「あら、名前さん! お久しぶりねえ。相変わらずお綺麗だこと」

母の小夜子は、喜色満面に名前の手を取りながらそう言った。普段古文吾を叱りつけてばかりの口は緩やかに弧を描き、淀みなく歓迎の言葉を紡いでいる。

彼女へ同行することに対して険しい顔をされると思っていただけに、古文吾は拍子抜けする思いで眼前の光景に目をまるくするばかりだった。

初めて名前と顔を合わせ、共に南方の村へ行こうと誘われた際。古文吾は顔を引きつらせながら、正直彼女の言葉を本気にしていなかった。事件解決のため一般人を同行させるなど医者の道楽としか思えなかったし、何より働き手としてそれなりに価値のある自分がいなくなることを、母は許さないと思ったからだ。

「お手紙で連絡差し上げた通りなのですが、しばらく現八様と古文吾様をお借りしても宜しいでしょうか?」
「勿論よ。うちの情けない息子達で良ければ、いくらでも連れて行ってやってくださいな」
「ふふ。小夜子さん、ありがとうございます。……私は、お二人だからこそ共に来て頂きたかったので」

そう言って笑った名前の表情は、とても美しかった。自分を特別扱いしてもらえたような気がして、馬鹿みたいに気分が高揚した。

しかし、そんな自分の姿を自覚した時。同時に古文吾は、胸に薄暗い感情が滲むのを感じてしまう。それは、過去に覚えがあるものだった。沼藺が死んだと聞いた際に感じた、諦めにも似た思い。二年経った今でも全身を蝕む、呪いのような思念だった。

古文吾は、和やかに談笑する二人を眺めながら僅かばかり俯く。そのため、小夜子が無理矢理手渡してきた包みを咄嗟に受け取れず床に落としてしまった。うわっと間抜けな声をあげて慌てる古文吾を見て、名前は首をことりと傾けながら笑んでいた。顔から火が出るかと思った。

「古文吾、それがあんたの分の荷物ね」
「え!?」
「小夜子さん、無理を言ってしまってすみません。お忙しい中わざわざありがとうございます」
「名前さんには、家族全員がお世話になるんですもの。これくらい当然よ。というわけで古文吾、くれぐれも粗相のないようにね」

喉の奥まで出かかった反論の言葉をまるごと呑み込んで、古文吾は素直に頷く。身体の内側で渦巻くもやもやとした思いに無理やり蓋をして、現八の様子を見るべく離れへ足を向けた。

「小夜子さん。出発までまだ時間があるので、沼藺さんにお線香をあげても宜しいですか?」

沼藺という名前を拾い、勢いよく振り返った古文吾を見て、小夜子は驚いたように頬へ手を添える。

「そういえば、あんたに話すのは初めてだったかしら。名前さんには、沼藺を看取ってくださった時から度々お世話になっているのよ」

がつんと頭を殴られたかのような衝撃を受けると共に、どこか納得しつつ古文吾は乱暴に頭を掻いた。激しく押し寄せる思考の波に漂いながらも、彼女へなにか言葉をかけるべく口を開く。しかし、気の利いた言葉ひとつ思い浮かばないポンコツな頭がすぐさまやめとけと警鐘を鳴らした。

「古文吾様」
「えっあ、はい!?」

先手を打たれてしまった。そんな自分自身を情けなく思いながら、彼女と直接目を合わせる。やはり、まるで彫刻のように何もかもが整った顔だ。心の内を見透かされているかのように透き通った瞳の美しさには、思わず緊張を覚えてしまう。

「私についてきて頂くこと、絶対に後悔はさせません。それでは、また三十分後に客間でお会いいたしましょう」

颯爽と歩く後ろ姿を見送り、庭から覗く青空を仰ぎながら古文吾は大きく息を吐き出した。 そんな男前すぎること言われたら、黙って行くしかないだろ。



初めて会った時からただ者ではないと思っていたが、まさかここまでとは。過ぎ去った初めての邂逅を思い起こしながら、古文吾は夜闇と溶け合う扉の前で座り込んでいた。

水でも飲もうと台所まで行く道すがら名前の寝室を通りかかった時、僅かな隙間から現八と二人でベッドで重なりあう姿を発見した時はそりゃ驚いた。正直、あらぬ疑いをかけそうになったことは認める。しかし、兄貴のことをそっと抱き締めながら頭を撫でるその姿に、すぐ疑惑は霧散した。

生きたい。消え入りそうな声でその願いを口にした現八の背中が、そこにはあった。古文吾よりも余程鍛えているであろうその引き締まった後ろ姿は、しかし迷子の童のごとく小さく頼りなく見える。

自分よりもずっと完璧で、幸せに生きてきたとばかり思っていた兄の虚像が、がらがらと音を立てながら崩れていった。現八が決して人に弱さを見せようとしなかったのは、他でもない俺たち家族のせいだったのだと思い知らされる。

古文吾はずっと、周りに流されながら生きてきた。旅館の跡取りとしての地位に胡座をかき、のらりくらりと過ごしていた。何もかも恵まれている現八に少しばかり劣等感を抱きつつも、結局は平凡ながら穏やかな人生を歩むものだとばかり考えていたのに。

しかし、兄貴がいるからという軽い気持ちで参加した北部戦線で、その儚い願いすらも蹂躙されることになってしまった。他でもない、自分自身の中で眠る鬼によって。

いくら肌を切り裂いても、瞬く間に再生し元通りになる傷口を見て、嫌でも実感した。人ならざる存在になった自分は恐ろしく、おぞましい生き物なのだと。だからこそ一生、自分達は人間として生きていくことは出来ないとさえ思っていた。

その不安を、現八もまた抱えていたのだ。そんな当たり前のことに今更気付くなんて、本当に俺は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。

「古文吾、床で寝ると寒いでしょう。いい加減こちらへ来ればいいのに」
「えっあ、はい!?」

穏やかな笑みを内包した名前の声を耳にし、古文吾は弾かれたように顔を上げて振り向いた。ベッドの上で仲睦まじそうに腰掛ける二人の姿に一瞬目を逸らした途端、軽やかな会話が弾丸のように交わされる。

「ふふっ。小夜子さんが、現八と古文吾は揃いも揃って弱虫だと仰っていたけれど、本当にその通りなのかしら」
「否定出来ないのが痛いな。古文吾、遠慮しないでこっちに来い。多分何も怖いことはないぞ」
「あら。現八、なにか私に怒られるようなことでもしたの? お望みなら代わりに思いっきり罵ってあげるけど」
「やめてくれ。俺の心は硝子細工より繊細なんだ」
「何言ってるの。精々良くて豆腐でしょう。……でも、豆腐にはまだ弾力が残ってるか。間違えたわ、精々良くて暖簾でしょう」
「おまえは容赦なく俺の心を抉ってくるな、名前」
「現八の軟弱さは一生直らないでしょうけど、少しでも鍛えておかないと、将来家庭を持つ時に苦労するわよ」
「…………、俺はおまえの視界にすら入っていないのか」
「当然でしょう。そういうことを聞いてくる時点で面倒臭い男よね、現八って」

唖然としながらぽかんと口を開けていた古文吾は、兄の顔に分かりやすく滲んだ不満の色に益々驚きを覚える。察しが悪いとよく母から注意される身ではあるが、流石に目の前の会話から悟るくらいは出来た。どうやら現八は、一生女に苦労する人生を歩むらしい。

「それよりも古文吾。私の言った通りだったでしょう?」
「え?」
「絶対に後悔はさせないからって。ね?」
「そう、ですね……はい。名前さんの言う通りっす」
「ほらご覧なさい現八。古文吾の方がよほど礼儀正しくていい男よ」
「その分俺は一途だぞ。何があろうと地獄の底までついていく覚悟だ」
「重すぎて無理」

この二人、なかなか良い組み合わせなんじゃないか。

あっさりとあしらわれる現八に同情しつつ、ひっそりと古文吾は笑みを溢した。胸の内に滲んでいた負の感情は、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っていく。

穏やかな気持ちで朝を迎えられる喜びが、やわらかく温かく、身体の隅々まで沁み渡っていった。