03
「やあ名前ちゃん、いらっしゃい。待ってたよ」
ラウンジに到着するなり羽鳥から和やかに出迎えられた苗字は、渋い顔を崩さないまま頭を下げた。気を抜けばすぐに距離を詰められてしまうため、必要以上に愛想を振り撒かない方がいいことを既に学んでいたのだ。 神楽がさっさと槙の隣に腰掛けたのを確認した後、苗字は周囲に気を配りながら会話を続けていく。
「今日こそは、せっかくだから一緒に飲もうよ」
「ありがとうございます。ですが、私は皆様の邪魔にならないよう後ろに控えておりますので」
「それは残念。名前ちゃんが欲しがりそうな、とっておきの情報を持ってるんだけど」
軽薄な雰囲気をまといながら、羽鳥はその瞳に挑戦的な色を宿した。 情報屋Revelの仕事は本物だ。実際、苗字は神楽と対面する前から羽鳥の情報には世話になっているため、彼の申し出を受ける以外の選択肢は残されていなかった。
「……シャーリー・テンプルをお願いします」
「了解。少し待ってて」
ノンアルコールカクテルの名前を告げると、羽鳥は軽やかに笑んでから踵を返した。苛立ちを隠すように拳を握りつつも、苗字は本来の仕事をこなすべく神楽の斜め前に座る。店内にも何人か警備員が潜り込んでいるため、窓から襲撃を受けた場合に備えることを最優先に考えた結果だ。
「苗字」
「はい。如何なさいましたか、亜貴様」
「……何でもない」
苗字はどこか歯切れの悪い神楽の様子に内心首を傾げる一方で、心底愉快そうにカウンターからこちらを見詰める羽鳥に顔を引き攣らせる。悪い意味で心を掻き乱される存在が身近にいるというのは、想像以上にストレスになるらしい。
「はい名前ちゃん、どうぞ。出来ることなら、いつか俺の前でもお姫様になってくれると嬉しいんだけど」
「いつまでも夢見る少女のままではいられませんので。私などに目を向けるよりも、羽鳥様に相応しい方のために時間をお使いになられた方が宜しいかと」
「残念。振られちゃった」
シャーリー・テンプルのカクテル言葉は「用心深い」だ。念のためシンデレラを頼むことは避けたのだが、どうやら正解だったようだと胸を撫で下ろす。 Revelの中でも特に話題が豊富な羽鳥の手にかかれば、一杯のお酒をキッカケに誰でも自分のペースに引き込むことだって出来るのだ。 カクテルで唇を濡らしつつ、苗字は羽鳥と世間話を交わしていく。
「それで名前ちゃん。さっきの件だけど」
必要以上に顔を近付けられて、耳元で囁くように切り出される。これではまるで睦言を交わす恋人のようだが、確実にわざとなのだろう。
「見返りは、俺とのデートでどう?」
「しばらく実現不可能かと思いますが」
「うん。だから、神楽の件が解決してからでいいよ。なんならキスでも良いけど」
「……キスなら別に構いませんが」
「はあ?」
突如冷え冷えとした声が聞こえて、思わず苗字の肩が跳ねた。すかさず護衛対象に意識を向けると、神楽は眉間に濃い皺を寄せながら苛立ったように髪を弄っている。
「……僕、もう帰る」
「え? ですが、今日は桧山様に相談したいことがあると」
「そんなのもうとっくに済んだから。別に君は残ってていいよ。運転手なら自分で呼ぶし」
「亜貴様」
「何?」
「私が最優先にするのは、たとえ何があろうともあなただけです。お忘れですか?」
呆気に取られたように目を丸くした顔からは、酷くあどけない印象を受けた。普段から顰めっ面ばかりしているが、顔立ちだけで言うならば神楽はRevelの中で最も幼く見える。
「……どちらにせよ、用事は済んだから僕は帰るよ」
「畏まりました、お供します」
羽鳥に目を向けると、携帯を片手にひらひらと手を振っていた。後ほどメールにて連絡してくるつもりだろう。この様子から見て、そこまで喫緊の事態ではないらしい。
「それでは桧山様、槙様。お先に失礼致します」
「ああ」
「悪いな苗字、亜貴のこと頼むわ」
さすがに空気を読んだのか、羽鳥が口を挟んでくることは無かった。むっつりと黙り込んでしまった神楽に続いて、苗字もまた店を出てエレベーターに乗り込む。
「ねえ苗字」
「はい」
「僕がキスしてって言ったらしてくれるの?」
キン。地上に到着した音と共に扉が開いて、神楽は苗字を置き去りにするように歩き出してしまった。慌てて付き従い、ホテルの前に止まっていたリムジンのドアを開ける。 腕を組みながら目線を合わせようとしない神楽に続いて苗字も乗り込むと、ぎこちない空気のまま屋敷に向けて発進した。
───先程の問いに関して言えば、苗字の答えはノーだ。
しかし、神楽にこんな質問をさせてしまったのはこちらの落ち度だった。ボディーガードとして節度を弁えず、彼に踏み込みすぎてしまったのは事実である。 近付いては離れていく街灯の光を視界の端に収めながら、苗字は唇を薄く開いた。
「亜貴様、私は」
「…………」
「……私は、亜貴様の身を守るためならば何でも致します」
「……知ってるよ。そんなこと」
乾いた声が、広い車内にぽつりと溶けていく。苗字はそれ以上の言葉が見付からず、口を噤んだまま自らの職務に集中した。 屋敷まであと一歩に差し掛かった頃。ブルルと音を立てた携帯画面を片手で確認すると、羽鳥からのメッセージが入っていた。
───神楽の件、例のお姫様の得意分野かも。
お姫様、とその響きを頭の中で繰り返す。苗字は対面したことが無かったが、マトリの紅一点である女性の名前は知っていた。ここ最近では、神楽が心を砕く唯一のひとだとも。 苗字はあくまでボディーガードであり、不用意な詮索をするべきではないと上司からも口を酸っぱくして言われている。
しかし、ここまで踏み込んでしまった相手を脅かす存在について、無知なままでいられる程に神経は図太くない。 返信をしないまま胸元に携帯を仕舞い込み、苗字は眉間に皺を寄せた。もしマトリが関わってくるとすれば、思った以上に長丁場になるかもしれない。
神楽が思う存分眠れるようになるまで、出来る限りのことをしようと改めて苗字は決意した。
ラウンジに到着するなり羽鳥から和やかに出迎えられた苗字は、渋い顔を崩さないまま頭を下げた。気を抜けばすぐに距離を詰められてしまうため、必要以上に愛想を振り撒かない方がいいことを既に学んでいたのだ。 神楽がさっさと槙の隣に腰掛けたのを確認した後、苗字は周囲に気を配りながら会話を続けていく。
「今日こそは、せっかくだから一緒に飲もうよ」
「ありがとうございます。ですが、私は皆様の邪魔にならないよう後ろに控えておりますので」
「それは残念。名前ちゃんが欲しがりそうな、とっておきの情報を持ってるんだけど」
軽薄な雰囲気をまといながら、羽鳥はその瞳に挑戦的な色を宿した。 情報屋Revelの仕事は本物だ。実際、苗字は神楽と対面する前から羽鳥の情報には世話になっているため、彼の申し出を受ける以外の選択肢は残されていなかった。
「……シャーリー・テンプルをお願いします」
「了解。少し待ってて」
ノンアルコールカクテルの名前を告げると、羽鳥は軽やかに笑んでから踵を返した。苛立ちを隠すように拳を握りつつも、苗字は本来の仕事をこなすべく神楽の斜め前に座る。店内にも何人か警備員が潜り込んでいるため、窓から襲撃を受けた場合に備えることを最優先に考えた結果だ。
「苗字」
「はい。如何なさいましたか、亜貴様」
「……何でもない」
苗字はどこか歯切れの悪い神楽の様子に内心首を傾げる一方で、心底愉快そうにカウンターからこちらを見詰める羽鳥に顔を引き攣らせる。悪い意味で心を掻き乱される存在が身近にいるというのは、想像以上にストレスになるらしい。
「はい名前ちゃん、どうぞ。出来ることなら、いつか俺の前でもお姫様になってくれると嬉しいんだけど」
「いつまでも夢見る少女のままではいられませんので。私などに目を向けるよりも、羽鳥様に相応しい方のために時間をお使いになられた方が宜しいかと」
「残念。振られちゃった」
シャーリー・テンプルのカクテル言葉は「用心深い」だ。念のためシンデレラを頼むことは避けたのだが、どうやら正解だったようだと胸を撫で下ろす。 Revelの中でも特に話題が豊富な羽鳥の手にかかれば、一杯のお酒をキッカケに誰でも自分のペースに引き込むことだって出来るのだ。 カクテルで唇を濡らしつつ、苗字は羽鳥と世間話を交わしていく。
「それで名前ちゃん。さっきの件だけど」
必要以上に顔を近付けられて、耳元で囁くように切り出される。これではまるで睦言を交わす恋人のようだが、確実にわざとなのだろう。
「見返りは、俺とのデートでどう?」
「しばらく実現不可能かと思いますが」
「うん。だから、神楽の件が解決してからでいいよ。なんならキスでも良いけど」
「……キスなら別に構いませんが」
「はあ?」
突如冷え冷えとした声が聞こえて、思わず苗字の肩が跳ねた。すかさず護衛対象に意識を向けると、神楽は眉間に濃い皺を寄せながら苛立ったように髪を弄っている。
「……僕、もう帰る」
「え? ですが、今日は桧山様に相談したいことがあると」
「そんなのもうとっくに済んだから。別に君は残ってていいよ。運転手なら自分で呼ぶし」
「亜貴様」
「何?」
「私が最優先にするのは、たとえ何があろうともあなただけです。お忘れですか?」
呆気に取られたように目を丸くした顔からは、酷くあどけない印象を受けた。普段から顰めっ面ばかりしているが、顔立ちだけで言うならば神楽はRevelの中で最も幼く見える。
「……どちらにせよ、用事は済んだから僕は帰るよ」
「畏まりました、お供します」
羽鳥に目を向けると、携帯を片手にひらひらと手を振っていた。後ほどメールにて連絡してくるつもりだろう。この様子から見て、そこまで喫緊の事態ではないらしい。
「それでは桧山様、槙様。お先に失礼致します」
「ああ」
「悪いな苗字、亜貴のこと頼むわ」
さすがに空気を読んだのか、羽鳥が口を挟んでくることは無かった。むっつりと黙り込んでしまった神楽に続いて、苗字もまた店を出てエレベーターに乗り込む。
「ねえ苗字」
「はい」
「僕がキスしてって言ったらしてくれるの?」
キン。地上に到着した音と共に扉が開いて、神楽は苗字を置き去りにするように歩き出してしまった。慌てて付き従い、ホテルの前に止まっていたリムジンのドアを開ける。 腕を組みながら目線を合わせようとしない神楽に続いて苗字も乗り込むと、ぎこちない空気のまま屋敷に向けて発進した。
───先程の問いに関して言えば、苗字の答えはノーだ。
しかし、神楽にこんな質問をさせてしまったのはこちらの落ち度だった。ボディーガードとして節度を弁えず、彼に踏み込みすぎてしまったのは事実である。 近付いては離れていく街灯の光を視界の端に収めながら、苗字は唇を薄く開いた。
「亜貴様、私は」
「…………」
「……私は、亜貴様の身を守るためならば何でも致します」
「……知ってるよ。そんなこと」
乾いた声が、広い車内にぽつりと溶けていく。苗字はそれ以上の言葉が見付からず、口を噤んだまま自らの職務に集中した。 屋敷まであと一歩に差し掛かった頃。ブルルと音を立てた携帯画面を片手で確認すると、羽鳥からのメッセージが入っていた。
───神楽の件、例のお姫様の得意分野かも。
お姫様、とその響きを頭の中で繰り返す。苗字は対面したことが無かったが、マトリの紅一点である女性の名前は知っていた。ここ最近では、神楽が心を砕く唯一のひとだとも。 苗字はあくまでボディーガードであり、不用意な詮索をするべきではないと上司からも口を酸っぱくして言われている。
しかし、ここまで踏み込んでしまった相手を脅かす存在について、無知なままでいられる程に神経は図太くない。 返信をしないまま胸元に携帯を仕舞い込み、苗字は眉間に皺を寄せた。もしマトリが関わってくるとすれば、思った以上に長丁場になるかもしれない。
神楽が思う存分眠れるようになるまで、出来る限りのことをしようと改めて苗字は決意した。