05
「泉、今日の終業後にすぐ来るって」
朝食を終えたばかりの神楽に付き従うと、なんとも刺々しい言葉が降ってきた。多忙な中で個人的なお願いをしてしまった手前、苗字は恭しく頭を下げて礼を言うことしか出来ない。
「お手数をおかけしてしまい申し訳ございません。泉様にも謝罪しないといけないですね」
「いいよ。彼女、人の事情に首を突っ込むのが趣味みたいなものだし」
「…………」
「何?」
「いえ、失礼しました。それでは早速、本日の会議についてなのですが……」
神楽は、彼女のことをよく理解しているのだなと率直に思った。これ以上機嫌を損ねる気は無いため口は噤んだが、やはり今回の任務においてマトリのお姫様が深く関わっているのは間違いないだろうと確信を深めていく。神楽個人を狙っているのだとすれば、彼に近しい人間にターゲットを絞っていない訳が無いのだ。
───すなわち、襲撃予告の犯人は薬物取引にも関わっている可能性が高い。
ここ数日、苗字は羽鳥からの断片的な情報をもとに調査を進めたものの、やはり個人に出来ることは限られていた。そんな部下の動向を察したのか、直属の上司からはまず己の職務を全うしろと叱られてしまったばかりだ。 ……あの人が突き付けるキッパリとした正論は、心の柔らかい部分に突き刺さってしまうというのに。
すっかり身体に染み付いた秘書としての業務を終えた夕方、苗字は客人を出迎える準備を整えていた。むっつりと不満そうな顔でミシンをかける神楽と付かず離れずの距離を取りつつ、昨晩作っておいた焼き菓子やお茶っ葉の残りを確認する。
亜貴は甘い物も好きだから、と事前に槙からメールを貰ったので、味付けも甘めにしたのだが問題はないだろう。神楽はよく口であれこれと文句を言うが、その声音には常に柔らかさが滲んでいることを苗字は知っていた。
「こ、こんばんは……! 遅くなってすみません!」
はきはきとした明るい声がアトリエに響き、妙に焦燥した様子の女性がドアから顔を覗かせた。 いの一番に神楽が「遅い」と言いながら彼女の元へ向かうのを見て、ツキハは微笑ましく思ってしまう。 後ろに控えながら挨拶の機会を伺っていると、神楽は肩を竦めながら軽く目配せをしてきた。基本的にはこちらに全て任せてくれるスタンスらしい。
苗字はきょとんと目を丸くする彼女へ一歩近付き、僅かばかり頭を下げる。
「お初にお目にかかります、泉様。秘書の苗字と申します。どうぞお見知りおきください」
「あ、ご丁寧にありがとうございます! 泉玲です。よろしくお願いします、苗字さん」
乱れた前髪を手で整えながら、彼女は小さくはにかんでいた。今回に関して言えば、完全に苗字のワガママによる呼び出しであり、尚且つ不機嫌な神楽からの一方的な要請であったに違いないのに。 ほんの僅かな時間対面しただけでも、これ程までに痛感する。彼女は、律儀で真面目で底抜けに優しい人なのだろう。
「それではこちらにお掛けください。ただいまお茶をお持ちします」
「苗字」
不機嫌さを惜しげもなく晒す神楽に向けて、苗字はつんと澄ました顔を取り繕う。
「はい、亜貴様。私としても早くお召し上がり頂きたいのは山々なのですが、もう少々お待ちください」
「ちょっと、人を我が儘な子供みたいに扱わないでくれる!?」
申し訳ございません、と形ばかりの謝罪をしてから苗字はすぐさま隣の給湯室に引っ込んだ。これで少しは空気が緩んでくれれば良いのだが。 このまま二人きりの会話を楽しんでもらいたい気持ちは有り余っているものの、こちらとてボディーガードの職務を怠慢する訳にもいかない。手早く準備した後すぐに戻れば、苛立ったように腕を組む神楽の前で彼女が柔らかく笑んでいた。
「お待たせ致しました」
「わあ、ありがとうございます!」
「フィナンシェやマドレーヌもありますので、ご自由にどうぞ。お口に合えば良いのですが」
人数分のお茶とお菓子を配膳し終えると、苗字もまた神楽の隣に腰掛ける。
「……僕は、不味いと思ったことなんて一度もないけど」
一拍置いて、神楽はそっぽを向きながら呟いた。苗字もまた数瞬かけてその意味を理解し、小さく眉を下げる。
「ありがとうございます、亜貴様」
「別に」
「それでは早速……、泉様?」
掌で口元を覆う程に笑めを深めていた彼女は、苗字の言葉を受けてハッとしたように首を縮こめてしまう。
「すみません、お約束していたのに……!」
「ちょっと。それ以上余計なこと言ったら今すぐ追い出すよ」
約束、という単語を拾って内心疑問に思うものの、それよりもまず苗字は神楽にじっと視線を配った。
「亜貴様」
「……冗談に決まってるでしょ」
またもや彼女は小さく笑みを浮かべているが、神楽はとうとう干渉しないことに決めたらしい。腕組みをしながら傍観の体勢を取る姿を横目に、苗字は頭の中で思い描いていた言葉を唇に乗せた。
「この度は、突然お呼び立てをして申し訳ございません。私が個人的に泉様とお会いしたかったもので」
「あ、いえいえ! 最近は残業するような案件は抱えていなかったですし、家に帰ってもあまりすることが無いので」
「そう言って頂けるとこちらとしても有難いです。……実は失礼を承知で、折り入ってお願いしたいことがございまして」
「……はい」
緊張したようにぴんと背筋を伸ばした彼女の様子に、苗字はまた薄らと笑った。思わず羨ましくなってしまうくらい、本当に真っ直ぐな人だ。
「私、最近ストーカーかもしれない人……に悩まされていて」
「え?」
苗字は先程よりもほんの僅かに砕けた口調で、わざとらしく悲痛な表情を滲ませる。
「度々視線を感じたり、手紙を送り付けられたりしているんです。警察にも相談には行ったのですが、直接的な被害に遭った訳じゃないからとすげなく扱われてしまって」
全部が全部ウソではない。実際、護衛についてから鋭い視線を感じることは増えたし、神楽家には相変わらず差出人不明の脅迫状が届いている。
「そこで、亜貴様から泉様のお話を伺ったんです。マトリと警察は違うということも分かっているのですが、もし何かあった場合に相談できる女性の方がいたら心強いなと思って」
───ああ、私は本当に卑怯な女だ。彼女の優しさに漬け込んで、絶対に断られないような言葉選びをしている。
予想通り、彼女はこちら以上に痛々しい顔をしながら苗字の話を聞き、出来る限り尽力したいと答えてくれた。アドレスを交換した時にも、何かあればいつでも連絡してほしいと優しく声をかけてくれた。
帰り際、お土産にと苗字が作ったお菓子を手渡すと、彼女は恐縮したように何度も頭を下げていく。その小さな背中が完全に遠ざかったのを見て、苗字はアトリエの片隅で強く拳を握った。
「亜貴様、申し訳ございません」
「何が?」
個人的な事情により、情報を得るために彼女に近付いたこと。彼女の優しさを利用して卑怯な嘘を吐いたこと。もしかしたら、彼女を今回の一件に巻き込んでしまう可能性があること。
答えるべき言葉はたくさんあった。しかしそのどれもが、神楽の情報屋としての仕事を冒涜する返答になってしまうであろうことも理解していた。
「こんな可愛げのない女の我が儘に付き合わせてしまって、すみません」
「あのさ。それ、君を想う人間の気持ちをことごとく無視した言葉だって分かってる?」
「え?」
「……何でもない。今日はもう帰るから」
神楽の背中にはどことなく剣呑な色が滲んでいて、苗字の心臓はざわざわと揺れた。 少しでも神楽の心労を取り除けるようにと思っての行動だったが、これは不用意に彼のプライドを刺激してしまう振る舞いだったのかもしれない。
それでも苗字は一切の後悔をするつもりはなかったし、二人まとめて守り抜くだけの覚悟は既に持っていた。
朝食を終えたばかりの神楽に付き従うと、なんとも刺々しい言葉が降ってきた。多忙な中で個人的なお願いをしてしまった手前、苗字は恭しく頭を下げて礼を言うことしか出来ない。
「お手数をおかけしてしまい申し訳ございません。泉様にも謝罪しないといけないですね」
「いいよ。彼女、人の事情に首を突っ込むのが趣味みたいなものだし」
「…………」
「何?」
「いえ、失礼しました。それでは早速、本日の会議についてなのですが……」
神楽は、彼女のことをよく理解しているのだなと率直に思った。これ以上機嫌を損ねる気は無いため口は噤んだが、やはり今回の任務においてマトリのお姫様が深く関わっているのは間違いないだろうと確信を深めていく。神楽個人を狙っているのだとすれば、彼に近しい人間にターゲットを絞っていない訳が無いのだ。
───すなわち、襲撃予告の犯人は薬物取引にも関わっている可能性が高い。
ここ数日、苗字は羽鳥からの断片的な情報をもとに調査を進めたものの、やはり個人に出来ることは限られていた。そんな部下の動向を察したのか、直属の上司からはまず己の職務を全うしろと叱られてしまったばかりだ。 ……あの人が突き付けるキッパリとした正論は、心の柔らかい部分に突き刺さってしまうというのに。
すっかり身体に染み付いた秘書としての業務を終えた夕方、苗字は客人を出迎える準備を整えていた。むっつりと不満そうな顔でミシンをかける神楽と付かず離れずの距離を取りつつ、昨晩作っておいた焼き菓子やお茶っ葉の残りを確認する。
亜貴は甘い物も好きだから、と事前に槙からメールを貰ったので、味付けも甘めにしたのだが問題はないだろう。神楽はよく口であれこれと文句を言うが、その声音には常に柔らかさが滲んでいることを苗字は知っていた。
「こ、こんばんは……! 遅くなってすみません!」
はきはきとした明るい声がアトリエに響き、妙に焦燥した様子の女性がドアから顔を覗かせた。 いの一番に神楽が「遅い」と言いながら彼女の元へ向かうのを見て、ツキハは微笑ましく思ってしまう。 後ろに控えながら挨拶の機会を伺っていると、神楽は肩を竦めながら軽く目配せをしてきた。基本的にはこちらに全て任せてくれるスタンスらしい。
苗字はきょとんと目を丸くする彼女へ一歩近付き、僅かばかり頭を下げる。
「お初にお目にかかります、泉様。秘書の苗字と申します。どうぞお見知りおきください」
「あ、ご丁寧にありがとうございます! 泉玲です。よろしくお願いします、苗字さん」
乱れた前髪を手で整えながら、彼女は小さくはにかんでいた。今回に関して言えば、完全に苗字のワガママによる呼び出しであり、尚且つ不機嫌な神楽からの一方的な要請であったに違いないのに。 ほんの僅かな時間対面しただけでも、これ程までに痛感する。彼女は、律儀で真面目で底抜けに優しい人なのだろう。
「それではこちらにお掛けください。ただいまお茶をお持ちします」
「苗字」
不機嫌さを惜しげもなく晒す神楽に向けて、苗字はつんと澄ました顔を取り繕う。
「はい、亜貴様。私としても早くお召し上がり頂きたいのは山々なのですが、もう少々お待ちください」
「ちょっと、人を我が儘な子供みたいに扱わないでくれる!?」
申し訳ございません、と形ばかりの謝罪をしてから苗字はすぐさま隣の給湯室に引っ込んだ。これで少しは空気が緩んでくれれば良いのだが。 このまま二人きりの会話を楽しんでもらいたい気持ちは有り余っているものの、こちらとてボディーガードの職務を怠慢する訳にもいかない。手早く準備した後すぐに戻れば、苛立ったように腕を組む神楽の前で彼女が柔らかく笑んでいた。
「お待たせ致しました」
「わあ、ありがとうございます!」
「フィナンシェやマドレーヌもありますので、ご自由にどうぞ。お口に合えば良いのですが」
人数分のお茶とお菓子を配膳し終えると、苗字もまた神楽の隣に腰掛ける。
「……僕は、不味いと思ったことなんて一度もないけど」
一拍置いて、神楽はそっぽを向きながら呟いた。苗字もまた数瞬かけてその意味を理解し、小さく眉を下げる。
「ありがとうございます、亜貴様」
「別に」
「それでは早速……、泉様?」
掌で口元を覆う程に笑めを深めていた彼女は、苗字の言葉を受けてハッとしたように首を縮こめてしまう。
「すみません、お約束していたのに……!」
「ちょっと。それ以上余計なこと言ったら今すぐ追い出すよ」
約束、という単語を拾って内心疑問に思うものの、それよりもまず苗字は神楽にじっと視線を配った。
「亜貴様」
「……冗談に決まってるでしょ」
またもや彼女は小さく笑みを浮かべているが、神楽はとうとう干渉しないことに決めたらしい。腕組みをしながら傍観の体勢を取る姿を横目に、苗字は頭の中で思い描いていた言葉を唇に乗せた。
「この度は、突然お呼び立てをして申し訳ございません。私が個人的に泉様とお会いしたかったもので」
「あ、いえいえ! 最近は残業するような案件は抱えていなかったですし、家に帰ってもあまりすることが無いので」
「そう言って頂けるとこちらとしても有難いです。……実は失礼を承知で、折り入ってお願いしたいことがございまして」
「……はい」
緊張したようにぴんと背筋を伸ばした彼女の様子に、苗字はまた薄らと笑った。思わず羨ましくなってしまうくらい、本当に真っ直ぐな人だ。
「私、最近ストーカーかもしれない人……に悩まされていて」
「え?」
苗字は先程よりもほんの僅かに砕けた口調で、わざとらしく悲痛な表情を滲ませる。
「度々視線を感じたり、手紙を送り付けられたりしているんです。警察にも相談には行ったのですが、直接的な被害に遭った訳じゃないからとすげなく扱われてしまって」
全部が全部ウソではない。実際、護衛についてから鋭い視線を感じることは増えたし、神楽家には相変わらず差出人不明の脅迫状が届いている。
「そこで、亜貴様から泉様のお話を伺ったんです。マトリと警察は違うということも分かっているのですが、もし何かあった場合に相談できる女性の方がいたら心強いなと思って」
───ああ、私は本当に卑怯な女だ。彼女の優しさに漬け込んで、絶対に断られないような言葉選びをしている。
予想通り、彼女はこちら以上に痛々しい顔をしながら苗字の話を聞き、出来る限り尽力したいと答えてくれた。アドレスを交換した時にも、何かあればいつでも連絡してほしいと優しく声をかけてくれた。
帰り際、お土産にと苗字が作ったお菓子を手渡すと、彼女は恐縮したように何度も頭を下げていく。その小さな背中が完全に遠ざかったのを見て、苗字はアトリエの片隅で強く拳を握った。
「亜貴様、申し訳ございません」
「何が?」
個人的な事情により、情報を得るために彼女に近付いたこと。彼女の優しさを利用して卑怯な嘘を吐いたこと。もしかしたら、彼女を今回の一件に巻き込んでしまう可能性があること。
答えるべき言葉はたくさんあった。しかしそのどれもが、神楽の情報屋としての仕事を冒涜する返答になってしまうであろうことも理解していた。
「こんな可愛げのない女の我が儘に付き合わせてしまって、すみません」
「あのさ。それ、君を想う人間の気持ちをことごとく無視した言葉だって分かってる?」
「え?」
「……何でもない。今日はもう帰るから」
神楽の背中にはどことなく剣呑な色が滲んでいて、苗字の心臓はざわざわと揺れた。 少しでも神楽の心労を取り除けるようにと思っての行動だったが、これは不用意に彼のプライドを刺激してしまう振る舞いだったのかもしれない。
それでも苗字は一切の後悔をするつもりはなかったし、二人まとめて守り抜くだけの覚悟は既に持っていた。