その日も名前は、里見家の離れで勉学に励んでいた。

女学校を首席で卒業した実績、治療不可能だとされていた怪異による奇病すらも治す手腕、そして何より絶対的な権力を持つ四獣神家の里見の血筋。そのどれもが名前の名声を高め、兄譲りの神秘的で洗練された容姿も含め、帝都中の噂になっていた。

少女から大人へと移り変わる時期の、匂い立つばかりの美しさ。しかしそれを鼻にもかけず、貧しい者には無償で治療を施す廉直な人柄。触れてはいけないような、高嶺の花たる莉芳とは異なる、親しみやすい笑顔。

街を歩けば知らない人から声をかけられることが普通だったから、名前は一瞬、その不自然さに気が付かなかったのだ。

「嗚呼、名前。こんなところにいたのね」

鈴の音を転がしたかのようなあどけなさに、心臓に絡み付くような婀娜っぽさをも内包した声音。振り向いた瞬間には既に、何もかもが手遅れだった。

腹からじわりと広がっていく、焼け付くような痛み。鋭く突き立てられた刃の形をありありと感じ取りながら、名前は口元まで迫り上がる鉄の味を吐き出した。

自分の身体が、刀によって容赦なく貫かれている。

「なん、で……」

なぜ結界が強固な部屋の中に気配なく現れたのか、なぜ突然自分を殺害しようとするのか。しかし何よりも名前が驚いたのは、その刃の持ち主だった。

「母さ、ま……?」
「大丈夫よ、名前。すぐ楽にしてあげる。あなただけは絶対に、同じ目に遭わせない」

ぐり、と更に深く刺さるそれに、名前の体温は徐々に奪われていく。

里見名前は、ただの人間でしかなかった。伏姫をその身に封じていた母や、犬神を自在に操る兄とは違い、ほんの少しだけ怪異に対する知識があり、───妖狐の子を、腹に宿しているだけの。何の力も持たない、ただの人だった。

「あの狐も、残りの命は僅かだから安心して。あなたが不安に思う必要なんて、何も無いのよ」

美しく聡明な、里見家の巫女。昔、名前の頭を優しく撫でてくれていた筈の母の表情は、状況に不釣り合いな程に穏やかだった。

幼い頃に引き離された母は、名前が忌み子と呼ばれる由縁になったらしい。昔、里見家の書庫で見つけた資料の記述を見て、兄に問い詰めた結果得た情報だった。詳しいことは何も知らないし、知らなくても問題無いと思っていた。

けれど、後悔してしまう。自分は結局、無知で役立たずの人間だったのだ。愛したひとのことすら、何も知らないままで。

人間の身体は酷く脆くて、少しの傷で亡くなってしまうことなんて珍しくない。医者とは、少しでもその悲劇を減らすために、命を少しでも大切にしてもらうために、お手伝いをする仕事だ。だからこそ名前は、自分の命がもうすぐ潰えようとしているのを逸早く悟ってしまう。

「───名前ッ!」

うつくしい黄金色が、大きくて白い背中が、視界いっぱいに広がった。嗚呼、よかった。あなたの顔を、さいごに見ることができるんだ。

「あまひ、……ふふ。きてくれたんだ」

涙が溢れる。胸が押し潰されそうな愛しさから必死に伸ばした手に、彼のそれが重なる。いつだって、天日は名前に優しさをくれた。愛をくれた。天日がいたから、名前は、名前らしく生きていられた。

「おめえだけは絶対に死なせない。……少しだけ、待っててくれ」
「……うん。わかっ、た」

安心した故に、ぷつりと意識を落とした名前が次に見たものは、自分の腕の中で、真っ赤に染まる天日だった。



「……やっと目覚めたのかよ。この寝坊助」
「あま、ひ……?」

薄い靄がかかったようにぼんやりとする頭は、しかし目の前の光景を目にして瞬時に覚醒する。ぬるりと手を滑る感触は、初めて出逢った時の情景を思い起こさせた。けれど、けれど。いつまで経っても、そのひとの傷は塞がらない。

それなのに何故、自分の身体には、痛みも傷も何も残っていないんだ───!

名前は気付いた。気付いてしまった。自分を死に至らしめた筈の生傷がまるごと全て、愛したひとに持っていかれてしまったこと。今まさに、天日の命が終わりを迎えようとしていること。自分は、天日に守られてしまったんだということ。

「なんで……ッ! なんで、天日!」
「泣くなよ、ばぁか。……元々おれは、あの女のせいでもって数年の命だった。おめえとの別れが、ほんの少し早いか遅いかの違いだ」

みっともないと分かっていた。この言葉を吐き出せば、天日の思いを踏みにじってしまうと理解していた。しかし、それを堪える術を、名前は知らなかったのだ。

「いや、……いやだよ。傍にいてよ、……私を、ひとりにしないで……!」

天日は、仕方ねえなと呆れたように、それでいてどこまでも柔らかな色を浮かべながら笑う。

「おめえは一人じゃねえよ」

天日は、その大きな掌で名前の顔を包み込んで、そっと引き寄せる。嗚呼、口付けとは、触れるだけでこんなにも痛いものだっただろうか。

「───名前、生きろ」
「どんなに無様だろうが、どんなに不細工な顔になろうが、どんなに辛かろうが、ひたすら前を向いてろ」
「おめえは、凄え女だから。おれの、唯一の誇りだから。最後まで、生きることを諦めんな」
「おれはいつでも、おめえの傍にいる。だから安心して、幸せになれ」
「ずるい男で悪い。……名前、    」

そして天日の身体は、余すところなく灰になった。日の光のように、心をそっと照らし出してくれるような、うつくしい色を名前の掌いっぱいに零して。

天日のすべてが、名前の肌に散らばり、染み込み、かき消える。全身全霊をかけて愛したそのひとは、最期まで、残酷なまでに優しかった。

「う、ぁあ…………」
「あまひ、………………あま、ひ」
「うぁ、ああぁあぁああああああああッ!……っぐ、ぁあ、」
「ばか、ばかばかばか、……ばかぁああああああッ!」

声が嗄れる程に叫んでも、血が滲む程に掌を床に叩き付けても、いとしさばかりが身体の奥から溢れて止まらない。苦しさばかりが胸の内で暴れて止まらない。

───本当に、ずるいひとだった。



「それから私は、天日の霊力をそのまま受け継いだわ。悠久の時を過ごせる不老不死の命と同時に、色々な力を手に入れた。……今みたいに、私の経験を他人に映像として共有することも出来るようになったの」

少女は、へたりと畳に座り込んでいる。名前は、上から覆い被さるようにその身体を抱き締め、あやすように小さな背中を叩く。

「───ひとりにさせて、ごめんね。私のこと、何年もずっと、待っててくれたんでしょう」
「あたしは、…………憎しまれた存在だったから、あなたの手で、殺されたのかと」
「そんな訳ないじゃない。……まだ自我も無かった頃から、私のお腹の中で父親の霊力を拾い集めて、自分の魂の一部を削り取って、生き永らえたのね。親馬鹿だけれど、なんて賢い子なのかしら」
「……お、かあ、さん」
「こんな私のことを、まだ母と呼んでくれるの。ありがとう。…………けれど、もう全て終わりにしなきゃいけない。分かるわよね?」

大きな瞳にめいっぱい涙をためながら、少女は頷く。いいこね、と名前は囁いて、少女の手から小さな毬を受け取った。

現八が息を呑んだ次の瞬間には既に、それは鈍く銀色に輝く刃へと変貌する。音も無く少女の頭に突き立てられたそれが、勢いよく全力で降り下ろされた。

「───名前ッ!」

現八は叫んだ。死力を尽くして、暴れまわる心臓を抑えつけて、ただ一心に、愛する女の幸せを願ったのだ。