犬飼現八は恵まれた人間だった。容姿端麗な上に頭脳明晰、家が名門と三拍子揃っている時点で察してもらえるだろうか。親に捨てられて孤児院にいた過去があるものの、現八を引き取った犬飼家はその汚点を掻き消すほどに力をもった家だった。さらには、幼い頃から共に育った美しい婚約者を持ち、軍部では順調に出世街道を歩んでいたのだ。他者から羨望を受けるのも道理の、完璧な人間だったと言えよう。

そう。二年前まで、俺はたしかに幸せだった。何一つ現状に不満など抱いていなかった。このまま時間が止まればいいのに、などと非現実的な思考さえ頭を掠めていたかもしれない。

だから俺は、自分だけでなく沼藺のことまで殺してしまったのだろうか。

自分の意思をはっきりと押し通せる真っ直ぐさも、誰に対しても分け隔てなく向ける溌剌とした笑顔も、自由で在りたいと常に明るい未来を見据えていた眼差しも、すべて愛していたのに。妬みを買うことも多かった俺に、唯一対等に接してくれた彼女の心を、俺は救えなかった。守ってやれなかった。

そんな絶望に浸る俺へ、鬼は問う。奈落の底へ突き落とすように、俺自身の声で、そっと囁くのだ。

犬飼現八は、犬田沼藺を愛してなんていなかったんだろう? 所詮、周囲から羨まれたいがため、自尊心を保つための道具として利用していただけだったんじゃないか。結局おまえは、自分が可愛くて可愛くて仕方ないだけの臆病者なんだ。

違う! と叫んでしまいたかった。すべて、鬼が発した独り善がりな言葉なのだと否定することで、俺は辛うじて自分自身を保っていられたように思う。けれど、人間としての理性を繋ぎ止める糸は、あまりに細く脆弱だった。俺はそれを、名前の言葉で痛感することになる。

彼女は言った。鬼としての自分を認めろと。何もかも悟ったような表情で、迷いなく口にした。

だが、そんなことをすれば。鬼が発した言葉を、すべて否定しきれない俺を認めてしまったら。俺は、世界一最低で、偽善的で、臆病な人間になってしまう。

……いや、実際そうなんだろう。

俺はもう既に、ヒトではない。身体も心も、鬼に明け渡してしまえばいいではないか。そんな甘い誘惑に従ってしまいたくて、でもやっぱり抗いたくて、何より自分の命を絶ってしまいたくて、でも実現できない自分に絶望して。

身を切られるような痛みに支配された現八は、正常な判断が不可能な状態にまでなっていた。だから、麻薬を染み込ませたスポンジのような頭を働かせたとき、其処へ向かうのは必然だったのかもしれない。

「どういうつもりですか? 犬飼様」

真っ白いシーツの波に沈み込む名前が、現八の下できっぱりと問うた。ぎしりと大きな音を立てながらベッドに身を乗り出し、その端整な造形に真上から視線を注ぐ。その様は、まるで人形のようだった。月明かりに浮かび上がる瑞々しい肢体は、純白の寝衣を身に纏っている故か、教会が崇める聖母と見紛うほど精巧な造りに見える。

たとえ暗闇の中であろうと、寝所の構造はどこも同じなのだから、彼女の居場所は簡単に検討がついた。あとは、鍵すらかからないその扉の隙間から進入するだけでいい。

嗚呼、目障りだ。明確な殺意を秘めた鬼の手が自らの首に添えられているのに、次の瞬間には自らの命が潰えているかもしれないのに、名前は憎らしいくらい冷静な表情のままだった。喰らってしまえ、殺してしまえと頭の奥で何かが囁く。そのおぞましい衝動を、辛うじて繋ぎ止めた理性が抑え込んだ。きっと、俺はもう人間には戻れない。自らを嘲笑いながら、現八はそっと真っ青な唇を開いた。

「おまえなら、俺を殺せるのか」

その声はか細く、何より心臓が捻じ切られるような悲痛で滲んでいた。現八の心はもう限界だった。極限にまで擦り切れた心は、とうとう思考するのを放棄する。死にたい。死にたい。殺してくれ。俺の息の根を、断ち切ってくれ。そんな欲望に塗れた瞳に映る目の前の女は、不思議なほど清廉な雰囲気を漂わせている。

「貴方って、本当に甘ったれているのね」

艶やかな唇に弧を描きながら、名前はまるでそうするのが自然であるかのように、現八の頬にそっと手を添えた。右頬の鮮やかな赤い痣に触れるたおやかな指先は、これ以上ない程に温かく、柔らかい。

「臆病で女々しくて、自分のことしか考えていなくて。いつまでも過去を引きずっては蒸し返して、絶望に浸ってばかり。本当に無様で、愚かとしか言いようがないわ」

下から降り注ぐ言葉の嵐は、刃物のように鋭かった。それでも、彼女の瞳は緩やかに穏やかな感情を宿している。

「でも、だからこそ、貴方は誰より人間らしいのね。羨ましくなるくらいに」

ねえ、現八。彼女の声によって紡がれた俺の名前は、その瞬間、何よりも美しく尊いものに思えた。

はっと息が詰まるような、腹の底から熱い何かが迫り上がるような感覚に、心臓の奥が強く震える。現八は、胸元で強く掌を握り締めた。そうしなければ、押し寄せる感情の激流から、耐え切れる気がしなかったのだ。

身体中の力が抜けて、同時にがくんと頭が下がる。鼻の先が名前の髪に触れ、頭の中にまで甘い香りが届いた。途端に湧き上がった脳髄が痺れるような感覚に、身体中が小刻みに震える。

ぽんぽん、と髪を撫でるように行き来する掌の温度を、痛いほどに感じた。現八の傷だらけの心までも優しく撫でるかのように、名前は俺の全身を包み込む。

母親の胎内の中とは、こんな感覚なのだろうか。未来への希望と不安が入り混じった感情の波を感じながら、自らの全てを委ねて。外の世界に身を曝すことになる運命の日を待ち望みながら、生きるために必要な栄養を得て。今の俺はまるで、甘ったるい羊水の中で必死に呼吸をしているかのようだった。

「おれみたいな化け物が、……生きていても、良いのか」

ようやく絞り出した言葉にも、名前はそんなことかと肩を竦めるだけだ。

「世の中には、妖怪に憑かれている人間なんて山程いるわ。特に鬼は、数が多すぎて皆気付いていないだけよ。よく云うでしょう?  悪意なく人を傷付ける人のことを、無邪鬼と。……幼く純粋な子どもほど、鬼をその身に取り込みやすいのよ。貴方達は特に、願いの純度が高かったから気に入られたんでしょうね」

願い、と現八は噛み締めるように呟いた。消え入りそうなそれを、名前はすかさず拾い上げる。

「私に、貴方の望みを叶えてあげることなんて出来ないわ。だってそれは、とても単純なものだから。誰かの手を借りて成し遂げるものじゃないから。貴方が───現八が、自分で気付かなければならないことだから」

里見名前は、そう言って綺麗に笑った。

「あなたは、人よ。無様だろうと愚かだろうと不細工だろうと、前を向いて生きることが出来る人間なの。貴方が愛した人が愛してくれた犬飼現八は、こうしてちゃんと生きている。心臓は鼓動を刻んでいる。怒ることも悲しむことも、笑うことも出来る。……こうして、涙を流すことだって出来るじゃない」

慈しみの色を滲ませた黄金色の光が、目の前でゆったりと細められる。負の感情が一切削ぎ落とされ、情愛すら見え隠れするその瞳に、現八は心が浮遊するかのような喜びを覚えた。痛いほどに、目頭が熱くなる。

「だから、望んでいいのよ。もし文句なんて言う輩がいれば、引っ叩いてやればいいの」
「……そうだな。一発殴ってやるくらいの気概は、見せないといけないな」
「そうそう、その意気」

胸の内に芽吹いた感情は、春の陽射しのように不透明で繊細で、何よりも温かい。未だ明確に言語化すら出来ない望みは、しかし希望という色を伴って現八の胸を満たした。

そのとき、たしかに現八は望んだ。命を与えられたモノならば何であろうと抱く、その本能的な想いを。

───生きたいと、ただそれだけを願ったのだ。