09
神楽が倉庫に踏み込んだ次の瞬間には、警察やRevelの面々が周囲を取り囲み、あっさりと事態が解決した。 いくら警備会社に勤務している男とはいえ、武装した警察と真正面から対峙して敵う筈もない。苗字の名を激しく叫びながら暴れていたものの、最終的には大人しく取り押さえられていた。
「苗字」
「……亜貴、さま」
神楽は真っ直ぐにこちらへと駆け寄り、着ていたジャケットを苗字の肩に羽織らせる。すっかり冷えきった肌に温もりが滲んで溶けて、胸の奥にやわらかな灯がともっていく。 その間にも、神楽はむっつりと不機嫌そうな表情を隠そうとしなかった。
「まずはきちんと着替えて、それから病院ね。話したいことは山ほどあるけど、僕の好きな女の子に傷が残ったら大変だから」
「はい、申し訳ありませ…………?」
「なに?」
「あ、いえ……。その、泉様の怪我は大丈夫なのでしょうか」
「はあ?」
「『私』の両親が薬物取引に関わっていた、という情報は個人的に掴んでいました。もしも彼らが私の上司と繋がって神楽家に危害を加えようとしていたならば、彼女の身にも何か……?」
「…………」
苗字は責任を感じて真剣に問いかけたのだが、神楽から返ってきたのは盛大なため息のみだった。
「泉は怪我なんてしてないよ」
「そう、ですか。それならば良かったのですが……、……?」
「名前」
先程、何か聞き捨てならないことを言われなかっただろうか。 思索に耽る前に熱を帯びた声に名を呼ばれて、ぐっと息が詰まる。まるで慈しむように首筋をゆったりと撫ぜられて、頭が沸騰してしまうかと思った。 彼に伝えたかったことは山ほどあった筈なのに、何一つとして言葉にならない。そんな苗字の戸惑いを全て受け止めるかのごとく、彼の瞳がゆるりと細まっていく。
「……君って本当に、昔から僕のことが好きだよね」
神楽は吐息を散らすように緩く笑んで、苗字を優しく抱き締めた。 彼が全てを覚えていたことを悟って、苗字もまた小さく笑う。ガサツで男勝りで落ち着きがなかった『私』は、どうやら今もまだこの胸の中に息づいているらしい。
「はい。あなたが好きで堪らなくて、こうして触れ合う度にますます好きになってしまうんです」
「…………っ。男の腕の中にいる時くらい、少しは静かに出来ないの?」
「せっかくあなたが私だけを見つめてくれる瞬間なのに、黙っているだなんて勿体ないと思いません?」
「生意気」
「お互い様です」
やわく視線が重なって、そっと額を重ね合わせた。 ようやく初恋の人と再び巡り会えたのだ、と。名前の胸は、鮮やかな喜びに満ちあふれていた。
───数日後。警察による事情聴取から解放された名前は、神楽家の屋敷に招かれていた。 関係各所への謝罪は勿論のこと、会社への辞表も提出し終えたため、比較的清々しい気持ちで足を運ぶことが出来た。
名前を容疑者と糾弾したアトリエのスタッフは、『私』の両親から、家族を盾にされて脅されていたのだと語った。泣きながら謝ってきた彼女の顔を見て、名前も共に泣いてしまったことは、こっそりと胸に秘めておきたい。
しかし、私服姿で彼の前に姿を見せるなんて子どもの頃以来だ。散々悩み抜いた末、シンプルなワンピースを選んだのだが、不自然ではないだろうかと僅かばかり不安ではある。 すっかり顔馴染みとなった神楽家の使用人に導かれ、名前は彼の私室の前で唸っていた。大きく深呼吸をした後、覚悟を決めつつノックをすると、数瞬経たない内に中から呆れたような顔が覗いた。
「遅い」
「も、申し訳ありません……」
素早く踵を返した彼に続いて、そそくさと足を踏み入れる。
「あ、そうだ。言ってなかったけど、君クビだから」
「……そ、そうですよね。はい、私が亜貴様のボディーガード失格なのは承知の上ですので」
「だから敬称はなしね。敬語もなし。僕が言ったことに対して『はい』以外の返事は認めないから」
「それはさすがに横暴では……、ない、じゃない、かな?」
我ながら変な言葉遣いになってしまったと落ち込んでいると、彼が頭上でフッと笑う声がした。
「まず一つ目。───結婚を前提に、僕とお付き合いしてくれませんか」
息が止まってしまうかと思った。 驚愕した拍子に顔を上げると、澄み渡った青空をバックに微笑む彼の姿が目に飛び込んでくる。いつの日か、彼がプレゼントしてくれた栞の温かさを思い出して、名前の目頭は熱くなっていった。
「…………、はい」
「うん、上出来。それで、今度は一緒に散歩がしたいんだけど」
「さ、散歩を……?」
「名前がこれから何をしていきたいのか、どんな未来を夢を見ているのか。全部聞かせてよ」
そっと差し出された掌に自分のそれを重ねると、思わず口元が綻んでしまう。 自らの仕事を通じて、今まで数多くの夢を後押ししてきた彼の優しさが、心にじわりと沁み渡る。
「…………あ、亜貴くん」
「ん。なあに」
震える声を絞り出した名前を笑うことなく、彼は目元をゆるりと下げた。
「私はずっと、あなたのことが好きでした」
春の麗らかな陽射しが滲む中、『私』の初恋はようやく終わりを迎えた。 二人の心に降り積もっていた重たい雪が、やさしく溶けてゆく音がした。
「苗字」
「……亜貴、さま」
神楽は真っ直ぐにこちらへと駆け寄り、着ていたジャケットを苗字の肩に羽織らせる。すっかり冷えきった肌に温もりが滲んで溶けて、胸の奥にやわらかな灯がともっていく。 その間にも、神楽はむっつりと不機嫌そうな表情を隠そうとしなかった。
「まずはきちんと着替えて、それから病院ね。話したいことは山ほどあるけど、僕の好きな女の子に傷が残ったら大変だから」
「はい、申し訳ありませ…………?」
「なに?」
「あ、いえ……。その、泉様の怪我は大丈夫なのでしょうか」
「はあ?」
「『私』の両親が薬物取引に関わっていた、という情報は個人的に掴んでいました。もしも彼らが私の上司と繋がって神楽家に危害を加えようとしていたならば、彼女の身にも何か……?」
「…………」
苗字は責任を感じて真剣に問いかけたのだが、神楽から返ってきたのは盛大なため息のみだった。
「泉は怪我なんてしてないよ」
「そう、ですか。それならば良かったのですが……、……?」
「名前」
先程、何か聞き捨てならないことを言われなかっただろうか。 思索に耽る前に熱を帯びた声に名を呼ばれて、ぐっと息が詰まる。まるで慈しむように首筋をゆったりと撫ぜられて、頭が沸騰してしまうかと思った。 彼に伝えたかったことは山ほどあった筈なのに、何一つとして言葉にならない。そんな苗字の戸惑いを全て受け止めるかのごとく、彼の瞳がゆるりと細まっていく。
「……君って本当に、昔から僕のことが好きだよね」
神楽は吐息を散らすように緩く笑んで、苗字を優しく抱き締めた。 彼が全てを覚えていたことを悟って、苗字もまた小さく笑う。ガサツで男勝りで落ち着きがなかった『私』は、どうやら今もまだこの胸の中に息づいているらしい。
「はい。あなたが好きで堪らなくて、こうして触れ合う度にますます好きになってしまうんです」
「…………っ。男の腕の中にいる時くらい、少しは静かに出来ないの?」
「せっかくあなたが私だけを見つめてくれる瞬間なのに、黙っているだなんて勿体ないと思いません?」
「生意気」
「お互い様です」
やわく視線が重なって、そっと額を重ね合わせた。 ようやく初恋の人と再び巡り会えたのだ、と。名前の胸は、鮮やかな喜びに満ちあふれていた。
───数日後。警察による事情聴取から解放された名前は、神楽家の屋敷に招かれていた。 関係各所への謝罪は勿論のこと、会社への辞表も提出し終えたため、比較的清々しい気持ちで足を運ぶことが出来た。
名前を容疑者と糾弾したアトリエのスタッフは、『私』の両親から、家族を盾にされて脅されていたのだと語った。泣きながら謝ってきた彼女の顔を見て、名前も共に泣いてしまったことは、こっそりと胸に秘めておきたい。
しかし、私服姿で彼の前に姿を見せるなんて子どもの頃以来だ。散々悩み抜いた末、シンプルなワンピースを選んだのだが、不自然ではないだろうかと僅かばかり不安ではある。 すっかり顔馴染みとなった神楽家の使用人に導かれ、名前は彼の私室の前で唸っていた。大きく深呼吸をした後、覚悟を決めつつノックをすると、数瞬経たない内に中から呆れたような顔が覗いた。
「遅い」
「も、申し訳ありません……」
素早く踵を返した彼に続いて、そそくさと足を踏み入れる。
「あ、そうだ。言ってなかったけど、君クビだから」
「……そ、そうですよね。はい、私が亜貴様のボディーガード失格なのは承知の上ですので」
「だから敬称はなしね。敬語もなし。僕が言ったことに対して『はい』以外の返事は認めないから」
「それはさすがに横暴では……、ない、じゃない、かな?」
我ながら変な言葉遣いになってしまったと落ち込んでいると、彼が頭上でフッと笑う声がした。
「まず一つ目。───結婚を前提に、僕とお付き合いしてくれませんか」
息が止まってしまうかと思った。 驚愕した拍子に顔を上げると、澄み渡った青空をバックに微笑む彼の姿が目に飛び込んでくる。いつの日か、彼がプレゼントしてくれた栞の温かさを思い出して、名前の目頭は熱くなっていった。
「…………、はい」
「うん、上出来。それで、今度は一緒に散歩がしたいんだけど」
「さ、散歩を……?」
「名前がこれから何をしていきたいのか、どんな未来を夢を見ているのか。全部聞かせてよ」
そっと差し出された掌に自分のそれを重ねると、思わず口元が綻んでしまう。 自らの仕事を通じて、今まで数多くの夢を後押ししてきた彼の優しさが、心にじわりと沁み渡る。
「…………あ、亜貴くん」
「ん。なあに」
震える声を絞り出した名前を笑うことなく、彼は目元をゆるりと下げた。
「私はずっと、あなたのことが好きでした」
春の麗らかな陽射しが滲む中、『私』の初恋はようやく終わりを迎えた。 二人の心に降り積もっていた重たい雪が、やさしく溶けてゆく音がした。