その村には、古くから妖狐伝説が根付いていた。

遙か昔、天災により荒れ果てた土地に突如として現れた狐は、人に化け、不思議な力で豊穣をもたらし、土地神として人々を守りぬいたという。だからこそ村人は、一般的な稲荷信仰では単なる神の遣いと見なされがちな彼らを、心から尊崇し、愛慕すらしていたのだ。

年に一度、村を挙げて行う祭礼では、感謝を表す演舞を妖狐に捧げている。舞手は、村の巫女が選定する童だ。幼子の清く美しい魂と肉体が重なり合った、稚拙ながらも清純さが滲むその儀式は、村人達の信仰心を更に確固たるものとした。

このような言い伝えが残っている。望月の下において、黄金色の身体を自由に躍らせる狐様の姿を目にした者は、生涯その恩恵を一身に受けるという。満月が空に浮かぶ夜には、誰もが山の端を見据えては、狐様が降りてきやしないかとそわそわするそうな。

───未来永劫、彼らへの渇仰が失われることはないと、たしかに村人は信じていたのだ。



犬飼現八は、上層部からの指令が記された紙を見て嘆息する。就業後に部下が出払った職場を見回せば清々しい気分にさえなるものだが、今日ばかりは職場の机で片肘をつき、面倒な事になったと独り言ちた。

異性が見れば思わず溜め息が出るほどに美しく均整のとれた肉体と、右頬にある牡丹の痣さえ色気を感じてしまうほどに眉目秀麗な顔立ち。過去に死線を潜り抜けた逸話を持ち、現在は憲兵隊長として街の安全を維持するために働く現八は、帝都において高い知名度を誇っていた。だがいくら数多の女性から熱い視線を注がれても、由緒正しい良家の娘に縁談を申し込まれたとしても、現八は一切関心を持たなかった。

犬飼現八は、途轍もなく弱虫で軟弱で身勝手で、それでいて臆病な男だった。周囲と距離を置き、けれど必要最低限の人間らしい生活は送りながら、現八は傷だらけの荒んだ心を無造作に扱っていた。
これ以上無い程にボロボロとなった状態では新たに傷などつくわけが無かったし、何よりも、二年前に偶然ながら手に入れた不死身の身体は、首を掻き切ったところで現八に死という救いすら与えようとしないのだ。絶望という言葉すら生ぬるく感じるほどの暗澹とした思いは、日々着々と巣食い、蔓延り、現八の瞳を濁らせる。それは、最早自分の生すらどうでもいいと感じるまでになっていた。

───南方の村で横行する、失踪事件の真相を究明せよ。

だからこそ、帝都から遠く離れた村に興味など引かれる筈もない。しかし同時に、上から命令された任務を放棄するほどの意思の強さも、現八には無かった。

乳兄弟が夜食にと持たせてくれた握り飯を頬張りながら、指令書を裏返して鞄に仕舞い込む。ふと目線を窓の外に投げると、漆黒の夜空に月が浮かび上がっているのが見えた。不自然なほどに明るく輝くその姿を目にしたところで、現八の胸には何の感情も湧かない。憲兵としての外聞は取り繕えても、何かを美しいと思う心は二度と取り戻せそうにないと、現八はひとり自嘲するばかりだった。



華やかな街並みでありながら、驚くほど自然に妖や神獣といった異形の存在が闊歩する帝都。その一画に位置する老舗旅館の古那屋に、とある医者が訪れていた。

意思の強そうな大きな瞳に、艶やかな濡れ羽色の腰まで届く長髪、知的な印象を受けつつもどこか色気を感じる微笑。華やかな金の刺繍が目立つ赤地の着物は、清楚さが滲む白衣と共に彼女の美しさを更に引き立てている。滅多にお目にかかれない程のとんでもない美人に緊張しつつも、古那屋の跡取り、犬田小文吾は落ち着いて接客をしようと努めていた。

「ようこそいらっしゃいました。お一人様ですか?」
「はい。本日は、犬飼現八様にお招きいただきまして」

自分の乳兄弟の名前が出たことで、小文吾は内心ガックリと項垂れる。馬鹿みたいに頑固な兄貴のことだからきっと仕事の関係者なのだろうが、彼女の様子はどこか嬉々としていた。これだから顔のいい男は嫌なんだ、と毒づいたところで、彼女が小文吾の背後に笑みを向ける姿が視界に映る。

「わざわざご足労をおかけして申し訳ない、里見医師」

噂の現八登場である。心の中では不貞腐れながらも、小文吾は笑みを貼り付けて成り行きを見守ることにした。

「いいえ。お会い出来て嬉しいです、犬飼様」
「では早速だが、客間に来て頂いて詳しいお話を」
「その必要はございません」

麗しい微笑みを湛えたままぴしゃりと放たれた言葉に、現八が一瞬硬直したことが傍目からも分かった。見た目とは相反し、なかなか肝が据わっているなと小文吾は感心する。

「稲荷信仰の根付く村における、神隠しの真相究明でしょう。既に詳細は伺っています」
「神隠し? 今回は、単なる失踪事件でしかない筈だが」
「いいえ犬飼様。怪異の仕業と分かっている案件ならば、神隠しと呼ぶべきです」

一瞬凍りついた場の空気にあてられ、小文吾もまた身を震わせた。その間も、彼女の表情はぴくりとも変化しない。

「……貴女は何をご存知なのだろうか」
「道中にてお話し致します。さて、私の準備は既に出来ておりますので、今すぐにでも出立可能ですよ」
「あ、ああ。それは有難い。しかしまずは部下への引き継ぎを済ませに行かなければならないので」
「その点はご心配なく。基本的には、見回りと事務仕事のみというじゃありませんか。私が先ほど職場へお伺いして、犬飼様が暫く不在になる旨をお伝え致しました。皆様任務のことは事前に知っていらっしゃったようで、説明も滞りなく済みましたよ」

現八がここまで困惑した表情をするのも珍しい。端からこっそりと観察しつつ、小文吾は驚いた。上っ面すらも繕えていなかった二年前よりは、兄貴も人間らしい感情を表に出せるようになったということか。

「それでは里見医師。準備が済むまで客間でお待ち頂いても大丈夫だろうか」
「待つことは構いません。ですが、私のことを里見と呼ぶのはお止めくださいませ」
「だが初対面の女性を馴れ馴れしく呼ぶのは、」
「私は、女だからと見下される事は嫌いです」

彼女の絶えない笑みとよく回る舌は、小文吾の母であり古那屋の女将である小夜子の強かさに通じるものを感じた。身震いしながら兄に同情していた小文吾の姿を、彼女の透き通った黄金色の瞳が不意に捉える。美人に見つめられている現状に緊張しつつ、何故か抱いた既視感の在処を頭の中で探していると、更なる爆弾がさらりと投下された。

「さあ、犬田様も共に参りましょう。早くご準備くださいな」
「………はあ!?」