08
苗字という名を与えられる前の『私』は、既に死んだも同然だった。
実の親から売り飛ばされてしまった自分なんて、一刻も早く忘れたいに決まっている。いくら社長令嬢として周囲からチヤホヤされた記憶があるとしても、金と引き換えに売られてしまった過去など、いの一番に捨て去るべきだった。
けれど、苗字には唯一忘れることができない思い出があった。
幼い頃に出会った初恋の男の子。彼は、ガサツで男勝りで落ち着きがないと叱られてばかりいた『私』を、「かわいい」と褒めてくれた。屈託のない笑みを向けて、手作りの栞をプレゼントしてくれた。「すきだよ」と、真っ直ぐに想いを届けてくれた。
───あきくんから貰った優しさの全てが、あの頃の『私』にとっては、あまりにも眩しくて堪らなかった。
自分が生まれた家はもう既に潰え、苗字は親類の行方も結局知らず終いだ。経営が難航して没落する金持ちなど、今時は珍しくもなんともない。自分は偶然、ほんの少しばかり不幸だっただけだと既に納得している。
『私』が売り飛ばされたのは、表向きはただの孤児院でありながら、人身売買の斡旋を行っている組織だった。だからこそ苗字は犯罪の片棒を担ぐ羽目になる前に、己の身一つで生計を立てるべく、必死に勉強をこなして現在の会社へと就職を果たした。
その時点で、苗字は彼のことを忘れるべきだった。 彼と共有した淡い思い出に囚われることなく、最低限のささやかな生活を守ることだけを考えていれば良かったのだ。 神楽亜貴を自らの手で守りたいなどと欲を出さなければ、きっと彼を危険にさらすこともなかったというのに。
血糊のような深紅のドレスを纏った自分が、鏡の向こうで懺悔するように青ざめていた。
「嗚呼、ああ……ッ! 名前、とても可愛らしいね。思った通りだ、似合っているよ」
このドレスは、デコルテや肩が剥き出しになっているものの、胸元は慎ましくフリルで覆い隠されている。色香と上品さを絶妙に演出しようとしているのだろう。 しかしそこには、着る者の背中をそっと支えるような温かな意思など一切感じない。女をいかに艶やかに着飾るかを念頭に置いた、吐き気を催すような欲ばかりが滲んでいる。
恍惚とした表情で苗字の肩を抱くのは、職場でよく気さくに話しかけてくれていた直属の上司だった。この男は、苗字を屋敷から攫い、着ていたスーツを切り裂いた末に、無理やりこのドレスを着るように強要してきたのだ。
いくら自衛の術を学んでいるとはいえ、屈強な複数の男性に囲まれてしまえば、苗字一人には太刀打ちが出来なかった。 着替えの最中、あまりにも惨めで情けなくて涙が出そうになったが、こんな奴の前で弱さを見せてはなるものかと何とか堪えた。
今ここで少し我慢すれば、いずれ不審に思った職場が対応してくれる筈だ。苗字は容疑者として名前が挙がっているのだから、警察の助けだって期待できるかもしれない。 少なくとも、この上司が自分に集中している間は、彼に被害が及ぶことはないのだ。
「……ねえ名前、何を考えているんだい?」
「あ……ッ、いえ。何も」
「嘘を吐かないでくれ。アイツのことだろう」
熱を帯びていた声が急激に冷えきったことで、名前の心臓はキリキリと音を立てる。 その鋭利な冷たさを濃縮したかのような小型ナイフを取り出したかと思えば、男は名前の首に刃を添え、薄皮を切り裂くように上下へと滑らせた。ちくりと刺すような痛みに顔を歪めた瞬間、微かに伝い落ちていく血の温みを生々しく感じてしまう。
「やはり名前には赤が似合う。昔からずうっとね、思っていたんだよ」
自分より一回りも年上の男から、背筋が凍るような執着心を向けられている。その事実を初めてまざまざと痛感して、苗字は思わず顔を歪めた。
「……あなたにとって私は、昔の婚約者に過ぎません。なのに何故こんなことを?」
「変なことを聞くんだねえ。きみの写真を一目見た瞬間から、オレはきみのことしか考えられなくなったっていうのに」
「…………」
『私』は、自分に婚約者がいることは知っていたものの、その容姿や名前は知らされていなかった。お見合い当日までのお楽しみだと両親は言っていたものの、元から『私』を売り飛ばす気だったのなら誤魔化したのも頷ける。
しかし、この男は『私』のことを元から知っていた。そして、一目で心が奪われたのだと言う。 仮にその話が真実だとするならば、長い年月を経て果たされた再会を運命だと思い込んでも不思議ではない。互いの家が没落した後に果たされた邂逅は、あまりにもドラマチックな展開だったのだろう。
もしもこの男が、『私』が彼に対して抱いていた想いを認知していたならば。神楽の護衛を引き受けた苗字を見て、どのように考えたかは想像に難くない。 神楽を誰よりも危険に晒していたのは、他でもない苗字自身だったのだ。
「名前、きみはいつもアイツのことばかりだね」
「……何をすれば、亜貴様から手を引いてくださいますか」
「それでは問おうか。どうすれば、アイツの存在をきみの中から消し去ることが出来る?」
消し去る。神楽亜貴を、自分の中から完全に捨て去る。 重くのしかかった言葉を胸の内に沈ませて、苗字は一人ゆるりと思考に耽った。
「私が何と言ったところで、あなたは納得しないのでは?」
「さすが名前は理解が早いなあ。そうだ、そうだよ。 ───既にきみの頭の中は、気が狂うほどに神楽亜貴でいっぱいなんだからねえ!」
「…………ッ」
ナイフの刃が苗字の眼前に迫る。粘着質な視線で不遠慮に自身の身体を舐め回されて、思わず恐怖で足が竦んだ。
「だからね。オレの存在を名前の中に刻み付けるためには、こうするしかないんだ」
その色のない瞳には、明確な殺意が滲んでいる。 ……自分一人の痛みで済むならば、いくらでもこの身を捧げてみせる覚悟はあった。 しかし、苗字が死んだと聞いた神楽は、責任を感じてしまうのではないだろうか。せめて、今回の件に巻き込んでしまったことに対して謝罪をするべきなのではないだろうか。
───未練がましいとは分かっているけれど。私の生きる意味になってくれたお礼を、きちんと伝えたくて堪らなかった。
「忘れません。私は、あなたのことを一生忘れません。だからもう、こんなことはやめませんか」
「そうしたら、きみはアイツの元へ行ってしまうんだろう?」
「……別れを告げに行くだけです」
「ダメだよ。ダメだ。だから心配しなくても平気さ、すぐにオレが後を追うからね」
死の危険は、すぐ間近にまで迫っていた。男が勢いよく振りかざしたナイフを避けるべく、苗字は咄嗟に横に翻って受け身を取った。 すると、ドレスの裾に刃を突き立てられて転んだ拍子に、腕を派手に擦りむいてしまう。男はその隙に苗字の背中へ伸し掛り、髪を掴んで首元に刃を押し当てた。
「ほら名前、ようやく二人きりになれたね」
「…………ッ」
───バゴォーン! と、豪快な音を立てながら目の前の扉が開くのを、苗字は呆然と眺めた。そして、すぐさま現れた彼の顰め面を目にした瞬間、鼻の奥がつんと痛むのを感じてしまう。
「あのさ。女の子の肌に傷をつけたのがどういう意味なのか、分かってる?」
名前にとって神楽亜貴は、出会ってからずっと焦がれて続けてきた男の子だったから。
実の親から売り飛ばされてしまった自分なんて、一刻も早く忘れたいに決まっている。いくら社長令嬢として周囲からチヤホヤされた記憶があるとしても、金と引き換えに売られてしまった過去など、いの一番に捨て去るべきだった。
けれど、苗字には唯一忘れることができない思い出があった。
幼い頃に出会った初恋の男の子。彼は、ガサツで男勝りで落ち着きがないと叱られてばかりいた『私』を、「かわいい」と褒めてくれた。屈託のない笑みを向けて、手作りの栞をプレゼントしてくれた。「すきだよ」と、真っ直ぐに想いを届けてくれた。
───あきくんから貰った優しさの全てが、あの頃の『私』にとっては、あまりにも眩しくて堪らなかった。
自分が生まれた家はもう既に潰え、苗字は親類の行方も結局知らず終いだ。経営が難航して没落する金持ちなど、今時は珍しくもなんともない。自分は偶然、ほんの少しばかり不幸だっただけだと既に納得している。
『私』が売り飛ばされたのは、表向きはただの孤児院でありながら、人身売買の斡旋を行っている組織だった。だからこそ苗字は犯罪の片棒を担ぐ羽目になる前に、己の身一つで生計を立てるべく、必死に勉強をこなして現在の会社へと就職を果たした。
その時点で、苗字は彼のことを忘れるべきだった。 彼と共有した淡い思い出に囚われることなく、最低限のささやかな生活を守ることだけを考えていれば良かったのだ。 神楽亜貴を自らの手で守りたいなどと欲を出さなければ、きっと彼を危険にさらすこともなかったというのに。
血糊のような深紅のドレスを纏った自分が、鏡の向こうで懺悔するように青ざめていた。
「嗚呼、ああ……ッ! 名前、とても可愛らしいね。思った通りだ、似合っているよ」
このドレスは、デコルテや肩が剥き出しになっているものの、胸元は慎ましくフリルで覆い隠されている。色香と上品さを絶妙に演出しようとしているのだろう。 しかしそこには、着る者の背中をそっと支えるような温かな意思など一切感じない。女をいかに艶やかに着飾るかを念頭に置いた、吐き気を催すような欲ばかりが滲んでいる。
恍惚とした表情で苗字の肩を抱くのは、職場でよく気さくに話しかけてくれていた直属の上司だった。この男は、苗字を屋敷から攫い、着ていたスーツを切り裂いた末に、無理やりこのドレスを着るように強要してきたのだ。
いくら自衛の術を学んでいるとはいえ、屈強な複数の男性に囲まれてしまえば、苗字一人には太刀打ちが出来なかった。 着替えの最中、あまりにも惨めで情けなくて涙が出そうになったが、こんな奴の前で弱さを見せてはなるものかと何とか堪えた。
今ここで少し我慢すれば、いずれ不審に思った職場が対応してくれる筈だ。苗字は容疑者として名前が挙がっているのだから、警察の助けだって期待できるかもしれない。 少なくとも、この上司が自分に集中している間は、彼に被害が及ぶことはないのだ。
「……ねえ名前、何を考えているんだい?」
「あ……ッ、いえ。何も」
「嘘を吐かないでくれ。アイツのことだろう」
熱を帯びていた声が急激に冷えきったことで、名前の心臓はキリキリと音を立てる。 その鋭利な冷たさを濃縮したかのような小型ナイフを取り出したかと思えば、男は名前の首に刃を添え、薄皮を切り裂くように上下へと滑らせた。ちくりと刺すような痛みに顔を歪めた瞬間、微かに伝い落ちていく血の温みを生々しく感じてしまう。
「やはり名前には赤が似合う。昔からずうっとね、思っていたんだよ」
自分より一回りも年上の男から、背筋が凍るような執着心を向けられている。その事実を初めてまざまざと痛感して、苗字は思わず顔を歪めた。
「……あなたにとって私は、昔の婚約者に過ぎません。なのに何故こんなことを?」
「変なことを聞くんだねえ。きみの写真を一目見た瞬間から、オレはきみのことしか考えられなくなったっていうのに」
「…………」
『私』は、自分に婚約者がいることは知っていたものの、その容姿や名前は知らされていなかった。お見合い当日までのお楽しみだと両親は言っていたものの、元から『私』を売り飛ばす気だったのなら誤魔化したのも頷ける。
しかし、この男は『私』のことを元から知っていた。そして、一目で心が奪われたのだと言う。 仮にその話が真実だとするならば、長い年月を経て果たされた再会を運命だと思い込んでも不思議ではない。互いの家が没落した後に果たされた邂逅は、あまりにもドラマチックな展開だったのだろう。
もしもこの男が、『私』が彼に対して抱いていた想いを認知していたならば。神楽の護衛を引き受けた苗字を見て、どのように考えたかは想像に難くない。 神楽を誰よりも危険に晒していたのは、他でもない苗字自身だったのだ。
「名前、きみはいつもアイツのことばかりだね」
「……何をすれば、亜貴様から手を引いてくださいますか」
「それでは問おうか。どうすれば、アイツの存在をきみの中から消し去ることが出来る?」
消し去る。神楽亜貴を、自分の中から完全に捨て去る。 重くのしかかった言葉を胸の内に沈ませて、苗字は一人ゆるりと思考に耽った。
「私が何と言ったところで、あなたは納得しないのでは?」
「さすが名前は理解が早いなあ。そうだ、そうだよ。 ───既にきみの頭の中は、気が狂うほどに神楽亜貴でいっぱいなんだからねえ!」
「…………ッ」
ナイフの刃が苗字の眼前に迫る。粘着質な視線で不遠慮に自身の身体を舐め回されて、思わず恐怖で足が竦んだ。
「だからね。オレの存在を名前の中に刻み付けるためには、こうするしかないんだ」
その色のない瞳には、明確な殺意が滲んでいる。 ……自分一人の痛みで済むならば、いくらでもこの身を捧げてみせる覚悟はあった。 しかし、苗字が死んだと聞いた神楽は、責任を感じてしまうのではないだろうか。せめて、今回の件に巻き込んでしまったことに対して謝罪をするべきなのではないだろうか。
───未練がましいとは分かっているけれど。私の生きる意味になってくれたお礼を、きちんと伝えたくて堪らなかった。
「忘れません。私は、あなたのことを一生忘れません。だからもう、こんなことはやめませんか」
「そうしたら、きみはアイツの元へ行ってしまうんだろう?」
「……別れを告げに行くだけです」
「ダメだよ。ダメだ。だから心配しなくても平気さ、すぐにオレが後を追うからね」
死の危険は、すぐ間近にまで迫っていた。男が勢いよく振りかざしたナイフを避けるべく、苗字は咄嗟に横に翻って受け身を取った。 すると、ドレスの裾に刃を突き立てられて転んだ拍子に、腕を派手に擦りむいてしまう。男はその隙に苗字の背中へ伸し掛り、髪を掴んで首元に刃を押し当てた。
「ほら名前、ようやく二人きりになれたね」
「…………ッ」
───バゴォーン! と、豪快な音を立てながら目の前の扉が開くのを、苗字は呆然と眺めた。そして、すぐさま現れた彼の顰め面を目にした瞬間、鼻の奥がつんと痛むのを感じてしまう。
「あのさ。女の子の肌に傷をつけたのがどういう意味なのか、分かってる?」
名前にとって神楽亜貴は、出会ってからずっと焦がれて続けてきた男の子だったから。