箱根学園自転車競技部の部室は、男子高校生が使う部屋にしては異様なほど綺麗に整頓されている。個人ロッカーの中は個人の裁量に任されているためその限りではないが、目に見える範囲は常に清潔感で溢れていた。

高校生男子の巣窟らしからぬその部屋を毎朝管理するのは、三年生の女子マネージャーだ。箱根学園は伝統的に学年問わず雑務を担っており、備品調達から練習中における選手のサポート、有名校である故に度々要請される取材への対応まで、その内容は多岐に渡っていた。

中でも名前は、早朝に行う部室の清掃が何より好きだった。窓という窓を全て開け放ち換気をしながら、黙々と箒を使いゴミを回収していく。最近では部員も気を使ってくれているようで、今日も目立つ埃は四隅に溜まっているものくらいだった。

作業を無事に終えて部屋をぐるりと見渡してから、名前は補給食を準備するべく扉を開け放つ。すると、驚いたように目を丸くした荒北くんが立っていた。レギュラージャージを身にまとい額に汗を滲ませている様子から察するに、ウォーミングアップ後にひと休憩しに来たのだろう。

荒北靖友は、陰ながら黙々と努力するひとだ。そういうところが、やっぱり好きだなと名前は思う。

「おはよう、荒北くん。お疲れさま」
「オウ、おはよ。……相ッ変わらず、部室スゲー匂いすんネ」
「え、うそ!?  ちゃんと掃除した筈なんだけど」
「そうじゃねーヨ」

どこかバツの悪そうな顔をしてから、荒北くんはボソボソと呟く。

「オマエの匂い」
「え。私、香水とかつけてないんだけどな」
「あー、これはそういうんじゃねえな」

荒北くんはゆっくりと近付いてきたかと思えば、何かを確かめるように名前の首筋に鼻を寄せた。間近で見る荒北くんの肌は白くて、けれど身体付きは確かにガッシリとしている。男の子なんだな、と改めて実感した。

言葉を紡ぐ暇も無いまま、名前は綺麗に生える下睫毛を見詰め続ける。そうでもしていなければ、心臓が口から飛び出てしまいそうだった。

「甘くて美味そうな匂い」
「え?」
「シャンプー、じゃねえな。つか寮のは男女どっちも同じみてえだし」
「ピンク色のリンスインシャンプーでしょ? たぶん、ボディーソープも同じの使ってる筈なんだけど」
「……ふうん」
「荒北くんも、いい香りがするよね」
「は?」

素直な気持ちを吐露すると、荒北くんは途端にぱっと顔を上げた。気だるげに細められていた瞳が、見たこともない程に丸くなっている。思いのほか近い距離に少し動揺しながら、名前は胸に満ちていく穏やかな薫りを感じ取っていた。

「荒北くんの香り、嗅いでると落ち着くよ」
「いや、今とかめちゃくちゃ汗臭えだろ……?」
「んー、なんて言うのかな。荒北くんが頑張った証だと思えば、むしろいい匂いに感じるというか」
「何だそれ。意味わかんね」
「それに、全然臭くないよ? むしろ、お日さまみたいに優しくて柔らかい香りがする」

荒北くんとはクラスメイトで席も近いのだが、授業中に窓から風が吹くと彼の存在を強く感じることがあった。

二年前はリーゼントでバリバリとヤンキーをしていたなんて信じられないくらい、現在の荒北くんは真面目に授業を受けている。僅かばかりくすんだ色のブレザーを羽織って、背中を丸めたままガリガリと派手な音を立てながらも、驚く程に集中してノートを取っているのだ。

三年生として、そろそろ本格的に受験のことも意識しなければならない時期だ。荒北くんが見据えている未来を共有することは出来ないけれど、少しでも近付けたらいいなとは思っている。

「荒北くんは優しいから、まとってる匂いも優しく感じるのかな」
「…………そんなの、オマエだからだっつーの」
「え?」
「何でもねえヨ。つか、何か仕事でもあったんじゃねえの」
「あ、そうだった! 荒北くん、これから補給食作るんだけど何かリクエストある?」
「あー、ならあれ。この間のバナナとシナモンが入ったパワーバー」
「おお、あれか……。見た目が不格好であんまり好評じゃなかったけど」
「でも美味かった。他の奴らだって最後はコロッと態度変えてやがっただろ」
「うん、荒北くんが率先して食べてくれたお陰。ええと、それじゃまたあとでね。色々ありがとう!」
「おー。あんま無理すんなヨ」

ひらひらと振られた大きな掌に見送られ、すっかり明るくなった空の下を駆け抜ける。

荒北くんの言葉一つで、こんなにも簡単に心が高揚していく。目に映る全てのものが美しく、尊いものに思えてきた。
あなたに恋をしたことが、こんなにも誇らしい。鮮やかに色付く風景を愛おしく感じながら、名前は軽やかに真っ直ぐに、目的地へと向かっていった。