっている。二度と重なることのない体温の残滓を、無意識に求めてしまっていた。

「今度はもっと、あなたに相応しい素敵な女の人と恋をした方がいいわ」

ぽつりぽつりと現れ始めた星の光を見詰めた後、女はその内の一つに口づけをするように瞳を閉じる。

淡く慎ましかった筈のこの想いは、いつの間にか心臓を喰い破りそうな程の激情へと変貌していた。しかし、彼がまだ生き続けていたとしても、女は直接伝えようとはしなかっただろう。

己を省みないくせに欲張りな男の生き方を邪魔してしまうくらいならば、たとえ身を焦がすことになろうとも墓場まで持っていく覚悟はあった。

「───アーラシュ。どうか幸せになって」

女の精一杯の告白は、夜が滲む空気へと静かに溶けていく。名前を与えられない星々でさえこんなにも美しい輝きを放つのだから、きっと男は何よりも強く雄々しい光を湛えているのだろう。後世にまで語り伝えられる程の英霊となるのだろう。

もしも再び出逢える時が来たならば、男が抱えていた寂しさにもっと触れてみたいと思った。孤独ばかりを選ぶ独り善がりな性格を叱り付けて、母のように抱き締めてあげたいと願った。

隙間一つ無かった筈の室内に、温かな風がそっと吹き抜ける。その感覚に身を任せながら窓に額を預ければ、目の奥から熱い何かが込み上げてきた。

嗚呼。あなたが散った後の世界でさえ、夜空はこんなにも美しい。