「苗字、お疲れ。大丈夫か?」

受話器越しに耳を打った柔らかな声は、ぴんと張り詰めていた緊張の糸を瞬く間に解していった。 人気のない廊下の壁に身を預けつつ、真夜中の静寂を噛み締めるように瞳を閉じる。

「……槙くん、ありがとう」
「おう。ようやく敬語も抜けてきたな」
「毎晩お話ししていれば嫌でも慣れます。それで、何か用でも?」

まるで幼い子供を相手にするような槙の声音に内心むくれつつ、苗字は平静を装って先を促した。

「用って程のことでもないんだけどな。苗字、まだ亜貴に何も言わないつもりか?」
「……私は、その必要が無いと判断したの。理由もRevelの皆さんにはきちんと説明して、納得してもらった筈だけど?」
「確かに、Revelとしての俺はお前の言い分を理解した。けどな、亜貴の幼馴染としては諸手を挙げて賛成してる訳じゃない」

任務前、苗字は神楽の情報を得るためにRevelの面々と直接対面して協力を仰いでいた。案の定彼らは神楽に届いた脅迫状について把握しており、苗字が務める警備会社が依頼を受諾していたことさえも知っていたのだ。

槙とは以前から別件で個人的に顔を合わせていたため、自然と最も言葉を交わす間柄になった。 沈黙が苦にならないという点では神楽と過ごす時間も楽ではあるのだが、仕事中ということもあり常に気が張っている。
羽鳥と桧山に関しては、話している内に自然と彼らのペースに巻き込まれてしまうため、毎度僅かばかり身構えてしまう。 その点、こちらの意思をさり気なく汲み取ってくれる槙と話すのは、一日の中で唯一気が緩む時間となっていた。
しかし、仕事に関して口を出されるならば話は別だ。こちらが抱える事情を神楽と共有する時間があるならば、少しでも事態解決のために行動した方がマシだと苗字は思っていた。

「私はこれ以上、あの人に何も背負わせたくないの」
「……そうか、分かった。これ以上は平行線だな」
「ごめんなさい、槙くん。あなたの気持ちは有難いと思っているんだけど」
「いや、俺の方こそ悪かった。苗字の頑固さは分かってたつもりなんだけどな」

神楽の周囲に優しい人が集まるのは、本人の心根が真っ直ぐで、何よりも言動の一つ一つに思い遣りが滲んでいるからなのだろう。 こちらが気を配るまでもなく、神楽は何があろうと胸を張って自分らしく生きていける人だ。己はただ職務を全うすることだけを見据え、全力を尽くせばいい。
槙と最低限の情報共有をした後、苗字は電話を切ってから胸に忍ばせていた手帳を開いた。びっしりと隙間なく並んだ文字列の中心に、一枚の栞がそっと横たわっている。それは、桜の押し花が二つ寄り添うように並んだ蒼い紙切れだった。最低限ラミネート加工をしただけの子どものお遊びは、晴天を思わせる柔らかな色で苗字を慰めているように見えた。

胸に巣食う感情を全て吹き飛ばすように大きく深呼吸をした後、苗字は仮眠を取るべく瞳を閉じる。ありもしないことを想像して思い悩むくらいならば、少しでも長く身体を休める方が有意義だろう。

その日の朝、苗字はいつも通り神楽に付き添い、アトリエでの業務をこなしていた。 スケジュール管理にお茶汲み、資材調達に書類作成。毎日同じことばかり熟しているが、日々少しずつ仕事を捌くスピードが上がっていることを苗字は実感していた。任務を終えたらファッション業界に関わることはないとは言え、この数週間で得た全てのことが無駄になる訳ではない。
個室にてデザイン画に向き合う神楽を視界の端に収めつつ、過去に開催された展覧会のデータをノートパソコンで確認する。必要な数字をメモした後、さっそく企画書の作成に取りかかろうとした瞬間、突如その音が苗字の耳に届いた。

───カチ、コチ、カチ、コチ。

神楽は、音が鳴るタイプの時計を作業場には置かない人だった。気が散るからという理由がなんとも彼らしいと考えた記憶があるのだが、今この瞬間においては背筋に悪寒が走る要因にしかならない。

幸いなことに苗字は耳が良い方だ。秒針が動く音かそうでない音かの判別は簡単につく。過去に届いていた脅迫状の内容を想起すれば、更に確信が深まっていった。

「亜貴様」
「何があった?」
声音の変化を察したのか、神楽もまた真剣な顔で対応してくれた。やはり頭の回転が早い護衛対象は楽だと考えながらも、苗字は次になすべき行動を思い描いていく。

「恐らく、この部屋に危険物が存在しています。アトリエの皆様を連れて避難をお願い致します」
「……分かった。全員を誘導した後にまた戻ってくる」
「もし戻ってこられた場合、私はあなたを叱らなければなりません」
「別にいいよ。君になら」

ボディーガードとしての信用が無いと言外に告げられたように思えて、反射的にぐっと眉根を寄せる。しかし即座にこれ以上の問答は無駄だと判断し、己の役割を全うするべく音の鳴る方へ身を翻した。神楽の気配が遠ざかるのを感じつつ、部屋の隅へ素早く足を進める。

まず白い壁に耳を当てる。───違う。壁の内部に存在するにしては音が明瞭すぎる。 次いで床に手をつく。───先程よりは近くなった。が、音の出処ではない。

募る焦燥感を抑え付けるために瞳を閉じ、そっと耳を澄ませる。壁を一枚隔てた先にあるような控えめな音だが、同時にそれは軽やかでありながら鋭さを秘めていた。
そして、はたと気が付く。ここまで反響音がクリアに聞こえる状況ならば、危険物は外気に広く触れている筈だ。たとえばお風呂のように、物が多い場所であるほどそこは音が跳ね返りやすい空間になる。
神楽の部屋は広々としているが、反響しやすい環境としての条件を満たす場所が唯一存在した。 壁の前に鎮座した本棚に足をかけ、バランスを崩さないように素早く立ち上がる。目の前にいくつも迫る絵画の一つ一つを丁寧に裏返していくと、最も高い場所にかけてあった額縁の裏、壁にぽっかりと空いた穴の中に目的のものがあった。 穴の周囲には硝子の欠片が僅かばかり散っている。備え付けられていた小さく可愛らしい扉が無残にも破壊されていた。

───ここ、覚えておいて。僕の大切なものが仕舞ってあるから。

神楽の柔らかな声を思い出し、苗字は瞬間的に歯噛みする。肌の表面をぞわりとなぞるような危機感に襲われるものの、既にもたもたしている余裕はなかった。 それが時限爆弾であること、タイムリミットまではかなり余裕があること、もし爆発したとしても小規模の被害で済むことを一通り確認した後、苗字は手元の携帯で上司へと電話をかけた。

「もしもし、こちら苗字です」
「おう、どうした?」
「アトリエにて爆発物を発見しました。至急手配をお願い致します」

分かった、と端的な返答をしてから上司はすぐに電話を切った。苗字は爆弾処理をする上で必要な資格を取得しているため、手続き自体はスムーズにいくのだ。 悪い想像を振り払うように深く息を吐き出して、苗字は眼前に広がる青空を眺めた。憎らしくなる程の快晴は昔からずっと、手元の栞と同じ色を宿していた。

爆発物の発見から数日後の朝、犯人が逮捕されたとの連絡が上司から入った。急な事件解決に戸惑いながら電話にて事情を聞けば、犯人はいきなり警察に出頭してきたのだと言う。 その正体は、アトリエのスタッフである女性だった。しかも、先日苗字にモデルの依頼のしてきた人である。

今日この瞬間をもって護衛任務は終了だと告げられ、苗字の胸に滲んだのは安堵ではなかった。言いようのない不安が背筋を駆け抜け、からからと口が乾いていく。 神楽の私室に爆弾が仕掛けられていたことで、アトリエのスタッフに内通者がいる可能性は一気に高まっていた。
しかし彼女の面差しには確かに、神楽への思い遣りが溢れていた筈だ。数週間しか接していない苗字でさえ、真面目で快活で優秀な人だと感じていた。 苗字に人を見る目がない、と言われてしまえばそれまでなのだが。

しかし、神楽の身を守り通せたならば良かったとひとまず息を吐いた瞬間、部屋の扉が勢いよく開かれた。 苗字は唯一の女性ボディーガードということで、一人きりの仮眠部屋が宛てがわれるという厚遇を受けていた。
それなのに急な訪問者が訪れたということは、何か緊急事態が発生したことを意味する。 部屋に押し入ってきたのは、険しい表情を浮かべた屈強な男性達だった。同僚でありながら業務連絡くらいしか言葉を交わしたことのない彼らが一目散に駆け寄り、乱暴に苗字の腕を掴む。

「何があったの?」

すぐに問いかけたものの、彼らは一様に顔を見合わせて口を噤んでいた。

「……苗字」

その様子に違和感を覚えた瞬間、自身の名前を重々しく紡ぐ声を苗字は聞いた。ここしばらく毎日聞いていたその透き通った声は、初めて耳にする硬さを帯びている。

「はい、亜貴様」
「さっき、犯人が共犯者について証言したって連絡があった」

神楽は色のない顔で苗字を見つめていた。 仕事終わりに見せる僅かばかり緩んだ表情、Revelの面々と会話する時に時折飛び出す拗ねたような顔、起き抜けに垣間見える子どものようなあどけない面持ち。細々と交流する中で発見していった彼の色々な顔が、全て崩れ落ちていくような感覚がした。

「……、まさか」
「苗字、君に容疑がかかってる。大人しくついてきてくれるよね?」

苗字は愚かにも、自分が陥れられた事実にようやく気が付いた。任務を引き受けてからの自身の行動を顧みれば、潔白を証明するのはさほど難しいことではないだろう。 だからこそ最も堪えたのは、何よりも守るべき神楽から非難の目を向けられてしまったという現状だ。

「……かしこまりました」

信じてほしいだなんて我が儘は思わない。だが、彼に更なる負担をかけてしまった罪悪感が心に重く伸し掛った。