07
見知らぬ土地を一人きりで歩くのは、やはり寂しいものである。古文吾は、ようやく登り始めた朝日の眩しさに目を細めながら、静寂に満ちた空間の中を歩んでいた。
生温い風が、肌を滑るように吹き抜けていく。
自分を置いて勝手に出掛けた二人の居所は掴めそうにないが、このまま歩き回っても埒があかない。諦めながら髪をがしがしと掻き回し、ふと目線をとおくに投げたその時だった。
年季の入った木造家屋の傍らで、幼い少女が顔に暗い影を落としながら毬をついている。痛い程に目を惹く真っ赤な着物と、透き通るような声で紡がれた手鞠唄が古文吾の心を掴んで離さない。
───山の端のぞむ、お稲荷さん
くちなし朔月通り過ぎ、三日月たまごは雲隠れ
なのはな畑に弓張れば、ねりいろこもちが夢を見る
とのこ残月きたる日は、だいだいみそかの知るところ
望月うこんが過ぎ去れば、たちまちきつねが雲隠れ
さあおいでませ、おいでませ───
人気の無い場所で一人佇むその姿は、妙に焦燥感を掻き立てられた。古文吾は、迷った末に声をかけることにする。
「なあ。少しいいか?」
「え……っ!? だ、だれ、ですか」
びくりと肩を揺らして、少女は目を鋭くさせた。笑ったらもっと可愛いのにな、と苦笑したその時、古文吾の脳裏に彼女の姿がぴんと浮かんだ。
「おまえ、昨日名前と話してた女の子……だよな。花っていったっけ」
「名前先生の知り合い……?」
「おう、昨日一緒にこの村へ来たんだ。名前と、ついでにバカでかい男を探してるんだけど、知らねえ?」
「見てない、です。……わたしも、先生に会いたいのに」
淡い黄色の毬を手に持ちながら、花は俯いた。昨日嬉しそうに緩んでいた頬が今は痛々しいほどに強張り、大きな瞳にはじわりと涙が溜まっていく。内心ぎょっとしながら、古文吾は慌てたようにしゃがんで首を傾けた。
「どうしたんだ? どこか痛いところでもあるのか?」
「……寛太が、いなくなっちゃったの」
寛太。その名前には聞き覚えがある。昨日、花と仲良さげに言葉を交わした後、小文吾たちを村長の家まで案内してくれた男の子だ。明るく活発な笑顔が印象的な少年だった。
そして彼こそが、名前の治療を一番はじめに受けた村長のご子息だったのだ。異様なまでの懐きようだと思っていたが、その事実を聞いて納得したものである。
ただでさえ、人ならざるものの気配が濃密に満ちるこの村の空気に辟易としていたところだったのだ。胸の内を掻き回されるかのような不安を必死で抑え込みながらも、古文吾は花の頭をぐしゃぐしゃと撫でて明るい笑顔を見せた。
「俺じゃ頼りねえかもしんないけど、寛太のこと一緒に探そうぜ」
「ほんとうに……? おにいさんも、探してくれるの?」
微かな笑みを見せてくれた少女の様子に安堵した後、古文吾は立ち上がり辺りを見回す。
「ねえねえ、おにいさんの名前は?」
「あ、悪い! 俺、犬田古文吾っつーんだ。呼び捨てでいいぞ」
「分かった。……ねえ、古文吾」
辺りに満ちる不気味なまでの静寂に変化はない。薄闇に浸る田園の風景は、人を拒絶するかのごとくそこに在る。
しかし、俺ばかり不安がってもいられないと奮い立ち、少女に手を差し出そうとした、その時だった。
「───ごめんね。死んで?」
視界が朱に染まる。首筋に走った刺すような痛みを自覚した時には既に、身体中に痺れが走っていた。心臓を掴まれているかのような感覚に、冷や汗が止まらない。脊髄に染み渡るように這い回る悪寒が、古文吾の思考力さえも奪う。
それは間違いなく、死が忍び寄ってくる感覚だった。しかし以前よりもずっと穏やかに、状況をありのままに受け入れている自分がいる。
いつかその時がくるとしたら、あっちで姉に謝らなければならないと思っていた。
自由奔放で頑固な姉と兄、負けん気の強い母と教育熱心な父親。多種多様ながら曲者揃いの家族をもったお陰か、昔から古文吾は人の感情の機微を察することは不得手ではなかった。普段から実家で接客や裏方の仕事もこなしているため、他人の顔色を伺うのも日常茶飯事であった、筈なのだ。
───なんて被害者ぶって傲ってたから、俺は本当に大事なものに何ひとつ気付いちゃいなかったんだろうな。
自嘲しながら、もはや光が宿らない瞳を力無く閉じる。古文吾の意識は、導かれるまま深い闇に呑まれていった。
*
「……お腹が空いたわ」
名前がぽつりと溢した一言に、現八はそっと微笑んで彼女の顔を覗き込む。不満をありありと表しながらぶすくれるその端整な顔を眺めつつも、彼女の意識を別に向けようと言葉を投げかけた。
「戻ったら、古文吾が作ってくれているだろう。……名前は、自分で料理したりしないのか」
「そうね、稲荷寿司なら自信があるけど」
「へえ?」
「そういう現八はどうなの」
「握り飯なら作れるぞ」
「ならあとで作ってよ」
「……名前、塩むすびなんて食べれるのか」
「失礼しちゃうわね。私の大好物はお米よ。朝は白米さえあれば満足できちゃうんだから」
自信満々に胸を張った彼女の髪に指を絡め、褒めてやるように柔らかく頭を撫で付けた。咎めるようにじろりと向けられた視線にまた笑うと、名前は諦めたように息を大きく吐き出しながら歩を進めていく。
山を降りた途端、身体を包んだのは俗世の気配に満ちた騒がしい空気だった。辺りに広がる薄暗い静寂をも食い潰すような、圧倒的なまでのざわめき。
歩みを進める度に強くなるそれに、現八は眉をひそめながらも気にしないよう努めていた。鬼の身体を手に入れてからというもの、必要以上に感覚が研ぎ澄まされるのには慣れたと思っていたのだが。帝都という怪異の巣窟に比べれば大人しいものの、しかし変に雑じり気が無いからこそ、その気配は強く濃くなっているようにも感じられた。
「ああ名前先生! ようやくお帰りになられたのですな!」
拠点となる家の姿が、ようやく遠目ながらも確認できる場所に差し掛かった頃。大きく曲がった背中を必死に揺らしながら、一人の老人が話しかけてきた。現八など視界にも入っていない様子で、焦燥したようにヨロヨロと歩み寄ってくる。
名前は驚く表情など微塵も見せず、白衣が汚れるのもお構い無しに、しゃがみこんで老人の手を取った。
「私を探してくださっていたんですね。どうなさいましたか?」
「花と寛太が、お狐様に拐われてしまったのです……! 先生、どうか……どうか二人をお救いください……!」
*
塩が満遍なくふりかかった握り飯を頬張る。不格好ながらも大きさだけは立派なそれをひたすら咀嚼しながら、現八は襲いくる激情から身を守っていた。
「状況が、思った以上に悪い」
「ええ、そうね。……現八、どうするの?」
「どうしたもこうしたも無いだろう。古文吾が犯人呼ばわりされて黙っていられる程に大人しくないぞ、俺は」
新たな神隠しの発覚、そして古文吾の失踪。現八は、同時に発覚した事実に驚く暇さえ与えられなかった。
いなくなった子供が見慣れない青年と共にいたのを見た、という目撃証言があったため、先程まで村中の大人が名前の元に押し寄せてきていたのだ。現八もまた疑惑を向けられたのだが、名前と村の憲兵に庇われたことで集中砲火を浴びるのは避けることが出来た。
しかし、今後解決に向けて動きにくくなったのは確かだ。
「……名前、俺と一緒に来てくれるか」
「あら意外。もっと色々問い詰められるかと思ったのに」
「俺の行動がおまえの目的と反するなら見限ってくれていい。だから、せめて傍にいてくれ。名前」
彼女は、透き通った金の瞳を向けながら薄く笑んだ。
「何でこんな怪しい女を信じるのか、理解に苦しむわ」
「裏切られてもいい、おまえになら」
「…………」
「俺は絶対に、おまえを信じたことを後悔なんてしない」
「……何でそこまで私に拘るの」
「俺はどうやら、女を見る目が無いらしいからな」
「そう。……私も、男を見る目が無いのかも」
一瞬、堪えるように唇を噛んだ後、名前は徐に胸元へ掌を差し入れた。目の前で大胆にさらされた白い肌に目を奪われていたせいか、急に飛んできた小さな瓶を慌てて掴む羽目になってしまう。そこには、薄桃色に染まった液体が一口分入っていた。
「睡眠薬の解毒剤よ」
「……まさか、この握り飯に入っていたのか?」
「そのまさか。鬼にも効くように、普通の何倍も濃くした特別製。予め帝都から持ってきていたの。……敵対視されると面倒だから、現八が眠っている間に事件を解決しようと思ったのに。計画が頓挫しちゃったわ」
「お前一人だけに背負わせるわけないだろう。……とにかく、これを飲めばいいんだな?」
「ええ」
現八は、何も躊躇わず一気にぐいと飲み干す。 身体の芯から焼けるような痛みに耐えた後、やけに意識が鮮明になっていくのを感じた。
「何度でも言ってあげる。現八って、本当にばかよね」
「褒め言葉として受け取っておく」
名前が心底嬉しそうに顔を綻ばせている。今ならば、どんな難題だって解き明かせる気がした。
生温い風が、肌を滑るように吹き抜けていく。
自分を置いて勝手に出掛けた二人の居所は掴めそうにないが、このまま歩き回っても埒があかない。諦めながら髪をがしがしと掻き回し、ふと目線をとおくに投げたその時だった。
年季の入った木造家屋の傍らで、幼い少女が顔に暗い影を落としながら毬をついている。痛い程に目を惹く真っ赤な着物と、透き通るような声で紡がれた手鞠唄が古文吾の心を掴んで離さない。
───山の端のぞむ、お稲荷さん
くちなし朔月通り過ぎ、三日月たまごは雲隠れ
なのはな畑に弓張れば、ねりいろこもちが夢を見る
とのこ残月きたる日は、だいだいみそかの知るところ
望月うこんが過ぎ去れば、たちまちきつねが雲隠れ
さあおいでませ、おいでませ───
人気の無い場所で一人佇むその姿は、妙に焦燥感を掻き立てられた。古文吾は、迷った末に声をかけることにする。
「なあ。少しいいか?」
「え……っ!? だ、だれ、ですか」
びくりと肩を揺らして、少女は目を鋭くさせた。笑ったらもっと可愛いのにな、と苦笑したその時、古文吾の脳裏に彼女の姿がぴんと浮かんだ。
「おまえ、昨日名前と話してた女の子……だよな。花っていったっけ」
「名前先生の知り合い……?」
「おう、昨日一緒にこの村へ来たんだ。名前と、ついでにバカでかい男を探してるんだけど、知らねえ?」
「見てない、です。……わたしも、先生に会いたいのに」
淡い黄色の毬を手に持ちながら、花は俯いた。昨日嬉しそうに緩んでいた頬が今は痛々しいほどに強張り、大きな瞳にはじわりと涙が溜まっていく。内心ぎょっとしながら、古文吾は慌てたようにしゃがんで首を傾けた。
「どうしたんだ? どこか痛いところでもあるのか?」
「……寛太が、いなくなっちゃったの」
寛太。その名前には聞き覚えがある。昨日、花と仲良さげに言葉を交わした後、小文吾たちを村長の家まで案内してくれた男の子だ。明るく活発な笑顔が印象的な少年だった。
そして彼こそが、名前の治療を一番はじめに受けた村長のご子息だったのだ。異様なまでの懐きようだと思っていたが、その事実を聞いて納得したものである。
ただでさえ、人ならざるものの気配が濃密に満ちるこの村の空気に辟易としていたところだったのだ。胸の内を掻き回されるかのような不安を必死で抑え込みながらも、古文吾は花の頭をぐしゃぐしゃと撫でて明るい笑顔を見せた。
「俺じゃ頼りねえかもしんないけど、寛太のこと一緒に探そうぜ」
「ほんとうに……? おにいさんも、探してくれるの?」
微かな笑みを見せてくれた少女の様子に安堵した後、古文吾は立ち上がり辺りを見回す。
「ねえねえ、おにいさんの名前は?」
「あ、悪い! 俺、犬田古文吾っつーんだ。呼び捨てでいいぞ」
「分かった。……ねえ、古文吾」
辺りに満ちる不気味なまでの静寂に変化はない。薄闇に浸る田園の風景は、人を拒絶するかのごとくそこに在る。
しかし、俺ばかり不安がってもいられないと奮い立ち、少女に手を差し出そうとした、その時だった。
「───ごめんね。死んで?」
視界が朱に染まる。首筋に走った刺すような痛みを自覚した時には既に、身体中に痺れが走っていた。心臓を掴まれているかのような感覚に、冷や汗が止まらない。脊髄に染み渡るように這い回る悪寒が、古文吾の思考力さえも奪う。
それは間違いなく、死が忍び寄ってくる感覚だった。しかし以前よりもずっと穏やかに、状況をありのままに受け入れている自分がいる。
いつかその時がくるとしたら、あっちで姉に謝らなければならないと思っていた。
自由奔放で頑固な姉と兄、負けん気の強い母と教育熱心な父親。多種多様ながら曲者揃いの家族をもったお陰か、昔から古文吾は人の感情の機微を察することは不得手ではなかった。普段から実家で接客や裏方の仕事もこなしているため、他人の顔色を伺うのも日常茶飯事であった、筈なのだ。
───なんて被害者ぶって傲ってたから、俺は本当に大事なものに何ひとつ気付いちゃいなかったんだろうな。
自嘲しながら、もはや光が宿らない瞳を力無く閉じる。古文吾の意識は、導かれるまま深い闇に呑まれていった。
*
「……お腹が空いたわ」
名前がぽつりと溢した一言に、現八はそっと微笑んで彼女の顔を覗き込む。不満をありありと表しながらぶすくれるその端整な顔を眺めつつも、彼女の意識を別に向けようと言葉を投げかけた。
「戻ったら、古文吾が作ってくれているだろう。……名前は、自分で料理したりしないのか」
「そうね、稲荷寿司なら自信があるけど」
「へえ?」
「そういう現八はどうなの」
「握り飯なら作れるぞ」
「ならあとで作ってよ」
「……名前、塩むすびなんて食べれるのか」
「失礼しちゃうわね。私の大好物はお米よ。朝は白米さえあれば満足できちゃうんだから」
自信満々に胸を張った彼女の髪に指を絡め、褒めてやるように柔らかく頭を撫で付けた。咎めるようにじろりと向けられた視線にまた笑うと、名前は諦めたように息を大きく吐き出しながら歩を進めていく。
山を降りた途端、身体を包んだのは俗世の気配に満ちた騒がしい空気だった。辺りに広がる薄暗い静寂をも食い潰すような、圧倒的なまでのざわめき。
歩みを進める度に強くなるそれに、現八は眉をひそめながらも気にしないよう努めていた。鬼の身体を手に入れてからというもの、必要以上に感覚が研ぎ澄まされるのには慣れたと思っていたのだが。帝都という怪異の巣窟に比べれば大人しいものの、しかし変に雑じり気が無いからこそ、その気配は強く濃くなっているようにも感じられた。
「ああ名前先生! ようやくお帰りになられたのですな!」
拠点となる家の姿が、ようやく遠目ながらも確認できる場所に差し掛かった頃。大きく曲がった背中を必死に揺らしながら、一人の老人が話しかけてきた。現八など視界にも入っていない様子で、焦燥したようにヨロヨロと歩み寄ってくる。
名前は驚く表情など微塵も見せず、白衣が汚れるのもお構い無しに、しゃがみこんで老人の手を取った。
「私を探してくださっていたんですね。どうなさいましたか?」
「花と寛太が、お狐様に拐われてしまったのです……! 先生、どうか……どうか二人をお救いください……!」
*
塩が満遍なくふりかかった握り飯を頬張る。不格好ながらも大きさだけは立派なそれをひたすら咀嚼しながら、現八は襲いくる激情から身を守っていた。
「状況が、思った以上に悪い」
「ええ、そうね。……現八、どうするの?」
「どうしたもこうしたも無いだろう。古文吾が犯人呼ばわりされて黙っていられる程に大人しくないぞ、俺は」
新たな神隠しの発覚、そして古文吾の失踪。現八は、同時に発覚した事実に驚く暇さえ与えられなかった。
いなくなった子供が見慣れない青年と共にいたのを見た、という目撃証言があったため、先程まで村中の大人が名前の元に押し寄せてきていたのだ。現八もまた疑惑を向けられたのだが、名前と村の憲兵に庇われたことで集中砲火を浴びるのは避けることが出来た。
しかし、今後解決に向けて動きにくくなったのは確かだ。
「……名前、俺と一緒に来てくれるか」
「あら意外。もっと色々問い詰められるかと思ったのに」
「俺の行動がおまえの目的と反するなら見限ってくれていい。だから、せめて傍にいてくれ。名前」
彼女は、透き通った金の瞳を向けながら薄く笑んだ。
「何でこんな怪しい女を信じるのか、理解に苦しむわ」
「裏切られてもいい、おまえになら」
「…………」
「俺は絶対に、おまえを信じたことを後悔なんてしない」
「……何でそこまで私に拘るの」
「俺はどうやら、女を見る目が無いらしいからな」
「そう。……私も、男を見る目が無いのかも」
一瞬、堪えるように唇を噛んだ後、名前は徐に胸元へ掌を差し入れた。目の前で大胆にさらされた白い肌に目を奪われていたせいか、急に飛んできた小さな瓶を慌てて掴む羽目になってしまう。そこには、薄桃色に染まった液体が一口分入っていた。
「睡眠薬の解毒剤よ」
「……まさか、この握り飯に入っていたのか?」
「そのまさか。鬼にも効くように、普通の何倍も濃くした特別製。予め帝都から持ってきていたの。……敵対視されると面倒だから、現八が眠っている間に事件を解決しようと思ったのに。計画が頓挫しちゃったわ」
「お前一人だけに背負わせるわけないだろう。……とにかく、これを飲めばいいんだな?」
「ええ」
現八は、何も躊躇わず一気にぐいと飲み干す。 身体の芯から焼けるような痛みに耐えた後、やけに意識が鮮明になっていくのを感じた。
「何度でも言ってあげる。現八って、本当にばかよね」
「褒め言葉として受け取っておく」
名前が心底嬉しそうに顔を綻ばせている。今ならば、どんな難題だって解き明かせる気がした。