帝都は、国内で最も栄えている街だ。中でも旧市街は観光客に人気があり、中心部に位置する大通りでは商店や屋台が常に賑わっている。古那屋をはじめとした歴史ある名旅館も軒を連ね、人々は一様に明るい表情で街を練り歩いていた。

名前が開いている診療所は、この旧市街の片隅にある。女学校時代の後輩と共に立てた小さなものだが、毎日ひっきりなしに患者はやってきた。旧市街は富裕層が少ないため、医療費を最低限に抑えたのが功を奏したようである。

一年前まで、名前は兄からの依頼で各地の怪異事件を解決して回っていたのだ。里見家や現地の依頼主から直々に報酬を得ていたため、資金面に関しては全く問題なかった。

その上、名前には羽振りのいいお得意様が四人もいる。毎月彼らの診療をこなしているだけでも、十分に生活できるほどの金銭を得ていた。

牛串を頬張りながら大通りを抜け、名前は目的地のある古城地域を目指す。名のある旧家が居を構える光景はいつ見ても慣れないと苦笑しつつ、中でも特に華美な門の前まで足を進めた。

いつも通りベルを鳴らすため指を添えると、中の様子が常とは違うことに気付く。獣神達の気配が、常では考えられないほどに騒めいているのだ。

厚く張り巡らされた結界の中、一定の距離を保って生活する彼らの様子を表すとするならば、静黙という言葉が相応しいだろうか。この屋敷には、自ら他人へ積極的に踏み込んでいくことはしない、不器用な人間ばかりが集まっていた。だからこそ、彼らの様子が異様だと言える。

突然、名前の耳にどたどたと足音が届き、見知った気配が急速に近づいてくるのが分かった。首をひねりながら門から一歩離れると、慌てた様子の小さな狐が姿を現す。

「名前さまー!」

名前の膝より少し大きい程の身長だが、その正体は尾崎家に代々伝わる立派な獣神の一人だ。わたわたと見上げてくる黒いつぶらな瞳を、真っ直ぐに見返す。

「金狐、どうしたの? 要に何かあった?」
「そ、それが何と申し上げれば良いのか……。とにかく今は、名前さまだけが頼りなのです!」
「……分かったわ。すぐに案内して」

金狐に先導されながら、名前は改めて屋敷の中の気配を探る。自分のお得意様が二人と、目の前の金狐も含め獣神が六───尾崎の五狐と観月家の大蛇のみ。どうやら兄は出掛けているようだった。

金狐は、要を守護するという本能が身体に染み付いている。もし彼に害が及ぶ状況ならば、躊躇いもなくその凶暴性を露にするだろう。だが単に戸惑っている様子であるということは、想定外の人物───それも、名前達とは異なる普通の人間が来訪したということだろうか。

そんな風に推測しつつ金狐の背中を追いかけ辿り着いた先は、食事や歓談をするためのリビングルームだった。教会らしく、華美なアンティーク調の家具が配置された上品な部屋だ。

ぐったりとした様子の五狐と要の前で、赤い豊かな髪を持った少女が不思議そうに名前を見上げている。堂々と腰をかける彼女の瞳は物怖じせずにこちらを見つめており、その顔は初対面ながら素直に愛らしいと思った。だがまずは、事情を全て知る人物へ話を聞かねばならない。

「名前、ようやく来たんだね……。待ってたよ」
「診療が終わってからすぐに飛んできたのよ。感謝しなさい。それで要、だいたい予想はつくけど説明してもらえるかしら」
「うん……。名前、彼女が例の大塚村出身の浜路。あとの二人を誘き寄せるために五狐が連れてきてくれた、んだけど」

部屋の片隅にはモノクロの修道服が乱雑に散らばり、テーブルの上には臭いの強い薬湯の入ったティーカップが置かれている。この屋敷で初めて見る光景であることを考えると、全て目の前の彼女によるものらしい。

「成程ね……。要、女がか弱いなんて先入観を持つのは止めた方がいいんじゃない?」
「そうだね、身にしみたよ……」

数日前、兄から要に目を光らせておくようにとのお達しがあったのだが、完全に手遅れだったようだ。彼の好奇心を甘く見ていた。

「要がごめんなさいね。浜路ちゃん、と呼ばせてもらってもいいかしら?」
「あ、……はい! 勿論です」

凜とした声で返事をしてから、浜路はにっこりと微笑んだ。大塚村の生き残りである彼等については兄から聞いていたが、顔を合わせるのは初めてだ。妖刀を宿した子ども、犬と身体を折半した青年、ただの少女の三人であるとの話だったが、訂正しなければならないだろう。

少なくとも、獣神を前にここまで我を押し通せる少女が普通である筈がない。

「私は、開業医をしている里見名前と申します。事情も知らないまま突然拐われた上に、気の遣えない男しかいないなんて最悪よね。本当にごめんなさい」

名前は何の迷いもなく浜路の前に跪き、彼女の掌に自らのそれを重ねる。視界の隅で頭を抱える要を無視した後、頬を紅潮させる浜路と会話をするべく首をそっと傾けた。

「此処にいる間は、是非ゆっくりしていってくださいね。浜路ちゃんに必要な物は、全て彼らが買いに行ってくれますから」

名前に指を差された五狐は、絶望したように全身を震わせる。自身に矛先が向かないようにと気配を殺す要に向けて、名前は有無を言わさず言い放った。

「要。分かってるとは思うんだけど、私はこれから診療があるの。その間、浜路ちゃんをしっかりおもてなしして差し上げてね」



屋敷の一角で定期検診を済ませた後、名前は再びリビングへ戻ろうとする。一際厳重な結界を抜けて玄関ホールに出ると、鋭利なまでの美貌を備えた兄と偶然鉢合わせた。

「名前、私の私室に来い。話がある」
「はい、分かりました。……やはり、例の子が帝都に来ているんですね?」
「ああ、そうだ。お前にも色々と動いてもらう必要が出てきそうでな」

透き通るような金の髪を追いかけ、名前は兄の私室へと足を踏み入れる。真正面に設置された巨大な机の上には大量の書類が積まれており、日々の業務の過密さが伺い知れた。教会特区で特別主席司祭を務めながら、各地の怪異事件の情報収集、皇族や教会の上層部といった権威者との会合までこなしているのだ。その上兄は以前、名前が家の外に出る権利すらも勝ち取ってくれた。そんな彼に尽力したいと思うのは、妹として当然のことだろう。

「名前、明日の朝に犬塚信乃と犬川荘介を迎えに行ってやってくれ。そして暫くの間、行動を共にしてほしい」
「はい、分かりました。……ふふ」
「何だ? 突然笑い出して」
「いえ。随分気にかけているんだなあと」
「あれは、外見だけでなく中身までもが成長しない子供だからな。私の知らない所で勝手な真似をされたら困る」
「もう、相変わらず兄さんの優しさは分かりにくいんですから。たまにはちゃんと伝えてあげないと駄目ですよ?」
「……お前には分かりやすくしているつもりだが?」
「私だけが知っているなんて勿体無いんです」

兄は、一瞬だけ居心地の悪そうな表情を浮かべてからそっと息を吐いた。

「私のことは別にいいだろう。───名前」
「はい」
「決して無理はするな」
「……はい。仰せのままに」



窓から射し込む夕陽には、いつの間にか暗い色が滲んでいる。廊下を歩きながら、名前は随分と話し込んでしまったようだと苦笑した。

兄も自分も、人と会話をするのは不得手である。人からどう思われようが構わないと考えているため、言葉選びに迷いが無いのだ。

そんな兄が、自覚は無いものの表情豊かに言葉を尽くして語った少年───犬塚信乃。無駄な時間を消費することを避ける傾向にある名前が、徹底的に兄から話を引き出してしまう程には気になっている存在だ。

「名前さん!」

明るい声につられて振り向くと、浜路が笑顔で駆け寄ってくる。彼女は鮮やかな深紅のドレスを華麗に着こなしており、五狐が立派に役目を果たしてくれたことが伺い知れた。

「あら。浜路ちゃん、どうしたの?」
「あの、一つお伺いしたいことがあるんです。狐ちゃん達から聞いたんですけど、名前さんは女学校を卒業された後にお医者様になったとか……?」
「ええ、そうよ。周りは花嫁修業のために来た子ばかりだったから少し浮いてたんだけどね。それでも私は、昔から医者になるのが目標だったから」
「……実は、私も名前さんと同じ夢を持っているんです。そのために学校へ通いたいと思っていて」
「成程ね。彼処は勉学に励む場所としては悪くないし、医者になるための最低限の知識も身に付けられるわ。ただし、さっきも言ったけど自らの意思で通う子は本当に僅かなの。相当な覚悟が無いと夢を叶えるのは難しいと思うわ」

遠慮がちに話を聞いていた浜路が、今度は目を輝かせて名前を見上げる。その瞳に宿る強い光は、不思議と───幼い頃から大好きだったあのひとの黄金色を彷彿とさせた。

「名前さん。私には守りたい人がいるんです。だから医者になると決めました」
「……そうなの」
「はい。でも、たとえその人が望んでいなくたって私の夢は変わりません。私が、私自身に誓った目標だからです」

名前には、愛しいひとへかつて語った想いがある。いつか、誰かに夢を与えられるような人間になりたい。そんな拙い願いを、彼は決して笑わずに勇気づけてくれた。ならば今度は自分の番だ。

「浜路ちゃん。私は、里見名前の名にかけて貴女を精一杯応援するわ」

名前は微笑み、浜路の掌をそっと握る。人に与えた優しさは、巡り巡って自分に返ってくるものだ。惜しむことなど何も無かった。