04
無表情で無愛想かと思っていた秘書は、神楽のいないところではよく笑うらしい。
屋敷でも会社でもアトリエでも、嫌味な程に上品な笑顔を浮かべながら周囲の人間と談笑するくせに、神楽が目を向けた途端すとんと表情を削ぎ落とす。 そのあからさまな態度に対して、当初は嫌悪感に似た感情を抱いていた筈だった。
日常の些細な行動一つ一つに対して干渉され、監視するように厳しい目線を向けられれば、どんなに図太い人間だろうと神経もすり減ってしまう。 確かに彼女は、秘書として優秀だった。
仕事を与えれば迅速かつ的確に対応し、会社の重役や名の知れた取引相手でも堂々と意見を述べられる度胸や、その中でも相手を立てられる機転の良さもある。
冷淡な印象を与えかねない態度でも、持ち前の容姿の良さもあってか、微かに笑顔を浮かべれば自然と信頼を勝ち取っているのだ。 同族嫌悪に似た気持ちだと分かっていても、神楽は彼女に対して無愛想な言動ばかり取ってしまっていた。
「亜貴様」
「……何?」
「お身体が冷えます。上着をお召しになってくださいませ」
時折冬を思い出したように肌寒くなる春の夜。風呂上がりにもかかわらず薄着のまま自室で作業をしていれば、またもや秘書から小言を言われてしまった。
胸に滲んだ苛立ちを隠すように、神楽は椅子の背もたれに身体預けながら指先で髪を弄る。こんな気持ちのままデザイン画に向き合う気には、到底なれなかった。
「別にいいよ。君だって、僕が家に篭ってる方が都合が良いんじゃないの」
「確かに、現状より遥かに私の仕事は楽になりますね。このような返答で満足いただけましたか?」
「…………」
「ご自身を傷付けるような言葉を口にするのは、想像よりもずっと身体に毒です。私は仮眠を取るため下がりますので、亜貴様も……」
神楽は勢いよく立ち上がり、斜め後ろに控えていた秘書の腕を掴んだ。目を丸くした彼女の身体を強引に引っ張り、ベッドへと放り投げるように押し倒す。 無機質な電灯の光が、その顔をはっきりと照らし出していた。その視界から光を奪うように伸し掛っても、彼女は小さく眉を上げるだけで驚いた様子など微塵も見せない。
「あのさ。今から何しようとしてるか分かってる?」
「明日は朝からミーティングが入っております。今からセックスをしても疲労が蓄積されるだけかと」
「……は?」
「その代わり、ご提案したいことがあるのですが」
突拍子のない発言に気を削がれた瞬間、身体をしなやかに回転させた彼女によって瞬く間に形勢が逆転していた。
───ああ、そうだ。苗字はボディーガードとしても優秀だということをすっかり忘れていた。
急に全身の力が抜けた神楽は、大きく溜め息を吐きながら自らの腕で目を覆った。現状、誰よりも神楽のために働いてくれている存在へ八つ当たりした事実が、何よりも情けなくて堪らない。
謝罪をしようとゆっくり腕を外した途端、今度は柔らかな温もりに全身が包まれる。真っ黒なスーツに身を包んだ身体が神楽の腕にぴったりと寄り添い、子どもをあやすように頭を規則的に撫でられる。ベッドの上で横に並ぶ様はまるで睦言を交わし合う恋人のようだが、そこに色気のある空気は皆無だった。
「ねえ、何してるの?」
「見ての通りです」
「……僕に抱かれないくせに、恋人の真似事はするんだ」
「亜貴様を守るためならば私は何でも致します。お忘れですか?」
「何でも、ね」
「あなたを進んで傷付けるような行為は、とても出来そうにありません。……今日もお疲れでしょう。どうかお眠りください」
幼い子どもが背伸びをしたような顔で、苗字は微かに笑っていた。 ゆったりと神楽を撫でる手は女の手にしては硬く、布越しに感じるしなやかな肉体は少女らしさすら帯びている。
その姿は母親と呼ぶにはあまりに未完成で、女性と呼ぶにはあまりにも不器用であどけない。 不意に鼻を擽った甘く鮮烈な彼女の香りだけが、神楽の心臓を熱く締め上げるかのようだった。
ここ数日、ふとした瞬間に薫っていたその芳香を己が纏っていることに気付いた瞬間、神楽は底の見えない穴に落ちていくような感覚を味わっていた。
「苗字」
「はい、亜貴様」
「今日だけは、……朝まで傍にいて」
「はい、畏まりました」
何の躊躇いもなく了承したその声には、負の感情など少しも滲んでいない。 彼女が護衛の仕事を引き受けてから、神楽は無礼な態度ばかり取っていた筈だ。彼女の好意を無下にするような言動を取り、その心に傷を付けていたかもしれないのだ。
それでも苗字はいつだって、神楽の言葉を最優先にしてくれた。神楽を絶対に守ると誓い、どんな場面だろうと傍にいてくれた。溜まりに溜まった不満や不安が爆発しそうになった時、突拍子もない彼女の言動に救われたことが何度もあった。 薄々気付いてはいたのに、意地を張って認めることが出来なかった。
神楽は、苗字の優しさを心地好く感じ始めている。彼女が自分以外に見せている笑顔を、もっと間近で目にしたいと思っている。 苗字のことが知りたくて、たくさんの表情を引き出してみたくて、自分が作った服を着てほしくて。彼女の香りをはっきりと認識しただけで、こんなにも胸の奥が激しく疼いた。
「おやすみなさい、亜貴様。どうか良い夢を」
「うん、……おやすみ」
その夜は、驚く程にあっさりと眠りに落ちることが出来た。きっと、身体の内に抱えていた不透明な感情に色がついたからなのだろう。 神楽はいつの間にか、自分でも青くさく感じるような恋をしていた。
───だが先程の言動を見るに、一切こちらの感情は伝わっていないようだ。 Revelが本拠地とするバーから帰宅した直後、神楽は苗字が羽鳥に向けた言葉を思い出して歯噛みする。彼女は仮眠を取るため下がっており、一人きりの自室では思う存分言葉を吐き捨てることが出来た。
「……キスなら構わないって、何なの」
神楽を守るためならば何でもする。彼女が何度も繰り返し紡ぐ言葉には、一切の嘘は含まれていないのだと改めて痛感した。 自己犠牲による善意に満たされた彼女に向けるべき言葉は、「キスして」ではなかった。「ありがとう」であるべきだった。 神楽は苗字の善意を踏み躙るような言動を取ってしまったのだと理解して、どうしようもなく自責の念に駆られてしまう。
自分はいつだって彼女を傷付けてばかりだ。神楽は自嘲しつつベッドに横たわった、苗字の気配が仄かに香る部屋の中であっても、今日はとても眠れそうになかった。
屋敷でも会社でもアトリエでも、嫌味な程に上品な笑顔を浮かべながら周囲の人間と談笑するくせに、神楽が目を向けた途端すとんと表情を削ぎ落とす。 そのあからさまな態度に対して、当初は嫌悪感に似た感情を抱いていた筈だった。
日常の些細な行動一つ一つに対して干渉され、監視するように厳しい目線を向けられれば、どんなに図太い人間だろうと神経もすり減ってしまう。 確かに彼女は、秘書として優秀だった。
仕事を与えれば迅速かつ的確に対応し、会社の重役や名の知れた取引相手でも堂々と意見を述べられる度胸や、その中でも相手を立てられる機転の良さもある。
冷淡な印象を与えかねない態度でも、持ち前の容姿の良さもあってか、微かに笑顔を浮かべれば自然と信頼を勝ち取っているのだ。 同族嫌悪に似た気持ちだと分かっていても、神楽は彼女に対して無愛想な言動ばかり取ってしまっていた。
「亜貴様」
「……何?」
「お身体が冷えます。上着をお召しになってくださいませ」
時折冬を思い出したように肌寒くなる春の夜。風呂上がりにもかかわらず薄着のまま自室で作業をしていれば、またもや秘書から小言を言われてしまった。
胸に滲んだ苛立ちを隠すように、神楽は椅子の背もたれに身体預けながら指先で髪を弄る。こんな気持ちのままデザイン画に向き合う気には、到底なれなかった。
「別にいいよ。君だって、僕が家に篭ってる方が都合が良いんじゃないの」
「確かに、現状より遥かに私の仕事は楽になりますね。このような返答で満足いただけましたか?」
「…………」
「ご自身を傷付けるような言葉を口にするのは、想像よりもずっと身体に毒です。私は仮眠を取るため下がりますので、亜貴様も……」
神楽は勢いよく立ち上がり、斜め後ろに控えていた秘書の腕を掴んだ。目を丸くした彼女の身体を強引に引っ張り、ベッドへと放り投げるように押し倒す。 無機質な電灯の光が、その顔をはっきりと照らし出していた。その視界から光を奪うように伸し掛っても、彼女は小さく眉を上げるだけで驚いた様子など微塵も見せない。
「あのさ。今から何しようとしてるか分かってる?」
「明日は朝からミーティングが入っております。今からセックスをしても疲労が蓄積されるだけかと」
「……は?」
「その代わり、ご提案したいことがあるのですが」
突拍子のない発言に気を削がれた瞬間、身体をしなやかに回転させた彼女によって瞬く間に形勢が逆転していた。
───ああ、そうだ。苗字はボディーガードとしても優秀だということをすっかり忘れていた。
急に全身の力が抜けた神楽は、大きく溜め息を吐きながら自らの腕で目を覆った。現状、誰よりも神楽のために働いてくれている存在へ八つ当たりした事実が、何よりも情けなくて堪らない。
謝罪をしようとゆっくり腕を外した途端、今度は柔らかな温もりに全身が包まれる。真っ黒なスーツに身を包んだ身体が神楽の腕にぴったりと寄り添い、子どもをあやすように頭を規則的に撫でられる。ベッドの上で横に並ぶ様はまるで睦言を交わし合う恋人のようだが、そこに色気のある空気は皆無だった。
「ねえ、何してるの?」
「見ての通りです」
「……僕に抱かれないくせに、恋人の真似事はするんだ」
「亜貴様を守るためならば私は何でも致します。お忘れですか?」
「何でも、ね」
「あなたを進んで傷付けるような行為は、とても出来そうにありません。……今日もお疲れでしょう。どうかお眠りください」
幼い子どもが背伸びをしたような顔で、苗字は微かに笑っていた。 ゆったりと神楽を撫でる手は女の手にしては硬く、布越しに感じるしなやかな肉体は少女らしさすら帯びている。
その姿は母親と呼ぶにはあまりに未完成で、女性と呼ぶにはあまりにも不器用であどけない。 不意に鼻を擽った甘く鮮烈な彼女の香りだけが、神楽の心臓を熱く締め上げるかのようだった。
ここ数日、ふとした瞬間に薫っていたその芳香を己が纏っていることに気付いた瞬間、神楽は底の見えない穴に落ちていくような感覚を味わっていた。
「苗字」
「はい、亜貴様」
「今日だけは、……朝まで傍にいて」
「はい、畏まりました」
何の躊躇いもなく了承したその声には、負の感情など少しも滲んでいない。 彼女が護衛の仕事を引き受けてから、神楽は無礼な態度ばかり取っていた筈だ。彼女の好意を無下にするような言動を取り、その心に傷を付けていたかもしれないのだ。
それでも苗字はいつだって、神楽の言葉を最優先にしてくれた。神楽を絶対に守ると誓い、どんな場面だろうと傍にいてくれた。溜まりに溜まった不満や不安が爆発しそうになった時、突拍子もない彼女の言動に救われたことが何度もあった。 薄々気付いてはいたのに、意地を張って認めることが出来なかった。
神楽は、苗字の優しさを心地好く感じ始めている。彼女が自分以外に見せている笑顔を、もっと間近で目にしたいと思っている。 苗字のことが知りたくて、たくさんの表情を引き出してみたくて、自分が作った服を着てほしくて。彼女の香りをはっきりと認識しただけで、こんなにも胸の奥が激しく疼いた。
「おやすみなさい、亜貴様。どうか良い夢を」
「うん、……おやすみ」
その夜は、驚く程にあっさりと眠りに落ちることが出来た。きっと、身体の内に抱えていた不透明な感情に色がついたからなのだろう。 神楽はいつの間にか、自分でも青くさく感じるような恋をしていた。
───だが先程の言動を見るに、一切こちらの感情は伝わっていないようだ。 Revelが本拠地とするバーから帰宅した直後、神楽は苗字が羽鳥に向けた言葉を思い出して歯噛みする。彼女は仮眠を取るため下がっており、一人きりの自室では思う存分言葉を吐き捨てることが出来た。
「……キスなら構わないって、何なの」
神楽を守るためならば何でもする。彼女が何度も繰り返し紡ぐ言葉には、一切の嘘は含まれていないのだと改めて痛感した。 自己犠牲による善意に満たされた彼女に向けるべき言葉は、「キスして」ではなかった。「ありがとう」であるべきだった。 神楽は苗字の善意を踏み躙るような言動を取ってしまったのだと理解して、どうしようもなく自責の念に駆られてしまう。
自分はいつだって彼女を傷付けてばかりだ。神楽は自嘲しつつベッドに横たわった、苗字の気配が仄かに香る部屋の中であっても、今日はとても眠れそうになかった。