神楽の携帯に一本の電話が入ったのは、苗字を屋敷の一室に放り込んだ直後のことだった。

ディスプレイに映った名前を見て、神楽は思わず舌打ちをしてから耳に当てる。

「羽鳥、くだらない用件だったら切るよ」
「大丈夫、名前ちゃんのことだから」
「……泉からの探りでも入った?」
「ご明察。神楽が睨んでた通り、例の事件の関係者として名前ちゃんの名前が挙がってるらしいよ。ひとまずは誤魔化したけど、強引に踏み込まれるのも時間の問題かも」

予想通りとはいえ、神楽は身体の芯が瞬く間に冷えていくような感覚を覚えた。 次いで、苗字が自分の前で見せていた不器用で下手くそな微笑を思い出す。今頃彼女がどのような思いでいるかと考えただけで、腸が煮えくり返るような気持ちになった。

「そう、分かった」
「……神楽、やっぱり行くんだ?」
「当然でしょ。桧山くん達には手出ししないように伝えておいて」
「うーん、残念ながらそうはいかないみたいなんだよね」
「は?」
「二人とも、現在進行形で犯人のアジトに乗り込む計画を立ててる最中。俺は、そんな二人の会話を聞きながら神楽家の屋敷の前で車を停めてるところ」
「…………馬鹿なの?」
「あはは、言うと思った。でも俺としてはさ、初恋の女の子のために頑張る神楽を応援したいんだよね」
「…………っ」

初恋という単語が耳を打った瞬間、神楽は思わず言葉を詰まらせてしまう。

「それじゃ、待ってるから」

自信満々に会話を切った羽鳥の態度を受けて、自然と大きな溜め息が零れ落ちた。

「……関わるなって言っても、どうせ無駄なんでしょ」

他人に干渉されるのも悪くないだなんて、らしくない思考が胸の片隅に転がり落ちる。

仕方がないな、と諦めて踵を返した瞬間、神楽は廊下の端からバタバタと激しい足音が響くのを耳にする。 神楽家の使用人にもボディーガードにも、緊急時以外は品位を損なうような振る舞いはするなと伝えてあった。つまり、神楽の前で粗暴な行動を取る程に、何か喫緊の事態が発生した可能性が色濃いのだろう。

「亜貴様!」
「何があったの」

苗字の同僚でもある数人の屈強な男たちが、焦ったように駆け寄ってきた。

「苗字が、何者かに攫われました……!」
「…………ッ」

先ほど苗字を放り込んだばかりの部屋の扉を勢いよく開けると、ものの見事にもぬけの殻だった。 自分があまりにも不甲斐なくて、神楽は思わず吐き気を覚える。しかしまだ、想定していた中で最悪の状況に至った訳ではない。 頭の中で散らばっていたピースを瞬時に繋ぎ合わせ、次にすべき行動を明確に定めていく。

「亜貴様。苗字の捜索は我々で致しますので、どうぞ屋敷にてお待ちくださいませ」
「その必要はないよ。むしろ、君たちには別件を頼みたいんだけど」
「……と、申しますと?」

不審そうな視線を全身に浴びても、神楽は一切怯むことなく睨み返した。

「僕、今の今まですぐそこで電話してたの。いくら意識が電話口に向いてるからって、成人女性ひとりがすぐ傍で攫われて気付かないとでも思う?」
「……そうですね、確かに不自然です」
「ましてや、苗字は僕のボディーガードだ。たとえ容疑がある身だとしても、不審者をこの僕に近付けるなんて状況を許す筈がない。だとすると、彼女を攫ったのは第三者じゃない。少なくとも彼女の知り合いであり、僕に対して大きな恨みを持った人物ということになる」
「…………」
「事前に、君たちの会社について色々調べさせてもらったんだけど。苗字の直属の上司の名前に見覚えがあってね。……うちと過去に取引があって、十年前に倒産した会社の御曹司だった男と同じだった」

苗字が強い女の子であることは痛いほどに知っていたが、それでも神楽は逸る感情を抑え込むことが出来なかった。

「───で、それを踏まえて質問するけど。苗字の誘拐に加担したのはどいつ?」
「…………ッ!」

無言のまま殴りかかってきた彼らの様子を見て、神楽は薄らと笑みを浮かべた。どうやら予想は当たっていたらしい。 ならば自分は、今すぐ彼女を迎えに行かなければならないだろう。

「慶ちゃんごめん、任せた」
「了解。任された」

密かに床へと仕込んであった透明のワイヤーによって、ボディーガードが一斉に体勢を崩した瞬間、槙は彼らの背中を軽やかに蹴り上げた。身軽である故に己の身体を操る術をよく理解した幼馴染は、昔からこれ以上ない程に頼もしくて仕方がない。
彼らが完全に怯んで床に伸びたのを見計らい、神楽は速やかに踵を返した。槙と二手に分かれ、同じ階に存在する玄関へと向かう。やがて合流した先には力強い微笑みが待っていて、自然と神楽の口角も上がった。

「亜貴、行くぞ!」
「うん」

すぐに屋敷の外へと飛び出し、二人は目の前に停車していた車へ飛び乗った。中では羽鳥が一人で優雅に待ち受けており、さすがに緊張感がないなと呆れてしまう。けれど、彼らがいつも通りの様子を見せてくれたお陰で、冷静な思考を取り戻せたのもまた事実だった。

「ふたりとも、お疲れ」

羽鳥の朗らかな声に合わせ、車は迷いなく走り出した。追手の気配が遠ざかるのを見てとると、神楽は大きな溜め息を吐いた。

「神楽、改めて確認するけど何処へ向かう?」

分かっているくせに、とは口に出さない。何故なら今回の目的地に限っては、神楽が指し示さなければならないものだからだ。

「ここから一番近い港の倉庫。具体的な場所は目星がついてるから、あとは僕に任せて」
「了解。それじゃ飛ばすよ」

元々、何かあった場合に備えて傍に控えていると申し出てくれていた槙。事実と異なる情報を神楽へ向けて提示し、間接的に危機が迫っていることを伝えてくれた羽鳥。そして、苗字の職場や警察に直接掛け合って事態解決に尽力してくれている桧山。
利害の一致によって集まった筈の自分たちが、いつの間にか互いの個人的な事情にまで踏み込む間柄になっていたことが不思議で、けれど決して悪くはないと思ってしまった。