すべてをたいらげるまで
※大学生設定
手を繋いだときに感じる、彼のちょっとひんやりした体温は、嫌いじゃなかった。
大学の講義のとき、低血圧で朝起きるのが苦手だと言う靖友は、いつも眠そうな表情で淡々とノートをとっていた。そして時折思い出したように、誰にも見られないであろう机の下で、私の手をそっと握ってくる。教授の話が脇道に逸れた途端、見計らったようにそっと指先を絡めてくるのだ。
とても寂しいことだけれど、私たちの恋人としての触れ合いは、その講義時間くらいなものだった。体育会の自転車競技部で毎日練習をこなし、空いた時間はひたすらバイトへ時間を費やす男と付き合っているのだから、それぐらいは当然なものだと納得していた。私だって、サークルにバイトに勉強に追われているわけで、たまの休みにも午前中ずっと寝汚く眠りこけているばかりである。そんな日に限って靖友はお昼すぎに電話をかけてきて、規則正しい生活をしろと煩く小言ばかり口にするものだから、いけないとは分かっていながらも、鬱陶しく思ってしまう事があった。
靖友と付き合いだしたのは、大学一年生の六月からだった。高校からの友人に無理やり連れて行かれた合コンで、同じく高校からの顔見知りであった彼と初めてちゃんと話をしたのだ。目に見えて分かりやすく、不器用に口説いてくる靖友の姿に、思わず絆されてしまったところはある。けれど、その後三年半も一緒にいれば自信を持って好きだと言える程の想いにはなったし、いつだって努力し続ける彼のことをとても尊敬していた。無事に就活も終え、再び自転車一筋の生活に戻っていった靖友の真っ直ぐな性格も、嫌いじゃなかった。けれど同じくらい、これ以上一緒に歩いて行ける自信も、私には無かったのだ。
別れよう、とただ一言告げるだけで良かった。そうすれば、靖友はこれからも変わらず自転車に打ち込めるし、私も彼の小言を鬱陶しく思うことなんて無くなる。学生時代ですらまともにデートすら出来ないならば、社会人になったとき、この関係を続けられなくなる瞬間は必ず訪れるだろう。これ以上彼の負担になるだなんて、正直真っ平御免だった。
私の考えを知れば、靖友はただ一言、バカと口にするだろう。そして全ての事を有耶無耶にしたまま、現実から目を背け続けながら、これからも私の掌を握りしめてくるのだ。お酒が飲めるようになって、煙草が吸えるようになって、来年からは自分でお金を稼ぐようになる。周囲の環境が目まぐるしく変わり続ける中で、私たちの関係だけがそのままでいい訳が無い。
とある冬の日の午後。大学近くの喫茶店で、一人ぼんやり窓の外を眺めていると、雪が降ってきた事に気づく。そこまで積もることは無いだろうけど、路面が滑ってしまい、自転車競技の練習はまともに出来ないだろう。私は、彼の練習時間を削ってしまう罪悪感が、少しだけ薄れていくのを感じた。
「名前チャン、いっつもその席だよネ」
背後からかけられたその掠れた声に、私はそっと振り向いて微笑んだ。鼻を真っ赤に染め、黒いマフラーに顔を埋めた靖友は、ジャージのまま慣れたように私の前にさっと座る。入口のドアから一番遠い窓際の席が、私のお気に入りだった。彼がいつも練習で走り続ける公道が、すぐ近くに見えるのだ。
「折角だから景色を楽しみたいし、何より今の時期は寒いから」
「つっても、此処あんまり暖房当たんねえけどォ?」
「あ、寒い? だったら移動しても、」
「別に俺はいーんだヨ。それよりオマエ、この間まで風邪引いてただろ」
首元のマフラーを徐に外すと、靖友は僅かばかり腰を浮かせて、私の首にそっと巻きつける。豪快で不器用な手つきが彼らしくて、少しだけ笑ってしまった。しかしこの優しさは、今の私にとって何よりこたえた。近くに感じる靖友の顔を直視できなくて、思わず目を伏せてしまう。それを照れ隠しと受け取ったのか、彼は特に何も言わないまま離れて、再び大人しく席に着いた。
「午前中は練習だったんだよね。どうだった?」
「別にィ。フツーにローラー台回してただけだヨ」
「そっか。今日も頑張ってきたんだね。えらいえらい」
子ども扱いすんな、と不満そうに口を尖らせる彼の表情が、不思議と輝いて見えた。靖友と共にいる時間があまり特別だと感じなくなってから、どれほど経つのだろう。もう分からないくらい、一緒に過ごしてきたってことなのかな。
その後、お茶を飲みながらお互いの近況や今後の身の振り方について軽く会話しながら、私は話題を切り出すタイミングを見計らっていた。緊張からかどこか硬い表情になってしまう私につられてか、靖友も何となく忙しない様子だった。
「名前、」
「ん、どうしたの?」
「やる」
ぶっきらぼうに短く言ってから、彼は唐突に小さな箱を取り出した。深い青みを帯びたその外見は、神聖な空気を纏っているかのように、テーブルの上で異彩を放っている。
「それは……?」
震える手をそっと握りこみながら、私は尋ねる。靖友は、どことなく照れくさそうにそっぽを向きながら答えた。
「今日で三年半だろ、俺たち」
その言葉で、すべてを悟ってしまった。彼が、私に対して変わらない想いを抱きながら、結婚という未来さえ考えていることも。でも、だからこそ、私には言わなければならない事があった。
「ごめんね靖友。これは、……受け取れない」
俯きながら、拒否するようにその箱を彼の元まで押し出す。予想に反して、声は震えなかった。
「―――他に、好きな男でも出来たのかヨ」
「ううん」
「俺のこと、嫌いになったか」
「ううん」
「……でも、俺と別れたいんだろ」
淡々と、尋問するかのように言葉を重ねる靖友に、思わず息が詰まる。思い切って顔をあげると、傷ついたように顔を強張らせた彼に、勢いよく手首を掴まれた。
「ちゃんと言えヨ。俺に飽きたって、鬱陶しいって、嫌いになったから付き合ってらんねえって」
「言えない、よ。だって私、そんなこと思ってない」
「……、なら何で、」
ぽつりと零れ落ちた弱々しい問いかけに、喉の奥がきゅっと絞まるような息苦しさを覚えた。
「靖友は何も悪くないの」
「……ンなわけねえだろ」
「ううん、違うよ。私に、これからも隣にいる自信がないだけだから。自転車だけじゃなくて、私のことも優先してって言える勇気がないから」
言い訳みたいに並べ立てた台詞だったけれど、間違いなくすべて、私の本心だった。でも私はちゃんと言わなければならなかった。これ以上、自分の勝手で彼を傷つけるわけにはいかない。
「この三年半で、どれだけ私のために練習の時間を犠牲にした? どれだけ、自分のやりたい事を我慢した? 金城くんから、靖友はいつも寝不足気味なんだって、私聞いてたよ」
「俺は、無理なんてしてねえ」
「それでも私は、このまま靖友と一緒にいるのが辛いよ。いつか、私の存在が負担になる事を想像すると、怖くて仕方ないよ」
私は、どこまでも自分勝手だ。結局は、自分が怖いから、彼の隣で笑い続けている自信が無いから、逃げ出そうとしているだけなのだ。こんな私こそ、靖友に鬱陶しく思われてしまうに違いない。サークルも勉強もバイトも就活も、私なりに一生懸命やって、それなりに結果を残せたとは思う。けれど、彼と同じ土俵に立てるほど、血の滲むような努力をした経験が、私にはない。彼氏に劣等感を抱く彼女なんて、重荷になるに決まっているのだ。
「名前」
「……うん」
「来年になったら、一緒に住むぞ」
罵声を浴びせられることも、テーブルをひっくり返される事も覚悟していた。正直、高一のときのヤンキー姿は未だに印象が強くて、たまに喧嘩するときだって時々見え隠れする面影に怯えるくらいだったから。しかし予想に反して、優しさすら滲んだ表情で私を見つめる眼差しは、真剣で、力強かった。
「靖友って、そんなに馬鹿だったっけ……」
「うっせーな。そんなくだらねえ不安なんて、一緒にいりゃ何とかなんだろ」
「な、何とかならないから、別れようって言ってるの!」
「でも俺は納得できねえ。俺のことが好きなくせに、勝手に一人で離れようとすんなよボケナス」
「ただ単に好きってだけじゃ、一緒にいられない、でしょ」
込み上げる涙を必死に押さえつけながら鼻声で語調を荒げた私に、靖友は私の手首を掴む力を僅かに緩めて、強引に口付けてきた。夢かと思うくらい一瞬の触れ合いの後、至近距離で彼が再びバカと呟く。そんな風に、切なさが滲んだ表情を見るのは初めてで、胸が裂けるような、じくじくとした痛みを覚えた。
「俺は、叶えられない未来なんていらねえ。だからオマエも、俺との未来を勝手に諦めんな」
「……バカは、そっちじゃない」
「うっせ。別にオマエは、いくらでも不安になっていいんだヨ。だけど覚えとけ。何があろうと、最後は必ず、俺のトコに帰ってこい」
「……、私はペットか」
「違えよ。未来の嫁」
靖友は、私の左手に指を絡めながら、ゆっくりと指の腹で薬指を撫でつけた。ふと覚えた違和感に手元を見ると、光る銀の輪が目に入る。一瞬、息が止まるかと思った。
いつの間に嵌めたの。そんな問いかけは、喉の奥から込み上げる嗚咽で言葉にならなかった。こんな気障なやり方、そこで覚えてきたんだろう。私のために、どこまで尽くしてくれれば済むんだろう。涙で滲んだ視界の中でも、靖友が幸せそうに笑うのが分かった。私の存在で、彼が笑ってくれるなら、これ以上幸せな事はないと思う。そこまで考えて、私は気付く。私、昔よりずっとずっと、靖友のことが大好きだ。
「名前。結婚するぞ」
繋がる掌の熱は、いつもよりずっと温かい。二人でいれば、体温だってこんなに変わるんだ。変化を恐れて、その手を自分から取ろうとしなかった私の方が、彼よりもずっとずっと、大馬鹿者だった。
現実に考えれば、社会人一年目で結婚なんて出来るわけが無いのだ。けれど靖友は、私の感じている不安を全部分かった上で、一緒に背負おうとしてくれている。数年後に訪れるであろう未来を、私に約束してくれている。その誠実さが、痛いほど心に沁みた。
一生かかっても消せないだろう私の不安を、彼は今、必死に喰らおうとしてくれている。その事が痛いほどに分かったから、私も自分なりの誠意を見せなければならないと思った。別れ話がただの痴話喧嘩に変わってしまったことに内心笑いながら、私は靖友の手を取って、自分からゆっくりと顔を近づける。
「……よろしくお願いします」
至近距離で小さく呟いてから、その日二度目のキスを交わした。驚いたように、けれど満足気に笑っている靖友を見て思う。どうやら私は、これからも彼の隣にいる運命らしい。
手を繋いだときに感じる、彼のちょっとひんやりした体温は、嫌いじゃなかった。
大学の講義のとき、低血圧で朝起きるのが苦手だと言う靖友は、いつも眠そうな表情で淡々とノートをとっていた。そして時折思い出したように、誰にも見られないであろう机の下で、私の手をそっと握ってくる。教授の話が脇道に逸れた途端、見計らったようにそっと指先を絡めてくるのだ。
とても寂しいことだけれど、私たちの恋人としての触れ合いは、その講義時間くらいなものだった。体育会の自転車競技部で毎日練習をこなし、空いた時間はひたすらバイトへ時間を費やす男と付き合っているのだから、それぐらいは当然なものだと納得していた。私だって、サークルにバイトに勉強に追われているわけで、たまの休みにも午前中ずっと寝汚く眠りこけているばかりである。そんな日に限って靖友はお昼すぎに電話をかけてきて、規則正しい生活をしろと煩く小言ばかり口にするものだから、いけないとは分かっていながらも、鬱陶しく思ってしまう事があった。
靖友と付き合いだしたのは、大学一年生の六月からだった。高校からの友人に無理やり連れて行かれた合コンで、同じく高校からの顔見知りであった彼と初めてちゃんと話をしたのだ。目に見えて分かりやすく、不器用に口説いてくる靖友の姿に、思わず絆されてしまったところはある。けれど、その後三年半も一緒にいれば自信を持って好きだと言える程の想いにはなったし、いつだって努力し続ける彼のことをとても尊敬していた。無事に就活も終え、再び自転車一筋の生活に戻っていった靖友の真っ直ぐな性格も、嫌いじゃなかった。けれど同じくらい、これ以上一緒に歩いて行ける自信も、私には無かったのだ。
別れよう、とただ一言告げるだけで良かった。そうすれば、靖友はこれからも変わらず自転車に打ち込めるし、私も彼の小言を鬱陶しく思うことなんて無くなる。学生時代ですらまともにデートすら出来ないならば、社会人になったとき、この関係を続けられなくなる瞬間は必ず訪れるだろう。これ以上彼の負担になるだなんて、正直真っ平御免だった。
私の考えを知れば、靖友はただ一言、バカと口にするだろう。そして全ての事を有耶無耶にしたまま、現実から目を背け続けながら、これからも私の掌を握りしめてくるのだ。お酒が飲めるようになって、煙草が吸えるようになって、来年からは自分でお金を稼ぐようになる。周囲の環境が目まぐるしく変わり続ける中で、私たちの関係だけがそのままでいい訳が無い。
とある冬の日の午後。大学近くの喫茶店で、一人ぼんやり窓の外を眺めていると、雪が降ってきた事に気づく。そこまで積もることは無いだろうけど、路面が滑ってしまい、自転車競技の練習はまともに出来ないだろう。私は、彼の練習時間を削ってしまう罪悪感が、少しだけ薄れていくのを感じた。
「名前チャン、いっつもその席だよネ」
背後からかけられたその掠れた声に、私はそっと振り向いて微笑んだ。鼻を真っ赤に染め、黒いマフラーに顔を埋めた靖友は、ジャージのまま慣れたように私の前にさっと座る。入口のドアから一番遠い窓際の席が、私のお気に入りだった。彼がいつも練習で走り続ける公道が、すぐ近くに見えるのだ。
「折角だから景色を楽しみたいし、何より今の時期は寒いから」
「つっても、此処あんまり暖房当たんねえけどォ?」
「あ、寒い? だったら移動しても、」
「別に俺はいーんだヨ。それよりオマエ、この間まで風邪引いてただろ」
首元のマフラーを徐に外すと、靖友は僅かばかり腰を浮かせて、私の首にそっと巻きつける。豪快で不器用な手つきが彼らしくて、少しだけ笑ってしまった。しかしこの優しさは、今の私にとって何よりこたえた。近くに感じる靖友の顔を直視できなくて、思わず目を伏せてしまう。それを照れ隠しと受け取ったのか、彼は特に何も言わないまま離れて、再び大人しく席に着いた。
「午前中は練習だったんだよね。どうだった?」
「別にィ。フツーにローラー台回してただけだヨ」
「そっか。今日も頑張ってきたんだね。えらいえらい」
子ども扱いすんな、と不満そうに口を尖らせる彼の表情が、不思議と輝いて見えた。靖友と共にいる時間があまり特別だと感じなくなってから、どれほど経つのだろう。もう分からないくらい、一緒に過ごしてきたってことなのかな。
その後、お茶を飲みながらお互いの近況や今後の身の振り方について軽く会話しながら、私は話題を切り出すタイミングを見計らっていた。緊張からかどこか硬い表情になってしまう私につられてか、靖友も何となく忙しない様子だった。
「名前、」
「ん、どうしたの?」
「やる」
ぶっきらぼうに短く言ってから、彼は唐突に小さな箱を取り出した。深い青みを帯びたその外見は、神聖な空気を纏っているかのように、テーブルの上で異彩を放っている。
「それは……?」
震える手をそっと握りこみながら、私は尋ねる。靖友は、どことなく照れくさそうにそっぽを向きながら答えた。
「今日で三年半だろ、俺たち」
その言葉で、すべてを悟ってしまった。彼が、私に対して変わらない想いを抱きながら、結婚という未来さえ考えていることも。でも、だからこそ、私には言わなければならない事があった。
「ごめんね靖友。これは、……受け取れない」
俯きながら、拒否するようにその箱を彼の元まで押し出す。予想に反して、声は震えなかった。
「―――他に、好きな男でも出来たのかヨ」
「ううん」
「俺のこと、嫌いになったか」
「ううん」
「……でも、俺と別れたいんだろ」
淡々と、尋問するかのように言葉を重ねる靖友に、思わず息が詰まる。思い切って顔をあげると、傷ついたように顔を強張らせた彼に、勢いよく手首を掴まれた。
「ちゃんと言えヨ。俺に飽きたって、鬱陶しいって、嫌いになったから付き合ってらんねえって」
「言えない、よ。だって私、そんなこと思ってない」
「……、なら何で、」
ぽつりと零れ落ちた弱々しい問いかけに、喉の奥がきゅっと絞まるような息苦しさを覚えた。
「靖友は何も悪くないの」
「……ンなわけねえだろ」
「ううん、違うよ。私に、これからも隣にいる自信がないだけだから。自転車だけじゃなくて、私のことも優先してって言える勇気がないから」
言い訳みたいに並べ立てた台詞だったけれど、間違いなくすべて、私の本心だった。でも私はちゃんと言わなければならなかった。これ以上、自分の勝手で彼を傷つけるわけにはいかない。
「この三年半で、どれだけ私のために練習の時間を犠牲にした? どれだけ、自分のやりたい事を我慢した? 金城くんから、靖友はいつも寝不足気味なんだって、私聞いてたよ」
「俺は、無理なんてしてねえ」
「それでも私は、このまま靖友と一緒にいるのが辛いよ。いつか、私の存在が負担になる事を想像すると、怖くて仕方ないよ」
私は、どこまでも自分勝手だ。結局は、自分が怖いから、彼の隣で笑い続けている自信が無いから、逃げ出そうとしているだけなのだ。こんな私こそ、靖友に鬱陶しく思われてしまうに違いない。サークルも勉強もバイトも就活も、私なりに一生懸命やって、それなりに結果を残せたとは思う。けれど、彼と同じ土俵に立てるほど、血の滲むような努力をした経験が、私にはない。彼氏に劣等感を抱く彼女なんて、重荷になるに決まっているのだ。
「名前」
「……うん」
「来年になったら、一緒に住むぞ」
罵声を浴びせられることも、テーブルをひっくり返される事も覚悟していた。正直、高一のときのヤンキー姿は未だに印象が強くて、たまに喧嘩するときだって時々見え隠れする面影に怯えるくらいだったから。しかし予想に反して、優しさすら滲んだ表情で私を見つめる眼差しは、真剣で、力強かった。
「靖友って、そんなに馬鹿だったっけ……」
「うっせーな。そんなくだらねえ不安なんて、一緒にいりゃ何とかなんだろ」
「な、何とかならないから、別れようって言ってるの!」
「でも俺は納得できねえ。俺のことが好きなくせに、勝手に一人で離れようとすんなよボケナス」
「ただ単に好きってだけじゃ、一緒にいられない、でしょ」
込み上げる涙を必死に押さえつけながら鼻声で語調を荒げた私に、靖友は私の手首を掴む力を僅かに緩めて、強引に口付けてきた。夢かと思うくらい一瞬の触れ合いの後、至近距離で彼が再びバカと呟く。そんな風に、切なさが滲んだ表情を見るのは初めてで、胸が裂けるような、じくじくとした痛みを覚えた。
「俺は、叶えられない未来なんていらねえ。だからオマエも、俺との未来を勝手に諦めんな」
「……バカは、そっちじゃない」
「うっせ。別にオマエは、いくらでも不安になっていいんだヨ。だけど覚えとけ。何があろうと、最後は必ず、俺のトコに帰ってこい」
「……、私はペットか」
「違えよ。未来の嫁」
靖友は、私の左手に指を絡めながら、ゆっくりと指の腹で薬指を撫でつけた。ふと覚えた違和感に手元を見ると、光る銀の輪が目に入る。一瞬、息が止まるかと思った。
いつの間に嵌めたの。そんな問いかけは、喉の奥から込み上げる嗚咽で言葉にならなかった。こんな気障なやり方、そこで覚えてきたんだろう。私のために、どこまで尽くしてくれれば済むんだろう。涙で滲んだ視界の中でも、靖友が幸せそうに笑うのが分かった。私の存在で、彼が笑ってくれるなら、これ以上幸せな事はないと思う。そこまで考えて、私は気付く。私、昔よりずっとずっと、靖友のことが大好きだ。
「名前。結婚するぞ」
繋がる掌の熱は、いつもよりずっと温かい。二人でいれば、体温だってこんなに変わるんだ。変化を恐れて、その手を自分から取ろうとしなかった私の方が、彼よりもずっとずっと、大馬鹿者だった。
現実に考えれば、社会人一年目で結婚なんて出来るわけが無いのだ。けれど靖友は、私の感じている不安を全部分かった上で、一緒に背負おうとしてくれている。数年後に訪れるであろう未来を、私に約束してくれている。その誠実さが、痛いほど心に沁みた。
一生かかっても消せないだろう私の不安を、彼は今、必死に喰らおうとしてくれている。その事が痛いほどに分かったから、私も自分なりの誠意を見せなければならないと思った。別れ話がただの痴話喧嘩に変わってしまったことに内心笑いながら、私は靖友の手を取って、自分からゆっくりと顔を近づける。
「……よろしくお願いします」
至近距離で小さく呟いてから、その日二度目のキスを交わした。驚いたように、けれど満足気に笑っている靖友を見て思う。どうやら私は、これからも彼の隣にいる運命らしい。