むかしむかし、あるところに、黄金色のうつくしい毛並みをした狐がいました。

真冬の満月のごとく透き通った色のしなやかな体躯に、すべてを包み込む聖母のごとく穏やかな気性。森の奥深くで家族と共に暮らしていた狐は、大地の恵みを享受しながら平和に過ごしていたのです。

そんなある日のことでした。すべての生き物が寝静まる深夜、例外なく眠りに落ちていた狐は、不意に辺りの騒がしさで目が覚めてしまいます。どん、どん。鋭く重たい音が、すぐ近くにまで迫っていました。

鼻をついた嫌な臭いに、狐は怯えながら家族を探します。しかし、どこにもいません。いつもならば寝床にいる筈の姿が見当たらないのです。狐は、音から逃げ惑いながら必死になって捜索をしました。

狩りの場として使う草原、時折昼寝をしては叱られる木、友人が暮らす洞穴。思い当たる所はすべて探したものの結局は収穫がなく、落ち込みながら帰路につきます。

そして、見つけました。狐は、目にしてしまいました。真っ赤な液体が飛び散った木の根元に横たわる、家族の亡骸を。嗚呼、嗚呼。なんということでしょう。家族には、顔が残っていませんでした。全身の皮が、すべて剥ぎ取られていたのです。いつも狐を見守ってくれていた、その優しい瞳が開くことは、もう二度と無いのです。

どん、どん、どん。今度は躊躇わずに、狐は音の在処へ向かいます。そして、家族を見つけました。大きな身体を揺らしながら下卑た顔を晒す人間のその手に、きれいな黄金色が握られています。

嗚呼、なんということでしょう。森の仲間達の命が次々と摘み取られていくのを、ただ黙って見ていなければならないなんて。嗚呼、嗚呼。己はなんと無力なのでしょうか。

身体の奥に渦巻くどす黒い感情の正体は、自分に対する無力感でした。天涯孤独の身になろうとも、決して他者ばかりを恨もうとしない清廉で気高い魂。皮肉にも、その善良さが山の神に気に入られてしまったのです。

すべての亡骸を埋めるべく地面を掘り返していると、狐は突如光に包まれ、不思議な力を手に入れました。

それは、自分の望みを何でも実現できるという、神にのみ授けられた能力。ふと思い浮かべただけの願望でも、残らず掬い上げられてしまう無慈悲な力でした。

狐はすぐに、その恐ろしさをまざまざと実感することになります。自分だけの生活が始まり、少し経った頃。紅葉の美しい季節、たわわに実った果実を口にしながら、真っ赤な絨毯がそよぐ様子をぼんやりと見つめていた時のことでした。

嗚呼、家族と共にこの景色を眺めたかった。狐がそう考えた瞬間、目の前にごろりと何かが転がります。それは、黄金色の羽織を纏った人間の死体でした。間違いなく、狐が憎むべき家族の仇でした。

狐には、何が起きたのかさっぱり分かりませんでした。しかし唯一理解できたのは、目の前の死が自らによって引き起こされたものだということです。

嗚呼、嗚呼。なんということでしょう。狐は気付いてしまいました。家族が愛してくれていた筈の自分は、何よりも家族を愛していた筈の自分は、もうどこにもいないのだと。家族を、仲間達を想いながら余生を過ごそうというささやかな願いさえ、もう意味を失ってしまったのだと。

自分は、なんとも恐ろしい化け物になってしまった。その事実が重くのし掛かり、狐の理性を一欠片も残さずに削りとっていきます。恐怖、歓喜、焦燥、悲嘆。多様な感情が去来する度、狐は自身が神獣とも妖怪とも呼べる存在へと変貌し、身体の奥に潜む山の神と同化していくのを感じました。しかし、それを拒む理由など最早存在しません。

とうとう狐は、心に秘めていた筈のその思いを、引きずり出されてしまったのです。

───大切なものを喪う哀しみを、皆が味わえばいい。



「その頃から、麓の村では神隠しが頻発するようになったと言われているわ」

名前は、険しい表情のまま話を締め括った。

「成る程な……。その村というのが正に此処で、今回の原因もその狐ということか?」
「前者は正解。でも後者ははずれ」
「……どういうことだ?」
「───だってその狐は、私が殺したんだもの」

現八が目を見張ったその時。名前は艶やかな黒髪を靡かせながら、その社の前に立つ。先程訪れたばかりの祠を抜けた先に、そこはあった。

温かみを感じていた筈の木製の扉が、しかし今は強烈な圧迫感を纏った壁のように見えて仕方ない。

「ねえ現八。さっき交わした約束、覚えてる?」

───もう二度と、生きることを諦めないで

「ああ」
「そう。ならいいの」

感情を伴わない声音で確認した後、名前は目の前の取っ手に指先を添える。現八は、その動作を阻むように背後から彼女を包み込み、自らの胸に引き寄せた。名前の右手と、現八の左手がそっと絡まり合う。境界線を埋めるように、ぴったりと体温が重なった。

「……現八、何のつもり?」
「名前」
「ええ」
「俺には、お前の心が救えない。その事実がどうしようもなく、つらい」
「……他人の心を救ってやろうだなんて、そんなの、烏滸がましいんじゃない」
「ああ、そうだな。だからこれは、俺の自己満足でしかない。俺が、名前のことを守りたいだけなんだ」
「私は、他人に守ってもらうほど軟弱じゃないわよ」

震える彼女の掌は、こんなにも小さかったのか。現八は驚きながら、離れようとするその身体を更に力強く抱き締める。

「俺は嫌がられるほど燃える人間なんだ。諦めろ」
「……このど変態」
「悪いがそれは褒め言葉だな」

深く長く、呆れたように息を吐き出した名前は、やがてくたりと現八の身体に凭れかかった。

「ばか」
「ああ、自覚してる」
「……でもそういうところ、嫌いじゃないわ」



そこに立っていたのは、小さな子どもだった。真っ赤な着物を着ながら淡い黄色の毬を持ち、艶々と光る黒髪を腰まで伸ばしている。その姿は、隣に立つ彼女にどこか通じるものを感じた。むしろ、不自然な程に似ている。

少女は心底愉しそうにけたけたと笑いながら、険しい顔をする二人を迎え入れた。その柔らかい笑顔は、昨日目にしたものと寸分違わないようだと現八は思う。

「名前先生、来てくれたんだね。あたし、ずぅっと待ってたんだよ」
「答えて。いなくなった皆は、どこにいるの?」
「大丈夫、死んでないから。あたしは先生と違って、大好きなひとを自分で殺したりなんてしないもん」
「……っ、おい!」

耐えきれずに現八が叫ぶと、少女は瞳を大きくまるくしながら、更に笑い声をあげた。

「あははッ! さすがは名前先生、男を誑かす腕も一流なんだね!」
「現八、私は大丈夫だから。少しだけ我慢して」
「…………、分かった」
「ちぇーっ、つまんないの。もっと怒ればいいのにぃ」

少女はどこまでも無邪気だった。それ故に残酷で、言葉の一つ一つが鋭い刃物のように心を抉ってくる。

「四年間もずぅっとあたしのことほったらかしで、自分は男と色々楽しんでたんだ。……本当に、苛立つ」

───四年ほど前にお子様を亡くされたとも聞いていますし、子供には寛容なんでしょうね

いつか聞いた憲兵の言葉が、不意に甦った。とある可能性に思い至った現八が顔を青ざめさせる横で、名前は全てを悟ったかのように穏やかに笑んでみせる。

「いいえ。私は、あなたに会いに来たのよ。───あまひ」