妖や神獣といった怪異が自然と溶け込む大都市、帝都。多種多様な文化が融合した華やかなその街を、颯爽と歩む一人の医者がいた。腰まで届くほどの濡れ羽色の髪を靡かせながら、彼女は彫像のごとく整った肢体を夕陽の下にさらしている。

真っ赤な着物に白衣を羽織り、周囲の視線をまるごとさらっていくその医者の名は里見名前。訳あって妖狐の力を身体に宿した、四獣神家が一つ里見家の人間である。

名前は現在、夕闇が迫りくる裏通りを闊歩しながら重大な悩みに直面していた。

───今日の夜は何を食べようかしら。

いかにも未解決の怪異事件について分析しているような顔で、名前は大真面目に夕飯について考える。瞳を伏せて悩ましげにため息を吐く彼女を、通りかかる人は皆一様に悲痛な面持ちで振り返った。

怪我や病の人がいると聞けばすぐに駆けつけ、生活が困窮する人からは金銭的な報酬は殆ど受け取ろうとしない善良な医者として、名前はよく知られていた。里見の名を背負って表舞台に立つことが無かったため、出自を隠しながら思う存分に己の力を発揮することができたのだ。

「お嬢さん、こんな時間に一人でいると危ないぞ。もうすぐ日が暮れる」

低くて耳障りのいい声だった。名前はくるりと華麗に振り返り、馬上で帽子の鍔をなぞる軍服姿のその人を見詰める。

「あら、ご心配には及びません。そろそろ行き着けの旅館にでも行こうかと思っておりましたので」
「ふむ。差し障りなければ、行き先を伺っても?」
「古那屋、と。女将の気立てが良くて、料理の味も格別なんですよ」
「ほう、成程。確かに彼処ならば、お嬢さんのような方でも満足できるだろう。もし宜しければ、お送りいたしますが」
「ご親切にどうも。ですが結構です。こう見えて自衛はきちんと出来ますので」
「……もし私が異形と呼ばれる存在ならば、貴女のように美しい人を真っ先に狙いますがね」
「それは光栄です。ただの鬼程度の存在ならば、存分に可愛がって差し上げた後にひっぱたいてやりますけど」

びくりと肩を揺らした軍人を目にして、名前は心底おかしそうに笑い声をあげた。彼はその様子を見て、ほっとしたように表情を緩める。

「冗談よ、現八。連れていってくれる?」
「ああ。お前が望むなら、どこへでも」

名前は現八から差し出された掌を取り、鳥のようにふわりと浮き上がって乗馬する。そのまま自然と身体を寄せ合いながら会話を交わす二人の姿に、周囲は一様に羨望の眼差しを送った。

「ねえ現八。私、美味しいお肉が食べたいわ」
「ああ、確か古文吾が今日はしゃぶしゃぶと言っていたぞ」
「しゃぶしゃぶ!……きっと、お出汁が染みてて柔らかいんでしょうね」
「それよりも俺はお前を喰らいたいがな」
「黙らっしゃい、ぶっ飛ばすわよ。それと、あんまりべたべた触らないで」
「ん、悪い。もうお前の手には触れない方がいいか?」
「……別にそこまでは言ってないけど」



「なあ古文吾。名前が可愛すぎて辛い」
「うるせえこの馬鹿兄貴。のろけなら余所でやってくれ」
「何がのろけだ。俺はまだ唇すら許してもらってないんだぞ」
「んなこた知らねえよ! 聞きたくもねえし!!」

古那屋の一室にて、兄弟は顔を突き合わせながら言葉を交わしている。女将へ挨拶に行った名前はこの場におらず、常ならば彼女に殴られそうな話題も心置きなく投下できた。

「で、あんたが名前と離れてまで俺と話したいことって何だよ」
「俺ってそんなに分かりやすいか?」
「少なくとも名前に関してはな。まあ、何考えてんだか分からなかったあの頃よりはよっぽどいいよ」
「……だろうな」
「あーっと、……だからって昔を否定してるわけじゃねえぞ」
「分かってる。別に今さら気を遣わなくてもいい」
「未だにあんた見てると、何か暴走するんじゃないかってハラハラすんだよ」
「それは悪かったな」

現八は、ちっとも悪びれない顔で肩をすくめる。

「俺自身は何も変わったつもりなんてない。強いて言うなら、昔より素直になっただけだ」
「素直さの方向性が間違ってるっつーの。未だに、街を歩けば憲兵隊長と美人女医の逢瀬に関する噂ばっかだぞ」
「もう一年くらい続いているだろう。よく飽きないな」
「それだけ兄貴の名前は知られてるし、名前は目を惹くってことだろうが。自覚してるか?」
「一応、認識はしてるがな。……ちなみに、噂はそれだけか? 名前の出生に関することは?」
「いや、聞かねえよ」
「そうか……」

考え込むように顎を擦り、現八は弟を見遣った。

「なあ古文吾、お前は不思議に思わないか。───何故、里見家は名前を野放しにするのか」
「……そりゃ思うけどさ。単純に、里見家は名前と無関係でいたいからじゃねえの?」
「だとしてもだ。里見莉芳の妹という価値のある存在を、何故利用しようとしない? そこまでしてあいつを疎まなければならない理由は何だ?」
「…………兄貴」
「踏み込みすぎている自覚はある。名前が今の距離感を許してくれるだけで、俺は喜ぶべきなんだろう。だがな、……名前は未だに、泣きそうな顔で眠るんだ」

遠くを見詰めながら言葉を溢す兄の表情を見て、古文吾は自分の認識が甘かったと知る。犬飼現八の想いを見くびっていたのは、自分の方だった。

「あいつの心を救えるなど自惚れるつもりはない。あいつの一番になることを望む気はない。それでも俺は、名前のために生きると決めた。俺なりの誠意を見せたいんだ」
「……おい、あんた何する気だ?」
「なに、少し探りを入れるだけだ。職場には休暇を申請してあるから、そうだな……一週間後には戻ってくる」
「もし、それでもあんたが戻ってこなかったら?」
「牧田に全て託してある。もしもの時だけ聞いてくれ」

犬飼家に半世紀使えている執事の牧田は、穏やかな性格ではあるが主人である現八にのみ忠実な態度を取る。古文吾では、無理に聞き出せる筈もなかった。方法が全く無いわけではないが、唯一の例外となり得る彼女に知られることを、現八は何より望まないだろう。

「…………分かった。無茶するなよ」
「悪いな。まあ死ぬことは無いからな、その点については心配しなくていい」
「そういう話じゃねえっつーの」

突然はっと何かに気付いたような顔をした現八は、ぼやく弟を置いて廊下へと足を向けた。どうせ、鬼の性能を駆使して名前の足音か話し声でも聞き分けたのだろう。この一年でよく見るようになったその俊敏な動きを呆れたように眺めつつ、古文吾は兄の幸せそうな後ろ姿を見送った。

先程から押し寄せる嫌な予感を振り払うように、古文吾もまた部屋を出て厨房へと向かった。少しだけ遠回りして二人きりの時間を作ってやるか、と気遣いを発揮しながら頭をがしがしとかき回す。

「ったく……。あんたら二人とも、自分で思ってるよりずっとお似合いだぞ」

変なところで卑屈になる兄の今後を思い、古文吾は溜め息を吐いた。教会と軍部の対立は根深いものであり、特に北部戦線により名を上げた現八は里見家から警戒されるに決まっている。立場上、教会と関わりがある人物と知り合いがいるとは思えないし、どうやって調査する気なのか。

だが、現八の決意を踏みにじるようなことなど古文吾には出来なかった。何でもかんでも溜め込んで、臆病故に自分さえも信じられなかった兄の、唯一と言っていい我が儘だ。

それに、名前の幸せを願うのは何も一人だけじゃない。彼女の心に踏み込める可能性を秘めた現八が決めたことならば、事情を知る者として後押ししてやりたかった。

「あー、でもなんかムカつくな。帰ってきたら何か奢らせるか」

───それから半月程して、帝都では鬼が出現するという噂が立つようになった。同時期に、憲兵隊長である犬飼現八が無断欠勤を繰り返すようになり、生家にも古那屋にも姿を見せなくなったという。