この身に巣食う鬼を、心から受け入れられる日が来るなんて思っていなかった。雷を操る、人ならざる化け物になった自分を認めてやれる瞬間など、永遠に訪れないと思っていた。

しかし今、現八は鬼となって、名前の腕を掴んでいる。丸太のように太く隆起した腕、銃弾すらも跳ね返せそうな程に厚く硬い胸板、額に生えた天に向かって伸びる鋭い角。昔話に出てくる、悪の権化そのままの風貌だった。

だが、自分の姿形なんてどうでもよかった。ただ、名前を守ることさえ出来れば、それで。

───しかし、現実とは何とも非情である。

「現八も、ちゃんと鬼になれたのね。ふふ、…………よかった」

刃は、少女の真横を通過して。名前の心臓に、深々と刺さっていた。

「おかあ、さん……? な、なんでッ!?」
「ばかねえ。母親は、自分のこどもが何より可愛いものなのよ」
「そん、な……」
「現八、ごめんなさい。あとは、任せても、大丈夫かしら」
「……ッ! 良いわけないだろうッ!」
「もう、そんなに、おこらないで。最期くらい、笑って見送ってよ」

名前は力無く笑い、現八に体重をかける。それはまるで羽のように軽くて、思わずぞっとした。

「……お、かあ、さん?」
「わたし、しあわせだったわ。ほんとうよ。……だから、」
「名前……?」
「………………」
「おい、名前!……ッ、名前」
「……………………」
「頼む、……頼むから、」

───目を開けてくれ。

いくら待っても、返事は無い。彼女は、教会が崇める聖母のような美しい顔で、そっと眠りについていた。



「───本当に、ばかな女だな」
「純粋で面倒臭くて向こう見ずで、ばかみたいに一途で、最高にいい女」
「だが、忘れちゃ困るな。言っただろ? おめえのことは、おれが絶対に死なせねえって」
「だから生きろ。……生きてくれ、名前」



「おめえが、犬飼現八だな」

自身の名前と、特徴的な話し方に反応して、弾かれたように顔を上げる。そこにいたのは───この村の、憲兵だった。

「天日、なのか……?」
「ああ、そうだ。ちょいとばかし力を使ってな、この身体を乗っ取らせてもらってる」

にやりと得意気に笑い、帽子の鍔を指で擦る。気弱な言動が特徴的だった元の様子は、もう見る影もない。

「名前はまだ助かる」
「本当か!?」
「ああ。……あの刀を使って、おれの霊力を完全に譲渡する。そこの餓鬼のも含めりゃ、なんとかなんだろ」
「は、はいッ!……おかあさんを、守るためなら」
「当ッたり前だばか。向こうに行ったら尻叩き千回の刑に十時間の説教コースだ」
「うぐっ……は、はい」
「それじゃ、いくぞ。……父親らしいこと、何もしてやれなくてすまなかったな」

ぽつりと零れた謝罪に、少女は瞳を大きくまるくしながら、全力で首を横に振っていた。ごめんなさい、と泣きじゃくる声が辺りに響く。天日は微笑み、少女の頭をぐじゃぐじゃと撫でた。

「名前は絶対に死なせねえ。……だが、目覚めるのはいつになるか分からん。明日か明後日か、はたまた千年後か」
「……そうか」

天日は、現八を真っ直ぐに射抜く。

「おめえにあるか。いつまでも、名前を待ち続ける覚悟が」
「当然だろう。少なくとも、おまえよりはあるつもりだ」
「ハッよく言うぜ。……だが、今のおれにとやかく言う資格はねえな」

心底嬉しそうに天日は笑った。そして、徐に名前の身体へ近付き、胸に刺さっていた刀を引き抜く。

「名前は、一人じゃ泣けねえ女なんだよ。だからおめえが、こいつの泣き場所になってやってくれ」
「ああ」
「浮気したらぶっ殺す」
「有り得ないから心配するな」
「当ッたり前だ。あと、……」
「……なんだ?」
「おめえら、幸せになれよ。二人まとめて、とことんまで生きてみろ。勝手に死にやがったら赦さねえ」
「ああ。───約束する」

現八の力強い言葉を受けて満足そうに頷くと、天日は躊躇いもなく少女の胸へ刃を突き立てた。黄金色の光を撒き散らしながらくたりと倒れこんだその様子を見て、現八はさすがにぎょっとする。それを愉快そうに眺め、天日もまた、自身の胸元へそれを添えた。

「これは、人間には効かねえ妖刀だ。この憲兵と、ついでにこの娘も。明日にゃ何もかも忘れて呑気に暮らしてるだろうよ」
「そう、か」
「役目を終えたら、鴉になって飛んでくから心配すんな」
「それは安心できる要素なのか……?」
「ハッ鬼なら鬼らしく、豪胆に構えてろ。あとは頼んだぞ」

現八の返事も待たずに、天日は自らの命を刈り取った。見る者を力強く鼓舞するかのような淡い光が散り、名前の身体を包み込む。

駆け寄ると、彼女の身体からは綺麗さっぱり傷が消えていた。瑞々しい肌に頬を寄せると、血の温みを感じる。心臓の鼓動が、現八を安心させるようにとくとくと響いている。

その柔らかな肢体をかき抱いて、現八は泣いた。嗚咽すら洩らさず、感情を剥き出しにしながら、子どものように涙を溢す。先程まで角が生えていた額を彼女のそれと重ね合わせ、ぼたぼたとその美しい顔に雨を降らせた。

「───なあ、名前。俺のために生きてくれなんて言わない。すべてを忘れて共に来てくれなんて、言わない」 
「だが俺は、これからの人生、お前のために生きていきたいんだ」
「だから、……」

現八の掌に、そっと温もりが触れる。何よりうつくしい黄金色が、視界いっぱいに広がった。

「───ばかねえ」
「そんなに複雑に考えなくてもいいわよ。……傍にいたいから傍にいる。愛したいから、全力で愛する」
「そんな単純な理由でいいじゃない。ねえ、現八」

真っ青な空を仰ぎながら、名前は自分の身に降り注ぐ雨を指で拭った。それでもまだ止まる気配を見せない雫の雨に、彼女は笑って瞳を閉じる。

「こんなに晴れ渡っているのに、何で私の顔だけこんなに濡れてるのかしらね」
「……俺の想いだ。諦めて受け止めろ」
「まったく……、とんだ狐の嫁入りだわ」



「あれ、兄貴と名前? ってなぜ半裸!?」
「古文吾!……これは気にするな。さっきまで鬼の身体になっていたからだろう」
「はあ!? よ、よく状況が掴めねえんだけど、とにかく来てくれ! 向こうに神隠しに遭ってた子ども達がいたんだ!」
「なに? 分かった、すぐに行く」
「あ、そうだ兄貴、聞いてくれ! 実は花って子どもが今回の犯人っぽい、……ってぎゃー!? 何故に此処で倒れてんだ!?」
「詳しくはあとで話す。……名前、立てるか?」
「ええ、問題ないわ」

社の奥深く、大きな倉庫の中に彼等はいた。衣食住のどれにも困らないよう十分配慮されていたらしく、童達は名前の顔を見るなり元気な様子で嬉しそうに駆け寄ってくる。

その後、全員でゆっくりと山を下り、無事に家族の元へ帰還。憲兵も花も、山頂での出来事などすっかり忘れた様子で現八に礼を言ってきた。

───死亡者無し。事件性なしの、童達による集団家出。

上層部への報告書の内容は、それで十分だろう。隣で寄り添うように腕を組んでくる名前の熱を感じながら、現八はこれからの未来を想い、ただ笑う。

翌日、三人は村人から盛大に見送られながらそれぞれの帰路についていった。



帝都の旧市街にある、老舗旅館古那屋。恐る恐る裏口の扉からその中に入った古文吾は、目の前に立っていた母を見て背筋をぴんと伸ばした。

「あー、お袋。……ただいま」
「あらおかえりなさい、古文吾。早速だけど人手が足りないの。荷物を置いたら厨房に入って頂戴」
「相変わらず人使いが荒いな!?……あーっと、その前にさ、姉貴に線香あげてきていいか?」
「……珍しいわね。いいわよ。序でにお墓参りも行ってきなさいな」
「い、いいのか?」
「口を開く前にぱっぱと動く!」
「は、はい!……あー、あと、お袋」
「まだ何かあるの?」
「柄じゃねえって分かってるけど言っとく。俺を産んでくれてありがとな。……そ、それだけだから。じゃな!」
「…………私は、あんたが息子で良かったよ。古文吾。だから何も怖がらずに、胸張って行ってきな」

同時刻、犬飼家の屋敷において久方ぶりに現八が帰還していた。

「旦那様、お帰りなさいませ」
「ああ、牧田。久し振りだな」
「屋敷に手紙が届いた時には驚きましたが、それ以上に安心致しました。旦那様のお顔も、晴れ晴れとしていらっしゃる」
「───仕事先で、随分なじゃじゃ馬と出逢ってな。俺なんかじゃ手懐けられない程の、極上な女だった」
「そうでございますか」
「ああ。近い内に、屋敷へ招く。準備を頼むぞ」
「はい、畏まりました。……久し振りに、腕が鳴りますな」

四獣神家の屋敷は相変わらず物寂しい。兄と二人きりの空間に僅かばかり緊張しながら、名前は頭を下げた。

「兄さん、お久し振りです」
「ああ。……名前、随分とばつの悪そうな顔をしているが、何か私に言いたいことでもあるのか?」
「それでは、二点お伝えしたいことが。───神隠しの件は全て、私が原因です。あの子が、村中の童に霊力を分散し操ることで集団失踪を引き起こしていました。私への怨みだけを頼りに、この世へ留まっていたようです」
「そうか」
「あと、……ごめんなさい」
「何に対する謝罪だ?」
「……私は、兄さんの優しさを踏みにじりました。たくさん、心配をかけました。だけど私はもう二度と、生きることを諦めないって、決めたの」
「そうか」
「はい」
「……ああそうだ。あやねも要も那智も、お前に会いたがっていた。たまには顔を出してやれ。それから、」
「───おかえり、名前。よく頑張ったな」

人は、愛することで生の実感を得る。苦しみも喜びも幸せも、すべてを分かち合い、与えながら、生きていく。

愛することは生きること、生きることは愛すること。

ようやく見つけ出せた答えを胸に、前を向いて歩いていこう。 何も怖がることなく、自分の心に正直であればいいんだ。どうしようもない絶望の雨が降り注いだとしても、希望の晴れ間は、きっと見つかるから。