03
二年前。北部の村において、不法入国者が人質と共に立て篭るという事件が発生した。早期解決を目論んだ軍の上層部は、志願兵を広く募り大規模な行軍を決行。予定では、三日間で何もかもが円満に終結するはずだった。しかし、人質の中に皇族の一人、斎姫がいると判明してからは事態が急変する。
国境越えという大罪を犯した者に待っている未来は、死刑か一生続く強制労働だ。そのため、必死に生き延びようとする彼らの意思は固かった。
軍部の代表として選ばれた俺と小文吾は、疲弊した兵士達の期待を一心に背負いながら、雪深く進みにくい道を何度も往復したものだ。しかし和解のため交渉に向かっても、顔を合わせた瞬間に武器を持って攻撃してくる始末。皇族という最強の切り札を獲得した彼らは、軍部相手に無茶な要求を次々と口にしたが、上層部はそれらを頑なに退け、完全な膠着状態に入ってしまった。
国中に知れ渡っている大事件の犯人を取り逃がしたとあれば、軍部の権威は失墜し、同じく権力を握っている教会をのさばらせる結果になる。そうやって馬鹿みたいに世間の目と自分の自尊心を気にするあまり、軍部がこの北部戦線において犠牲者を増やすという結果を招いたのは、誰から見ても明らかだった。
当初は短期間で解決すると予想していたため、一般兵の装備はとても北方の地域で冬を越せるようなものではなかった。もちろん、階級を得ている下っ端軍人だって条件は同じである。出兵から季節が二つ巡る頃には、北部の僻地で真冬を迎えるにも拘わらず、軍への救援物資は途絶え始め、死傷者も徐々に増えていった。
人を喰らう鬼が出る。そんな噂が実しやかに囁かれるようになったのも、その時期だった。死傷者の他に、行方不明者の数が増えていたことが噂の信憑性を高めていたのだろう。
実際に自分の隊員の行方が知れなくなる恐怖は、俺達の心に不安の種を次々と産み落としていった。現状を打破する解決策も、未来への希望も何も見えず、死の文字が背後に忍び寄ってくるその感覚から目を背けるために、俺はただ沼藺のことを想っていた。彼女の存在が、生への原動力だった。
───鬼に身体を貪られるその瞬間でさえ、俺は、生きて彼女の元に帰ることを願っていたのに。
*
「そもそも、士官学校を出たての新米軍人と一般兵を交渉に向かわせた時点で、軍は自ら人手不足と無能さを露呈したようなものですよね」
互いの立場を明確にするという趣旨で始まった会談だったが、気付けば俺が二年前の件について語り出す結果となっていた。豪胆さと実直さに満ちた名前の性格を考えれば、どちらにせよ隠していても簡単に見破られてしまっただろう。
「俺達は、所詮使い捨ての駒でしかなかったということだろう。此処はそういう環境だと、理解した上で飛び込んだつもりだったんだがな」
「権力を持った強欲な人達が考えることは、結局どこにいっても変わらないのね。本当、虫酸が走るわ」
神々しささえ感じるほどの端正な顔に、名前はそっと負の感情を宿す。その光景に、ぞくりと背筋を這うような緊張感を覚えながらも、現八は彼女への苦手意識が徐々に薄れつつあることを感じていた。今まで出会ってきた打算と欲に塗れ自分のことばかり考えている連中よりは、よほど好感が持てる。
「犬飼様、犬田様。その二年前の事件を誰が解決に導いたのか。当然ご存知ですよね」
「ああ。里見莉芳だろう」
「ええ、私の兄です」
一瞬の沈黙の後、名前の言葉に小文吾が大きく肩を震わせる。まざまざと甦る過去の記憶に、小文吾は思わず身震いした。
血塗れの現八が横たわるのを眺めながら、自分の命が潰える瞬間を待ち続ける恐怖に、全身が硬直したあの瞬間。心臓が凍りつき、指先すらぴくりとも動かせないほど死への鬼胎に満ちたあの感覚。
鬼に喰われ、意識が朦朧とする中でも、目の前に現れた白い体躯の獣神の姿はやけに鮮明に覚えていた。毅然と立った里見莉芳が犬神を操る様子を、地面に這いつくばったままぼんやりと眺める自分の姿は滑稽すぎて笑ってしまった。あのとき自分を射抜いた金色の透き通った瞳は、たしかに目の前の彼女と同じ色を宿していた。
「犬田様、申し訳ございません。お気分を害されてしまいましたか」
この世に存在する美しさを全て集約させたかのようなその顔が、気付けば目の前に迫っていた。憂いを帯びて色気が更に増しているそれに見惚れることなく、小文吾は胸の内をのたうち回る感情を必死に押さえ込む。
「あ、いやっ。そんなことない、ですよ」
「顔色が悪いです。通常では考えられない程の発汗と息切れもしています。それでも、本当に何もないと断言できますか?」
「……名前、さん」
「はい」
おそるおそる口を開いた小文吾に、名前は柔らかく微笑む。奇しくもそれは、彼女が村の子ども達に見せていたものと酷似していた。
「教えてください。俺たちは、───俺は、二度と死ぬことが出来ないんですか」
「……今のままでは無理です。だってお二人とも、自分が鬼であることをまだ自覚していないでしょう?」
小文吾の発言を耳にし、予想通りとでも言うように微笑んでから名前は言った。戸惑いながら口を開こうとした小文吾を手で制し、更に続ける。
「そもそも、鬼とは死霊よりも更に強力な存在です。帝都にも小さな鬼である雑鬼や餓鬼は多くいますが、彼らでさえ人へ取り憑き、身体を操り、思考を支配し、その人のすべてを変えてしまうなんて朝飯前なんです。どうやら、死霊がいくら束になったところで雑鬼にすら敵わないらしいですよ」
ならば、その親たる成熟した鬼の兇悪さは簡単に想像できるでしょう。淡々と紡がれる言葉に、小文吾も現八もぞっとする。全身が氷柱になってしまったかのように、身体の奥は冷え切り心臓が凍えるように痛んだ。
「鬼は、人の願いを叶える力をもつ、人にとって一番身近な存在と言えるでしょう。ですが、その力の強大さ故に必ず見返りを求めます。すなわち、人の命ですね。鬼と契約を結んだが最後、人間としての魂は極限まで削り取られ、心も身体も鬼に支配されるしかないのです。ここで、ひとつの矛盾があることに気付きませんか?」
子どもに勉強を教えるかのような柔和さを包含しながら、名前は笑っている。濃密で膨大な知識を頭に詰め込まれる感覚に目眩がしながらも、現八は震える唇をそっと押し開いた。
「俺と、小文吾か」
「ええ、その通りです。二年もの間、鬼に精神を喰われることなく人で在り続けたなんて、私からすれば奇跡と呼ぶに相応しい。……突然で申し訳ございませんが、一つお聞きしてもよろしいですか」
小文吾は、無言のまま首肯した。現八は、何も言わずに俯いた。
「犬飼様、犬田様。北部戦線以降、自らの意思で身体を鬼に変化させたことはございますか」
「───あるわけがないだろう」
「……兄貴」
真っ直ぐ見つめてくる視線に耐え切れず、感情のままに叫んでしまった事実に現八は怯えた。すべてから逃げ回り、情けなくも生き恥を晒しているのは、自分の咎故だ。自分の罪故だ。自分の弱さ故だ。目の前の彼女は何も悪くない。
むしろ、俺でさえ引き出せなかった小文吾の苦しみを掬い上げようとしてくれたのだ。感謝すべきだろう。理屈では、頭では分かっていた。それでも、身体の奥でのたうち回る鬼が、いとも簡単に理性を喰いちぎる。
「何もかも恵まれているおまえには分からないだろうな。故郷も家族も、確固たる地位も愛する者もいる。そのくせ人の不幸を嘲笑うかのように、自分は何もかも知っているみたいな顔をして」
名前は、すっと表情を削ぎ落として現八の言葉を享受する。こちらなど眼中に無いとでも言うかのごとく冷静さを保つ姿に、頭の奥がカッと熱くなる感覚がした。
「生きる希望も明るい未来も何も見えない。死という救いすら得ることが出来ずに、ただのたうち回る苦しみを味わったことがあるか。おまえが、理解できるとでも言うのか」
「私には、あなたの苦しみも痛みも分からない。分かるわけない。───それでも、地獄ならこの目で見たわ」
現八は、身体の内を巣食っていた怒りも忘れ、畏怖の念を抱くほど洗練されたその容貌にただ魅入った。彼女の身を包む真っ赤な着物は、まるで血のようだった。その色が暴力的なまでに目を引く一方で、宝石のような色をしていた瞳が、深淵を想起させるかのごとく暗く濁っていく様子に戦慄する。
その瞬間、現八は、そして小文吾は悟った。里見名前は、自分と“同じ”なのだと。
「鬼としての自分を認めず、受け入れなかった場合。鬼の魂と人としての魂が、一つの場所に歪な形のまま共存することになります。そして、鬼とは死霊より強力な存在。今後もずっと同じ状態であるとすれば、人の魂なんて、その均衡が崩れた途端あっという間に削り取られてしまうでしょう。それはすなわち、鬼に自分の身体を明け渡すことに繋がります」
現八は、小文吾は、息を呑む。自分の心に真正面からぶつかるような息苦しさと、僅かばかりの安堵感を覚えながら。
「だからこそ、私は言うわ。お願いだから、鬼としての自分を認めてあげて」
国境越えという大罪を犯した者に待っている未来は、死刑か一生続く強制労働だ。そのため、必死に生き延びようとする彼らの意思は固かった。
軍部の代表として選ばれた俺と小文吾は、疲弊した兵士達の期待を一心に背負いながら、雪深く進みにくい道を何度も往復したものだ。しかし和解のため交渉に向かっても、顔を合わせた瞬間に武器を持って攻撃してくる始末。皇族という最強の切り札を獲得した彼らは、軍部相手に無茶な要求を次々と口にしたが、上層部はそれらを頑なに退け、完全な膠着状態に入ってしまった。
国中に知れ渡っている大事件の犯人を取り逃がしたとあれば、軍部の権威は失墜し、同じく権力を握っている教会をのさばらせる結果になる。そうやって馬鹿みたいに世間の目と自分の自尊心を気にするあまり、軍部がこの北部戦線において犠牲者を増やすという結果を招いたのは、誰から見ても明らかだった。
当初は短期間で解決すると予想していたため、一般兵の装備はとても北方の地域で冬を越せるようなものではなかった。もちろん、階級を得ている下っ端軍人だって条件は同じである。出兵から季節が二つ巡る頃には、北部の僻地で真冬を迎えるにも拘わらず、軍への救援物資は途絶え始め、死傷者も徐々に増えていった。
人を喰らう鬼が出る。そんな噂が実しやかに囁かれるようになったのも、その時期だった。死傷者の他に、行方不明者の数が増えていたことが噂の信憑性を高めていたのだろう。
実際に自分の隊員の行方が知れなくなる恐怖は、俺達の心に不安の種を次々と産み落としていった。現状を打破する解決策も、未来への希望も何も見えず、死の文字が背後に忍び寄ってくるその感覚から目を背けるために、俺はただ沼藺のことを想っていた。彼女の存在が、生への原動力だった。
───鬼に身体を貪られるその瞬間でさえ、俺は、生きて彼女の元に帰ることを願っていたのに。
*
「そもそも、士官学校を出たての新米軍人と一般兵を交渉に向かわせた時点で、軍は自ら人手不足と無能さを露呈したようなものですよね」
互いの立場を明確にするという趣旨で始まった会談だったが、気付けば俺が二年前の件について語り出す結果となっていた。豪胆さと実直さに満ちた名前の性格を考えれば、どちらにせよ隠していても簡単に見破られてしまっただろう。
「俺達は、所詮使い捨ての駒でしかなかったということだろう。此処はそういう環境だと、理解した上で飛び込んだつもりだったんだがな」
「権力を持った強欲な人達が考えることは、結局どこにいっても変わらないのね。本当、虫酸が走るわ」
神々しささえ感じるほどの端正な顔に、名前はそっと負の感情を宿す。その光景に、ぞくりと背筋を這うような緊張感を覚えながらも、現八は彼女への苦手意識が徐々に薄れつつあることを感じていた。今まで出会ってきた打算と欲に塗れ自分のことばかり考えている連中よりは、よほど好感が持てる。
「犬飼様、犬田様。その二年前の事件を誰が解決に導いたのか。当然ご存知ですよね」
「ああ。里見莉芳だろう」
「ええ、私の兄です」
一瞬の沈黙の後、名前の言葉に小文吾が大きく肩を震わせる。まざまざと甦る過去の記憶に、小文吾は思わず身震いした。
血塗れの現八が横たわるのを眺めながら、自分の命が潰える瞬間を待ち続ける恐怖に、全身が硬直したあの瞬間。心臓が凍りつき、指先すらぴくりとも動かせないほど死への鬼胎に満ちたあの感覚。
鬼に喰われ、意識が朦朧とする中でも、目の前に現れた白い体躯の獣神の姿はやけに鮮明に覚えていた。毅然と立った里見莉芳が犬神を操る様子を、地面に這いつくばったままぼんやりと眺める自分の姿は滑稽すぎて笑ってしまった。あのとき自分を射抜いた金色の透き通った瞳は、たしかに目の前の彼女と同じ色を宿していた。
「犬田様、申し訳ございません。お気分を害されてしまいましたか」
この世に存在する美しさを全て集約させたかのようなその顔が、気付けば目の前に迫っていた。憂いを帯びて色気が更に増しているそれに見惚れることなく、小文吾は胸の内をのたうち回る感情を必死に押さえ込む。
「あ、いやっ。そんなことない、ですよ」
「顔色が悪いです。通常では考えられない程の発汗と息切れもしています。それでも、本当に何もないと断言できますか?」
「……名前、さん」
「はい」
おそるおそる口を開いた小文吾に、名前は柔らかく微笑む。奇しくもそれは、彼女が村の子ども達に見せていたものと酷似していた。
「教えてください。俺たちは、───俺は、二度と死ぬことが出来ないんですか」
「……今のままでは無理です。だってお二人とも、自分が鬼であることをまだ自覚していないでしょう?」
小文吾の発言を耳にし、予想通りとでも言うように微笑んでから名前は言った。戸惑いながら口を開こうとした小文吾を手で制し、更に続ける。
「そもそも、鬼とは死霊よりも更に強力な存在です。帝都にも小さな鬼である雑鬼や餓鬼は多くいますが、彼らでさえ人へ取り憑き、身体を操り、思考を支配し、その人のすべてを変えてしまうなんて朝飯前なんです。どうやら、死霊がいくら束になったところで雑鬼にすら敵わないらしいですよ」
ならば、その親たる成熟した鬼の兇悪さは簡単に想像できるでしょう。淡々と紡がれる言葉に、小文吾も現八もぞっとする。全身が氷柱になってしまったかのように、身体の奥は冷え切り心臓が凍えるように痛んだ。
「鬼は、人の願いを叶える力をもつ、人にとって一番身近な存在と言えるでしょう。ですが、その力の強大さ故に必ず見返りを求めます。すなわち、人の命ですね。鬼と契約を結んだが最後、人間としての魂は極限まで削り取られ、心も身体も鬼に支配されるしかないのです。ここで、ひとつの矛盾があることに気付きませんか?」
子どもに勉強を教えるかのような柔和さを包含しながら、名前は笑っている。濃密で膨大な知識を頭に詰め込まれる感覚に目眩がしながらも、現八は震える唇をそっと押し開いた。
「俺と、小文吾か」
「ええ、その通りです。二年もの間、鬼に精神を喰われることなく人で在り続けたなんて、私からすれば奇跡と呼ぶに相応しい。……突然で申し訳ございませんが、一つお聞きしてもよろしいですか」
小文吾は、無言のまま首肯した。現八は、何も言わずに俯いた。
「犬飼様、犬田様。北部戦線以降、自らの意思で身体を鬼に変化させたことはございますか」
「───あるわけがないだろう」
「……兄貴」
真っ直ぐ見つめてくる視線に耐え切れず、感情のままに叫んでしまった事実に現八は怯えた。すべてから逃げ回り、情けなくも生き恥を晒しているのは、自分の咎故だ。自分の罪故だ。自分の弱さ故だ。目の前の彼女は何も悪くない。
むしろ、俺でさえ引き出せなかった小文吾の苦しみを掬い上げようとしてくれたのだ。感謝すべきだろう。理屈では、頭では分かっていた。それでも、身体の奥でのたうち回る鬼が、いとも簡単に理性を喰いちぎる。
「何もかも恵まれているおまえには分からないだろうな。故郷も家族も、確固たる地位も愛する者もいる。そのくせ人の不幸を嘲笑うかのように、自分は何もかも知っているみたいな顔をして」
名前は、すっと表情を削ぎ落として現八の言葉を享受する。こちらなど眼中に無いとでも言うかのごとく冷静さを保つ姿に、頭の奥がカッと熱くなる感覚がした。
「生きる希望も明るい未来も何も見えない。死という救いすら得ることが出来ずに、ただのたうち回る苦しみを味わったことがあるか。おまえが、理解できるとでも言うのか」
「私には、あなたの苦しみも痛みも分からない。分かるわけない。───それでも、地獄ならこの目で見たわ」
現八は、身体の内を巣食っていた怒りも忘れ、畏怖の念を抱くほど洗練されたその容貌にただ魅入った。彼女の身を包む真っ赤な着物は、まるで血のようだった。その色が暴力的なまでに目を引く一方で、宝石のような色をしていた瞳が、深淵を想起させるかのごとく暗く濁っていく様子に戦慄する。
その瞬間、現八は、そして小文吾は悟った。里見名前は、自分と“同じ”なのだと。
「鬼としての自分を認めず、受け入れなかった場合。鬼の魂と人としての魂が、一つの場所に歪な形のまま共存することになります。そして、鬼とは死霊より強力な存在。今後もずっと同じ状態であるとすれば、人の魂なんて、その均衡が崩れた途端あっという間に削り取られてしまうでしょう。それはすなわち、鬼に自分の身体を明け渡すことに繋がります」
現八は、小文吾は、息を呑む。自分の心に真正面からぶつかるような息苦しさと、僅かばかりの安堵感を覚えながら。
「だからこそ、私は言うわ。お願いだから、鬼としての自分を認めてあげて」