03
身体の芯まで冷やしていく水の温度と、泣きたくなる程の安堵が全身に満ちていく感覚を、名前は今でも鮮明に覚えている。
名前が彼女の遺体と対面したのは、軍部からの依頼をこなした直後のことだった。兄の役に立つべく、女学校時代の伝手を使い軍上層部の一人に近付いていた名前は、度々彼らが取り仕切る軍事活動に同行していた。里見の身分を隠し極力目立たないよう振舞っていたため、微力な報酬で助力する女医としてそれなりの地位を獲得することに成功していたのである。
その日は、北部戦線が無事に解決したと兄から報告を受け、名前はほっと一息つきながら旧市街を散策していた。帝都に蔓延っている雑鬼達の気配がやけにざわめいているのを感じつつ、雨で視界が悪いながらも様子見がてら四獣神家の屋敷に向かう途上。
人気の無い橋に差し掛かりふと川底に視線を落とした名前が捉えたのは、濃緑が眩しい孔雀の羽だった。黒地に織り出された大胆な柄が目を引く銘仙の着物は、持ち主の身体をどこまでも美しく着飾っている。だが彼女は川底に身体を横たえており、酸素を求めて川面に浮かび上がる筈の顔はこちらを向くことがない。
名前は咄嗟に橋の欄干に手をかけて浮き上がり、重力に従い川へと落ちた。胸まで迫り来る水をものともせず進み、岸まで彼女を引き上げようと冷たく重い身体を抱え上げる。
里見名前は、怪異と共鳴する力を持っていた。神獣の加護を受ける里見の血筋に加え、妖狐と交じり合った肉体を持つため、人の身には余る程の強大な能力を得るに至ったのだろう。名前は他者へ自分の記憶を伝えることも、身体を怪異に貸し与えることも、人ならざる存在の意思を感じ取ってしまうことさえ出来た。
だからそれはきっと、必然だった。
───沼藺、俺は必ず帰る。だから、信じて待っていてくれないか。
彼女に触れた途端、頭の中に響いた掠れる声を皮切りに、名前の頭に膨大な映像が流れ込んでいく。それは、犬田沼藺から見た犬飼現八という男の姿だった。
そして、名前は理解した。名家の名を背負った一途で不器用な男が、全身全霊をかけて一人の女性を愛し、それ故にこれ以上ないほど生に執着していたことを。人間である己を捨ててまで、ただ一つの約束を果たすために命を掛けたことを。
そして全てを知った時に感じるであろう、心臓を焼き切られるような痛みと絶望を。
名前は不死である。だからこそ、不老不死となった怪異が絶命する方法も知り得ていた。
己の目的を果たすまでは、決してこの命を落とすわけにはいかない。けれどもし、里見名前の目的と犬飼現八の願望が重なり合ったならば。同じ道を歩むこともあるかもしれないと、そう思ったのだ。
そして、その予感は現実のものとなる。
*
「はじめまして。里見莉芳の命によりお迎えに上がりました、里見名前と申します」
ゆったりと膝を折ると、目の前の美少年がその大きな瞳を更に丸くした。控えるように立っていた美しい青年も、驚いたように息を呑んでいる。
「犬塚信乃さまと、犬川荘介さまでお間違いないでしょうか?」
「お、おう。合ってるけど……。お前、里見の関係者?」
「ええ、妹です。帝都でしがない開業医をしておりますが」
「……里見の妹が医者?」
はい、と微笑んで名前はぴんと背筋を伸ばした。此処は兄が贔屓にする宿屋である故に長居することに問題は無かったが、屋敷で待つ少女も目の前の彼らもそれは望まないだろう。
「早速ご案内させて頂きたいのですが、準備はお済みですか?」
「はい、お願いします。里見さん」
「もし宜しければ、名前と。兄と紛らわしいので」
「分かりました、名前さん。俺たちのことも好きに呼んでください。ね、信乃」
荘介の穏やかな表情につられて微笑んだ名前の顔を、信乃はじっと見上げていた。敵意は感じないため首を傾げていると、信乃は不思議そうに瞳を瞬かせる。
「んー、そうだな。名前、早速頼む」
「はい、頼まれました。村雨も平気かしら?」
自身の身に宿る妖刀の名をさらりと放たれ、信乃はぎょっと目を見開いた。
「ヘイキ! 名前、ゲンキ?」
「ええ、私はもうすっかり元気よ。ありがとう。屋敷に戻ったら美味しいお肉を用意しているから待っていてね」
「ヤッター!」
信乃の細腕から飛び出した鴉───村雨は、名前の頭上をぐるぐると旋回した後、再び宿主の腕へとまる。事態を把握できていない様子の二人へ向けて、名前は優雅に微笑んだ。
「それでは行きましょうか。信乃、荘介」
「……お前、やっぱり里見の妹だわ」
「あら、褒めて頂けて光栄だわ。二人の分のお肉も用意してあるから期待していてね」
「え、マジ? やったー!」
「こら信乃、お行儀が悪いですよ」
名前は眩しそうに瞳を細めつつも、彼らを先導するべく踵を返す。お姫様を迎えに来た騎士様は、思ったよりずっと素直で愛らしかった。
「信乃、荘介! もう、ようやく来たのね」
四獣神家の屋敷において、浜路は疲弊した五狐と要の前でゆったりとお茶を飲んでいた。予想通りの光景に笑みを零した名前とは対照的に、信乃と荘介は乾いた笑い声を上げている。
「浜路、お前な。心配したんだぞ!」
「分かってるわよ。迎えに来てくれてありがとう。……本当に」
力強く抱き合う二人を見て、荘介は柔らかく微笑んだ。
どこまでも真っ直ぐな愛情を目の当たりにしていると、名前は胸の奥が苦く痺れるような心地がする。
「……邪魔をしてごめんなさいね。信乃、兄さんが呼んでいるの。急ぎの用事みたいなんだけれど、すぐに来てもらってもいいかしら」
「えー、めんどくさ」
「すぐに用事が済んだら、美味しい霜降り肉を好きなだけ食べられるけど」
「よし名前。早速案内してくれ」
「ありがとう、こっちよ。そうだ、荘介と浜路ちゃんは寛いでいてね。何かあればそこにいる五狐と要に申し付けて頂戴」
何か言いたげな荘介の様子に気付きながらも、名前は兄からの指示と信乃自身の選択を優先した。幼馴染みの信乃が彼の様子に触れないならば、部外者から特に言及するつもりはない。
「なあ、名前」
「なに?」
真っ赤な絨毯が敷かれた廊下を、二人で真っ直ぐに進んで行く。真っ青な空が広がる窓は、信乃の愛らしい姿を鮮やかに彩るかのごとく明るい光を届けていた。
「お前から、村雨の匂いがする」
「そうでしょうね。……村雨は、私の身体を二回貫いているもの」
「ふうん、やっぱりな。そうだと思った」
「詳しくは聞かないの?」
「気にならないわけじゃないけど、あんた話したいのか?」
「まあ、あまり面白い話ではないわね」
「だろ? 俺もこれ以上暗い気分になりたくないもんでね。それに、分かるんだよ。あんたは自分の欲に溺れず、自分自身に向き合ってる」
「え?」
「人でない自分も、人である自分のこともちゃんと受け入れてるだろ。村雨もあの調子だったし、妖刀そのものに拘ってるわけじゃないんだよな。だから、無理に聞き出す必要はない」
「……成程ね。兄さんが構う筈だわ」
「ん、何か言ったか?」
「いいえ、何にも。さて、此処が兄さんの部屋よ」
「うええ……凄え威圧感。なあ名前、お前先に入ってくれよ」
「悪いんだけど、私これから仕事なの。ここで失礼するわ。頑張って」
「は、嘘だろ!? おい待てって名前!」
本気で絶望したような信乃の声を背に、名前はそっと笑いを噛み殺す。
自分は、全てに真っ直ぐ向き合えるような人間ではない。だからこそあの人は自身の元を離れ、名前の心をこじ開けてきた鬼もまたそれに続こうとしているのだろうか。そうはさせたくないと思いながらも、名前はそれに一人で抗う術を知らなかったのだ。
「名前!」
「あら古文吾、どうだった?」
「……今日も駄目だった」
夕暮れに染まる古那屋の客間で、古文吾は力無く項垂れる。小夜子が淹れてくれたお茶を啜りながら、名前はそっと瞼を伏せた。
現八が姿を消してから一月。戻ってくる筈の日から今日で一週間が経とうとしている。事前に本人から留守にするとは聞いていたが、毎日遭遇していた顔が見えなくなるというのは存外落ち着かない気持ちだった。
そんな最中、診療所まで訪ねてきた古文吾から事情を聞き、街の雑鬼達から情報収集をした結果、犬飼現八が人を喰らう鬼として街外れの寺院に捕えられたことを知ってしまった。
そもそも、何故現八が自ら因縁の相手に接触したのかは分からないが、何の理由もなく軽率な行動を取るほど馬鹿だとは思っていない。
「笙月院に青蘭がいる限り、正面突破は厳しいままでしょうね」
「なら俺が鬼になって強行突破するしかねえのか!?」
「風鬼になっても理性を失わない自信があるなら、私は止めないわ。どう?」
「う、……止めておきます」
「賢明ね。私には、あなた達を庇える地位も権力も無いんだもの。もし何かあったらご家族に顔向けできないわ」
「……名前」
「なに?」
「ごめんな」
「……私、理由も無く謝られるのが一番不快だわ」
「あー、いや……。名前が俺たちのためにわざわざ動く理由はねえのにさ、こうして相談乗ってもらって悪いなって」
「本気でそう思っているなら怒るけど。言ったでしょう? 私は、現八と古文吾だからあの日共に来てもらうことを選んだのよ」
古文吾は、驚愕したようにびくりと肩を揺らした。名前は穏やかな笑みを浮べながらその様を眺めている。
「今だから言うけど、私は一年前、死を覚悟していたもの。だからあなた達が死にたいなら最期にその手伝いをするつもりでいたし、生きたいならその背中を押すつもりだったわ」
「……何で、そこまでしてくれようとしたんだ?」
「沼藺さんを看取った時に、視てしまったから。彼女の想いも現八の想いも何もかも全てを。……あとは単純に羨ましかったのかしらね。死を目前にしたとしても、ただひたすらに生きることだけを願い続けられたあなた達が」
「……ただ単に、臆病だったんだよ。一人じゃ生きられねえから、たくさんのものに縋るしかねえ」
「それでも、死んだらそこで終わりよ。たとえ目に見えない存在となって傍に寄り添ってくれているのだとしても、今の私じゃ直接触れられない。言葉を交わせない。想いを伝えることすら出来ない」
「……名前」
「私は、共に生きてくれる人を探していたのかもしれないわね。ずっと。現八は私のお陰で救われたと言ってくれたけど、……本当に救われたのは私の方だったのかも」
はらはらと剥がれ落ちていく仮面は、名前の柔い心の内を暴き出していく。呼吸も出来ないほど息苦しく想いをひた隠しながら、古文吾はその無防備な掌を握り締めた。古文吾よりもずっと脆く見えるが、誰よりも力強く、温かい手だった。
「名前、ありがとうな」
「……何で古文吾が御礼を言うのよ」
「いや、その、言いたくなったから?」
「そう。……泣き言みたいなことを言っておいてなんだけど、現八の件は心配ないと思うわ」
「え?」
「だって、現八って死なないじゃない。青蘭だっていい加減痺れを切らして何か行動を起こす筈よ」
「あー、でもよ、万が一街で暴れ回ることになったらどう対処すんだ? 居場所なんて簡単に見つからねえだろ」
「それが、今の帝都には一つしか無いのよね。雷鬼が真っ先に向かう場所」
「……お前の所、とか言わないよな」
「私がそんな自惚れたこと言うと思ってるの? もっと確実な子がいるのよ。明日古文吾にも会わせてあげるわ。午後は空けておいてね」
「はいはい、分かりましたよ。そういや名前、今日は晩飯どうすんだ? 用意はすぐできるけど」
「……古文吾、私と一緒に食べたい?」
「は!?……いや、まあ、そりゃ普通に食いてえけど」
「うん、私も。ちょっと八房に伝言を頼んでくるから席を外すわね」
「おう、じゃあ早速持ってくるわ。少し待ってろ」
「ええ、お願い。また後でね」
艶やかな黒髪を靡かせて去っていく名前の後ろ姿を見て、古文吾は何もかも諦めたように再び項垂れた。
「…………あいつ、ほんっとに質が悪いな」
名前が彼女の遺体と対面したのは、軍部からの依頼をこなした直後のことだった。兄の役に立つべく、女学校時代の伝手を使い軍上層部の一人に近付いていた名前は、度々彼らが取り仕切る軍事活動に同行していた。里見の身分を隠し極力目立たないよう振舞っていたため、微力な報酬で助力する女医としてそれなりの地位を獲得することに成功していたのである。
その日は、北部戦線が無事に解決したと兄から報告を受け、名前はほっと一息つきながら旧市街を散策していた。帝都に蔓延っている雑鬼達の気配がやけにざわめいているのを感じつつ、雨で視界が悪いながらも様子見がてら四獣神家の屋敷に向かう途上。
人気の無い橋に差し掛かりふと川底に視線を落とした名前が捉えたのは、濃緑が眩しい孔雀の羽だった。黒地に織り出された大胆な柄が目を引く銘仙の着物は、持ち主の身体をどこまでも美しく着飾っている。だが彼女は川底に身体を横たえており、酸素を求めて川面に浮かび上がる筈の顔はこちらを向くことがない。
名前は咄嗟に橋の欄干に手をかけて浮き上がり、重力に従い川へと落ちた。胸まで迫り来る水をものともせず進み、岸まで彼女を引き上げようと冷たく重い身体を抱え上げる。
里見名前は、怪異と共鳴する力を持っていた。神獣の加護を受ける里見の血筋に加え、妖狐と交じり合った肉体を持つため、人の身には余る程の強大な能力を得るに至ったのだろう。名前は他者へ自分の記憶を伝えることも、身体を怪異に貸し与えることも、人ならざる存在の意思を感じ取ってしまうことさえ出来た。
だからそれはきっと、必然だった。
───沼藺、俺は必ず帰る。だから、信じて待っていてくれないか。
彼女に触れた途端、頭の中に響いた掠れる声を皮切りに、名前の頭に膨大な映像が流れ込んでいく。それは、犬田沼藺から見た犬飼現八という男の姿だった。
そして、名前は理解した。名家の名を背負った一途で不器用な男が、全身全霊をかけて一人の女性を愛し、それ故にこれ以上ないほど生に執着していたことを。人間である己を捨ててまで、ただ一つの約束を果たすために命を掛けたことを。
そして全てを知った時に感じるであろう、心臓を焼き切られるような痛みと絶望を。
名前は不死である。だからこそ、不老不死となった怪異が絶命する方法も知り得ていた。
己の目的を果たすまでは、決してこの命を落とすわけにはいかない。けれどもし、里見名前の目的と犬飼現八の願望が重なり合ったならば。同じ道を歩むこともあるかもしれないと、そう思ったのだ。
そして、その予感は現実のものとなる。
*
「はじめまして。里見莉芳の命によりお迎えに上がりました、里見名前と申します」
ゆったりと膝を折ると、目の前の美少年がその大きな瞳を更に丸くした。控えるように立っていた美しい青年も、驚いたように息を呑んでいる。
「犬塚信乃さまと、犬川荘介さまでお間違いないでしょうか?」
「お、おう。合ってるけど……。お前、里見の関係者?」
「ええ、妹です。帝都でしがない開業医をしておりますが」
「……里見の妹が医者?」
はい、と微笑んで名前はぴんと背筋を伸ばした。此処は兄が贔屓にする宿屋である故に長居することに問題は無かったが、屋敷で待つ少女も目の前の彼らもそれは望まないだろう。
「早速ご案内させて頂きたいのですが、準備はお済みですか?」
「はい、お願いします。里見さん」
「もし宜しければ、名前と。兄と紛らわしいので」
「分かりました、名前さん。俺たちのことも好きに呼んでください。ね、信乃」
荘介の穏やかな表情につられて微笑んだ名前の顔を、信乃はじっと見上げていた。敵意は感じないため首を傾げていると、信乃は不思議そうに瞳を瞬かせる。
「んー、そうだな。名前、早速頼む」
「はい、頼まれました。村雨も平気かしら?」
自身の身に宿る妖刀の名をさらりと放たれ、信乃はぎょっと目を見開いた。
「ヘイキ! 名前、ゲンキ?」
「ええ、私はもうすっかり元気よ。ありがとう。屋敷に戻ったら美味しいお肉を用意しているから待っていてね」
「ヤッター!」
信乃の細腕から飛び出した鴉───村雨は、名前の頭上をぐるぐると旋回した後、再び宿主の腕へとまる。事態を把握できていない様子の二人へ向けて、名前は優雅に微笑んだ。
「それでは行きましょうか。信乃、荘介」
「……お前、やっぱり里見の妹だわ」
「あら、褒めて頂けて光栄だわ。二人の分のお肉も用意してあるから期待していてね」
「え、マジ? やったー!」
「こら信乃、お行儀が悪いですよ」
名前は眩しそうに瞳を細めつつも、彼らを先導するべく踵を返す。お姫様を迎えに来た騎士様は、思ったよりずっと素直で愛らしかった。
「信乃、荘介! もう、ようやく来たのね」
四獣神家の屋敷において、浜路は疲弊した五狐と要の前でゆったりとお茶を飲んでいた。予想通りの光景に笑みを零した名前とは対照的に、信乃と荘介は乾いた笑い声を上げている。
「浜路、お前な。心配したんだぞ!」
「分かってるわよ。迎えに来てくれてありがとう。……本当に」
力強く抱き合う二人を見て、荘介は柔らかく微笑んだ。
どこまでも真っ直ぐな愛情を目の当たりにしていると、名前は胸の奥が苦く痺れるような心地がする。
「……邪魔をしてごめんなさいね。信乃、兄さんが呼んでいるの。急ぎの用事みたいなんだけれど、すぐに来てもらってもいいかしら」
「えー、めんどくさ」
「すぐに用事が済んだら、美味しい霜降り肉を好きなだけ食べられるけど」
「よし名前。早速案内してくれ」
「ありがとう、こっちよ。そうだ、荘介と浜路ちゃんは寛いでいてね。何かあればそこにいる五狐と要に申し付けて頂戴」
何か言いたげな荘介の様子に気付きながらも、名前は兄からの指示と信乃自身の選択を優先した。幼馴染みの信乃が彼の様子に触れないならば、部外者から特に言及するつもりはない。
「なあ、名前」
「なに?」
真っ赤な絨毯が敷かれた廊下を、二人で真っ直ぐに進んで行く。真っ青な空が広がる窓は、信乃の愛らしい姿を鮮やかに彩るかのごとく明るい光を届けていた。
「お前から、村雨の匂いがする」
「そうでしょうね。……村雨は、私の身体を二回貫いているもの」
「ふうん、やっぱりな。そうだと思った」
「詳しくは聞かないの?」
「気にならないわけじゃないけど、あんた話したいのか?」
「まあ、あまり面白い話ではないわね」
「だろ? 俺もこれ以上暗い気分になりたくないもんでね。それに、分かるんだよ。あんたは自分の欲に溺れず、自分自身に向き合ってる」
「え?」
「人でない自分も、人である自分のこともちゃんと受け入れてるだろ。村雨もあの調子だったし、妖刀そのものに拘ってるわけじゃないんだよな。だから、無理に聞き出す必要はない」
「……成程ね。兄さんが構う筈だわ」
「ん、何か言ったか?」
「いいえ、何にも。さて、此処が兄さんの部屋よ」
「うええ……凄え威圧感。なあ名前、お前先に入ってくれよ」
「悪いんだけど、私これから仕事なの。ここで失礼するわ。頑張って」
「は、嘘だろ!? おい待てって名前!」
本気で絶望したような信乃の声を背に、名前はそっと笑いを噛み殺す。
自分は、全てに真っ直ぐ向き合えるような人間ではない。だからこそあの人は自身の元を離れ、名前の心をこじ開けてきた鬼もまたそれに続こうとしているのだろうか。そうはさせたくないと思いながらも、名前はそれに一人で抗う術を知らなかったのだ。
「名前!」
「あら古文吾、どうだった?」
「……今日も駄目だった」
夕暮れに染まる古那屋の客間で、古文吾は力無く項垂れる。小夜子が淹れてくれたお茶を啜りながら、名前はそっと瞼を伏せた。
現八が姿を消してから一月。戻ってくる筈の日から今日で一週間が経とうとしている。事前に本人から留守にするとは聞いていたが、毎日遭遇していた顔が見えなくなるというのは存外落ち着かない気持ちだった。
そんな最中、診療所まで訪ねてきた古文吾から事情を聞き、街の雑鬼達から情報収集をした結果、犬飼現八が人を喰らう鬼として街外れの寺院に捕えられたことを知ってしまった。
そもそも、何故現八が自ら因縁の相手に接触したのかは分からないが、何の理由もなく軽率な行動を取るほど馬鹿だとは思っていない。
「笙月院に青蘭がいる限り、正面突破は厳しいままでしょうね」
「なら俺が鬼になって強行突破するしかねえのか!?」
「風鬼になっても理性を失わない自信があるなら、私は止めないわ。どう?」
「う、……止めておきます」
「賢明ね。私には、あなた達を庇える地位も権力も無いんだもの。もし何かあったらご家族に顔向けできないわ」
「……名前」
「なに?」
「ごめんな」
「……私、理由も無く謝られるのが一番不快だわ」
「あー、いや……。名前が俺たちのためにわざわざ動く理由はねえのにさ、こうして相談乗ってもらって悪いなって」
「本気でそう思っているなら怒るけど。言ったでしょう? 私は、現八と古文吾だからあの日共に来てもらうことを選んだのよ」
古文吾は、驚愕したようにびくりと肩を揺らした。名前は穏やかな笑みを浮べながらその様を眺めている。
「今だから言うけど、私は一年前、死を覚悟していたもの。だからあなた達が死にたいなら最期にその手伝いをするつもりでいたし、生きたいならその背中を押すつもりだったわ」
「……何で、そこまでしてくれようとしたんだ?」
「沼藺さんを看取った時に、視てしまったから。彼女の想いも現八の想いも何もかも全てを。……あとは単純に羨ましかったのかしらね。死を目前にしたとしても、ただひたすらに生きることだけを願い続けられたあなた達が」
「……ただ単に、臆病だったんだよ。一人じゃ生きられねえから、たくさんのものに縋るしかねえ」
「それでも、死んだらそこで終わりよ。たとえ目に見えない存在となって傍に寄り添ってくれているのだとしても、今の私じゃ直接触れられない。言葉を交わせない。想いを伝えることすら出来ない」
「……名前」
「私は、共に生きてくれる人を探していたのかもしれないわね。ずっと。現八は私のお陰で救われたと言ってくれたけど、……本当に救われたのは私の方だったのかも」
はらはらと剥がれ落ちていく仮面は、名前の柔い心の内を暴き出していく。呼吸も出来ないほど息苦しく想いをひた隠しながら、古文吾はその無防備な掌を握り締めた。古文吾よりもずっと脆く見えるが、誰よりも力強く、温かい手だった。
「名前、ありがとうな」
「……何で古文吾が御礼を言うのよ」
「いや、その、言いたくなったから?」
「そう。……泣き言みたいなことを言っておいてなんだけど、現八の件は心配ないと思うわ」
「え?」
「だって、現八って死なないじゃない。青蘭だっていい加減痺れを切らして何か行動を起こす筈よ」
「あー、でもよ、万が一街で暴れ回ることになったらどう対処すんだ? 居場所なんて簡単に見つからねえだろ」
「それが、今の帝都には一つしか無いのよね。雷鬼が真っ先に向かう場所」
「……お前の所、とか言わないよな」
「私がそんな自惚れたこと言うと思ってるの? もっと確実な子がいるのよ。明日古文吾にも会わせてあげるわ。午後は空けておいてね」
「はいはい、分かりましたよ。そういや名前、今日は晩飯どうすんだ? 用意はすぐできるけど」
「……古文吾、私と一緒に食べたい?」
「は!?……いや、まあ、そりゃ普通に食いてえけど」
「うん、私も。ちょっと八房に伝言を頼んでくるから席を外すわね」
「おう、じゃあ早速持ってくるわ。少し待ってろ」
「ええ、お願い。また後でね」
艶やかな黒髪を靡かせて去っていく名前の後ろ姿を見て、古文吾は何もかも諦めたように再び項垂れた。
「…………あいつ、ほんっとに質が悪いな」