09
美しいひとだった。浮世離れした黄金色を纏った、素敵なひと。そのひとは、獣神をその身に宿す兄に似た神々しさと、野生の獣のような激しい気性をもっていた。
初めて出逢ったのは、幼い頃、名前が里見本家の離れで勉学に励んでいたときのことだった。静寂に支配されていた空間を切り裂くように、部屋の外で、突如何かが叩き付けられたような物音がしたのだ。
不安を抱えながら襖を開くと、そのひとはいた。薄暗い闇が落ちた庭の中、頭上に輝く満月の明かりを全て宿したかのような、この世界に溢れる悲しみを何もかも背負ったかのような、大きい背中が見える。
名前は本能のままに階段をかけ下りて、苦しげに呻くそのひとに近寄った。純白の着物は真っ赤に染まり、辺りに錆びた鉄のような臭いを振り撒いている。命に関わるほどの大怪我であることは、検診せずとも理解できた。
そして、名前の小さな掌がいよいよ触れようとした瞬間。激情を隠そうともしない鋭利な瞳に射抜かれ、その動きを止めることになる。
「はッ……! なんだおめえ、ただの餓鬼じゃねぇか。とっとと消えろ」
名前は驚きもせず、毅然と胸の裡を吐き出す。
「いやです」
「うるせえ。おれは、正義感だけはもってるくせに何も知らねえ子供が一番大ッ嫌いなんだよ。何のために来たのか知らねえが、早く消えてくれ。これ以上、おめえのために使う体力なんて無え」
「なら何も喋らなくていいです。私のことは虫けらだと思ってもらって構わない。だから、だからお願いです。───死なないで」
そのひとは、何かを言おうと口を開きかけたところで、ふっと意識を無くしてその場に力なく横たわった。名前は自身が血に塗れるのも厭わず、持っていた包帯で傷口の止血をする。
せめて家の名に泥を塗らないようにと、離れでひっそりと医術を学んでいたのが役に立ったようだ。無事に作業を終えてほっとした名前は、自身の部屋に運ぼうと八房を呼んだ。
ただの雑用で犬神を使うなんて、私くらいかもしれないな。名前は苦笑した後、自分もその背中に跨がって目的地へ向かう。部屋に到着し、てきぱきと蒲団を敷き終えると、八房はそのひとを丁寧に横たえてくれた。不器用な優しさを持っているところが兄に似ている、なんて微笑ましく思いながら、今度は薬の調合をしようと木鉢と薬草を取り出した。
ごりごりと激しく音を立てたところで、この部屋に関心を払う人間など、この家にはいない。さあ始めようかと意気込む名前の背中に、八房は鼻をそっと擦り付ける。冷え冷えとしていた身体の裡に、温かい火が灯るような心地がした。
「八房、ありがとう。……あと、兄さんにも伝えておいて。私のことは、心配しないで大丈夫だから」
*
腰まで届く黄金色の艶やかな髪、張りのある瑞々しくて白い肌。それらの隅々にまで飛び散っていた血糊を丁寧に落とし、名前は寝ずにそのひとの看病をしていた。不思議なことに傷口はあっという間に塞がってしまったが、一向に目覚めないのだ。
朝日が射し込む部屋の中心で、名前はしょぼしょぼとする目を擦りながら再びそのうつくしい顔を覗きこむ。選ばれた存在しか持ち得ないその圧倒的な美は、嫉妬すらさせてもらえない程に完成されていた。
閉ざされた瞳の奥に眠っていた、あのうつくしい瞳を見てみたい。見る者すべてを焼き尽くすかのごとく鮮烈な色をしていたその目の片隅に、私を映してほしい。
嗚呼そうだ。どこか寂しさを湛えていた、あの黄金色はまるで───。
「お月様みたいだったなあ」
「……ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、餓鬼」
「あ、起きたんですね。何か食べますか?」
「おめえが寄越すモンなんか信用できるかよ」
「まずはお水からですかね。私が毒見してからお渡しします。……ごくごく、ぷはぁ! あ、全部飲んじゃった」
「ふざけてんのかてめえ!」
勢いよく身体を起こすと、そのひとは一瞬ふらりと目眩を起こしたように顔を手で覆った。
「まだ傷も塞がったばかりなんです。大人しくしていた方がいいですよ」
「いや、いい。こんな場所にいるくれえならとっととずらかる」
「この部屋は、屋敷の中でも特に結界が強固で安全です。まだあなたは怪我のせいで霊力が完全に隠せていないから、今すぐ外に出て同じ目に合うよりは、此処で休んでいくのをおすすめしますけど」
「……おめえ、ただの餓鬼じゃねえな。何者だ?」
「私は名前。里見の忌み子と、皆が呼びます。あなたは?」
「おれには、おめえに教えるモンなんて何も無え」
「そうですか。なら、少しだけ私の話し相手になってくれませんか?……誰かと話をするなんて、久し振りで」
「……つまんねえ話題だったら承知しねえぞ」
「はい!」
そのひとは、とても博識だった。医術薬学から社外情勢、帝都で騒がれる俗的な噂話に至るまで、書物よりも詳細な情報を生き生きと語りかけてくれる。名前の知らない外の世界が、鮮やかな色を伴って目の前に浮かび上がってくるようだった。
こんな狭い部屋で黙々と机に向かっては、時折来てくれる八房や世話役としか顔を合わせない生活。こんなのはおかしいと叫ぶ勇気は名前に無いが、外への憧れは抑えられそうにもない。自分はなんて弱虫なんだろうか。
「……私も、あなたみたいになりたいです」
「あ?」
「誰かに夢を与えられるような、そんな凄いひとになりたい。……なんて、烏滸がましいですね。忘れてください」
「……自分で自分の可能性を狭めてんじゃねえ。勝手に悲劇の主人公気取って他人に押し付けんな、面倒臭え。───そんなにぐだぐだ言うならおれが教えてやるよ」
俯いていた名前の視界が、途端にぱっと開ける。内臓がふわりと浮くような感覚に驚いていると、いつの間にか真っ青な空が間近にまで迫っていた。
どういう仕組みかは分からないが、瞬時に名前を抱えて屋敷の屋根に飛び移っていたらしい。焦りばかりが込み上げ、名前は大声をあげた。
「だ、駄目です! 私は、あの部屋で大人しくしていなきゃ」
「結界の一部をぶち破ってやった。色々複雑にしてやったから、修復には一週間かかるだろ」
「そういう問題じゃなくてですね」
「いちいちうるせえな。おめえの分身を作って部屋に置いといたから問題ねえだろ。あのでけえ犬神もおれたちの様子を見てたみてえだしな」
「……でも、」
「あまひ」
「え?」
「天に昇る日と書いて、あまひ。おれの名前だ。おめえは、似合わないと笑うか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか……!」
「おれも笑わねえ。外を見たいって、誰かに夢を与えたいっていうおめえの願いを、笑わねえから」
「…………、っ」
「おれについてこい、名前」
*
強引に拐ったくせに、天日はとても優しかった。それはこれ以上ないほどに幸せな一週間だったと、名前は自信を持って言える。
彼の生まれ故郷である山の奥にて、はたまた怪奇現象が起きていると噂のある世界各地において。天日は自分の知識を惜し気もなく披露しながら、名前のあらゆる感情を引き出した。
天日に本気で怒られて、ばつの悪そうな表情で抱き締められて、宥めるようにそっと微笑まれて。本の中でしか知らなかった愛情というものを、誰かに心から甘えるということを、名前は初めて知った。知ってしまったのだ。
「また迎えにくる」
里見家に名前を送り届けた、その去り際。天日が残した言葉に、名前は縋った。あの儚くうつくしいひとは、きっと自分のことなんてすぐに忘れてしまうと思っていたから。
けれど予想に反して、天日は月に一度、名前の元へ通い続けた。朔月、三日月、弓張り月、小望月、残月、三十日月、望月、立ち待ち月。夜空に明るく輝くそれらを背後に、天日は突然颯爽と現れては悪戯っぽく笑い、明け方まで名前と共に時間を重ねるのだ。
淡く穏やかな思い遣りは、鮮烈で激しい愛情へ。身体の成長と共に、内に秘める感情が急速に変化していくのを止めることなんて、名前には出来なかった。
「……おめえさ。おれなんかといて、飽きねえの」
「天日は、私に飽きてほしいの?」 「んなこた言ってねえ」
「……私じゃ、あなたを縛り付けることが出来ないくらい分かってる。言葉で定義できるような関係性になれないことも、理解してる。でもね、それでも傍にいたい。あなたの、特別で在りたい」
「…………あほか。とっくになってんだよ、ばーか」
「ふふ。……よかった」
睦言の一つさえくれない薄くて柔らかい唇は名前のそれをゆったりと食み、慈しむように首筋へと移動する。この一瞬が、永遠であればいいのに。そんなばかなことを、名前は本気で願っていた。天日がくれる無条件の温もりに、ただ甘えてばかりだった。
───だからそれは、きっと報い。地獄のような、残忍で絶望的な、悲劇だった。
初めて出逢ったのは、幼い頃、名前が里見本家の離れで勉学に励んでいたときのことだった。静寂に支配されていた空間を切り裂くように、部屋の外で、突如何かが叩き付けられたような物音がしたのだ。
不安を抱えながら襖を開くと、そのひとはいた。薄暗い闇が落ちた庭の中、頭上に輝く満月の明かりを全て宿したかのような、この世界に溢れる悲しみを何もかも背負ったかのような、大きい背中が見える。
名前は本能のままに階段をかけ下りて、苦しげに呻くそのひとに近寄った。純白の着物は真っ赤に染まり、辺りに錆びた鉄のような臭いを振り撒いている。命に関わるほどの大怪我であることは、検診せずとも理解できた。
そして、名前の小さな掌がいよいよ触れようとした瞬間。激情を隠そうともしない鋭利な瞳に射抜かれ、その動きを止めることになる。
「はッ……! なんだおめえ、ただの餓鬼じゃねぇか。とっとと消えろ」
名前は驚きもせず、毅然と胸の裡を吐き出す。
「いやです」
「うるせえ。おれは、正義感だけはもってるくせに何も知らねえ子供が一番大ッ嫌いなんだよ。何のために来たのか知らねえが、早く消えてくれ。これ以上、おめえのために使う体力なんて無え」
「なら何も喋らなくていいです。私のことは虫けらだと思ってもらって構わない。だから、だからお願いです。───死なないで」
そのひとは、何かを言おうと口を開きかけたところで、ふっと意識を無くしてその場に力なく横たわった。名前は自身が血に塗れるのも厭わず、持っていた包帯で傷口の止血をする。
せめて家の名に泥を塗らないようにと、離れでひっそりと医術を学んでいたのが役に立ったようだ。無事に作業を終えてほっとした名前は、自身の部屋に運ぼうと八房を呼んだ。
ただの雑用で犬神を使うなんて、私くらいかもしれないな。名前は苦笑した後、自分もその背中に跨がって目的地へ向かう。部屋に到着し、てきぱきと蒲団を敷き終えると、八房はそのひとを丁寧に横たえてくれた。不器用な優しさを持っているところが兄に似ている、なんて微笑ましく思いながら、今度は薬の調合をしようと木鉢と薬草を取り出した。
ごりごりと激しく音を立てたところで、この部屋に関心を払う人間など、この家にはいない。さあ始めようかと意気込む名前の背中に、八房は鼻をそっと擦り付ける。冷え冷えとしていた身体の裡に、温かい火が灯るような心地がした。
「八房、ありがとう。……あと、兄さんにも伝えておいて。私のことは、心配しないで大丈夫だから」
*
腰まで届く黄金色の艶やかな髪、張りのある瑞々しくて白い肌。それらの隅々にまで飛び散っていた血糊を丁寧に落とし、名前は寝ずにそのひとの看病をしていた。不思議なことに傷口はあっという間に塞がってしまったが、一向に目覚めないのだ。
朝日が射し込む部屋の中心で、名前はしょぼしょぼとする目を擦りながら再びそのうつくしい顔を覗きこむ。選ばれた存在しか持ち得ないその圧倒的な美は、嫉妬すらさせてもらえない程に完成されていた。
閉ざされた瞳の奥に眠っていた、あのうつくしい瞳を見てみたい。見る者すべてを焼き尽くすかのごとく鮮烈な色をしていたその目の片隅に、私を映してほしい。
嗚呼そうだ。どこか寂しさを湛えていた、あの黄金色はまるで───。
「お月様みたいだったなあ」
「……ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、餓鬼」
「あ、起きたんですね。何か食べますか?」
「おめえが寄越すモンなんか信用できるかよ」
「まずはお水からですかね。私が毒見してからお渡しします。……ごくごく、ぷはぁ! あ、全部飲んじゃった」
「ふざけてんのかてめえ!」
勢いよく身体を起こすと、そのひとは一瞬ふらりと目眩を起こしたように顔を手で覆った。
「まだ傷も塞がったばかりなんです。大人しくしていた方がいいですよ」
「いや、いい。こんな場所にいるくれえならとっととずらかる」
「この部屋は、屋敷の中でも特に結界が強固で安全です。まだあなたは怪我のせいで霊力が完全に隠せていないから、今すぐ外に出て同じ目に合うよりは、此処で休んでいくのをおすすめしますけど」
「……おめえ、ただの餓鬼じゃねえな。何者だ?」
「私は名前。里見の忌み子と、皆が呼びます。あなたは?」
「おれには、おめえに教えるモンなんて何も無え」
「そうですか。なら、少しだけ私の話し相手になってくれませんか?……誰かと話をするなんて、久し振りで」
「……つまんねえ話題だったら承知しねえぞ」
「はい!」
そのひとは、とても博識だった。医術薬学から社外情勢、帝都で騒がれる俗的な噂話に至るまで、書物よりも詳細な情報を生き生きと語りかけてくれる。名前の知らない外の世界が、鮮やかな色を伴って目の前に浮かび上がってくるようだった。
こんな狭い部屋で黙々と机に向かっては、時折来てくれる八房や世話役としか顔を合わせない生活。こんなのはおかしいと叫ぶ勇気は名前に無いが、外への憧れは抑えられそうにもない。自分はなんて弱虫なんだろうか。
「……私も、あなたみたいになりたいです」
「あ?」
「誰かに夢を与えられるような、そんな凄いひとになりたい。……なんて、烏滸がましいですね。忘れてください」
「……自分で自分の可能性を狭めてんじゃねえ。勝手に悲劇の主人公気取って他人に押し付けんな、面倒臭え。───そんなにぐだぐだ言うならおれが教えてやるよ」
俯いていた名前の視界が、途端にぱっと開ける。内臓がふわりと浮くような感覚に驚いていると、いつの間にか真っ青な空が間近にまで迫っていた。
どういう仕組みかは分からないが、瞬時に名前を抱えて屋敷の屋根に飛び移っていたらしい。焦りばかりが込み上げ、名前は大声をあげた。
「だ、駄目です! 私は、あの部屋で大人しくしていなきゃ」
「結界の一部をぶち破ってやった。色々複雑にしてやったから、修復には一週間かかるだろ」
「そういう問題じゃなくてですね」
「いちいちうるせえな。おめえの分身を作って部屋に置いといたから問題ねえだろ。あのでけえ犬神もおれたちの様子を見てたみてえだしな」
「……でも、」
「あまひ」
「え?」
「天に昇る日と書いて、あまひ。おれの名前だ。おめえは、似合わないと笑うか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか……!」
「おれも笑わねえ。外を見たいって、誰かに夢を与えたいっていうおめえの願いを、笑わねえから」
「…………、っ」
「おれについてこい、名前」
*
強引に拐ったくせに、天日はとても優しかった。それはこれ以上ないほどに幸せな一週間だったと、名前は自信を持って言える。
彼の生まれ故郷である山の奥にて、はたまた怪奇現象が起きていると噂のある世界各地において。天日は自分の知識を惜し気もなく披露しながら、名前のあらゆる感情を引き出した。
天日に本気で怒られて、ばつの悪そうな表情で抱き締められて、宥めるようにそっと微笑まれて。本の中でしか知らなかった愛情というものを、誰かに心から甘えるということを、名前は初めて知った。知ってしまったのだ。
「また迎えにくる」
里見家に名前を送り届けた、その去り際。天日が残した言葉に、名前は縋った。あの儚くうつくしいひとは、きっと自分のことなんてすぐに忘れてしまうと思っていたから。
けれど予想に反して、天日は月に一度、名前の元へ通い続けた。朔月、三日月、弓張り月、小望月、残月、三十日月、望月、立ち待ち月。夜空に明るく輝くそれらを背後に、天日は突然颯爽と現れては悪戯っぽく笑い、明け方まで名前と共に時間を重ねるのだ。
淡く穏やかな思い遣りは、鮮烈で激しい愛情へ。身体の成長と共に、内に秘める感情が急速に変化していくのを止めることなんて、名前には出来なかった。
「……おめえさ。おれなんかといて、飽きねえの」
「天日は、私に飽きてほしいの?」 「んなこた言ってねえ」
「……私じゃ、あなたを縛り付けることが出来ないくらい分かってる。言葉で定義できるような関係性になれないことも、理解してる。でもね、それでも傍にいたい。あなたの、特別で在りたい」
「…………あほか。とっくになってんだよ、ばーか」
「ふふ。……よかった」
睦言の一つさえくれない薄くて柔らかい唇は名前のそれをゆったりと食み、慈しむように首筋へと移動する。この一瞬が、永遠であればいいのに。そんなばかなことを、名前は本気で願っていた。天日がくれる無条件の温もりに、ただ甘えてばかりだった。
───だからそれは、きっと報い。地獄のような、残忍で絶望的な、悲劇だった。