早朝の山が、こんなにも心地良いものだとは知らなかった。

清廉で美しい空気を肺いっぱいに吸い込みつつ、現八はうっとりと目を細める。山道には明るい朝陽が幾筋も射し込み、堂々と立ち並ぶ木々の姿をそっと浮かび上がらせていた。村を訪れる前に汽車の窓から見た稜線には険しさが滲んでいたが、確かに見た目通り急な斜面ばかりである。

何よりも圧巻なのは、麓から頂にまで無数に立ち並ぶ真っ赤な鳥居だ。俗世から隔絶されたかのような神聖さに満ちた山は、しかしながら鬼の身でありながら心地好く思える。不思議な場所だった。

目の前で無防備に背中を見せる名前は、艶やかな黒髪をなびかせながら悠々と歩みを進めていた。白衣と真っ赤な着物に加え、足元はブーツという出で立ちは些かこの場に不釣り合いな気もするが、さすがは名前と言うべきか。素材が美しければ多少の不自然さなどすべて呑み込んでしまうらしい。

体力には自信のある現八と同等の速度でスイスイ登りながら、時折こちらを振り返っては足元の植物を指差し、嬉しそうに現八へ語りかける。今回は、木の根元に生える真っ赤な花だった。毒々しいまでに鮮烈なその色は、彼女の着物と似ているように見えて仕方無い。

「ねえ現八。この花、知ってる?」
「生憎だが見たことないな。薬にでもなるのか」
「残念、その逆。花弁から根っこまで全部猛毒よ。現八にとってはお腹を下して終わるだけだから、やめておいた方がいいわね」
「この色ならそもそも食わん。おまえは俺を何だと思ってるんだ」
「未練がましい軟弱男」

二の句が継げず唇を引き締めた現八に向けて、名前は悪戯っぽく笑い再び踵を返す。帽子の鍔を摩りながら、現八は肩を竦めてその後に続いた。気分は悪くない。むしろ、彼女に翻弄されることに好意的な感情さえ湧いてくる。

眠りこける小文吾を置いて、名前と共に家を出発したのはつい先程だった。東の空が白み始めた頃、腕の中で眠っていた彼女が目を覚ましたのと同時に、現八もまた覚醒したのだ。現八の腕は硬いから寝づらかったと文句を言う名前に苦笑しながらも、確かに感じた痺れの残滓に知らず知らず頬を緩ませてしまった。
胸に柔らかく巣食った感情は、久しく覚えの無かった想いによく似ている。もう逃げることは出来ないと、現八はただ静かに悟った。



頂にあったのは、木製の小さな祠だった。簡素な造りながらも手入れの行き届いた様子からは、村人達の深い信仰心が伺える。供えられた油揚げも、瑞々しい狐色をしていた。

昨晩から頭の片隅に追いやられていたが、此処は今回の事件に深く関わっている場所なのだと予測がつく。すなわち、祭礼で舞う童が儀式の際に訪れる、神聖な清めの土地だ。

名前は祠の前へしゃがみこみ、掌を重ねては頭を垂れていた。彼女に倣って僅かばかり手を合わせた現八は、朝日に照らされる後ろ姿の神々しさに目を細めながらも、辺りにそっと目線を配る。動物の気配すらしない凪いだ空間に、異常は一切見当たらない。在るのは、まるで精神が飲み込まれそうなほど深い緑に満ちた、巨大な森だ。

「此処、本当に何も無いでしょう?」
「ああ」
「お狐様は、排他的で執念深いから。こういう静寂に満ちた空間で、誰かと二人きりで過ごすのを好むものなのよ」
「随分とよく知っているんだな」
「私は五狐の加護を受ける尾崎とも深い交流があるしね。それこそ、女学校時代は毎日図書室に籠って本ばかり読んでいたもの。卒業して医者になってからは、実際に自分の足で各地の怪異事件を目にしてきたわ。古今東西、私の知らない妖なんて滅多にいないと断言できる。それに……」
「それに、なんだ?」
「何でもないわ。現八、何か他にやり残した事はある?」
「ああ。……名前、聞いてもいいか」
「ええ。なに?」

穏やかな表情で首肯した彼女の心の内が、俺には分からなかった。言葉や態度が砕けたからといって、信頼を勝ち得たなんて自惚れるつもりはなかったし、心の片鱗を覗けたのではないかと自分勝手に浮かれるつもりもなかったのだ。

けれど、里見名前は、強く気高く、そして眩しいほどに美しいと知ってしまったから。

世界中の希望を集約させたかのような玲瓏たるその瞳が、何を映しているのか。俺は知りたかった。知りたくなってしまった。

「───名前。おまえは一体、誰を想っているんだ」

時が止まる。空気が静謐で満たされる。そこには、音がすべて失われたのかと錯覚してしまう程の世界が在った。

堂々と佇みながら答えを待つ現八を数瞬見つめた後、名前は呆れたように息を吐く。

「……自分は嫌がるくせに、人の心には遠慮なく踏み込んでくるのね。少し図々しいんじゃないの」

苛立ちを滲ませながら顔を歪める名前の姿に、現八は笑う。自分の心の変化を驚くほどに実感しては、俺もまだ青臭いなと呆れてしまった。静かに一歩、前へ進み出る。

「そうだな、悪い」
「どうせ、自分に優しくしてきた女なら、思わせぶりな態度でもとれば簡単に靡くと思ってるんでしょう」
「……名前」
「私には、あなたを愛してあげることなんて出来ないわ。人肌恋しいだけなら他を当たって」

くるり。軽やかに彼女は背を向ける。

しかし、刺々しく見えるその拒絶の言葉に、僅かな寂寞が滲んでいることを現八は感じた。激しく迫り上がってくる本能的な思いに身を委ね、堪らず彼女を背後から強く抱き締める。絹のような黒髪が顔をすべり、甘く心地好い香りが脳髄にまで沁み渡った。

俺の身体を、心の奥底までも包み込んでくれた名前の体躯は、存外細く小さく、何より温かかった。彼女の首筋に顔を埋めると、肌の下に通う血の温みを感じる。このまま歯を突き立てて、肌を食い破ってその柔らかい血肉を喰らってしまえたら。鬼としての自分が抱いた欲望は、しかし人としての俺が抱く想いには敵わなかった。

「なあ名前。今はまだ分からないんだ。これが単なる執着なのか、それとも愛なのか」
「随分と正直なのね」
「俺は、おまえにだけは嘘を吐きたくないからな」
「……そう」

僅かに強張っていた名前の身体から、ふっと力が抜ける。頭を現八の胸に預け、もたれ掛かる形になった。彼女の重みも体温も、泣きたくなるほどに心地が好い。

気付けば、現八の口からやわらかく言葉が零れ落ちていた。

「なあ名前、聞いてくれ」

こくり、と音も立てずに彼女は頷く。名前の掌を掬うように握り締めて、現八は続きを紡いだ。

「俺には婚約者がいたんだ。幼馴染みでな、近所でも評判の美人だった。……だが二年前、あいつは川に身を投げて死んだよ」

きゅっと手を握り返される。なんとも愛らしい相槌だ。現八は微笑み、そっと瞳を閉じる。

「俺達は、きっと自信が無かったんだ。一人で生きていくことも、人から愛されていることも、自分を信じることも。そのどれもが欠けていたのに、そのことから目を背けて、逃げ続けて、それでも互いを拠り所としながら生きてきた。……だからだろうな。俺が死んだとの知らせを受けて、沼藺もまた死を選んだ。あいつは孤独に耐えられない女だと、俺は知っていたのに」
「後悔してる?」
「何度もした。それこそ、何をしていたって頭を占めるのはそればかりだった。ただ死にたかった。愛する女の元へ行きたかった。……今なら思える。俺たちの間に在ったのは、愛情ではなく執着だったんじゃないかと」
「分かってはいたけど、現八って本っ当に阿呆よね」
「……一応、自覚はしているぞ」

震える唇を引き結びながら黙りこむ現八を尻目に、名前はするりとその腕から抜け出す。肌をなぞる彼女の残り香に、心の底を擽られるかのような気恥ずかしさを覚えた。寂しいという感情を、どうやら俺はまだ感じることが出来たらしい。

「愛した人を失ったことが辛いから、その愛情そのものを否定するつもり? ───私は、愛することを恐れたりなんてしない。たとえ相手から裏切られたっていい。私の傍にいてくれなくたっていい。それでも私は、自分が愛したいひとを愛し続けるから」
「……強いな。名前は」
「昔ね、約束したのよ。無様だろうが生きて、不細工だろうが笑って、どんなに辛かろうが前を向いて歩くんだって。なら、こんな所で立ち止まってなんかいられないでしょう?」
「そうか。だがそれでも俺は、愛する女と共に在りたいと思うよ。たとえその先に待っているのが破滅だとしても、運命を共に出来るなら後悔はない」
「本当に馬鹿なひとね。今時珍しいほどに純粋なくせに面倒臭くて、それでいて向こう見ずだわ。……だからこそ、なんでしょうね」
「名前……?」

彼女の指先が、現八の右頬に触れる。牡丹の痣を慈しむように撫で、やがて掌全体で覆うように包み込んだ。

「ねえ現八。一つだけ、私と約束をしましょう?」

その瞬間、二人の間を裂くかのように、強烈な風が吹き抜ける。微かに馨る怪異の気配、静寂に震える祠、泰然と構えながら俺たちを見下ろす木々、ざわめく空気すらも呑み込むようにそこに在り続ける山。

目まぐるしく変化していく空間の中、それでも名前は微動だにせず全てを享受した。

「もう二度と、生きることを諦めないで」

現八は、彼女の掌に自分のそれを重ね合わせた。黄金色の瞳が、答えを急かすように見詰めてくる。

「分かった、約束する。だから、おまえも諦めないでくれ。名前」
「……当然じゃない。そんなの愚問よ」

彼女は自信満々に笑み、再びくるりと踵を返した。

気付けば、空が明るい青色を帯び始めている。先程の静謐さを取り戻したこの山は、人も鬼もどんな怪異でも受け入れてくれる場所だ。だとすれば、そこに祀られている狐様は、余程心が広いか、もしくは極端な変わり者なのだろう。

行方不明になる直前、童達は一様にこの祠へと足を踏み入れたという。その前には必ず、里見名前の診療を受けていたらしい。

調査書の文言を頭に浮かべながら、現八はこの案件解決への道のりを思い描く。それは決して容易ではないだろうが、絶望的でもないだろうと信じていた。