女が最初に感じたのは、心の臓を優しく撫でるような温かさだった。それは停止していた己の時が再び巡り、身体に熱が通い、魂に潤いが満ちていくような感覚。やがてゆっくりと瞳を開き、命が潰える直前まで必死に唱え続けた願いを胸の奥に灯した。

目の前では、精悍な顔つきの少年が力強く微笑んでいる。意思の強さが滲んだ瞳、周囲を惹き付けてやまないであろう柔らかな笑顔。そして、その奥に隠れる孤独と寂寞。 彼に似たマスターに仕えることに運命めいたものを感じつつ、女はそっと頭を垂れた。

「サーヴァント、キャスター。恐れながら馳せ参じました。ナマエとお呼びくださいませ。よろしくお願い致します」
「うん、よろしく。ナマエ」

胸中で渦巻いていた複雑な感情がぱっと霧散する程の驚きによって、女はきょとりと瞳を瞬かせる。まさか、あの大英雄様と同じくらい人懐っこいマスターに出会えるとは思わなかったのだ。

「ナマエは美人なお姉さんって感じだね」
「え?」
「あ。違うんだ、これはセクハラとかじゃなくて! ただ単に俺の素直な感想というだけで!」

頬を紅潮させながら慌てふためく様は、年相応のあどけなさがあって可愛らしい。女は思わず笑い声を零していた。

「マスターはとても純粋な方なんですね。安心致しました」
「あはは。俺は、まだまだ知識も浅い未熟なマスターなんだけど。出来る限り皆の期待に応えたいし、皆のことを知りたいと思ってる。だからこれからは、ナマエのこともたくさん教えてほしいんだ」

痛い程に真っ直ぐな瞳が女を見詰める。その美しさは、太陽の陽射しを受けて光り輝く湖面のようだった。

「はい、マスター」

己がサーヴァントとなったのは身分不相応だと感じていたが、この少年の行く末を見守っていきたいという思いは、確かに女の胸に芽生え始めていた。

「ありがとう。うちにナマエと同郷のサーヴァントがいれば良いんだけどな」
「お気遣いありがとうございます。……つかぬことを伺いますが、こちらに弓兵として名が知れた方はいらっしゃいますか」
「うん、アーチャーならたくさんいるよ。もしかして、誰か知り合いだったりするかな」
「昔お慕いしていた方が、私の国では名の知れた弓兵だったもので。もしかしたらと思ったのですが」
「えっ」

女は自らの未練がましい言動に苦笑しつつも、何やら唸っている様子のマスターを見守っていた。他のサーヴァントに比べて即戦力にならないであろう己にも、こうして真剣に向き合ってくれる少年の思いが何より心に沁みた。

「そういえば、前にどこかでナマエの名前を聞いたような」
「あら、本当ですか? 古代ペルシャの昔話まで把握されているなんて、マスターは勉強熱心なんですね」
「古代ペルシャ……? あっ、そうだ、アーラシュ!」
「…………。やはり、彼は此処にいるんですね」
「うん。確か今日は訓練室にいる筈だから、すぐ会いに行こう」

少年は、どこか泣きそうな顔で女の手を取った。男がこの少年にどのような話を伝えていたかは不明だが、きっとマスターの脳裏には感動的な再会をする光景が浮かんでいるのだろう。だが女の心臓には、マグマのごとく熱く煮えたぎる激情が滲んでいる。

それはすなわち怒りであり、憤怒であった。

「アーラシュ!」
「おうマスター。ちょうどいいところに……」

自動で開く透明なドアに目を白黒させるよりも前に、女は部屋の中心に佇む英雄に向かってツカツカと歩み寄った。ぽかんと口を開きながら唖然としていた端正な顔が、徐々に甘く柔和な色を帯びていく。嫌という程に見慣れた笑顔は、相も変わらず女の胸を熱く焦がした。

そして、ついに手の届く距離にまで至った瞬間。男が唇を開こうとした時を見計らい、女は渾身の張り手をその頬に喰らわせる。バシンと乾いた音はしたものの、筋肉質な男の身体は微動だにせず、丸く見開いた瞳を女へ向けるばかりであった。

己の膂力では到底敵わないという事実が無性に悔しく、女は胸に秘めていた想いを全力で叫び出す。

「私は昔から、あなたの独り善がりなところが大嫌いよ!」

一言だけ置いてから、女は足早にその場を立ち去っていく。

───彼女の堂々とした背中はかつてと同様に小さく、何よりも眩しく見えるとアーラシュは思った。

「悪いなマスター。用事はまた後でもいいか」
「勿論だよ。あの、俺が悪いことしちゃってたら本当にごめん」
「いや、俺の責任だから気にしなくていい。惚れた女の心も捕まえられずに、お前のサーヴァントを名乗ることは出来ないからな。少し行ってくる」

しょぼくれた少年の頭をがしがしとかき回してから、アーラシュは勢いよく駆け出していく。

彼女の名が神話の一節に刻まれていると知った時から、何れこうなることは理解していた。 眩しいほどに真っ直ぐで、焦がれる程に優しいその心を傷付けてしまったことを悔いつつも、一方でアーラシュは彼女から叱られたことに喜んでしまっていた。

彼女の叱咤は思い遣りに溢れていて、どうにも自分には勿体ないと感じてしまう。



「やっぱり! とても可愛らしいわ」

頭を冷やすために飛び出した筈が、何故こんな状況に置かれているのだろう。女はベンチに座りながら呆然と己の格好を見下ろしつつ、あどけなく微笑む妖艶な美女を前に眉を下げていた。

「……その、マタ・ハリ様」
「あら、様なんて付けないで。どうかその愛らしい声でマルガレータと呼んで」

英霊として召喚された瞬間、女の頭には人理修復を目的としたこの世界の現状と共に、カルデアに存在するサーヴァントの情報が自然と叩き込まれていた。しかし女スパイとして名高い彼女の本名は知り得なかったため、太陽のように温かく柔らかなその響きはとても新鮮に感じた。

「ええと、それでは……マルガレータ?」
「なあに、ナマエ?」

舌で転がすように名を呼ぶと、彼女はふわりと花のように笑む。その姿があまりにも綺麗で、女は不思議と泣きたくなってしまった。顔を隠すように俯けば、彼女は鈴を転がすように首を傾げながら女の手を取る。

現在己が纏っているのは、まるで姫が着るような鮮やかな空色のドレスだ。お伽噺で伝え聞く華美で上品な装いは、あまりにも自分に相応しくなくて落ち着かない。けれど、この気持ちを目の前の女性に伝えることは、その心を踏み躙る行為に等しいだと分かっていた。

「……マルガレータは何故、私のことを気にかけてくれるの?」
「だって、私にとってあなたはヒーローなんだもの」
「え?」
「愛する人が守った国を救うために、その身を捧げた英雄。たとえどんな状況に置かれても、愛を求めることは愚かな行為ではないのだと、貴女が私に教えてくれたのよ。ナマエ」

───恋した男がその身を散らした後、女の祖国には平和がもたらされた。戦に明け暮れていた日々は終わりを告げ、国民はかけがえのない日常を過ごす喜びを知ったのだ。 しかし今度は、国内で大きな問題が発生することになる。荒廃した大地と非衛生的な環境によって引き起こされた、飢饉と疫病。終いにはそれが、大英雄の怨念が宿る血肉が原因となった祟りなのではないかと囁かれたのだ。

だからこそ女は、人々のために神聖娼婦として神に身を捧げた。愛した男が亡くなった土地を永遠のものとするため、生贄となり国に平和をもたらした。古代ペルシャ神話の片隅に天つ乙女として刻まれた女の名は、こうして後世にも伝わっているらしい。

女は無力な存在だった。精々、生前男から伝え聞いていた衛生管理の方法や農耕技術を口伝したくらいのものである。 むしろ簡単に死を選択した己よりも、生きて国を形づくっていった国民の方が立派であったとさえ思っていた。

「……貴女って変なひとね」
「そうかしら。そんなことないわよね、アーラシュ?」

いつの間にか背後に迫っていた男が、こちらを優しく見守るように視線を落としていた。予想はしていたため別段驚くこともなく、女は彼の目から逃れるように顔をついと背ける。

「それじゃナマエ、私は行くわ。今度一緒にお茶でもしましょう?」
「え、けれどこのドレスは……」
「私からのプレゼント。少しでも気に入ってくれたなら受け取ってちょうだい」

彼女から慈愛に満ちた笑みを向けられて、断れる人間などいるのだろうか。おずおずと女がお礼を言った後、今度は彼女と同じ場所に男が腰を下ろした。

「悪かった、ナマエ」
「……何の話?」

刺々しい言葉を向けたにもかかわらず、彼は真摯な表情を宿したまま頭を下げた。身分不相応な振る舞いを返されて、女の肩は思わず跳ねる。

だがしかし、ここで甘い顔をしてはならないと改めて決意を固める。たとえ己の心が全て見透かされているのだとしても、女には意地を張らなければならない理由があった。

「ずっと謝りたいと思ってたんだ。約束を破って、あまつさえお前を傷付けた。本当にすまなかったと思ってる」
「私は謝罪なんて求めてない」
「分かった」

恭しく唇を開きながら再び頭を下げようとする姿を見て、女の胸に改めて激情が迫り上ってくるのを感じた。この男は呆れるほど底抜けに優しくて、絶望的なまでに身勝手だった。

「あなたは何も分かってない! ───私が誰を想って何を考えていたかを知っていたくせに、何もかも自分の責任みたいな顔して、全てを背負い込んでいたんでしょう」

嗚呼、可愛らしくないことばかり吐き出してしまう己の口が心底憎い。無知でありながら彼の心を踏み躙ろうとする己の浅ましさが途轍もなく穢らわしい。

生前、女は千里眼という概念すら認識していなかった。 男が英雄たる存在であることを誇らしく思うだけで、一人の人間としての幸福を掴もうとしない背中をもどかしく感じるだけで、女は何も知ろうとしなかった。

自分こそは、アーラシュ・カマンガーを一人の人間として慈しむべきであったのに。

「確かにあなたには、それを成しうるだけの能力があった。大英雄と呼ぶに相応しい絶大な才覚を持っていた。あなたの名が英雄として後世に伝わっていることは、何より誇りに感じる。けれど、……けれどね。違うのよ」
「……ナマエ」
「あなたの望む平穏と、私の考える幸福が異なるのだとしても。私は、あなたをもっと愛していたかった」

数多の国民が平和に生き抜くために、あの時は彼が身を散らす以外の方策は無かった。彼の献身的な一矢があったからこそ、犠牲者を最小限に抑えることが出来たのだと理解している。

これでも女は生前、物腰の柔らかな才女として持て囃されていた。常に笑顔をたたえ、客の話を親身になって聞き、状況に応じて自らも話題を提供できるだけの聡明さを持っている、と。彼と共に夜を過ごす度、皮肉なことに娼婦として女の評判は上がっていくばかりだった。

戦に明け暮れていたあの貧しい日々を支えていた兵士達は、癒しを求めて娼館を訪れていた。そんな彼らに恩を返すのが仕事なのだと女は雇い主から常々言い聞かされていたが、女を一人の人間として扱ってくれたのは終ぞひとりきりだった。

国を愛し、民を慈しみ、王に忠誠を捧げた英雄は、街の片隅で燻っていた見窄らしい女の心さえも救ってくれた。

「……好き、だったの。好きなの、アーラシュ」

太く逞しい腕に激しく抱き寄せられ、女は男の肩に顔を埋める。大きくて硬い掌が女の髪を撫で付ける度、心臓を鷲掴みにされる感覚に震えた。肺が焼けるような感覚に息が止まってしまいそうで、けれどそれでも良いだなんて浮かれたことを思ってしまう。

「愛してる、ナマエ」
「…………、アーラシュ」
「自分の名前がこんなに愛おしく感じるのは初めてだな」

彼があまりにも子どものようにあどけない笑い声を上げるものだから、先程まで鉄の意思を貫いていた筈の女はむくれたように頬を膨らませるばかりだった。

「……私はまだ怒ってるんだからね」
「ああ、分かってる」

文字通り、彼は心を見透かしているのだろう。全てに見て見ぬ振りをして、全てをあるがままに受け入れて、真っ直ぐに女を見つめているのだろう。

「英霊としての俺にだって未来がある訳じゃない。永遠にお前のために在ると約束も出来ない。だが俺の心臓は未来永劫、お前だけを想っていく」

紡がれた言葉には、どこまでも真っ直ぐな熱が宿っている。触れたら焦げてしまいそうなこの熱さを、女は既に痛いほど知っていた。

「私は未来なんていらない。過去を振り返るつもりもない。だから……今だけでいいから、傍にいてほしいの」
「ああ。俺も、お前の隣にいたい」

見つめ合った後に触れた唇には、まるで親鳥が子に餌を分け与えるような温かさが滲んでいた。互いに何度か啄むようにキスを交わした後に額をくっつけて、柔らかく健やかな空気に溺れる。

運命の糸では結ばれずとも、互いに指を絡ませ合えればそれで良い。今ならば、確かにそう強く思えた。

───その後、カルデア内部で度々とある女性に寄り添う大英雄の姿が目撃されたというが、それはまた別の話である。